「恐れることはない」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第100編1-5節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第28章1-10節
・ 讃美歌:
主の日の喜びの源
本日はイースター、主イエス・キリストの復活を喜び祝い、記念する日です。私たちはこの礼拝において、主イエスを復活させて下さった父なる神に向かって喜びの叫びをあげ、喜び歌って御前に進み出ます。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入り、感謝をささげ、御名をたたえるのです。そしてさらに喜ばしいことに、復活して生きておられる主イエスがこの礼拝において、私たちのために聖餐の食卓を整え、招いて下さいます。ひさしぶりに聖餐にあずかって、私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れであることを再確認するのです。そのように本日の礼拝は特別に喜ばしいものです。しかし実は毎週の日曜日、主の日が、主の復活の記念日であり、小さなイースターです。私たちは毎週の主の日に、復活して生きておられる主イエスのもとに招かれ、み言葉をいただき、同じ喜びを与えられて歩んでいるのです。毎週の主の日に与えられている喜びの源が、主イエスの復活、イースターの出来事なのです。
マタイにおけるイースターの朝の出来事
本日は、マタイによる福音書におけるイースターの朝の出来事をご一緒に読みます。マタイが描いているイースターの朝の出来事は特徴的です。十字架にかけられて死んだ主イエスの遺体は金曜日の内に墓に納められました。そして安息日である土曜日が過ぎ、週の初めの日、つまり日曜日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが主イエスの墓に行きました。そこまでは、墓に行った顔ぶれが少し違うだけで、他の福音書とほぼ同じです。しかし2節には、「すると、大きな地震が起った。主の天使が天から降って近寄り、主イエスの墓を塞いでいた大きな石をわきへ転がしてその上に座ったのである」と語られています。マリアたちの目の前で天使が石をわきへ転がし、その衝撃で大きな地震が起った。このことは他の福音書には語られていません。他の福音書はどれも、行ってみたら石が転がしてあったと語っているのです。マタイはさらに3節で、その天使たちの姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったと語っています。また、墓の番をしていた番兵たちが恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった、とも語っています。この朝の出来事がとても劇的に語られているのです。しかしそのマタイも、主イエスの復活そのものについては、他の福音書と同じ語り方をしています。つまり、マリアたちの前で主イエスの遺体が息を吹き返し、起き上がったというようなことではなくて、天使が彼女らに主イエスの復活を告げた、と語っているのです。天使は5、6節でこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。つまり天使は、主イエスはもう復活してこの墓の中にはおられない、と告げたのです。ということは、墓を塞いでいた石を天使が転がす前に、既に主イエスは復活して墓の中にはおられなかったということです。天使が石を転がしたのは、復活した主イエスが墓から出て来るためではなくて、「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と言っているように、この墓が既に空であり、主イエスはここにおられないことを彼女たちに示すためだったのです。
主イエスは生きておられる
ここに、主イエス・キリストの復活、イースターの出来事の根本が示されています。聖書が語っている主イエスの復活とは、死んで横たわっていた主イエスの遺体が生気を取り戻して動き出し、蘇生した、ということではなくて、十字架にかかって確かに死んで墓に葬られた主イエスが、今は復活して生きておられ、墓の中にはもうおられない、ということなのです。だから私たちは今や、主イエス・キリストを、墓の中にいる方として、つまり過ぎ去った過去の存在としてではなくて、今生きておられる方として、生きて私たちに出会い、語りかけ、働きかけて下さる方として捜し求めなければならないのだし、生きておられる主イエスと出会うことができるのです。つまりイースターの出来事によって、私たちと主イエスとの関係は全く新しいものとなったのです。イースター、主の復活がなかったなら、私たちにとってイエス・キリストは、およそ二千年前に生きていた歴史上の人物に過ぎません。その教えがどんなに素晴らしいものであり、歩みがどんなに愛に満ちたものだったとしても、全ては過去のことです。私たちは主イエスの教えを受け止めて自分の生活に生かすとか、その歩みを模範としてそれに倣って生きるということしかできないのです。しかし主イエスは復活なさいました。それは、一度は復活したがしばらくしたらまた死んでしまったというのではなくて、永遠の命を生きる者となられたということです。つまり主イエスは今も生きておられるのです。だから私たちは、過ぎ去った過去の人として主イエスを思い起こすのではなくて、今生きておられる主イエスと出会うことができるのです。生きておられる主イエスと出会い、そのみ言葉を聞き、主イエスと共に生きていくことができるのです。それが、イースターの出来事によって実現した主イエスと私たちの新しい関係です。イースターのゆえに、主イエスは私たちにとって、過去の偉人の一人ではなくて、今共にいて下さる救い主なのです。
生きている主イエスと出会う
それゆえにイースターの出来事は、「主イエスは復活した」ということが告げられるだけでは終わりません。復活して生きておられる主イエスとの出会いが起ってこそ、その出来事は完結するのです。そのことが7節の天使の言葉に示されています。天使はさらにこう言いました。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。天使はマリアたちに、主イエスの復活を弟子たちに告げるようにと命じました。天使がこの墓で彼女らに主イエスの復活を告げたように、今度は彼女たちが弟子たちに、主イエスの復活を告げるのです。しかしただ主イエスは復活したことを告げるだけではなくて、ガリラヤで主イエスにお目にかかることができる、と告げるように命じられたのです。主イエスは復活した、と告げられる時、そこには、どこへ行けば生きておられる主イエスにお目にかかることができる、というメッセージが伴うのです。生きておられる主イエスとお会いすることなしには、イースターの出来事は成り立たないからです。
