主日礼拝

こんな石からでも

「こんな石からでも」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-5節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第3章1-12節
・ 讃美歌:229、492


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「そのころ」?
 マタイによる福音書の第3章には、主イエスが教えを宣べ伝え始めるに先立って現れ、その準備をした洗礼者ヨハネのことが語られています。そのヨハネは、ルカ福音書によれば、主イエスとほとんど同じ頃に生まれた人です。つまり主イエスの誕生を語っている第2章と、ヨハネの活動開始を語っている第3章の間には、30年近い歳月が経っているはずなのです。しかしマタイは3章のはじめに「そのころ」と書いており、ヨハネの活動開始と主イエスの誕生が同じ頃の出来事であるかのように語っています。それは何故なのでしょうか。私なりの考えを後で述べたいと思います。

主イエスと同じ言葉
 さてヨハネは2節にあるように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語りました。そして3節には、このヨハネこそ、イザヤが預言していた「荒れ野で叫ぶ者」だと語られています。そのイザヤの預言が本日共に読まれたイザヤ書40章の3節です。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声が荒れ野で響く。それによって、主なる神がお遣わしになる救い主のために道が備えられると預言されていたのです。ヨハネはこの預言の実現として現れ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ることによって、救い主イエス・キリストのために道を整えたのです。この洗礼者ヨハネのことは、四つの福音書全てが語っています。しかしヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ったと記しているのは、実はマタイだけです。ヨハネのこの言葉は、4章17節の主イエスのお言葉と全く同じです。主イエスも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語って活動を始められたのです。ここに、マタイ福音書が語る洗礼者ヨハネの特徴が示されています。マルコとルカは、ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と語っています。しかしマタイにおいてはヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という主イエスと全く同じ言葉を語ることによって主イエスの道備えをしたのです。

天の国は近づいた
 「天」は「神」の言い換えであり、「国」とは「支配」という意味ですから、「天の国」とは「神のご支配」という意味です。神が王として支配する王国、それが天の国です。ですから「天の国は近づいた」というのは、神の王としてのご支配が確立する時が迫った、ということです。主イエス・キリストがそのように語って伝道を開始されたのは、神の独り子であるご自分がこの世に来たことによって、神の王としてのご支配が確立する時がいよいよ迫ったということです。マタイは、洗礼者ヨハネも、「天の国は近づいた」と語って、神の王としてのご支配の確立が近づいたことを告げた、と言っているのです。ヨハネは、11節の後半に語られている「わたしの後から来る方」を見つめています。12節には、その方が「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とあります。これは、その方によって人々が裁かれ、救われる者と滅びる者とがはっきり分けられることの喩えです。つまり私の後から来る方は、人々を裁き、支配するまことの王であられる、自分はその方の道備えをしているのだ、とヨハネは語ったのです。マタイにおいてはこのように洗礼者ヨハネも、まことの王がいよいよ来られて天の国が確立することを告げ、その備えをするようにと人々に求めたのです。

同じ問いかけ
 主イエス・キリストはまことの王としてお生まれになった。それはマタイが2章の主イエスの誕生の話において語っていたことです。東の国から来た学者たちが、ユダヤ人の王の誕生を告げたのです。ユダヤの王ヘロデはそれを聞いて不安を覚え、自分の王位を奪うかもしれないその新しい王を殺してしまおうとしました。そのために関係のない幼な子たちが虐殺されました。2章に語られている主イエスの誕生の物語には、まことの王としてこの世に来られた主イエスを恐れ、抹殺しようとしたヘロデと、まことの王のみ前にひれ伏して礼拝したことによって喜びに溢れた東の国の学者たちの姿が対照的に描かれています。マタイはこの物語を通して私たちに、ヘロデと東の国の学者たち、あなたはそのどちらの生き方を選ぶのか、と問いかけているのです。その問いかけが、そのまま本日のヨハネの言葉につながっています。天の国はいよいよ近づいた、主イエスが王として支配し、世を裁く時が迫っている、あなたはどうするのか、主イエスを王として迎え、そのご支配の下で、つまり天の国に生きるのか、それともヘロデのように主イエスを拒み、神のご支配を認めずに生きるのか。ヨハネもそのように私たちに問いかけているのです。主イエスの誕生とヨハネの活動開始の間には30年近い隔たりがあるのに、マタイが両者を「そのころ」と結びつけているのは、この二つの話がこのように同じことを問いかけているからだと言えるのではないでしょうか。そしてこの問いかけ、「主イエスが来られたことによって天の国は近づいた、あなたは主イエスを受け入れるのか、拒むのか」ということこそ、本日から始まるアドベント、主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えていく日々に、私たちに問われていることなのです。

