主日礼拝

聖霊のとりなし

「聖霊のとりなし」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第40編1-18節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
・ 讃美歌: 344、412、475

聖霊の働きによって
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスが十字架にかかって死なれ、三日目に復活し、40日後に天に昇られてから10日後、つまりイースターから50日目のこの日、共に集まり祈っていた弟子たちの群れに聖霊が降り、弟子たちは力を受けて、主イエスこそ救い主キリストであると人々に語り始めました。そのことを記念するのがこのペンテコステです。聖霊を受けた弟子たちによって力強い伝道が始められ、主イエスを信じる人々の群れである教会が生まれました。ですからペンテコステは教会の誕生日とも言われます。キリスト教会は、この聖霊のお働きによって生まれ、聖霊のお働きによって養われ、導かれて今日まで歩んで来たのです。私たちが信仰を与えられて洗礼を受け、キリストの体である教会に加えられるのも、聖霊のお働きによることです。本日この礼拝において一人の姉妹が洗礼を受けて群れに加えられますが、姉妹をここまで導いて下さったのは聖霊なる神であり、また洗礼において新しく生まれ変わらせ、キリストの体の生きた枝として下さるのも聖霊なる神のみ業なのです。既に洗礼を受け、キリスト教会の一員とされている者は誰でも皆、この聖霊の導きを受け、そのみ力の中に置かれています。洗礼式に立ち会うことによって、自分に与えられている聖霊のお働きを改めて思い、感謝を新たにしたいと思います。そしてその聖霊の働き、導きは、まだ洗礼を受けておられない方々、教会の信仰や聖書の教えを知りたいと思って礼拝に集っておられるいわゆる「求道中」の方々にも与えられています。そのような求道の、つまり信仰の道を求めようとする思いを私たちの内に起して下さるのは聖霊なのです。聖霊の導きが既にあるから、私たちは信仰を求めていくことができるのだし、その導きによって、洗礼を受けようという思いも与えられていくのです。皆さんの中には、いや自分は求道をしているつもりもない、ただちょっと教会という所をのぞいて見ようと思っているだけだ、どんなことをしているのか、どんなことが語られているのか興味や関心があって来ているだけだ、という方もおられるでしょう。あるいは、何も知らないけれど誘いを受けたので、今日初めて教会の礼拝というものに来てみた、という方もおられるかもしれません。しかしそういう方々もまた、聖霊の導きを受けておられると私たちは信じています。どんなきっかけによって来られたにせよ、このように教会において神様を共に礼拝することが出来ているのは、聖霊なる神様の恵みと導きによるのです。ペンテコステに弟子たちに降った聖霊は今私たちの内にも宿っていて下さり、私たちが意識する前から、既に働きかけ、導いて下さっているのです。

私たちの弱さ
 その聖霊が私たちの内で何をして下さっているのか、を語っているのが、新約聖書ローマの信徒への手紙の第8章です。この8章全体が聖霊のお働きについて語っているのですが、本日は26節以下を味わいたいと思います。その26節に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあります。この「霊」というのが聖霊のことです。これを私たち人間の霊魂とか魂という意味で読んでしまうと意味が通じません。聖霊が、弱い私たちを助けて下さる、と言われているのです。「弱いわたしたち」は直訳すれば「私たちの弱さ」です。そしてその「弱さ」という言葉は複数形になっています。ですから「様々な弱さ」です。私たちは、自分が弱い者であることを様々な事柄によって思い知らされていると言えるでしょう。病気や老いによって肉体的な弱さを思い知らされることがあります。また、何かをしようとする時に、自分の力不足、能力や知識の不足という弱さを覚えることがあります。またいろいろなつらいこと、苦しみや悲しみに直面する時に、それに耐えていけない自分の心の弱さを感じます。誘惑に陥ったり、人を憎んだり嫉妬したりしてしまう時にも、自分の心の弱さを覚えます。いつも、いろいろな仕方で自分の弱さを感じさせられている私たちですが、そういう私たちを聖霊が助けて下さるのです。それはどのようにしてでしょうか。例えば病気や老いの中で聖霊はどのように私たちを助けてくれるのでしょうか。聖霊が働くと奇跡的に病気が治ったり若返ったりするのでしょうか。力不足を嘆いている私たちが、聖霊の働きによって突然飛躍的に能力アップすることができるのでしょうか。悩みや苦しみの中にいる時に、聖霊が働くと突然何だかしらないけれど元気になれるのでしょうか。この手紙を書いたパウロが聖霊の助けということで見つめているのはそういうことではありません。彼が語っている聖霊による助けは、26節後半にある、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」ということなのです。つまりパウロは、私たちの様々な弱さの代表、中心として、「どう祈るべきかを知らない」ということを見つめているのです。どう祈ったらよいのか分からない、祈ることができない、それこそが、私たちの弱さの根本なのです。

