主日礼拝

キリストの復活にあずかる

説教「キリストの復活にあずかる」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第16編1-11節
新約聖書 ローマの信徒への手紙第6章1-14節
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洗礼を受けなければ
 本日は、主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースター、復活祭です。私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスを、父なる神が復活させて下さったことを、今日私たちは覚え、感謝し、神を賛美するのです。イースターこそ、キリスト教会の最大の祭です。そして週の始めの日である日曜日は、主イエスの復活の日です。私たちは毎週の日曜日、主の日に、主イエスの復活を喜び祝って礼拝をしているのです。
 しかし、私たちがイースターをどんなに盛大に、あるいは心を込めて、喜び祝ったとしても、また毎週の主の日に主イエスの復活を記念して礼拝をしているとしても、あることがなければ、主イエスの復活は私たちにとって、およそ二千年前の、はるか昔の出来事に過ぎず、はっきり言って自分とは関わりのないことです。「あることがなければ」。その「あること」とは何でしょうか。それは、洗礼を受ける、ということです。洗礼を受けることによって、主イエスの復活は、単なる過去の出来事ではなくなり、私たちと関わりのある、私たち自身の事柄になるのです。本日この礼拝において、3名の方々が洗礼を受けようとしています。それによってこの3名の方々は、既に洗礼を受けている全ての者たちと共に、主イエス・キリストの復活を自らの事柄として生きる者となるのです。主イエスの復活にあずかる者となるのです。主イエス・キリストの復活は、洗礼を受けることによって、私たち自身の事柄となる、洗礼によって私たちは、主イエスの復活にあずかる者となる、本日のイースター礼拝においては、そのことを聖書から聞いていきたいのです。

主イエスの十字架の死と復活にあずかる
 本日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙第6章の始めのところです。ここには、洗礼を受けるとはどういうことなのかが集中して語られています。なので、洗礼を志願なさった方々の準備会においては必ずこの箇所を読んでいます。本日洗礼を受ける方々の準備においてもそうでした。その内容を皆さんとも共有したいのです。
 3節に、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」とあります。洗礼を受けることによって私たちはキリスト・イエスに結ばれ、キリストと一つとされるのです。それによって私たちは、キリストの死にあずかるのだとここに語られています。そのことは4節にも、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と言われています。洗礼を受けるとは、イエス・キリストの死にあずかり、私たちも主イエスと共に死んで葬られるということなのです。しかし、死んで葬られてそれで終わりではありません。主イエス・キリストは十字架にかかって死んで葬られましたが、それで終わりではありませんでした。その主イエスを、父なる神は復活させて、新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。そのことを今日私たちは喜び祝っています。私たちが洗礼を受けてキリストと結び合わされるのは、キリストの十字架の死にあずかって主イエスと共に死んで葬られると共に、主イエスの復活にもあずかって、父なる神が主イエスに与えて下さった復活の命、新しい命、永遠の命を生き始めるためなのです。4節の全体をもう一度読んでみます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。主イエス・キリストと結び合わされて一つとされ、主イエスの死にあずかり、主イエスと共に死んで葬られることによって、主イエスの復活にもあずかり、新しい命に生きる者とされる。それが、洗礼において私たちに起こることです。つまり、洗礼を受けることによってこそ、主イエスの十字架の死と復活の両方が、私たち自身の事柄となるのです。洗礼を受けなければ、主イエスの十字架の死も、そして復活も、はるか昔にこんなことがあった、というに過ぎないのであって、自分とは関わりのないことなのです。