悔い改めが求められている
 天の国は近づいた、主イエスの王としてのご支配が確立しようとしている、そのことを受け止め、天の国に生きるためにヨハネが、そして主イエスが求めておられるのは「悔い改め」です。ヨハネは、悔い改めの印としての洗礼を授けました。多くの人々が彼のもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けた、と6節に語られています。悔い改めは、罪を告白することから始まります。自分の犯している罪を認めて、それを神に告白し、赦しを願うのです。私たちが主イエスの王としてのご支配を受け止めて天の国に生きるために求められているのもこの「悔い改め」です。私たちは日々、神に対しても人に対しても罪を犯しています。神を愛し、隣人を愛して生きることを神が求めておられるのに、神を、自分のやりたいことを邪魔する存在として憎んでしまっていること、隣人を愛するのではなくてむしろ傷つけてしまっていること、それが私たちの罪です。そういう罪を犯すことのない日は一日もないと言わなければならないでしょう。その根本にあるのは、神のご支配を認めず、自分が王であろうとしている思いです。罪を告白して悔い改めるというのは、あんな悪いこと、こんな悪いことをしました、と一つ一つの罪を数えあげると言うより、自分が神のご支配に従おうとせず、自分自身が王となろうとしているという事実を認めて、赦しを乞い、神こそが王であることを受け入れることです。つまり悔い改めるというのは、これまでの自分の悪かったところを反省して改善してく、というようなことではなくて、王であろうとして生きている私たちが、自分の王座を主イエス・キリストに開け渡すことなのです。それこそ、ヘロデが恐れて絶対にしようとしなかったことです。東の国の学者たちはそれをして、喜びに溢れたのです。主イエスのご降誕によって天の国は近づいた、という知らせによって私たちに求められているのは、このような意味で、罪を告白し悔い改めることなのです。

悔い改めにふさわしい実
 ヨハネのもとに来て罪を告白し、洗礼を受けようとした人たちの中には、ファリサイ派やサドカイ派の人々もいました。彼らは当時のユダヤ人たちの宗教的な指導者でした。ファリサイ派は「律法学者」とも呼ばれていて、人々に神の掟、戒めを教え、それを守る生活を指導していたのです。サドカイ派はエルサレム神殿の祭司たちを中心とする人々でした。これらの人々も、ヨハネのところに来て、洗礼を受けようとしたのです。ところがヨハネは彼らに、非常に厳しい言葉を投げかけました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」。「だれが教えたのか」って、ヨハネ自身が、罪を告白して悔い改め、その印である洗礼を受けることによって罪の赦しが与えられると語ったのです。彼らもその教えを伝え聞いて洗礼を受けにやって来たのでしょう。ところがヨハネは彼らに、「おまえたちは神の怒りを免れることはできない」と語ったのです。何故できないのか。8節で彼は「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っています。ファリサイ派やサドカイ派の人々は悔い改めにふさわしい実を結んでいないのです。だから罪の赦しを得ることができないのです。これはファリサイ派やサドカイ派の人々のみに語られていることではありません。私たちにも問われていることです。私たちは、悔い改めにふさわしい実を結んでいるのでしょうか。そもそも「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とはどういうことなのでしょうか。

我々の父はアブラハムだ
 私たちはともするとこれを、悔い改めを実行、行動に移すことが必要なのだと考えます。神と隣人とを愛するより憎んでしまっている罪を反省するだけではだめで、実際に神と人とを愛する行動をしなければいけない。自分中心に生きるのをやめて、人のために尽くす愛の業を積極的にしていくことが、悔い改めにふさわしい実を結ぶことだ、と私たちは考えるのです。けれどもヨハネがここでファリサイ派やサドカイ派の人々に語ったのは、良い行いや愛の業が足りない、ということではありません。そもそもファリサイ派やサドカイ派の人々は、神の掟である律法を一般の人々よりもはるかに厳格に守って生活していたのです。彼らが、悔い改めにふさわしい実を結んでいないと言われたのは、律法に従う良い行いが足りないからではありません。9節にこうあります。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。「我々の父はアブラハムだ」と思っていることこそが、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを妨げているのです。アブラハムは、主なる神の民であるイスラエルの最初の先祖です。「我々の父はアブラハムだ」というのは、自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民だ、という誇りを語っている言葉です。ユダヤ人たちはみんな、自分たちは選ばれた神の民だ、だから神は我々を救って下さるのだ、という意識を強烈に持っていました。それは同時に、ユダヤ人以外の人々、いわゆる異邦人は、神の民として選ばれていない、だから救われることのない人々だ、ということでもあります。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、ユダヤ人たちが持っているそういう選民意識、自分たちは神に選ばれている、と誇る思いを最も強く持っていたのです。
 その「我々の父はアブラハムだ」という思いが、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを妨げている。それは、このことによって彼らは、神の救いが既に自分たちのものになっている、と思っているからです。アブラハムの子孫であることによって、自分たちは神に選ばれており、神の救いをもう約束されていると思っている。救われることが前提になっているのです。そのような思いの中では、本当の悔い改めは起りません。そこでは、救いはもう自分のものになってしまっていて、「悔い改め」はその添え物、救いをさらに完璧なものにするための手段の一つになってしまっているのです。ファリサイ派やサドカイ派の人々がヨハネのところにやって来て、悔い改めの印である洗礼を受けようとしたのはそういう思いからでしょう。「我々の父はアブラハムだ」ということによってもう救いを得ていると思っている彼らは、悔い改めの印である洗礼を受けることによって、その救いをさらに完璧なものにしようと思ったのです。

