夕礼拝

あの方は、復活なさった

「あの方は、復活なさった」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第16編7-11節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第24章1-12節
・ 讃美歌:

十字架と復活の間にある隔たり
 主イエスのご復活を祝うイースターを迎えました。金曜日に十字架で死なれた主イエスは、それから三日目に死に打ち勝ち復活されました。私たちはしばしば、この金曜日の主イエスの十字架の死と日曜日の主イエスの復活を一続きのこととして、「キリストの十字架と復活」と言い表します。説教においても、あるいは祈りにおいても繰り返し「十字架と復活」という言葉が出てきますから、十字架の出来事と復活の出来事がセットになっているという印象を受けるかもしれません。もちろんこのことは悪いことではありません。私たちがキリストの十字架の死と、その死からの復活を切り離せないこととして信じているからこそ、私たちは自然に「十字架と復活」と言い表すのです。その一方で、「十字架と復活」と言うことによって、十字架と復活の間にある「隔たり」が見失われがちかもしれない、とも思います。その隔たりは、主イエスの十字架の死を信じることと、主イエスの復活を信じることとの隔たりです。主イエスが十字架刑で死なれたことは、そこに示されているみ心は分からなくても、そういうことがあったと信じることはできるかもしれません。しかし主イエスの復活は、むしろ人々をつまずかせるものです。パウロがキリシアのアテネで伝道したとき、アテネの人たちは、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」(使徒言行録17:32)と言いました。それまでパウロの話を聞いていたアテネの人たちは、死者の復活と聞くと、たちまち話を打ち切ってしまったのです。主イエスの復活はそれほどまでに信じがたいことなのです。アテネの人たちだけが、つまり異邦人だけが信じられなかったのではありません。イースターの夕べに、私たちはルカによる福音書が語る主イエスの復活に目を向けていきますが、そこでも主イエスの復活はすんなり信じられたわけではないのです。

主イエスの死と葬りを目撃した婦人たち
 本日の箇所の冒頭には「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」とあります。これだけ読むと、この文章の主語が示されていないので誰が香料を持って墓に行ったか分かりませんが、少し前の23章56節に「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」とあり、これが1節の文章の主語になります。そしてこの「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」とは、10節によれば「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」です。ガリラヤから主イエスに従って来た婦人たちが、主イエスの十字架の死を「遠くに立って」見ていたことが23章49節に語られていました。そして彼女たちは、主イエスの遺体を引き取ったアリマタヤ出身のヨセフが、その遺体を墓に納めたのを見届けました。23章55-56節には「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」とあります。つまり彼女たちは主イエスの十字架の死を見ていただけでなく、その遺体が墓に葬られたことも自分自身の目で確かめたのです。このことを通して彼女たちは、主イエスが本当に死なれた、ということを実感せざるを得なかった、認めざるを得なかったのではないでしょうか。その死と葬りを目撃することを通して、彼女たちは、主イエスが確かに死なれ、もう生きていない、もう会うことができないことを思い知らされたのです。彼女たちは深い喪失感と悲しみの中で家に帰り、香料と香油を準備しました。安息日には彼女たちは休んだとあります。ユダヤ教では土曜日が安息日ですから、金曜日の十字架の死と日曜日の復活の間の土曜日ということになります。この死と復活の間の土曜日に、彼女たちは幾度となく主イエスの死を想い、悲しみと嘆きを深めたのではないでしょうか。旧約聖書詩編30編6節には「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とありますが、彼女たちは泣きながら土曜日を過ごしたのかもしれません。その彼女たちは「喜びの歌と共に」朝を迎えることができたのでしょうか。