罪の支配からの解放
 主イエスの十字架の死が私たち自身の事柄となる、私たちに関わることとなる、というのはどういうことでしょうか。そのことを語っているのが6、7節です。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています」。主イエスと共に十字架につけられて死んで葬られるのは、「わたしたちの古い自分」です。それは「罪に支配された体」「罪の奴隷」である自分でもあります。古い、つまり生まれつきの私たちは、罪に支配され、罪の奴隷となっています。神によって命を与えられ、生かされているのに、その神を見上げることなく、自分が主人であろうとし、自分の思いや願いばかりを追い求めている私たちは、神をないがしろにし、背いている罪人です。その罪の支配から私たちは自分で抜け出すことができません。まさに罪の奴隷となってしまっているのです。神のひとり子主イエス・キリストは、その私たちのために人となり、私たちの罪を全て背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さいました。その主イエスの十字架の死が、洗礼を受けることによって私たち自身の事柄、私たちに関わることとなるのです。それは、私たちの古い自分が、主イエスと共に死んで葬られ、それによって私たちを奴隷としていた罪の支配から解放され、罪の赦しが与えられる、ということなのです。主イエスが十字架の死によって実現して下さった罪の赦しが、洗礼を受けて主イエスと共に死んで葬られることによって私たちの現実となるのです。

生まれ変わって新しく生き始める
 そして8節にはこうあります。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。キリストの十字架の死が私たち自身の事柄、私たちに関わることになることによって、キリストの復活も私たち自身の事柄、私たちに関わることになる、つまり私たちも、主イエスに与えられた復活の命、新しい命を生き始めるのです。罪の奴隷となっていた古い自分が、キリストと共に死んで、罪の支配から解放され、そしてキリストの復活にあずかって、新しく生き始める、生まれ変わる、洗礼を受けることにおいてそういうことが私たちに起こるのです。私たち自身が生まれ変わって新しく生き始めるのでなければ、主イエスがおよそ二千年前に復活したことが事実だったとしても、それは過去の出来事であって、私たちとは何の関係もありません。洗礼を受けることこそが、、主イエスの復活と私たちとを結びつけるのです。

永遠の命を生き始める
 9節にはこうあります。「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死はもはやキリストを支配しません」。主イエスは、復活なさったけれどもしばらくしてまた死んでしまった、のではありません。主イエスは復活して「もはや死ぬことがない」者となられたのです。つまり永遠の命を生きる者となられたのです。私たちも、洗礼を受けて主イエスの復活にあずかることによって、もはや死ぬことのない永遠の命を生き始めます。それは勿論、この地上の命がいつまでも続く、つまり不老不死になるということではありません。主イエスご自身も死なれたように、私たちの地上の命、この人生には限りがあります。誰もがいつか死んで葬られていくのです。しかし洗礼を受けて主イエス・キリストと結び合わされている者においては、肉体の死が全ての終わりではありません。その死を超えた復活の命、永遠の命を、既に生き始めているのです。だから、死んでしまったら全てが終わり、なのではありません。私たちの人生は死に支配されて終わるのではなくて、主イエスと共に復活して永遠の命を生きる者とされるという約束の下にあるのです。洗礼を受けることによって、そういう新しい人生が私たちに与えられるのです。

