主日礼拝

あなたがたは光の子です

「あなたがたは光の子です」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章5-6節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第5章1-11節
・ 讃美歌:300、509

主の再臨の前に死んだ人はどうなるのか
 テサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきました。本日からこの手紙の最後の章、第5章に入ります。本日の箇所では、前回お読みした4章13-18節に引き続き、終りの日にキリストが再び来られること、つまり「主の再臨」について語られています。とはいえ取り上げられているテーマには違いもあります。前回の4章13節以下では、主の再臨の前に死んだ人はどうなるのか、ということが語られていました。テサロニケ教会で終りの日を待たずして亡くなる人が出てきたために、その人たちは主の再臨によって実現する救いの完成に与ることができるのだろうか、という不安と動揺が教会の人たちの間で起こったのです。それに対してパウロは、キリストが再び来られるとき、洗礼を受けキリストに結ばれて死んだ人たちが復活させられ、そして終りの日まで生き残っている者がその人たちと一緒に引き上げられ、空中で再臨のキリストと出会うことを伝えました。そのようにして終りの日を待たずに死んだ人たちも、生き残った人たちもキリストの再臨による救いの完成に与り、「いつまでも主と共にいる」ようになると告げたのです。

いつ起こるか分からない主の再臨
 5章の冒頭でパウロは「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」と言っています。おそらくテサロニケ教会の人たちは主の再臨の前に死んだ人はどうなるのかだけでなく、その主の再臨がいつ起こるのかもパウロに尋ねたのでしょう。それに答えてパウロは、彼ら自身が、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、よく知っているから」、いつ主が再び来られるのか、いつ主の再臨が起こるのか伝える必要はないと言います。ここでパウロは、いつ主の日が来るのか、いつ終りの日が来るのかを彼らが知っているはずだ、と言っているのではありません。そうではなくいつ盗みに入るか予告なしに盗人が人目につかない夜にやって来るように、主の日も予告なしに突然やって来ることを彼らがよく知っているはずだ、と言っているのです。パウロはテサロニケ伝道において主の日がいつ来るか分からないことを伝えたに違いありません。しかし彼がテサロニケを去ってから、先ほどお話ししたように主の再臨を待たずに亡くなる人が出てくる中で、いつ主の再臨は起こるのかという不安が大きくなったのではないでしょうか。そのような不安を抱えているテサロニケ教会の人たちに向けて、パウロはかつて彼が伝えたことを示しつつ、いつ起こるか分からない主の再臨について改めて伝えようとしているのです。
 主イエスもまたいつ起こるか分からない主の再臨について語っています。たとえばマタイによる福音書24章42-44節ではこのように言われていました。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」泥棒が夜のいつごろやって来るか知らないように、主がいつ再び来るのか分からないことをわきまえて、そのときに備えるよう勧められているのです。

いつ来るか分からないけど必ず来る
 本日の箇所の3節では、「人々が、『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」と言われています。主イエスが再び来てくださるとき、生きている者とすでに死んだ者とが裁かれることを通して救いが完成します。キリストの再臨は終りの日の裁きのとき、いわゆる最後の審判のときでもあるのです。3節の後半で語られている妊婦の産みの苦しみは、終りの日がいつ来るのか分からないことのたとえとしてではなく、終りの日が必ず来ることのたとえとして語られています。身ごもると大体において10ヶ月ほどすれば赤ちゃんが生まれます。現代では技術の進歩によって出産の苦しみは少なからず軽減されているようですが、聖書の時代は大きいものでした。身ごもった女性にとって、その産みの苦しみは必ず来るものであり決して逃れられないものだったのです。同じように終りの日も必ず来るものであり、決して逃れることのできないものです。当初パウロとテサロニケの人たちは自分たちが生きている間にキリストが再び来てくださると信じていましたが、結局、彼らが生きている間にキリストの再臨は起こりませんでした。それどころか今に至るまで起こっていません。しかしこのことは、終りの日が来ないことを意味しているのでは決してありません。かつて預言者エレミヤは「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ書6:14)と預言しました。終りの日の裁きを真剣に受けとめず、そんな裁きはあるかないか分からないし、あったとしても今ではないから「大丈夫、大丈夫」と言っているそのとき、突然、キリストが来られ、最後の審判が行われるかもしれないのです。終りの日はいつ来るか分からないけれどしかし必ず来るのであり、そのときキリストが再び来てくださり、裁きを通して救いを完成してくださるのです。

