主日礼拝

幸いの印

「幸いの印」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記第17章1-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第4章1-12節
・ 讃美歌:10、135、459

信仰による義認
先週に続いて、ローマの信徒への手紙の第4章の始めのところをこ の礼拝においてご一緒に読み、み言葉に聞きたいと思います。この手 紙を書いたパウロは、1章18節から3章20節までにおいて、全て の人が罪に陥っており、そのままでは神の前で義とされることができ ない、ということを語りました。そして3章21節から、そのような 罪人である私たちに、主イエス・キリストによって与えられている救 いを語ってきたのです。3章23、24節にその救いの内容が凝縮さ れて語られています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく なっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神 の恵みにより無償で義とされるのです」。無償でとは、私たちの善い 行いや立派な働きなしに、ということです。私たちが善い行いをする ことへの報いとしてではなく、神の独り子である主イエス・キリスト が私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んで下さった、その キリストを信じる信仰によって、罪人である私たちが義と認められ、 救われるのです。この「信仰による義認」こそが、パウロが語ってい る福音の中心です。3章21節以下には、主イエス・キリストによっ て実現したこの「信仰による義認」という福音が語られて来たのです。

アブラハムの信仰
第4章に入ってパウロは、イスラエルの民の最初の先祖であり、「 信仰の父」と呼ばれているアブラハムのことを語っています。アブラ ハムが神から与えられた救いも、この「信仰による義認」だったのだ 、ということを語っているのです。そのことを示すために彼は3節に おいて、創世記第15章6節の「アブラハムは神を信じた。それが、 彼の義と認められた」という言葉を引用しています。アブラハムは、 善い行いをしたことによってではなく、神を信じたことによって義と 認められた、つまり信仰による義を彼も与えられたのです。しかしア ブラハムについてのこの捉え方には、ユダヤ人たちは反対していまし た。ユダヤ人たちはそもそも、パウロが宣べ伝えている「信仰による 義認」に反対していたのです。彼らは、人が義とされるのは信仰に基 づく善い行いによってだ、と考えていました。その善い行いとは具体 的には、神がユダヤ人にお与えになった律法を守ることです。彼らに とっては、神から与えられた掟である律法を守り行なうことこそが信 仰だったのです。そういう、信仰に基づく善い行いによってこそ義と され、救われるというのがユダヤ人の常識だったのです。彼らは自分 たちの先祖であるアブラハムをもその常識に基づいて見つめており、 ここでパウロが引用している「アブラハムは神を信じた。それが、彼 の義と認められた」という箇所もそれに基づいて読んでいたのです。 この言葉は先程申しましたように創世記15章6節ですが、1節以下 を読むと、どういう文脈の中で語られたのかが分かります。「あなた を大いなる民とする」という神の約束を受けて旅立ったアブラハムで したが、子供が与えられないままで自分も妻も既に年老いていました 。人間の常識からして、もう子供が生まれる可能性はないという状況 だったのです。そのアブラハムに神が、「天を仰いで星を数えること ができるなら、数えてみるがよい、あなたの子孫はこのようになる」 とおっしゃったのです。それを聞いたアブラハムは、そのお言葉を信 じた、主はそれを彼の義と認められた、というのがこの場面です。ユ ダヤ人たちはここを、アブラハムは、人間の常識からすればとうてい あり得ないことを、それが神のみ言葉であるがゆえに信じるという神 への深い信頼に生きることができたので、神によって義とされたと理 解していたのです。つまり彼らはこのアブラハムに、不可能と思われ る現実の中で神の言葉を信じてそれに従うという素晴しい信仰の行い を見たのです。それは律法を守り行なうのと同じ、信仰に基づく善い 行いです。アブラハムが義とされたのはそのような、信仰に基づく善 い行いによってだった、我々ユダヤ人はこのアブラハムの子孫であり 、その信仰を受け継ぐ者だ、我々も信仰に基づく善い行いに励み、律 法をしっかりと守り行なうことによって、アブラハムのように神の前 で義とされるのだ、とユダヤ人たちは考えていたのです。