それはマリアたちにおいても同じでした。彼女らは、天使から主イエスの復活を告げられ、弟子たちのところに急いで行ってこのことを告げなさいと命じられ、8節にあるように急いで墓を立ち去り、弟子たちのところへと走って行ったのです。するとその行く手に、復活した主イエスが立っておられ、「おはよう」と語りかけて下さったのです。天使の言葉に従って弟子たちのもとへ走って行くその道において、彼女たちは生きておられる主イエスにお目にかかることができたのです。彼女たちは主イエスの足を抱き、その前にひれ伏しました。そのようにして彼女たちもイースターの出来事を体験したのです。
彼女たちに出会って下さった主イエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われました。復活した主イエスが彼女たちに出会い、今度は彼女たちを弟子たちのもとへと遣わして、主イエスが復活して生きておられること、どこへ行けばその主イエスにお目にかかることができるかを告げて下さるのです。彼女たちのメッセージを聞いてガリラヤへ行くことによって、弟子たちも、復活して生きておられる主イエスとお目にかかることができるのです。こうして、弟子たちにもイースターの出来事が起るのです。
ガリラヤで
弟子たちが復活した主イエスに会うことができるのはガリラヤです。主イエスが彼らより先にガリラヤに行かれる、と天使は告げています。ガリラヤで、というのは何を意味しているのでしょうか。ガリラヤは彼ら弟子たちの故郷です。彼らはそこで主イエスと出会い、主イエスに「私に従ってきなさい」と声をかけられて弟子となり、主イエスに従ってはるばるエルサレムまで旅をして来たのです。しかしその主イエスは捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまいました。そして彼ら弟子たちは、主イエスの最後の時に、みんな逃げ去ってしまったのです。最後まで主イエスに従い通すことができた者は一人もいなかったのです。主イエスの死と埋葬を見届けたのは、マグダラのマリアをはじめとする女性たちでした。つまり弟子たちは、主イエスに従う弟子としての歩みにおいて挫折したのです。だからもはや自分はイエスの弟子であるなどとは言えないのです。その彼らは、夢破れて挫折した者としてすごすごとガリラヤに帰るしかありません。ガリラヤは、弟子としての歩みに失敗して全てを失い振り出しに戻った彼らの行きつく所なのです。そのガリラヤに、復活した主イエスが、彼らよりも先に行って、そこで彼らと出会って下さる。それは、彼らの弱さ、失敗、罪の全てを主イエスが受け止め、それを担って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して、もう一度新たに彼らと出会い、罪の赦しを与えて、新しく弟子として、主イエスによる救いにあずかり、従っていく者として、立てて下さるということです。そのように彼らを新しく生かして下さるために、復活した主イエスは彼らより先にガリラヤへ行き、そこで待っていて下さるのです。
復活して生きておられる主イエスと出会うとは、こういうことです。私たち一人ひとりにも、このような主イエスとの新たな出会いが起るのです。私たちも、主イエスと出会って、「わたしに従って来なさい」とのみ声を聞いて、主イエスと共に歩み出しています。洗礼を受けた人は勿論はっきりとその信仰を言い表して、主イエスの弟子となったのです。でもそうでなくても、私たちがこうして礼拝に集っているということは、主イエスに招かれ、そのもとに集って来ているということです。だから洗礼を受けている人とそうでない人の違いは相対的なものです。そしてたとえ洗礼を受けていても、私たちは、主イエスの弟子としてちゃんと歩めているわけではありません。むしろ主イエスを裏切ってばかりで、肝心な時に逃げ去ってしまい、信仰者として生きることに挫折してしまう、弱く罪深い者です。そういう私たちのところに、復活して生きておられる主イエスが、主イエスの方から、来て下さり、新たに出会って下さり、十字架の死によって実現して下さった罪の赦しを与えて、私たちを新しく生かして下さるのです。主イエスがそのように出会って下さることによって私たちも、イースターの出来事を体験するのです。
主の日の礼拝、聖餐において
そのことが起るのが、主の日の礼拝です。週の初めの日である主の日は、主イエスの復活の日です。主イエスの復活を記念して、教会は主の日、日曜日に礼拝を守っているのです。この礼拝において、復活して生きておられる主イエスが、弱く罪深い者である私たちと新たに出会って下さり、私たちをご自分の十字架の死による罪の赦しの恵みにあずからせて下さり、新しく生かして下さるのです。しかも本日は、主が私たちのために聖餐の食卓を整えて下さっています。主が与えて下さるパンとぶどう液にあずかることによって私たちは、主イエスが十字架にかかって、肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって成し遂げられた救いを、この体をもって味わい、それにあずかるのです。聖餐にあずかることによって私たちは、復活して今生きて語りかけ、共にいて下さる主イエスと出会い、主イエスと一つとされて、新しく生かされていくのです。そのようにして、イースターの出来事が私たち一人ひとりにも起るのです。
恐れることはない
天使も主イエスもここで、「恐れることはない」と語りかけておられます。私たちのこの世の人生には、罪と死が大きな力を振るっていて、恐れに満ちています。ウクライナにおいて今起っていることも、恐しい現実です。私たちは今戦火の中にはいませんけれども、やはり恐れに支配されて、人を傷つけてしまい、自分自身をも傷つけてしまい、そういうことによって命を失ってしまうことすら起っています。そのような厳しい現実の中で、復活して生きておられる主イエスが私たちに、「恐れることはない」と語りかけて下さっているのです。主イエスの父である神は、私たち人間の罪に打ち勝ち、死の力にも勝利して、主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。恐れに満ちている私たちの現実の中に、主イエスの「恐れることはない」というみ言葉が響いている、それがイースターなのです。