主日礼拝

種は神の言葉

「種は神の言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第126編1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第8章4-15節
・ 讃美歌:18、53、453

代表的なたとえ話
 主イエス・キリストは、ご自分のもとに集まって来た多くの人々に教えをお語りになる時に、たくさんのたとえ話をなさいました。本日ご一緒に読むルカによる福音書第8章4節以下には、「種を蒔く人のたとえ」が語られています。この話は、マタイ、マルコ福音書にも出てくるもので、主イエスの語られたたとえ話を代表するものの一つであると言うことができます。  現在二つの場所で毎月一回行われている教会の家庭集会において、主イエスがお語りになったたとえ話を一つずつ取り上げてお話をしていまして、もう十数回になっていますが、その最初の第一回で取り上げたのがこの「種を蒔く人のたとえ」でした。最初にこのたとえ話を取り上げたことにはいくつかの理由があります。一つには、このたとえ話には、たとえ話そのものと、主イエスご自身がその意味を説明しておられるみ言葉とがセットになっていて、たとえ話の読み方を知るためのよい手引きになるということです。本日の箇所で言えば、5~8節がたとえ話そのもの、11~15節がその意味の説明です。そしてもう一つの理由は、このたとえ話には、たとえ話を語ることの意味あるいは目的が共に語られているということです。本日の箇所で言えばそれは9、10節です。弟子たちが「このたとえはどんな意味か」と質問したのに答えて、主イエスは、11節以下でその意味を説明するのに先立って、そもそもたとえ話は何のために語られ、どのような働きをするのか、をここで語られたのです。そういう意味でもこの「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスのお語りになった沢山のたとえ話を読んでいく上で土台となる大切なことを私たちに示してくれるのです。本日は先ず最初に、この9、10節に語られている、たとえ話が語られることの意味、目的について考えたいと思います。

見ても見えず、聞いても理解できない
 主イエスはこう言われました。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」。この主イエスのお言葉は、私たちの常識を完全に覆すものです。私たちは普通、たとえ話というのは、分かりにくい事柄を、身近な物事にたとえることによって分かりやすくするために語られるものだと思います。「たとえば」という言葉に続いて語られることは、具体的で分かりやすくなければならないのであって、そこで抽象的な小難しい話をするのは、言葉の使い方が間違っているのです。種を蒔く人のたとえにおいて語られていることも、当時の人々がごく身近に体験していた具体的なことです。蒔かれた種がどういう土地に落ちるかによって、芽を出して育ち実を実らせるか、それとも育たずに枯れてしまうかが変わるというのは、誰もが知っている常識です。そういう誰にでも分かることを用いて、大事な真理を人々に分からせる、悟らせる、そのためにたとえ話は語られるのだろうと私たちは思うのです。ところが主イエスはここで、旧約聖書イザヤ書6章9節の言葉を引用しつつ、たとえを用いて話すのは「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためだと言っておられます。このイザヤ書6章というのは、預言者イザヤが神様によって召されて預言者として遣わされる場面ですが、そこで神様ご自身が語っておられるのは、イザヤが預言者として遣わされ、神様のみ言葉を語っても、人々はそれを理解せず、悔い改めようとしない、ということです。み言葉が語られても人々がそれを理解せず、受け入れない、たとえ話もそれと同じように、語られても理解されない、「それで分かった」ということにはならない、と主イエスはおっしゃったのです。