信仰に基づく善い行いによって義とされる?
私たちも、このアブラハムの姿をそれと同じように読んでいること が多いのではないでしょうか。一人の子供もなく既に年老いていたア ブラハムが、「あなたの子孫は天の星のように多くなる」という神の 言葉をそのまま信じた、そのように神の言葉を素直に信じるというの は、なかなかできない素晴らしい信仰の行いだ、さすが信仰の父と呼 ばれる人は違う、そのような信仰に生きることは自分にはとてもでき ない…、そんなふうに感じるとしたら、私たちもユダヤ人たちと同じ ように、アブラハムを、信仰に基づく善い行いをした人として見つめ ているということです。アブラハムのような素晴しい信仰の行いがで きれば神の前で義となることができる、と私たちも思っているのです 。その根底には、「人は信仰に基づく善い行いによって義とされる」 という思いがあります。しかしパウロが語っている「信仰による義認 」は、そういう考え方と真っ向から対立するものです。人は信仰によ ってなされる善い行いによって義とされるのではなくて、善い行いな しに、信仰のみによって義とされる、それがキリストによって実現し た救いであり、福音だ、とパウロは語っているのです。

ダビデに与えられた幸い
この福音をより明確にするためにパウロは、6-8節において、今 度はダビデのことを取り上げています。ダビデはアブラハムと並んで ユダヤ人たちが尊敬している昔の偉大な王です。6節の冒頭に「同じ ようにダビデも」とあります。つまりアブラハムが信仰によって義と されたのと同じことがダビデにも起ったのだ、ということです。ダビ デに何が起ったのでしょうか。7、8節に引用されているのは、詩編 第32編の1、2節です。この32編は、詩編の中の七つの「悔い改 めの詩」の一つです。「悔い改めの詩」の代表的なものは第51編で すが、それと並んでこの32編もダビデの作とされています。ダビデ が、自分の犯した罪を悔いつつ歌った歌とされているのです。ダビデ が犯した罪とは何でしょうか。51編の1節にはそのことが語られて います。彼は自分の部下であるウリヤの妻バト・シェバを見初め、ウ リヤをわざと戦死させて彼女を自分の妻としてしまったのです。忠実 な部下を殺してその妻を奪うという重大な罪を彼は犯したのです。神 から遣わされた預言者ナタンによってその罪を指摘されたダビデは、 激しい悔いに苦しみました。その中で歌われたのが51編ですが 、32編もそのダビデの体験を前提としていると考えることができま す。ここに引用されている1、2節は現在の新共同訳ではこうなって います。「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆ってい ただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心 に欺きのない人は」。それに続く3、4節にはこうあります。「わた しは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼 も夜もわたしの上に重く/わたしの力は夏の日照りにあって衰え果て ました」。自分の罪を認めず、黙し続けている間は、神の怒りのみ手 が自分の上に重くのしかかっていたのです。しかし神の前で自分の罪 を認め、告白した時に、赦しが与えられました。それが5節です。「 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いま した『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわた しの罪と過ちを赦してくださいました」。この詩の1、2節は、その ように自分の罪を神に告白し、赦しをいただいた者の幸いを語ってい るのです。パウロはその1、2節をここに引用するに際して、ダビデ はここで「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」を歌って いるのだと6節で語っています。つまりダビデが、背きを赦され、罪 を覆っていただいたのは、行いによらずに神から義と認められたとい うことなのです。この点で、「アブラハムと同じようにダビデも」と 言うことができるのです。アブラハムが信仰によって義とされたこと と、ダビデが背きを赦され、罪を覆っていただいたのとは、同じ幸い だったのだとパウロは考えているのです。

義とされるとは罪を赦されること
このことによって、パウロが、神によって義とされることをどのよ うに捉えているのかが分かります。それはユダヤ人たちが考えている ような、信仰によってなされる善い行いによって義とされるというこ とではありません。ダビデは、信仰による善い行いによって義と認め られたのではないのです。彼は善い行いどころか、大きな罪を犯した のです。赦されるべくもない罪に陥ったのです。そのダビデが、激し い悔いの中で、神にその罪を認め告白し、神のみ前にひれ伏した、そ こに神からの赦しが与えられたのです。神が、彼の罪を覆い隠して下 さったのです。他の人の目から覆い隠して下さったのではなくて、神 ご自身の目から覆い隠し、つまりその罪をもはや見ない、と宣言して 下さったのです。ダビデはそういう罪の赦しの恵みをいただきました 。人が神によって義とされるとは常にそういうことなのだ、とパウロ は言っているのです。つまり私たちは常に、「行いによらずに神から 義と認められ」るのです。それは善い行いというプラスの要因がない のに義とされると言うよりも、罪人である者、限りなくマイナスを背 負っている者が、ただ神の恵み、憐れみによって赦され、罪を覆われ て義と認められるということです。それがダビデに与えられた幸いだ ったし、アブラハムが神を信じ、義と認められたというのもそういう ことだったのだ、とパウロは言っているのです。つまり、アブラハム もダビデと同じように、自分の善い行い、善い業によって義を獲得し たのではない、そのような行い、働きが何もない者、むしろ罪や弱さ や疑いの中にうごめいている者が、ただ神の恵みのみによって義とさ れたのです。アブラハムが主を信じたというのは、いかなる意味でも 彼の手柄や功績になるようなことではなくて、彼が神の恵みによって 罪を赦され、救われたということなのです。

