今月の聖句と奨励

マラナ・タ(主よ、来てください)。

「マラナ・タ(主よ、来てください)。」 牧師 藤掛順一

・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一第16章21-24節

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マラナ・タ
 12月の聖句として22節の「マラナ・タ」を選びました。それは元々アラム語(ヘブライ語の親戚で、主イエスが語っておられたと思われる言語)の言葉で、その音がそのままギリシア語化されて聖書に記されたものです。聖書の原文にあるのは「マラナ・タ」だけであって、(主よ、来てください)という括弧はありません。この括弧は翻訳において説明のために付けられたものです。日本語訳聖書の変遷を見ると、「マラナ・タ」と原文の音をそのままカタカナにして記しているのは口語訳と新共同訳で、それぞれ(われらの主よ、きたりませ)(主よ、来てください)という意味の説明が括弧によって付けられています。新しい聖書協会共同訳は「主よ、来りませ」と訳しています。昔の文語訳も「我らの主きたり給ふ」となっていました。この二つは原文の「マラナ・タ」を日本語に訳しているわけです。文語訳が「きたり給ふ」と現在形にしているのは、アラム語の元々の意味が「来られた」ないし「来られる」だからです。文脈から言ってこれは「来たりませ」という願いを語っているので、口語訳以降は祈りの言葉として訳されています。

アドベントの祈り 
 この言葉を12月の聖句としたことにはいくつかの理由があります。一つは、アドベントの日々を歩むことを覚えてです。主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えていくアドベントは、主イエスが私たちの救い主としてこの世に来て下さったことを感謝し、主イエスを自分たちのまことの王としてお迎えする思いを整えることによってクリスマスに備えていく時です。よく、「主イエスのご降誕を待ち望む」という言い方をすることがありますが、それは正しくありません。主イエスのご降誕はおよそ二千年前に既に起ったのであって、それは感謝することであって待ち望むことではありません。主イエスが毎年クリスマスに新たにお生まれになるわけではないのです。しかし既にこの世に来て下さった救い主イエスを、私たち一人ひとりが自分の王、救い主としてお迎えし、主イエスに従っているかというと、そうではない現実があるわけで、だからアドベントの間に主イエスをお迎えする信仰を整えつつ、クリスマスに備えていくのです。そういう意味でアドベントは、私たちの心を整えつつ「クリスマスを待つ」日々です。しかしアドベントにはもう一つの大事な意味があります。それは、復活して天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる主イエスが、世の終わりにもう一度来られる、その主イエスの第二の到来(アドベント)を待ち望むことです。「生ける者と死ねる者とを」(使徒信条)、つまり全ての人をお裁きになる方として、主イエスはもう一度来られるのです。その主イエスの「再臨」において私たちの救いは完成します。その救いの完成を「待ち望む」ことが私たちの信仰です。主イエスの第一の到来を覚えるクリスマスに備えるアドベントは、主イエスの第二の到来である再臨を待ち望む信仰を深められる時でもあるのです。その意味で、「マラナ・タ」(主よ、来てください)は、アドベントを歩む私たちの祈りの言葉なのです。

旧約と新約を貫いている祈り
 この聖句を選んだもう一つの理由は、11月の聖句とのつながりです。11月の聖句は「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る」(イザヤ書第40章31節)でした。その「主に望みをおく」は「主を待ち望む」とも訳せる言葉です。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れ」(イザヤ書40章30節)てしまうような現実の中でも、主を待ち望み、主に望みをおく人は、「新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」。私たちはこのみ言葉に支えられて11月を歩んだのです。その、主を待ち望み、主に望みを置く者の祈りの言葉が「マラナ・タ」(主よ、来てください)です。主が来て下さり、み業を行って下さることにこそ希望を置き、それを待ち望んで生きる信仰は、イザヤ書もコリントの信徒への手紙も共通しているのです。つまり「主を待ち望む」ことは旧約聖書と新約聖書を貫く信仰であり、旧新約聖書全体が語っている希望なのです。ですから「マラナ・タ」は、聖書全体を代表する祈りの言葉だと言うことができるのです。