いつ来るのか怯えなくて良い
 そうであるならば私たちは、主の日がいつ来るのだろうかとビクビクしながら生きていかなくてはならないのでしょうか。必ず来るけれどいつ来るか分からない。それだけ聞くと私たちは恐れと不安を覚えずにはいられません。20年以上前ですが「きっと来るきっとくる」という主題歌のホラー映画がありました。恐ろしいなにかがいつ来るか分からないけれど必ず来る、きっと来るということが見る人の恐怖を掻き立てたのだと思います。けれども私たちは主の日をそのように恐れる必要はありません。パウロは4節でこのように言っています。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」冒頭の「しかし」がとても大切です。必ず来るけれどいつ来るか分からない主の再臨と終りの日の裁きは、多くの人にとって恐れを抱かずにはいられないものです。しかし、テサロニケの人たちにとっては、そして私たちにとってはそうではないのです。このことが4節の「主の日」という言葉に注目することによってより明らかになります。「主の日」と訳されていますが、原文には「主の」という言葉はありません。ただ「その日」とあるだけです。そして「(その)日」という言葉には「昼」あるいは「昼の光」という意味があります。ですから4節は「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、昼の光が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」とも訳せるのです。暗闇の中にいる人は昼の光を恐れます。昼の光によって暗闇で隠されていたものがなにもかも照らし出されるからです。しかし、暗闇の中にいるのではなく昼の光の中にいるならば、すでになにもかもが照らし出されているならば、昼の光を恐れる必要はまったくありません。暗闇ではなく光の中にいるならば、夜ではなく昼に属しているならば、私たちは必ず来るけれどいつ来るか分からない主の日に怯える必要はないのです。

光の子と言われても
 私たちが夜ではなく昼に属し、暗闇ではなく光の中にいることを、パウロは5節でこのように言っています。「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」「あなたがたはすべて」とは、テサロニケ教会に属するすべての人たちのことであり、すべてのキリスト者のことであり、つまり私たち皆のことです。私たちは皆、夜にも暗闇にも属さない光の子、昼の子なのです。しかしそのように言われても、私たちは自分が光の子、昼の子であるとはとても思えません。むしろ夜に属する者、暗闇の中にいる者だと感じます。もちろんそれは夜型の生活をしているとか、明るいところより暗いところのほうが好きだということではありません。私たちは誰もが光に照らし出されたくない暗闇を、醜い部分を抱えているということです。自分自身と隣人を愛することができず、大切にすることができず、裁いて傷つけてしまいます。自分と隣人を比べて優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりします。怒りや憎しみや妬みで自分の心が支配されることもあります。私たちの罪がそのような暗闇を生み出すのです。そのような自分の暗闇を見つめるとき、私たちは自分が光の子、昼の子などではなく、神の御前に進み出ることができない暗闇の中にいる罪人であることを突きつけられるのです。

あなたがたは光の子です
 そうであるならば、どうしたら私たちは光の子になれるのでしょうか。なにか条件をクリアしたら光の子として認められるのでしょうか。その条件をクリアするために頑張って努力するよう、パウロは命じているのでしょうか。そうではありません。なぜならパウロは、「あなたがたは光の子になれます」と言っているのではないからです。今は難しいけれど、もう少し信仰生活を積み重ねていけばいずれ光の子になれるし、そうすれば主の日が来ることを恐れることもなくなる、と言っているのではないのです。そうではなくパウロは、「あなたがたは光の子です」、と言っています。いつか条件をクリアしたら光の子になれるのではなく、今、すでに「あなたがたは光の子である」とテサロニケ教会の人たちに、そして私たちに宣言しているのです。
 そのようにパウロが宣言できるのはなぜでしょうか。彼は9節でこのように言っています。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」私たちは本来、自分のことばかりに心を奪われ、神さまと良い関係を築くことも隣人と良い関係を築くこともできない暗闇の中にいる罪人であり、神の怒りによって滅ぼされるしかない者です。しかし神はそのような私たちを怒りに定めるのではなく、主イエス・キリストによる救いに与らせるよう定めてくださいました。私たちが神の怒りをわずかばかりでも宥めることができたからではありません。神が私たちを恵みによって選んでくださり、キリストの十字架と復活による救いに与らせてくださり、暗闇から救い出し光の中へと入れてくださったからです。だからパウロは、いえパウロを通して神は、私たちに「あなたがたは光の子です」と宣言してくださっているのです。

目を覚ましている
 テサロニケ教会の人たちに「あなたがたは光の子、昼の子です」と宣言したパウロは、6節で彼らにこのように言います。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」もちろんここでパウロは眠らないで徹夜をしなさいとか、睡眠時間を削って起きていなさいと言っているのではありません。私たちは主の日がいつ来るのかは分からなくても、必ず来ることを知らされています。そして主の日にキリストは、私たちを滅ぼすためではなく、私たちが救いの完成に与りいつまでも主と共に生きるようになるために来てくださるのです。そのことをしっかり見据えて生きることが、神を知らないほかの人々のように眠っていないことであり、目を覚ましていることにほかなりません。主イエスもまたこのことについて、マタイによる福音書25章1節以下の「十人のおとめ」のたとえにおいて語られています。賢い五人のおとめは、ともし火だけでなく油も壺に入れて花婿を待っていましたが、愚かな五人は、ともし火だけしか持っていませんでした。花婿の到着が遅れたので十人のおとめは眠り込みましたが、いざ真夜中に花婿がやって来ると、あらかじめ油を用意していた賢いおとめだけが、ともし火を灯して花婿を迎えることができたのです。このたとえの最後では、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われています。信仰において「目を覚ましている」とは、この賢い五人のおとめのように、いつ来るか分からないけれど必ず来る主の日に備えて生きることなのです。