祈れない私たち
 祈れないことこそが私たちの弱さの中心である、ということを私たちはどう受け止めるでしょうか。確かに、洗礼を受けて信仰者になっても、お祈りがなかなかできない、と感じることはよくあります。祈れないことが自分の信仰の弱さだ、という声はよく耳にするのです。けれども他方で私たちは、自分の弱さに直面し、自分の力でどうにもならないと感じる時にしばしば、神様に「何とかしてください」と祈るのではないでしょうか。「困った時の神頼み」という言葉があるように、人間困った時、つまり弱さを覚える時には、普段祈っていなくても神様に祈り、すがろうとすることがあるのです。そういう意味では、祈れないことが人間の弱さの中心だというのは当たらないのではないか、弱さを覚える時に人は祈るのではないだろうか、とも思います。けれどもパウロがここで言っている「祈り」は、何かを祈り求めるという「祈願」とは違います。「どう祈るべきかを知らない」というのは、どのように祈願したらよいか分からないということではありません。そこでの「祈り」とは、神様の前に立ち、神様を礼拝し、神様との対話、交わりに生きることです。ですからこの「祈り」は、「信仰」と言い換えてもよいものです。祈ることは信じることであり、信じることは祈ることなのです。そういう意味では、「困った時の神頼み」の祈りは、祈りとは言えないものです。いろいろなことを神様にお願いしてはいても、本当に神様の前に立って、神様との対話、交わりに生きてはいない、つまり信じていないのです。信じていないからその祈りは本当の祈りにはならないのです。私たちの祈りもそのようなものになってしまうことが多いのではないでしょうか。先週の特別伝道礼拝において、ルカによる福音書の18章にある「ファリサイ派の人と徴税人の祈り」という主イエスの語られたお話を読みました。そこでのファリサイ派の人の祈りは、外見上は、神様の前に立って感謝をしている立派な祈りのように見えるけれども、実は彼の心の目線は神様の方に全く向いておらず、自分と周囲の人々ばかりを見つめていました。そのような彼の祈りは祈りになっておらず、自分の心の中での独り言に過ぎなかったのです。一方徴税人は、遠く離れて立ち、目を天に上げようともせずに祈っていましたが、彼の心の目線はまっすぐに神様に向かっており、それゆえにそれは真実の祈りとなっていたのです。この話にも、「どう祈るべきかを知らない」私たちの姿が描き出されていると言えるでしょう。私たちが、お祈りは難しい、なかなか祈れないと思いますが、祈ることの本当の難しさは、言葉を整えることの難しさではなくて、本当に神様の前に立って神様を見つめつつ生きることの難しさなのです。そのことがなかなかできないことこそが、私たちの弱さの根本なのです。

目に見えないがゆえに
 神様の前に立って神様を見つめつつ生きることがなかなかできない私たちの弱さの原因は、一つには、神様が、また神様によって与えられている希望が、目に見えるものではないというところにあります。祈ることは、目に見えない神様を信じて、目に見えない約束に希望を置いて生きることによってこそできます。それがなかなか出来ないことが私たちの弱さです。目に見えない神様を信じることができなくなって、神様なんて本当にいるんだろうか、と思ってしまう。また、今はまだ目に見える仕方で実現してはいない神様の救いの約束の実現を、忍耐して待ち望むことができなくなって、神様の約束なんて役に立たない、もっと目に見える支えや助けが欲しいと思ってしまう。そのようにして私たちは信仰を失い、祈りを失い、礼拝を失っていくのです。苦しみや悲しみの中でそういうことが起こります。苦しい時の神頼みではなくて、苦しい時の神離れが起るのです。それは私たちが、目に見えるものだけが全てだと思ってしまうからです。この世の目に見える現実に押しつぶされ、あるいはその中に埋没してしまって、神様を見つめることができなくなり、神様による希望を待ち望むことが出来なくなるのです。そこにこそ、私たちの弱さの中心があるとパウロは言っているのです。