神の恵みを受けることが信仰
神の恵みを受けることが信仰  「信仰に基づく善い行いによって義とされる」のか、「善い行いな しに、信仰によって義とされる」のか、その違いは、信仰を自分の業 、善い行いとして捉えるか、それとも神がして下さる恵みのみ業をい ただくこととして捉えるか、です。私たちはこの違いを明確にしなけ ればなりません。そして、信仰とは私たちが善い行いをすることでは なくて、神の恵みを受けることなのだ、ということをはっきりと意識 しなければなりません。そうでないと、「信仰によって義とされる」 と言い乍ら、実際には「人間の善い行いによって義とされる」と考え ており、自分が善い行いをすることによって、自分の力で救いを獲得 しようとすることになるのです。私たちがそのようになりがちなのは 、信仰を自分が善い行いをすることと考え、「信仰に基づく善い行い によって義とされる」と考えた方が分かりやすいからです。アブラハ ムは神のみ言葉を疑うことなく信じ、神に信頼して生きたことによっ て義とされた、あなたもそのように純粋な信仰に生きるように努めな さい、そうすれば神に喜ばれて、あなたは義とされ、救われます、と いう教えなら分かりやすいのです。それは要するに、あなたが一生懸 命努力すれば救われる、ということだからです。しかしパウロが語っ ている「信仰による義認」はそういう教えではありません。パウロは 、救いは人間の努力によって得られるものではなくて、ただ神の恵み によって与えられるのだ、信仰とはその恵みによる救いをいただくこ とだ、と言っているのです。それは雲をつかむような、分かりにくい 、つかみ所のない話に思われます。「このように努力しなさい」と言 ってもらった方が分かりやすいのに、これでは何をどうしたらよいの か分からないと思うのです。あるいは私たちは、神の恵みによる救い をいただくだけというのは余りにも虫の良い話ではないか、とも思い ます。何もしなくても罪が赦されて義とされるなどということがあっ てよいのか、と思うのです。あのダビデにしても、あれだけの罪を犯 していながら、その罪を認めて神のみ前にひれ伏しただけで、神が赦 して下さった、罪を覆い隠して下さった、罪のない者と見なして下さ ったというのはずうずうしい話ではないか、それでは正義が通らない ではないか、とも思うのです。パウロが語っている「信仰による義認 」は、このように躓きの多い、納得しにくいものです。ユダヤ人たち も納得しなかったし、私たちも釈然としないものを感じるのです。

主イエスの十字架の死によって
しかしパウロはこのローマの信徒への手紙において、善い行いなし に、信仰によって義とされることこそが福音だ、これこそが救いであ って、これ以外に救いはない、と強烈に主張しています。なぜ彼はそ れほどまでに、「信仰による義認」にこだわるのでしょうか。彼をそ のように突き動かしているものは何なのでしょうか。それは、主イエ ス・キリストの十字架の死です。神が独り子主イエス・キリストを、 私たちの罪を償う供え物として立てて下さり、主イエスが十字架の死 によって私たちの罪の償いを成し遂げて下さったという事実です。私 たちが善い行いに励み、努力しているからではなくて、むしろ神に背 き逆らうことしか出来ずに罪の中にうごめいているその時に、神が独 り子主イエスの十字架の死によって罪の赦しを与えて下さったのです 。その神からの一方的な恵みの事実のゆえに、パウロは、人間の善い 行いや努力に全くよらない、神の恵みのみによる、人はそれをただ受 けるだけでしかない義認を徹底的に主張しているのです。この義認が 「つかみ所がない」と思うとすればそれは、その義認をもたらした主 イエス・キリストのことが、その十字架の死が見えていないからです 。神の独り子主イエスが自分の罪のために十字架にかかって死んで下 さったことを見つめることなしに、義とされるとか救いとかを頭の中 でいくら考えていても、それはまさに雲をつかむようなことになるの です。しかし主イエスが自分の罪の償いのために十字架にかかって死 んで下さったことは、極めて具体的な神の恵みです。そして、ずうず うしいと言われようと、虫がいい話だと言われようと、そこにしか私 たちの救いはないのです。自分の犯した取り返しのつかない深刻な罪 に苦しんでいるダビデに、ずうずうしくない、虫のよい話でない、ど んな救いがあり得るのでしょうか。人間が努力して善い行いを積み重 ねていくことで、その罪を償うことができるのでしょうか。ダビデの 罪も私たちの罪も、そんなことは出来ないのです。神のみ前にひれ伏 して、神からの赦しをいただく以外に、罪人である私たちが赦されて 新しく歩み出す道はないのです。それをずうずうしいとか、虫がいい 話だと言うとすれば、その人は自分が赦されなければならない罪人で あることに気づいていないのです。パウロは、自分がとうてい赦され 得ない罪人であることを知っていました。彼は以前、神が遣わして下 さった救い主である主イエスを拒み、主イエスを信じる人々を迫害し 、殺していたのです。しかしその罪のただ中にあった時に、神の独り 子主イエス・キリストが、その自分の罪の償いのために十字架にかか って死んで下さり、復活して下さった方として出会って下さったので す。その出会いによって彼もまた、行いによらずに神から義と認めら れ、罪を赦され覆っていただいた者の幸いを与えられたのです。その 幸いこそ、彼が語っている福音です。その幸いは、信仰に基づく善い 行いによって義とされる、と考えている所には見えてきません。私た ちは誰でも、主イエス・キリストの十字架の死によって与えられた神 の恵みによってのみ義とされ、救われるのです。その幸いを感謝して いただくことが私たちの信仰です。アブラハムも、ダビデも、この信 仰に生きたのであって、私たちはその信仰を受け継ぐのだ、とパウロ は語っているのです。