途方に暮れて
 日曜日の明け方早く、婦人たちは準備していた香料を持って主イエスの墓に行きます。主イエスの遺体に香料と香油を塗って、遺体が腐らないようにするためです。それは、彼女たちにとって主イエスのためにできる、残されたたった一つの葬りの業であり、最後の奉仕でした。彼女たちは心の慰めと癒しを求め、その最後の奉仕を行おうとしたのだと思います。主イエスに奉仕することを通してこそ、泣きながら土曜日を過ごすほどの深い悲しみと心の空洞を抱えている彼女たちに慰めが与えられていくからです。
 ところが墓を塞いでいた石が墓のわきに転がしてあるのを、彼女たちは見つけます。そして墓の中に入ってみると、そこに主イエスの遺体が見当たらなかったのです。彼女たちは、主イエスの遺体が盗まれた、と思ったかもしれません。しかしどこを捜せばよいか分からないのです。いったい誰が、なぜ、どこへ主イエスの遺体を持ち去ったのか分からず、彼女たちは「途方に暮れて」しまいました。それだけではありません。主イエスの遺体が取り去られたことは、彼女たちにとって、主イエスのためにできる、たった一つの、最後の奉仕が奪われてしまった、ということでもあるのです。そのことにも彼女たちは「途方に暮れて」しまったに違いありません。慰めを与えられる機会をも失い、自分たちがこれからどうしたら良いか分からず、ただ呆然として悲しみに打ちひしがれていたのです。
 彼女たちはガリラヤから主イエスに従って来ました。それにもかかわらず、墓の中に主イエスの遺体が見当たらなかったとき、彼女たちは主イエスが復活したとは思いもしませんでした。主イエスはかねがね弟子たちに、また彼女たちに、自分が十字架で死に、そして三日目に復活することになっている、と繰り返し伝えてきました。ですから私たちはそのような彼女たちの姿を見て不思議に思います。主イエスに従い、主イエスから復活のことを聞いていたはずなのに、なぜ彼女たちは主イエスの復活を信じることができなかったのだろうか、なぜ空の墓を見つけてそのことを少しも思い浮かべなかったのだろうか、と思うのです。

ここにはおられない
 彼女たちが途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人」が現れました。「輝く衣を着た人」とは、神の使い、御使いのことです。途方に暮れるしかない彼女たちの現実のただ中に、御使いを遣わして神が介入してくださったのです。二人の御使いは彼女たちに告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」とは、「あなたたちは間違ったところを捜している、見当違いのところを捜している」、ということです。主イエスの死と葬りを目撃した彼女たちにとって、主イエスの死は圧倒的な力を持っていました。その死の力が彼女たちを支配していたからこそ、彼女たちは主イエスの遺体にばかり心を向けていたのです。主イエスの遺体に香料を塗ろうとしたことも、その遺体が見当たらずに途方に暮れたことも、彼女たちが死者の中に主イエスを捜していたからにほかなりません。
 しかし死者の中に主イエスはいないのです。彼女たちが捜すべきところ、見つめるべきところは死者の中ではありません。御使いは告げます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」「ここにはおられない」とは、墓の中にいないということを意味するだけではありません。死の力の支配の下にいないということです。主イエスは十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に降り、死の力の支配の下に置かれました。しかし神は、その死の力を滅ぼし、主イエスを復活させてくださったのです。もはや主イエスは死の力の支配の下にいるのではなく、復活されて新しい命、永遠の命を生きておられます。御使いは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言いました。生きておられるとは、私たちと同じ命、地上の歩みにおいて必ず終りを迎える命を生きているということではなく、永遠の命を生きているということです。本日共に読まれた旧約聖書詩編16編10節には「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とあります。このみ言葉は、主イエスが十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に降り、三日目に復活されたことにおいて成就しました。彼女たちが捜すべきところは陰府でも墓穴でもありません。彼女たちが見つめるべきなのは、主イエスのご遺体ではなく、永遠の命を生きておられる主イエスなのです。

主イエスの言葉を想い起こす
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げられて、彼女たちはすぐ主イエスの復活を信じられたのでしょうか。主イエスのご遺体に目を向けるのでなく、復活されて永遠の命を生きておられる主イエスに目を向けることができたのでしょうか。彼女たちはすんなり信じることができなかったのではないかと思います。だから御使いは、主イエスの言葉を思い出すよう言うのです。御使いは7節でこのように言っています。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。主イエスは三度弟子たちにご自分の十字架の死と復活を予告されましたが、9章22節ではガリラヤで弟子たちにこのように言っています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」この主イエスのお言葉を思い出しなさいと、御使いは言ったのです。主イエスのお言葉は「人の子は必ず」で始まり「なっている」で終わっています。御使いも同じように言っています。この「必ず…なっている」というのは、神のご意志、神のご計画、つまり神のみ心を示しているのです。ですから主イエスの言葉を思い出しなさいとは、「主イエスが十字架で死に、三日目に復活する」という神の意志、神のご計画をも思い出しなさい、ということなのです。そのように御使いに「思い出しなさい」と言われて、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と8節で語られています。それは、単に忘れていた主イエスの言葉を、イエスさまはそんなことも言っていたなと思い出した、ということではありません。そうではなくかつて主イエスが彼女たちに語った言葉が、今の自分たちに語りかけられている言葉として想い起こされたということです。主イエスの遺体が見当たらないことに途方に暮れている彼女たちに、主イエスの死にしか心を向けられない彼女たちに、かつて聞いた主イエスの言葉が働きかけるのです。そのことによって「主イエスが十字架で死に、三日目に復活する」という神のみ心が示されるのです。