弟子たちと群衆
 それではたとえ話が語られる意味がないではないか、と私たちは思います。しかしそうではないのです。主イエスはここで、たとえ話が語られる意味をちゃんと示しておられます。それを示しているのは、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」という所です。ここには、「あなたがた」と「他の人々」とが対比されています。「あなたがた」というのは、「このたとえはどんな意味か」と尋ねた弟子たちのことです。つまり、主イエスに従っている人々です。「他の人々」というのは、4節に語られている、主イエスのもとに集まって来た大勢の群衆たちです。主イエスはこの群衆に「種を蒔く人のたとえ」をお語りになりました。それが8節までです。そして9節以下は、群衆が去って弟子たちとのみ共にいる時に、弟子たちの問いに答えてお語りになったことです。たとえ話とその説明が分けられているのは、このように、語られた相手が違うからなのです。つまりここには、群衆と弟子たちとの区別がはっきりと示されています。たとえ話は、その区別を際立たせるために語られているのです。群衆と弟子たちとの間にはどのような区別があるのでしょうか。
 「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」という文章は分かりにくいと思います。これだと、たとえを用いて話すのは「他の人々」つまり群衆に対してだけで、「あなたがた」つまり弟子たちにはたとえではなく、直接神の国の秘密を語る、というふうに読めます。でもそれだと事実と違います。種を蒔く人のたとえは弟子たちも含めた群衆に語られたのであり、弟子たちはそのたとえ話の意味を質問しているのですから、たとえを用いて話されているのは「他の人々」だけではないのです。これは実は翻訳の問題です。「他の人々にはたとえを用いて話すのだ」と訳されている所は、直訳すれば「他の人々はたとえの中に」となります。つまり「用いて話す」というのは解釈によって補われている言葉なのです。別の補い方をして訳すことができます。「他の人々はたとえの中に置き去りにされる」としたらどうでしょうか。これだと分かりやすいですね。つまりここで主イエスが言っておられるのは、弟子たちにも群衆にも同じようにたとえ話が語られる、しかし弟子たちはそれによって「神の国の秘密」を悟ることができるが、他の人々はそれを悟ることができず、たとえの中に取り残され、「見ても見えず、聞いても理解できない」ままに終わる、ということなのです。たとえ話を聞いて神の国の秘密を悟ることができるか、それともそれを悟ることができず、たとえが指し示していることが分からないまま終わってしまうか、そこに、弟子たちと群衆との区別があるのです。たとえ話はその違いを際立たせる働きをするのです。
 そしてまさにこのことこそ、「種を蒔く人のたとえ」が語っていることでもあります。種を蒔く人が蒔いている種とは、11節の説明にあるように、神の言葉です。神様のみ言葉という種が蒔かれる、しかしそれがどのような土地に落ちるかで、結果は変わってきます。芽も出さずに鳥に食べられてしまったり、芽を出しても結局途中で枯れてしまって実を実らせないものもあれば、百倍の実を実らせるものもある、同じみ言葉を聞いても、それが理解され、よい実を結ぶ場合と、実を結ばないままで終わってしまう場合とがあるのです。このたとえ話は、同じ種が蒔かれてもそういう違いが生じることを語っているのです。

種を蒔く人のたとえ
 さてそこで、「種を蒔く人のたとえ」の内容を細かく見ていきましょう。種が蒔かれている間に、「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」のです。その意味を主イエスは12節でこのように説明しておられます。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。神様のみ言葉を聞いても、後から悪魔がそれを奪い去ってしまう、つまりみ言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのです。「人に踏みつけられ」という言葉からは、それが価値のないものとして無視される、ということも感じられます。神様のみ言葉、教えに意味を見出すことができず、それを無視し、従って当然心にそれが根付くことがない、そういう様子が描かれているのです。また「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」とあります。それは13節によれば、「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」。この場合は、み言葉を聞いてそれを喜んで受け入れ、信じるのです。しかし、石に邪魔されて根を深く張ることができない、いわゆる「根が浅い」のです。根が深く張られていれば、地面の上がカラカラに乾燥してしまっても、地中深くにある水を吸収して生き続けることができます。しかし根が浅いと、地表の気候の変化に対応できずに枯れてしまう。信仰も、根が浅いと、試練に打ち勝つことができないのです。また「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」。それは14節によれば「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。この場合には、根が浅いというのではなくて、むしろ周囲の状況から来る妨げによって、せっかく芽が出ても実を結ぶに至らず枯れてしまうということです。信仰においてはその妨げとは、「人生の思い煩いや富や快楽」です。思い煩いは、悩みや苦しみや悲しみ、つまり不幸です。富や快楽は喜びや充実感、満足を与えるもの、つまり幸福です。不幸であれ幸福であれ、悲しみであれ喜びであれ、神様のみ言葉の種が実を結んでいくための妨げになる、人間は不幸、苦しみの中でも、また幸福、喜びの中でも、信仰を失い、神様から離れていってしまうことが起ることが見つめられているのです。これらの三つが、み言葉の種が実を結ばないケースとして示されています。それに対して、「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」のです。それは15節によれば、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。これが、み言葉の種が実を結ぶ場合です。種が良い土地に落ちて百倍の実を結ぶことには特に説明はいりませんが、信仰においてはそれは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐」することだと言われています。み言葉をしっかり聞き、心で受け止め、試練に負けることなく、人生の思い煩いや富や快楽に惑わされることなく、それを守り続けることによって、神様のみ言葉が百倍の実を結んでいくのです。