このようにあなたがたも
 このように洗礼は、主イエス・キリストの十字架の死と復活を私たちと結びつけ、私たちをそれにあずかる者とします。そのことが、10節と11節に語られています。10節には「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」とあります。これは主イエス・キリストに起ったことです。主イエスは「ただ一度罪に対して死なれた」。この罪は主イエスご自身の罪ではなくて、私たちの罪です。主イエスは神の独り子であり何の罪もない方であるのに、私たちの罪を全て背負って、ただ一度十字架にかかって死ぬことによって、私たちのための贖い、罪の赦しを実現して下さいました。そして主イエスは「神に対して生きておられる」、それは父なる神によって復活させられて、永遠の命を生きておられるということです。十字架の死と復活において主イエスに起こったことがこの10節に語られているのです。そしてそのことが、洗礼によって私たちにも起こっている、それを語っているのが11節です。11節には「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とあります。「このように、あなたがたも」というのは、「洗礼を受けたあなたがたも」ということです。洗礼を受けて主イエスと結び合わされたあなたがたも、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きているのだと考えなさい」。洗礼を受けたことによって私たちも、罪に対して死んで、罪から解放され、主イエスの復活の命にあずかって、永遠の命を生き始めているのです。そのように「考えなさい」と言われていることも大事です。それは言い換えれば、そのことを信じなさい、ということです。洗礼を受けたことによって、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかり、罪に対して死んで罪から解放され、そして主イエスの復活にあずかって永遠の命を生き始めている、そのことは、私たちの実感として感じられることではありません。洗礼を受けたとたんに、「自分は生まれ変わって永遠の命を生き始めた」という実感が湧いて来て、別人のようになって生き始める、というものではないのです。洗礼を受けた後も、私たちはあいかわらず、さまざまな罪や弱さをかかえています。苦しみや悲しみはなおあります。洗礼を受けることによってそれらのものが一気に無くなるわけではありません。それでは洗礼を受けることによって何が変わるのか。それは私たちが自分のことをどう感じるか、ではなくて、神が私たちのことをどのように見てくださっているか、です。神は、洗礼を受けた私たちのことを、主イエスと結び合わされた者、主イエスの十字架の死にあずかって罪を赦され、主イエスの復活にあずかって新しい命、永遠の命を生き始めている者として見て下さっているのです。私たちはその父なる神のみ心を信じて、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだ」という救いの恵みを信じて、神と共に生きていくのです。

自分自身を神にお献げして生きる
 それは具体的にどうすることなのかが12節以下に語られています。ここは洗礼を受けて新しく生き始めた者たちへの勧めです。その中心は13節の後半にある「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」ということです。私たちの罪を赦し、新しく生まれ変わらせて下さった神に感謝して、自分自身をお献げして、神によって用いていただく。それこそが、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだ」と考えて、神と共に生きていくことの具体的な姿です。それは別の言い方をすれば、自分の人生の主人はもはや自分ではなくて主なる神である、という歩みです。洗礼を受けることによって私たちは、自分が主人だったそれまでの生き方から、神をこそ主人とし、自分自身を神にお献げして、神によって用いていただく人生へと方向転換をするのです。それは聖霊なる神のお働きによって神が与えて下さる恵みであると同時に、私たち自身も、そのように考えて、つまり信じて生きていくという、私たち自身の決断によることでもあるのです。

信じて歩む中で、実感も与えられていく
 主イエスの十字架の死にあずかって罪を赦され、主イエスの復活にあずかって新しい命を生き始めていることは、実感として感じられることではなくて、信じること、そのように考えて生きていくべきことだと申しました。神の救いは実感することではなくて信じることなのです。しかしそれを信じて、自分自身を神にお献げして神と共に生きていくことによって、私たちはその救いを、次第に、実感としても感じられるようになっていきます。神がこの自分を、主イエスの十字架の死によって赦して、神の子として下さっており、そして主イエスの復活にあずからせて、永遠の命を既に生き始めさせて下さっていること、だから、死んでしまったらそれで終わりではない。その先に神が約束して下さっている復活と永遠の命があり、そこに希望を置いて生きることができる。私たちの人生を最終的に支配するのは死の力ではなくて、主イエスによる神の救いの恵みなのだ。これらのことが、次第にはっきりと感じられるようにもなっていくのです。つまりキリストの復活が、単なる昔の出来事ではなくて、この自分に与えられている恵みなのだ、ということがより深く感じられるようになり、神への感謝が深まり、そして自分自身を神に献げて生きようという思いがより深められていくのです。そのために、毎週の主の日の礼拝があります。主の日ごとに私たちは神の恵みのみ言葉を聞き、そして聖餐にあずかり、主イエス・キリストと結び合わされ一つとされている恵みを体をもって味わいながら歩んでいきます。そういう歩みが、洗礼を受けることによって始まるのです。主イエス・キリストと私たちとを結びつけ、私たちを主イエスの十字架の死と復活とにあずかる者とする神の救いの恵みのしるしである洗礼へと、神は、ここに集っている私たち皆を招いて下さっているのです。

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