幸いの印
本日の箇所の9節以下には「割礼」のことが語られています。9節 に「この幸い」とあるのは、行いによらずに神から義と認められ、罪 を赦された幸いです。その幸いは割礼を受けた者だけに与えられるの か、それとも割礼のない者にも及ぶのか、ということです。割礼は、 ユダヤ人の男子が生まれて八日目に皆受ける、神の民ユダヤ人である ことの肉体に刻まれた印です。アブラハムがその割礼を受けることを 神から命じられたことを語っているのが、本日共に読まれた創世記第 17章です。そこに語られているように、割礼は神がアブラハムに与 えて下さった契約の印です。ユダヤ人たちは、この割礼を受けている ことを、神に選ばれた民の印として誇りに思っていました。割礼を受 けていることが、救いにあずかるための条件と考えられていたのです 。しかしパウロは、救いは人間の側が整える条件によって得られるも のではない、と語っていました。「信仰による義認」とは、割礼を受 けることも含めて、人間がこれをすれば救いを得ることができるとい うものは何もない、ということです。そのために、パウロとユダヤ人 の間に、割礼を受けた者だけが救われるのか、割礼のない者にも救い は及ぶのかという激しい対立が生じていました。パウロはそれをはっ きりさせるために、アブラハムが信仰によって義と認められたことと 、割礼を受けたことと、どちらが先なのか、と問うています。信仰に よって義と認められたことは創世記15章に語られており、割礼を受 けたことは17章に語られているのですから、信仰によって義とされ たことの方が先なのです。このことからパウロは11節にあるように 、「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しと して、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信 じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」と語ってい ます。つまり割礼は、救われるための条件ではなくて、神の恵みによ って罪を赦され、義とされた、その幸いの印として与えられたものな のです。割礼を受けることによって救われるのではなくて、ただ神の 恵みによって与えられている救いが、割礼によって、目に見える仕方 で体に刻みつけられるのです。この割礼と同じ意味を持つものとして 私たちに与えられているのが洗礼です。洗礼も、救われるための条件 ではありません。洗礼を受ければ救いが保証されるというようなもの ではないのです。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死 と復活によって、神が恵みによって与えて下さるものです。その幸い が、洗礼という印によって私たちに刻みつけられるのです。洗礼を受 けることによって私たちは、神の恵みによる罪の赦しが自分に与えら れていることを確信して、その幸いの中で生きる者となるのです。そ して洗礼を受けた者は、もう一つの印として主が与えて下さった聖餐 にあずかって歩みます。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストが私 たちの罪の赦しのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して私たち の罪のための償いの供え物となって下さった、その恵みを私たちが体 全体で味わい、それにあずかって生きるために与えられます。私たち は洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きることによって、アブラハム に、またダビデに与えられた、「行いによらずに神から義と認められ た人の幸い」を、私たちの心と体に刻みつけていただきながら歩んで いるのです。

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