主イエスによって人間は二つに分けられている
 主を待ち望んでいた旧約の民は、具体的には、主が遣わして下さるメシア、救い主の到来を待ち望んでいました。その救い主、メシアがついに来て下さった、それが主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事でした。しかしその主イエスの歩みは、人々が期待していたものとは違っていました。主イエスは、時の権力者の命令(皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令)に翻弄され、身重の身で旅を強いられた貧しい夫婦の子として、誰にも顧みられることなく馬小屋で生まれたのです。そして成長して活動を開始してからも、力によって敵を滅ぼす支配者としてではなくて、弱い者、貧しい者、差別されていた者たちと共に、その苦しみ悲しみを背負って歩みました。ローマの支配を打ち破って独立を確立する王としての救い主を期待していた人々の心は次第に主イエスから離れていき、逆に憎しみの対象となり、主イエスは捕えられて十字架につけられ、殺されてしまいました。主イエスこそ待ち望んでいた救い主だと思っていた人々の期待は裏切られ、打ち砕かれてしまったのです。しかし主イエスの父である神のみ心は、この主イエスの十字架の死を私たちの身代わりとしての死として下さり、私たちの罪を赦して下さることでした。さらに父なる神は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さることによって、罪の赦しと共に復活と永遠の命の希望をも与えて下さったのです。つまり父なる神は十字架の死と復活を通して、主イエスを救い主、メシアとして立て、私たち罪人の救いを実現して下さったのです。十字架と復活の主イエスこそ約束されていた救い主であることを信じた人は、待ち望んでいた救い主の到来を喜び、感謝しているのです。
 つまり主イエス・キリストによって今や人間は二つに分けられています。イエスは救い主ではない、救いはまだ実現していないと考え、まだ実現していない救いを探し求めている人々と、イエス・キリストにおいて、既に救い主が来たことを信じて、そのことを喜び、感謝して生きている人々の二つです。それが、主イエス・キリストを信じている信仰者とそうでない人々の違いです。私たちクリスチャンは、救い主が来て下さったことを喜び、感謝しつつ生きているのです。だから私たちの信仰生活の基調は喜びと感謝です。信仰とは、まだ実現していない救いを得るために頑張って努力することではありません。主イエス・キリストによって既に実現している救いを喜び、感謝して生きること、それが私たちの信仰なのです。

信仰に生きることの困難さ
 しかし私たちの信仰生活は決して、喜びと感謝だけの、おめでたいハッピーなものではありません。そこにはいろいろな苦しみがあります。なぜなら、主イエス・キリストによって既に実現した救いは、誰の目にもはっきりとそれと分かるものになってはいないからです。私たちは、神がその独り子イエス・キリストを与えて下さったほどに私たちを愛して下さっており、主イエスの十字架と復活によって、罪の赦しと永遠の命の約束を与えて下さっていることを信じていますが、その救いは、目に見える客観的事実とはなっていない、つまりその救いはまだ完成してはいないのです。だからその救いを信じる人もいるけれども、信じない人もたくさんいる。むしろ信じない人の方が多いのです。信仰をもって生きることの困難さ、苦労がそこにあります。私たちは、周囲の多くの人々が、イエスは救い主ではない、救いはまだ実現していない、と思っている中で、救い主イエス・キリストが既に来て下さり、その十字架と復活によって救いを実現して下さったことを信じて、その感謝と喜びに生きているのです。その私たちの感謝や喜びは、周囲の人々になかなか理解してもらえません。むしろ世の人々にとっては、「まだ実現していない救いの実現のために頑張って努力しよう」という教えの方が理解されやすいのです。そのような中で、私たちの心にも疑いや迷いが生じます。主イエスによって既に実現している救いへの喜びや感謝が揺らいでしまったり、「頑張って努力して救いを得よう」という教えに引きずられたりすることも起るのです。主イエス・キリストによって救いが既に実現したことを信じて喜びと感謝に生きることは、簡単なことではないのです。