祈ることができれば
 そしてこの根本的な弱さの故に、私たちが体験する様々な具体的な弱さは出口のない苦しみをもたらすものとなるのです。病気や老いは、確かに私たちに自分の弱さを思い知らせるものです。しかしその弱さの中で、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活を見つめ、神様が死に打ち勝って主イエスを復活させて下さった、そのみ力で私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという約束を信じて祈ることができるならば、私たちは病や老いの弱さ、苦しみの中でも、出口のない絶望に陥ることはないのです。また、様々な点で自分の力不足を嘆かざるを得ない時にも、28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とある、この約束を信じている者は、祈りつつ、自分の歩みを神様に委ねていくことができるのです。そこには、自分の中からは決して生まれて来ない慰めと支えとが与えられていきます。このように、祈ることを知っている者は、様々な弱さや苦しみの中で、それを乗り越えていくことができるのです。逆に祈ることを失い、祈れなくなることによって、私たちは苦しみに負けてしまうのです。

聖霊の助け
 聖霊が私たちを助けて下さるのは、この私たちの弱さの中心においてです。どう祈るべきかを知らない、祈ることができない、その弱さを顧み、そこで助けて下さるのです。この「助ける」という言葉の原語は、三つの言葉が合成されて出来ています。「共に」と「代わって」と「取る」という三つの言葉です。聖霊は、祈ることのできない私たちと「共に」、その私たちに「代わって」、祈って下さる。私たちの祈りを「引き取って」、私たちと「共に」神様のみ前に立って下さり、祈れない私たちに「代わって」父なる神様に祈って下さるのです。それを一言で言っているのが「執り成し」という言葉です。「執り成し」とは、二人の人の間に立って仲を取り持つことです。そのことを、神様と私たちとの間で、聖霊がして下さるのです。私たちが目に見えない神様と関係、交わりを持つことができるのは祈りにおいてです。その祈りにおける交わりを神様との間にきちんと打ち立てることのできない弱い者である私たちと神様の間に立って、私たちと共に、私たちに代わって祈り、その交わりを成り立たせて下さる、聖霊はそのようにして私たちを助けて下さるのです。

聖霊の執り成し
 27節にはこのように語られています。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。これは、聖霊による執り成しということを、父なる神様の側から語っている文章です。「人の心を見抜く方」、それが父なる神様です。神様は私たちが心の奥底に隠している思いを全て見抜かれる方です。私たちは、自分の心の思いを、人に対しては隠しておくことができても、神様に対して隠しておくことはできません。私たちの心の中にある思いの全てを、あらゆる罪をも、あらゆる弱さをも、神様は全てお見通しなのです。神様のみ前で私たちは、信仰を装うことはできません。そこでは「どう祈るべきかを知らない」私たちの弱さが全て明らかになるのです。それは恐しいことです。しかしここでパウロは、「人の心を見抜く方は、・霊・の思いが何であるかを知っておられる」と言っています。「人の心を見抜く方は、人の思いが何であるかを知っておられる」ではないのです。つまりパウロがここで言おうとしているのは、神様は私たちの全てをお見通しだ、ということではなくて、全てお見通しであられる神様が、私たちを見つめる時に、神様が私たちの内に遣わし、宿らせて下さっている聖霊の思いを見つめて下さるのだ、ということなのです。言い換えれば、神様は私たちを、聖霊の思いを通して見つめて下さる、ということです。その聖霊の思いとは、私たちのために執り成しをして下さることです。しかもそこには「“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」とあります。聖霊が私たちのために執り成しをして下さるのは、神様の御心によってなのです。神様はご自分と私たち人間との関係が執り成されることを望んでおられるのです。その御心によって神様はその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、父なる神様と私たちの間の執り成しをして下さいました。その主イエスは復活して天に昇り、今や父なる神様の右の座に座っておられます。そこで主イエスは何をしておられるのか、そのことがこの後の34節にこのように語られています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。復活して天に昇られた主イエスは、そこで私たちのために父なる神様に執り成しをして下さっているのです。地上を歩まれた主イエスが十字架の死によって私たちのための執り成しをして下さったように、天に昇られた主イエスも、父なる神様の右の座において今私たちのために執り成しをして下さっているのです。この主イエスによる執り成しに私たちをあずからせて下さるのが聖霊です。神様はこの聖霊の思いを通して私たちを見つめていて下さるのです。それゆえに私たちはもはや「人の心を見抜く方」である神様を恐れる必要はありません。全てをお見通しである神様の私たちを見つめる目は、「お前はこんな罪も隠しているだろう、あんな弱さも隠しているだろう、人の目はごまかせても私の目はごまかせないぞ」という断罪する目ではなくて、弱い私たちを愛し、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さる、慈愛に満ちた目なのです。だから私たちはこの主イエスによる執り成しに信頼して、安心して神様のみ前に出ることができるのです。