自分はどの土地か?
 これが「種を蒔く人のたとえ」の内容です。私たちはこのたとえ話を読む時、当然ですが、自分はこの四種類のケースの内のどれだろうかと考えます。み言葉を聞いても、いつも右の耳から入って左の耳に抜けていってしまうような生活をしている、だから自分は道端のものだ、と思うかもしれません。また、一応み言葉を喜んで受け入れ、信じてはいる、だからこそこうして礼拝に集っているのだけれども、でも自分の信仰はいかにも根が浅い。ちょっと試練にあうとすぐにぐらついてしまう、身を引いてしまいそうになる、だから自分は石地のものだ、と思うかもしれません。ちなみに13節の「身を引いてしまう」という言葉は、前の口語訳聖書では「信仰を捨てる」と訳されていました。「身を引く」というのは柔らかい表現ですが、要するにそれは信仰を捨ててしまうことなのです。あるいはまた、今自分は人生の思い煩いや富や快楽のまっただ中に置かれている、いろいろな苦しみや悲しみ、心配事がある、あるいは人生を充実させてくれる楽しいことがいろいろある、そういう中で、なかなか神様のこと、信仰のこと、教会のことに心が向いていかない、まさに自分の信仰は茨の中に塞がれてしまっている、と感じている人もいるでしょう。さらには、自分はこの三つのどれかなのではない、この全部が自分のことだ、と思うこともあるでしょう。時によって道端のようになったり、石地のようになったり、茨の中のようになったりする。しかし一つだけ自信を持ってはっきり言えることは、自分は「良い地」でだけはないということだ、とおかしな自信を抱いていることも多いのではないでしょうか。これが、私たちがこのたとえ話を読む時に自然に抱く思いだろうと思うのです。

あなたがたは「良い地」
 しかし、私たちはここで、最初に申しましたことに立ち返らなければなりません。このたとえ話は、あるいはたとえ話というのはそもそも、「あなたがた」つまり主イエスの弟子たちと、「他の人々」つまり群衆との区別をはっきりと際立たせるものなのです。この「種を蒔く人のたとえ」もそのために語られているのです。ここで際立たせられている違い、それは、み言葉の種が実を結ぶか結ばないかです。つまり最初の三つの土地と最後の「良い地」とが対比されているのです。そして「あなたがた」つまり主イエスの弟子たちのことを描いているのはどちらか。それは実を結ぶ「良い地」の方です。「他の人々」つまり群衆たちを描いているのが、最初の三つの、実を結ばない土地なのです。つまり主イエスがこのたとえ話によって語ろうとしておられるのは、弟子たち、信仰者たちの中には、道端や石地や茨の中のような人がおり、たまに「良い地」であるような人がいる、ということではないのです。主イエスはここで弟子たちに、つまり主イエスを信じて従って来ている信仰者たちに、あなたがたは「良い地」なのだ、道端や石地や茨の中のようにみ言葉の種が実を結ぶことのない「他の人々」とは違って、み言葉の種はあなたがたの中で百倍の実を結ぶのだ、と語りかけておられるのです。主イエスのこの語りかけを聞き取ってこそ、このたとえ話を正しく読んだと言えるのです。