キリストの言葉を聞くことによって
 主イエスの言葉を想い起こすことによって神のみ心を示された彼女たちは、主イエスの死という圧倒的な力から解放され、復活されて永遠の命を生きておられる主イエスへと目を向け、心を向けることができるようになりました。ですから彼女たちは、自分の力で主イエスの復活に目を向けることができたのではありません。主イエスの遺体が取り去られ途方に暮れていたけれど、なんとか自分の力でその状況を乗り越えて主イエスの復活を信じるようになった、ということではないのです。そうではなく主イエスの言葉、つまりみ言葉によって、彼女たちは主イエスの復活を信じる者へと変えられたのです。パウロはローマの信徒への手紙10章17節でこのように言っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」主イエスの復活を信じる信仰は、キリストの言葉を聞くことによって起こされていきます。私たちもまた、自分の知識や経験によってキリストの復活を信じることができるのではありません。あの豊富な知識と経験を持っていたはずのアテネの人たちが、キリストの復活を一笑に付したように、自分の力に頼るならば、「復活なんて起こるはずがない」としか思えません。婦人たちはガリラヤで主イエスが語ってくださった言葉を想い起しましたが、私たちは地上を歩まれた主イエスと共にいたのでも、直接、主イエスの言葉を聞いたわけでもありません。しかし私たちは、礼拝において主イエスの言葉を聞いています。毎週の礼拝において、私たちはキリストの言葉を聞き、神のみ心を示され、キリストの復活を信じる信仰を、キリストの復活によって私たちの救いが実現したことを信じる信仰を起こされていくのです。十字架の死を信じることと復活を信じることとの間にある隔たりは、礼拝においてみ言葉を聞くことによってこそ、乗り越えられていくのです。

主イエスの復活を証しする
 9節では、その彼女たちが、「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」、と語られています。「十一人」と言われているのは、主イエスを裏切ったユダを除く十一人の弟子たちということです。彼女たちは彼らとそこにいたほかの人たちに、その日曜日の朝に起こったすべてのことを伝えました。主イエスが葬られた墓に行くと、墓を塞いでいた石がわきに転がしてあり、その中に入ってみると主イエスの遺体が見当たらず、途方に暮れていると、神の御使いが現れて、「あの方は、ここにはおられない、復活なさったのだ」と告げられ、「主イエスのお言葉を想い起こしなさい」と言われ、そのみ言葉とそこに示された神のみ心を想い起したこと、そのすべてを伝えたのです。10節後半にも「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話した」とあります。ここでも「これらのこと」とは日曜日の朝に起こったすべてのことです。ですから10節後半と9節は同じことを言っているように思えます。しかしこの二つの文章には違いもあるのです。9節の「一部始終を知らせた」というのは、彼女たちがその日の朝に起こったことを報告した、という事実を告げる文であるのに対して、10節後半の「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話した」というのは、彼女たちが使徒たちに、「あの方は、復活なさった」と、話し続けたことを、繰り返し繰り返し話したことを描き出している文なのです。もしかしたら、マグダラのマリアとヨハナとヤコブの母マリアが、入れ替わり立ち替わり使徒たちに「あの方は、復活なさった」と、伝えていたのかもしれません。私たちは10節後半の「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話した」という一文に、彼女たちが主イエスの言葉を想い起こすことによって、主イエスの復活を信じる者へと変えられ、そして主イエスの復活を証しする者とされていることを読み取ることができるのです。主イエスの復活を証しするとは、単なる事実の報告ではなく、証しし続けることであり、繰り返し証しすることだからです。主イエスの復活を信じ、それを証しする者の姿が、10節後半で描かれているのです。