悔い改めは自分の正しさの一つではない
 私たちはユダヤ人ではありませんから、「我々の父はアブラハムだ」と言うことはできません。しかし私たちも別の仕方で、同じ間違いに陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。つまり、神のみ心に従って良い行いに励み、より正しい者となろうと努力することが信仰であり、そういう自分の信仰の努力によって救いを得ようとしている。その信仰の努力の一つとして「悔い改め」を位置付けていることがあるのではないでしょうか。そこでは、悔い改めることは自分の罪を認める謙遜さを持つこととして意識されます。自分の罪を認める謙遜さを持つことによってますます信仰深い正しい者、立派な者になろうとするのです。つまり悔い改めも信仰の努力の一つになっているのです。そうなると、自分はこんなに悔い改めることができるようになったと心の中で密かに誇るようなことが起るのです。それは結局、悔い改めを自分の正しさの一つとして、それによって救いを獲得しようとしているということです。それは本当の悔い改めではありません。悔い改めるところにこそ救いがあるというのは、悔い改めるという自分の正しい行為によって救いが得られるということではありません。私たちは、悔い改める者を赦して下さる神の恵みによってこそ救われるのです。その救いを求めて神の前に立ち、罪を告白してひたすら赦しを求めることが悔い改めです。ヨハネはそういう悔い改めの印として洗礼を授けました。洗礼は元々は、ユダヤ人でない者が、主なる神を信じて神の民であるユダヤ人に加えられる時に受けた儀式だったようです。ところがヨハネはそれを、ユダヤ人たちに求めたのです。「我々の父はアブラハムだ」ということによって救われるのではない、アブラハムの子孫であるユダヤ人であろうと、そうでない異邦人であろうと、神のみ前に悔い改めて罪の赦しをいただくことによってのみ救われるのだ、ということをヨハネはこの洗礼によって示したのです。

主イエスによって実現した天の国
 ヨハネは「天の国は近づいた」と語り、来たるべき方によって神のご支配が確立することを示しました。そしてその天の国に生きる者となるために、悔い改めを求めました。しかもその悔い改めにふさわしい実を結ぶことを求めました。そして10節では「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と語りました。また12節では、「わたしの後から来る方」が、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」のだとも語りました。つまり来るべき王によって裁きが行われ、救われる者と滅びる者とが分けられることを語ったのです。このヨハネのメッセージは恐しいものです。果して自分は、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができているだろうか、自分も、差し迫った神の怒りを免れないのではないだろうか、と思わずにはおれないのです。
 ヨハネの後から来られた主イエス・キリストも、このヨハネと全く同じ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉をもって伝道を始められました。しかし主イエスによって実現していった天の国は、ヨハネが語ったのとは違うものとなったのです。主イエスによって到来した天の国、神のご支配は、良い実を結ばない木を片っ端から切り倒して火で焼き払っていくようなものではありませんでした。そうではなくて、神の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さる、それによって神が私たちの罪を赦して下さる、その赦しの恵みによるご支配だったのです。このご支配が確立するために、切り倒され、火に投げ込まれたのは、罪人である私たちではなくて、主イエス・キリストご自身でした。主イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために、私たちに代って死んで下さることによって、王としてのご支配を確立されたのです。天の国は主イエスの十字架の死によって実現したのです。主イエスは、この「天の国」の王として、今私たちに「悔い改めよ」と言っておられるのです。それは、悔い改めなければ滅ぼすぞという脅しではありません。私が、あなたの罪を背負って十字架にかかって死んだ、それによってあなたの罪はもう赦されている、だから、あなたは悔い改めて新しく生きることができる、私のもとで生きなさい、と主イエスは語りかけて下さっているのです。

こんな石からでも
 ヨハネが授けていた洗礼は、悔い改めの印としての洗礼でした。しかし私たちが受ける、主イエス・キリストの洗礼、教会における洗礼は、それ以上のものです。私たちの洗礼も、罪を告白し、悔い改めることによって授けられます。自分が神に背いている罪人であることを認めることなしに洗礼を受けることはできません。しかしそれは、私たちが自分の罪を認める謙遜さという正しさを獲得することによって救われるということではありません。主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪が赦されていることを信じることが私たちの悔い改めです。洗礼は、主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを信じて、神が恵みによって与えて下さる神の子としての新しい生活に入ることの印です。神は独り子イエス・キリストによって、罪人である私たちを赦して、神に選ばれた民、救いにあずかる民として下さっているのです。そこらにころがっている石のように何の取り柄もない、また石のように頑なな私たちを、神はアブラハムの子、ご自分の民として新しく生まれ変わらせて下さるのです。そのことを信じて、その恵みを感謝していただくことが洗礼を受けることなのです。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。自分が「こんな石」であることを認めることが悔い改めです。そしてこんな石からでもアブラハムの子たちを造り出すことができる神の恵みと力を信じて歩むことによって、私たちはこのアドベントの日々、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことができるのです。

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