何を見つめるか
 しかし私たちは先ほど申しましたように、普通は、自分は最初の三つの土地のどれか、あるいはその全部だと感じます。自分が「良い地」だなどとはとうてい思えないのです。そしてそれは正しい感覚です。自分は良い地で、み言葉の種を百倍に実らせている、などと思っている人がいるとしたら、その人は自分自身のことが何も見えていない、よほどおめでたい人だと言うべきでしょう。私たちは、自分のことを少しでも冷静に、客観的に見つめるなら、自分が道端や石地や茨の中のような者であることを認めざるを得ないのです。しかしそのような私たちに、主イエスは、あなたがたは良い地だ、あなたがたにおいてみ言葉の種は百倍の実を結ぶのだ、と語りかけておられます。この主イエスの語りかけを聞き取るためには、大いなる発想の転換が求められるのです。あるいはそれは、どこを見つめ、何に注目するかの転換と言ってもよいでしょう。つまり、自分がどのような人間であり、神様のみ言葉をどのように聞き、それをどのように実践し、それによってどのような成果をあげているか、ということに注目し、要するに自分が生み出している実りを見つめているならば、そこに見えてくるのは、道端や石地や茨の中である自分であって、それ以外ではあり得ないでしょう。しかし私たちはその時、見つめるべきものを間違えているのです。種が芽を出し、育っていき、やがて実を結ぶのは私たち人間の力によることでしょうか。その実りは私たちが生み出したものなのでしょうか。勿論人間はいっしょうけんめい畑を耕し、水や肥料をやり、雑草を抜き、などという作業をします。しかしそれは、種が育っていって実を結びやすい環境を整えているだけのことであって、人間の力によって実を造り出しているわけではありません。実を結ぶ力は種の中にあるのです。だからどんなに努力してもトマトの種からピーマンを収穫することはできません。どのような実りが得られるかは種によって既に決まっているのです。そしてその種を私たちは自分で造り出すことはできないのです。信仰もそれと同じです。信仰は、私たちの中にもともとその種があって、それを私たちが努力して育てていって実を結ばせるというものではありません。信仰の種は私たちが自分で造り出すものではなくて、外から蒔かれるのです。それを蒔いて下さるのは主イエス・キリストです。このたとえ話の直前の8章1節には、主イエスが神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられたことが語られていました。主イエスはそのようにして、種を蒔いて下さっているのです。その種は神の言葉です。神様が恵みによって私たち罪人を赦し、神の民として新しく生かして下さるという福音を告げるみ言葉という種が、主イエス・キリストによって蒔かれているのです。私たちがこのたとえ話を読む時に本当に見つめ、注目すべきなのは、種を蒔く人である主イエス・キリストです。そして主イエスが蒔いて下さっているみ言葉の種です。自分はどの土地かと自分のことばかりを見つめ、自分が生んでいる実りにばかり注目している私たちの目を、種を蒔いて下さっている主イエス・キリストと、主イエスが蒔いて下さっているみ言葉という種にこそ向けていく、そういう発想の転換、どこを見つめ、何に注目するかの転換が必要なのです。

神の国の秘密
 その時、それまで見えなかった新しいことが見えて来ます。道端や石地や茨の中のような私たち罪人に、それでもみ言葉の種を蒔き続けて下さっている主イエス・キリストのお姿が見えてくるのです。私たちは、み言葉を全く受け入れようとしなかったり、一旦受け入れても試練によってそれが枯れてしまったり、人生の思い煩いや富や快楽に塞がれてしまうことを繰り返しています。そのような私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスのお姿が見えてくるのです。そしてその主イエスが、復活して今も生きておられ、私たちに忍耐強くみ言葉を語り続けていて下さる、そのみ言葉が聞こえてくるのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、このような神様の救いの恵み、罪の赦しの恵みが実現していること、神様の恵みのご支配が主イエスによって実現していること、それこそが「神の国の秘密」です。あの発想の転換によって、つまり自分自身と自分が生んでいる実りを見つめることをやめて、種を蒔いて下さっている主イエスをこそ見つめ、蒔かれているみ言葉の種にこそ注目していくことによって、「神の国の秘密」が見えて来るのです。この「神の国の秘密」を見つめつつ生きるのが、主イエスの弟子、信仰者なのです。

良い地となる
 「神の国の秘密」を、言い換えるならば、主イエスによって実現している神様の恵みのご支配という福音を見つめていく中で、私たちは、み言葉の種のための良い地となることができます。良い地とは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」であると語られています。しかしそれは、私たちが自分の力で立派な善い人間になるということではありません。「立派な善い心」というのは、み言葉をしっかり聞く心のことです。そしてそれをよく守るというのは、掟を守るとか、言いつけを守るという意味ではなくて、聞いたみ言葉を手放さずしっかりと持ち続けることです。忍耐してというのは、神の言葉である種が実を結ぶ時を忍耐して待つことです。畑の作物だって、収穫の時まで忍耐して待つことが大事です。つまり「良い地」になるというのは、私たちが自分の力で良い実りを生むことができるようになることではなくて、み言葉の種に本来備わっている力を信じて、それが実を結ぶことを忍耐して待つ者となることなのです。私たちの歩みにはいろいろな試練が襲ってきます。人生の思い煩いに苦しむことも、富や快楽に心を奪われることもあります。主イエスが私たちに求めておられるのは、それらに打ち勝つ強い人間になることではありません。それらの全てをかかえている私たちが、主イエスによって既に実現している神様の恵みのご支配、神の国の福音を信じて、主イエスが今も忍耐をもって蒔き続けて下さっているみ言葉の種を手放さずしっかりと持ち続け、それが実を結ぶ時を忍耐して待ち続けていくことをこそ主イエスは求めておられるのです。それによって私たちは良い地となり、み言葉の種は私たちの内で百倍の実を結び、私たちはそれを喜びの歌と共に刈り入れることができるのです。

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