言葉に表せないうめきをもって
 さて26節の後半に、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあることに注目したいと思います。聖霊が私たちのためにして下さる執り成しは、「言葉に表せないうめき」による執り成しです。聖霊が私たちと共に、私たちに代わって祈って下さる祈りは、理路整然とした、立て板に水を流すような祈りではありません。それはむしろ「うめき」における祈りです。つまり聖霊が私たちに代わって祈って下さるというのは、私たちにはとても出来ないようなよく整った力強い祈りを、聖霊が澱みなくスラスラと祈って下さり、私たちはそれをポカンと口を開けて聞いている、ということではないのです。聖霊は、弱い私たちと同じ場所に立ち、私たちの弱さを担って共に歩んで下さるのです。私たちの、どう祈るべきかを知らない弱さを担い、その中で執り成し祈って下さるその祈りは、うめきにしかならないのです。この「うめき」という言葉は、8章の23節に、「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあった、この「うめき」を受けています。「“霊”の初穂をいただいている」というのは、聖霊によって信仰を与えられているということです。信仰者となり、キリストによる救いにあずかった私たちも、心の中でうめいているのです。なぜうめいているのか、それは、「神の子とされること、つまり体の贖われることを待ち望んでいる」からです。これは一言で言えば、神様が約束して下さった救いの完成を待ち望んでいる、ということです。それが「うめき」になるのは、その救いは「約束された」ものであるけれども、まだ目に見える現実にはなっていないからです。目に見えない神様の、まだ実現していない救いの約束を信じて生きることには忍耐が必要であり、そこには苦しみが伴います。それゆえに、私たちは苦しみの中でうめきつつこの世を歩むのです。聖霊は、この私たちのうめきを共有して下さるのです。つまり聖霊のお働きは、私たちがこの世を苦しみうめきつつ生きるその歩みと無関係な所でなされているのではないのです。私たちが苦しみ、うめいている、そこに、聖霊が共にいて下さり、私たちの苦しみやうめきを引き取って、私たちの代わりに、私たち以上に深く、うめいて下さっているのです。この聖霊の執り成しによって、私たちと父なる神様との間が正しく整えられていくのです。15節には、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。私たちの内に宿っている聖霊が、私たちのためにうめきつつ執り成して下さることによって私たちは、主イエス・キリストと共に、神様に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈ることができるようになるのです。うめき苦しみの中で、神様に「父よ」と呼びかけ祈ることができるかどうかで、私たちの人生は大きく違ってきます。苦しみの中でも、「父よ」という一言を神様に向かって祈ることができるならば、そこには、神様の約束を忍耐して待ち望む歩みが与えられるのです。その時苦しみは、産みの苦しみ、希望のある苦しみとなるのです。その、うめき苦しみの中での「父よ」という一言の祈りを与えて下さるのが、聖霊のお働きです。聖霊が弱い私たちを助けて下さり、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるというのはこのことです。聖霊は、様々な弱さの中で嘆き悲しみ、うめいている私たちのそのうめきを、「アッバ、父よ」という祈りに変えて下さるのです。そのことによって、私たちの弱さは、出口のない絶望ではなくなるのです。

万事が益となるように
 私たちは様々な弱さをかかえて生きています。その弱さを嘆き、悲しみ、不安に思い、途方に暮れてしまうことがあります。その中で、神様を見つめることが出来なくなり、祈ることも出来なくなり、礼拝の恵みを見失ってしまうことがあります。しかしそのように弱く、罪深い者である私たちに、神様は、聖霊を遣わし、私たちの内に宿らせて下さっているのです。ペンテコステはそのことを覚え、確認する日です。私たちの内に既に宿って下さっている聖霊は、言葉に表せないうめきをもって、私たちのために執り成しをして下さっています。そして神様は私たちを、この聖霊の執り成しの中でこそ見つめて下さっているのです。聖霊の執り成しの中で祈ることによって私たちは、28節が語っているように、父なる神様が私たちを恵みの御計画に従って召して下さり、召された私たちには万事が、つまり良いことも悪いことも、喜びも悲しみも、益となるように共に働くようにして下さっていることを信じて生きることができるようになるのです。それが、聖霊のお働きによって洗礼を受け、信仰者となって生きる者に与えられている神様の恵みなのです。

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