信仰において「しらふでいる」
 「身を慎んでいましょう」とも言われています。この言葉はもともと「しらふでいる」や「酔わずにいる」ことを意味します。私たちは信仰において「しらふでいる」こと、「酔わずにいる」ことが大切なのです。それはお酒を飲まなければ良い、ということではありません。この世には、私たちを酔わせて神から遠ざけようとするものがたくさんあります。地位や名誉や財産が私たちを酔わせることがあり、ほかの人と競い合うことや自分の正しさを主張すること、また世の中の流行や価値観が、あるいは日々の忙しさが私たちを酔わせることがあるのです。そのとき私たちは信仰において「しらふでいる」ことができなくなるのではないでしょうか。信仰の歩みがおぼつかないものとなり、信仰の目が曇らされてキリストの十字架と復活による救いを見失い、その救いの恵みによって生かされていることが分からなくなるのです。

信仰、愛、希望
 パウロは7節で「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います」と言います。要するに、夜に属している者は、信仰において眠ってしまっているのであり、酔ってしまっているのだ、ということです。しかしそのように語ったすぐ後でパウロは、「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と言うのです。ここでも冒頭の「しかし」がとても大切です。私たちを酔わせて神から引き離そうとする様々な力が、私たちを眠らせて夜の暗闇に引き戻そうとする様々な力が溢れている世にあっても、しかし、私たちは昼に属しているのだから、そのような力に立ち向かい抵抗することができる、とパウロは言っています。そのために、私たちは「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」、つまり信仰において「しらふでいる」のです。「胸当て」も「兜」も、「誰か」や「何か」を攻撃するためのものではなく、「誰か」や「何か」の攻撃から自分を守るためのものです。信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶることによって、私たちを酔わせて神から引き離そうとする様々な力から守られるのです。パウロはこの手紙の1章3節でテサロニケ教会の人たちが「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」と語っていました。このような歩みこそ、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶって戦うことではないでしょうか。間違ってはならないのは、自分の信仰と自分の愛を胸当てとして着けているのでも、自分の力によって獲得した救いの希望を兜としてかぶっているのでもない、ということです。そのような「胸当て」と「兜」では、私たちは神から引き離す力から自分を守ることなどできるはずがありません。神こそが私たちに「信仰」を与えてくださり、独り子をお与えになったほどに「愛」を注いでくださり、キリストの十字架と復活による「救い」によって終りの日の復活と永遠の命の「希望」を与えてくださったのです。なお暗闇の力に押し潰されそうな世にあって、神が信仰と愛を胸当てとして私たちに着けてくださり、救いの希望の兜を私たちにかぶせてくださっています。だから私たちは、テサロニケ教会の人たちと同じように、世にあって「信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐して」歩んでいくのです。

救いの光を灯す者として
 「胸当て」と「兜」が自分の身を守るものであったとしても、光の子としての私たちの歩みはただ守られているだけではありません。本日共に読まれました旧約聖書イザヤ書49章6節の終りにこのようにありました。「わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」私たちが光の子として歩むことによって、つまり私たちが「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」、信仰において目を覚まして歩むことによって、私たちはこの世の光として、キリストの救いをこの世の地の果てまで、もたらす者として歩みます。この世の暗闇から守られているだけでなく、この世の暗闇にキリストの救いの光を灯す者として、私たちはそれぞれに世に遣わされていくのです。自分はまだ条件をクリアしていないから光の子ではありませんとは言えません。まだ世に遣わすのは待ってくださいとも言えません。神は私たちに「あなたがたは光の子です」と宣言されているからです。私たち一人ひとりは本当に小さな光を灯すことしかできないに違いありません。そうであったとしてもキリストの救いによって光の子とされた者として、一人でも多くの方が光の子とされるために、キリストの救いを証しし、救いの光を運んでいきたいのです。

互いに励まし合い、互いを造り上げつつ歩む
 10節では、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と言われています。主イエス・キリストが私たちのために十字架で苦しみを受け死んでくださったのは、私たちを滅びから救うためであり、終りの日を待たずに眠りについた者も、その日まで生き残る者も主と共に生きるようになるためです。だから私たちは、いつ主の日が来るのだろうかと怯え、また終りの日の裁きを恐れて歩むのではなく、いつまでも主と共に生きることができる救いの完成に希望をおいて歩むことができます。その歩みは独りぼっちの孤独な歩みではなく、教会に連なる者たちが、つまり光の子とされた者たちが共に励まし合い、慰め合う歩みです。だからパウロは11節で、「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」と言うのです。「お互いの向上に心がけなさい」は、「互いを造り上げるようにしなさい」(聖書協会共同訳)とも訳せます。私たちはキリストの再臨による救いの完成に希望を置いて、互いに励まし合い、慰め合いながら、互いを造り上げていくのです。
 「あなたがたは光の子です」と神は私たちに宣言されています。まもなく始まる新しい年度も、なお暗闇の力に押し潰されそうな世にあって、私たちは信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、光の子として救いの光を世に灯しつつ歩んでいきます。互いに励まし合い慰め合い、互いを造り上げつつ、私たちは光の子として歩んでいくのです。

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