信仰に先立つ神の恵み
 しかし使徒たちは、その婦人たちの証を信じませんでした。「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」のです。ここで十一人の弟子たちが使徒と呼ばれていることに目を向けたいのです。使徒とは、キリストの復活の証人です。そして使徒たちは、ペンテコステに聖霊が降ることによって、聖霊に満たされ力を与えられてキリストの復活を宣べ伝え始めました。使徒言行録2章24節でペトロは人々に「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」と宣べ伝えています。しかしそのように語っている彼は、そしてほかの弟子たちも、婦人たちが「あの方は、復活なさった」と告げたとき、「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえない」ということをまったく信じられなかったのです。ですから彼らは、まだ使徒と呼ばれるにふさわしくありません。それにもかかわらずルカ福音書は、主イエスの復活を信じられない彼らを、その復活を証しする「使徒」と呼びます。使徒ですら、十字架の死から三日目の朝に、キリストの復活を「たわ言」のように思い、信じることができなかったことを見つめているのです。そのルカ福音書の眼差しは、神の眼差しでもあると思います。なぜなら、自分が神に愛されていると私たちが信じる前に、神は私たちを「神に愛されている者」としてくださり、自分が神の子とされていると私たちが信じる前に、神は私たちを「神の子」と呼んでくださり、キリストの復活を私たちが信じる前に、神は私たちを復活を証しする者と見なしてくださっているからです。ですからルカ福音書が、復活をまったく信じられなかった十一人の弟子たちを「使徒たち」と呼んでいるのは皮肉ではありません。むしろ神の恵みが使徒たちの復活を信じる信仰に先立っていることを示しているのです。その恵みが、キリストの復活を信じられない彼らを、復活を信じ、証しする者へと変えていくのです。

墓へ走るペトロ
 そのように「使徒たち」と呼ばれている十一人の弟子たちの中で、ペトロだけはほかの弟子たちと違いました。彼も婦人たちの話を聞いて、キリストの復活を信じたわけではないでしょう。彼もその話を「たわ言」のように思ったかもしれません。それでも彼は立ち上がり墓へ走ったのです。12節にこのようにあります。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」彼が疑いつつも立ち上がり墓へ走ったのは、彼がほかの弟子たちよりも信仰が強かったからではなく主イエスの祈りがあったからです。十字架の死の前日に、最後の晩餐の席で、主イエスは彼に「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(22章32節)と言われました。その主イエスの言葉を想い起こすことによって、ペトロは立ち上がって走り始めたのです。それでも彼は、復活して永遠の命を生きておられるキリストを捜したのではありません。墓は空だと聞いていたのに、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と御使いが告げたことを聞いていたのに、なおその空っぽの墓を目指して走っていくのです。キリストの復活を信じることができずに、見当違いのところに走っていったのです。

喜びの歌と共に迎える朝
 私たちは、金曜日にキリストの十字架の死を見つめ、土曜日を過ごし、イースターの日曜日を迎えました。しかしだからといって、それだけでキリストの復活を信じられるわけではありません。毎週の礼拝においてもキリストの十字架と復活による救いが告げられていますが、しかしなお私たちはキリストの復活を信じられず、疑い、「たわ言」のように思うことすらあり、主イエスを捜して見当違いのところに向かって走っていく者なのです。しかしそのような私たちに、礼拝において、復活して永遠の命を生きておられるキリストが出会ってくださいます。キリストの言葉によってこそ、私たちはキリストの復活を信じる者へと変えられていくのです。今、私たちは、そして世界は、「泣きながら夜を過ごすような」苦しみや悲しみを、日々味わっています。しかしその私たちと世界が味わっている苦しみ、悲しみ、絶望をすべて背負ってキリストは十字架で死んでくださり、そしてその死に勝利して復活してくださったのです。そのキリストの復活によって約束されている終りの日の復活と永遠の命の約束が、泣きながら夜を過ごしている私たちと世界に、喜びの歌と共に迎える朝を与えてくださるのです。

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