与えられている希望
 しかし神は私たちに希望を与えて下さっています。それは、復活して天に昇り、今は父なる神のもとにおられる主イエスがもう一度来て下さるという希望です。主イエスがもう一度来て下さること、つまり主イエスの再臨によって、今のこの世は終わり、神の国(つまり神のご支配)が完成するのです。その時、約束されている復活と永遠の命が実現します。主イエスが十字架の死と復活によって打ち立てて下さった罪と死の力への勝利が、私たちの現実となり、私たちも、主イエスと共に永遠の命を生きる者とされるのです。つまり今はまだ客観的事実となっていない私たちの救いが、そこで完成し、誰の目にもはっきりと分かる現実となるのです。このことを信じて待ち望んで生きることが教会の信仰です。「マラナ・タ」(主よ、来てください)とは、この主イエスの再臨による救いの完成を待ち望む祈りです。私たちの救いは、主イエスの再臨によってこの世が終わる時までは完成しないのです。だからこの世を生きる私たちは、常に、主イエスの再臨による救いの完成を待ち望んでいるのです。「主を待ち望むこと」こそ私たちの信仰であり、「マラナ・タ」(主よ、来てください)は私たちの中心的な祈りなのです。

クリスマスの出来事のゆえに
 「主を待ち望む」信仰に生きていることにおいて、旧約聖書の人々も、主イエスを信じている私たちも同じです。しかし「マラナ・タ」と祈りつつ生きている私たちの信仰と、旧約聖書の人々の「主を待ち望む」信仰とでは違いもあります。私たちは、救い主イエス・キリストが既に来て下さり、救いのみ業を実現して下さったことを信じて、その喜びと感謝の中で、主イエスの再臨によるその救いの完成を待ち望んでいるのです。私たちが「マラナ・タ」(主よ、来てください)と祈りつつ待ち望んでいる主イエス・キリストは、かつてこの世に生まれ、人間として歩み、十字架の死と復活によって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さった方です。復活して永遠の命を生きる者となった主イエスは、天に昇り、今は父なる神のもとにおられます。その主イエス・キリストが、世の終わりにもう一度来て下さって、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さり、救いを完成して下さるのです。そのことを待ち望むことが私たちの、教会の信仰です。つまり私たちは、主イエス・キリストが既に来て下さったからこそ、再び来て下さることを信じて、希望をもって待ち望むことができるのです。私たちが「マラナ・タ」(主よ、来てください)と祈ることができるのは、主イエス・キリストがこの世に来て下さった、クリスマスの出来事のゆえなのです。

信仰をもって生きることを支える祈り
 私たちはこの12月に、神の独り子であり、私たちの救い主である主イエス・キリストが、人間となってこの世に生まれて下さったことを記念するクリスマスを喜び祝います。私たちがクリスマスを喜び祝うのは、主イエスこそ神の独り子であられ、私たちのために神が遣わして下さった救い主だからです。主イエスは、弱い者、貧しい者、罪ある者と共に歩んで下さり、人々の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。そして復活して永遠の命の先駆けとなって下さったのです。主イエス・キリストによってこの救いが既に実現しているからこそ、私たちはクリスマスを喜び祝うのです。そしてその喜び祝いの中で、「マラナ・タ」(主よ、来てください)と祈るのです。クリスマスを喜び祝っている私たちの生きている現実には、様々な困難な問題があり、苦しみや悲しみがあります。自分にも他の人々にも罪があり、弱さがあり、それによって生じる争いや対立があります。問題だらけの人生を私たちは生きているのです。しかしそれでも、私たちは希望をもって生きることができます。それは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが、天において今この世界と私たちとを支配し、導いておられ、そのご支配が将来、主がもう一度来て下さることによってはっきりと示され完成するからです。主の再臨による救いの完成を待ち望んでいるからこそ、苦しみや悲しみに満ちた日々の生活の中でも、主イエスによる救いを信じて祈りつつ生きることができるのです。「マラナ・タ」(主よ、来てください)という祈りは、私たちが信仰をもってこの世を生きていくことを支える土台なのです。

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