主日礼拝

パウロの誇り

「パウロの誇り」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章13-15節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第15章14-21節
・ 讃美歌:1、135、416、78

私は誇りを持っている
 礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めてきて、いよいよその締めくくりの部分に入っています。15章14-21節について説教するのは本日が二回目ですが、本日の説教題を「パウロの誇り」としました。この題は、17節の「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」から取りました。ここは原文に即して直訳すると「私は誇りを持っている、キリスト・イエスにあって、神のために」となります。この手紙を書いたパウロは、「私は誇りを持っている」と言っているのです。この「パウロの誇り」について、この箇所からみ言葉に聞きたいのです。

誇りをもって生きることは必要
 「誇り」というのは人間の感情、心の動きの一つですが、これはなかなかやっかいな、また複雑なものです。一つ言えることは、誇りなしに人間は人間として生きることができない、ということです。「誇りをもって生きなさい」とよく言われます。誇りを失ったら、人間は動物以下になってしまうのです。人間が人間らしく生きるためには誇りが必要です。人間としての誇りのゆえに、人は時としてすばらしいことをします。いわゆるボランティア精神というのはその代表でしょう。自分の利益のためではなく、ただ困っている他の人のために、一銭の得にもならないのに、いやむしろ自腹を切ってでも自発的に奉仕をしようとする、そういうことが、地震などの自然災害が起ると多く見られます。このような思いは、人間としての誇りを持って生きていることの現れだと言うことができるでしょう。そういう誇りを人々が失い、みんなが自分のことだけしか考えないようになってしまったら、倫理的道徳的退廃が起り、社会は殺伐としたものになります。今の世の中、そういうことが進んできているようにも感じられますが、そのような中で、見返りを求めずに自発的に人助けをしようとする動きもけっこう見られて、そういうことを見聞きする時に、人間もまだ捨てたものではない、人間としての誇りはまだ廃れていない、と感じるのです。

誇りはやっかいなもの
 このように誇りは人間が人間らしく生きていくために必要なものであり、失ってはならないものです。しかしこの誇りは同時に大変やっかいなものでもあります。誇りを英語で言うと「プライド」ですが、それは日本語にもなっています。人間としてのプライドを持って生きる、それが先程の、人間としての誇りを持って生きることです。しかし、「あの人はプライドが高い」という言い方はあまり良い意味ではありません。「プライドが高い人」には「付き合いづらい人」というニュアンスがあります。プライドが高い人は、自分のプライドが少しでも傷つけられると怒り出すので、周りの者はいつも気をつけていなければならない、だから付き合いづらいのです。プライド、即ち誇りは、自分が持っている分には、自分を高めようとするモチベーションとして働きますが、しかし私たちはそのプライド、誇りを、他の人との関係の中で確かめようとすることが多いわけで、そうなるとそれは人に対する自己主張とも結びつきます。お互いの誇りと誇り、プライドとプライドがぶつかり合う、ということが起るのです。だから良い関係を保つためには、お互いのプライドを尊重し合わなければなりません。相手のプライドを傷つけてしまったり、自分のプライドを傷つけられてしまうと、関係は壊れてしまいます。誇り、プライドがあるがゆえに、人間どうしの関係がうまくいかなくなることも多々あるのです。
 このように私たちは、誇り、プライドなしには人間らしく生きることができませんが、その誇り、プライドほどやっかいなものはないことも事実です。プライドを傷つけられるほどつらいことはありません。人のプライドを踏みにじることは、その人を殺すのと同じです。だから私たちは自分のプライドを守ることに必死になります。「プライドの高い人」というのは、自分のプライドを必死に守っている人だとも言えるでしょう。その人のプライドに触れるようなことを言ってしまうとすぐ怒るのは、その人が自分のプライド、誇りを確かなものとして持っていないからです。本当に確固とした誇り、プライドを持って生きているなら、それがいくらか傷つけられたところで気にしないでいられるはずです。そういう確かさが自分の中にないから、あやふやな自分のプライドを守るために逆に相手を攻撃するのです。だからプライドの高い人というのは、本当は弱い人だと言えます。弱いからこそ強がって、ことさらに威張ったり、すぐ怒ったりするわけです。プライドというのはそのように大変複雑でやっかいなものです。
 このことは、国や民族の歩みにも当てはめることができます。国は、国民が自分の国に誇り、プライドを持っていることによってこそまとまることができます。それがいわゆる愛国心です。日本国民が日本という国に誇りを持ち、国を愛することは、社会の秩序を保つためにも、また他の国々との間に信頼関係を築くためにも必要なことでしょう。しかしその誇り、愛国心はしばしば間違った仕方で強調されています。日本国民が本当の意味で自分の国に誇りを持ち、愛国心を持つことができるようになるのは、国全体として、過去において犯した過ち、特に朝鮮半島や中国、東南アジアの人々を苦しめた事実をしっかりと見つめ、真摯に反省し、謝罪することによってこそであるはずです。ところがそのようなことを「自虐史観」と呼び、日本国民としての誇りを失わせることだという主張があります。このところ、愛国心教育が強調される中でそういう主張が強まっています。しかしそれは、国民としての誇りが、自分たちの犯した過ちに目を塞ぎ、それを反省して歴史の教訓に学ぶことを妨げる働きをしてしまうことであって、それは間違った誇り、プライドであると言わなければならないでしょう。個人においても国においても、誇り、プライドは、ともすれば自分の欠けや罪に目を塞ぎ、自己満足を得ようとする自己主張にも繋がるのです。

パウロの誇り
 誇りというものがこのように、私たちにとってどうしても必要であると同時に大変やっかいな、罪とも結びつくものであることを見つめつつ、パウロがここで語っている誇りに目を向けていきたいと思います。最初に申しましたようにパウロはここで「私は誇りを持っている」とはっきり語っています。この17節を以前の口語訳聖書はこのように訳していました。「だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである」。「誇りうるのである」という訳にはある思いが感じられます。原文は最初に申しましたように「私は誇りを持っている」、つまり「私は誇っている」です。それを「誇りうる」としたのは、「誇ろうと思えば誇ることができるが、しかしあえて誇ろうとは思わない」という意味をここに読み込もうとしているからでしょう。つまり口語訳の訳者は、「誇る」ことには問題があると考えて、原文の意味を薄めて訳したのです。しかしパウロは、「私は誇りを持っている」とはっきり語っています。そういうことはあまり大きな声では言えないが、などとは思っていないのです。私たちはこのパウロの誇りをどのように受け止めたらよいのでしょうか。なぜパウロはこのようにはっきりと「私は誇りを持っている」と語ることができたのでしょうか。

キリストにあって誇る
 パウロは、先程紹介した17節の直訳に即して言えば「キリスト・イエスにあって、神のために」誇りを持っています。「キリスト・イエスにあって」はもっと素直に訳せば「キリスト・イエスの中で」です。パウロはキリスト・イエスの中で誇っているのです。その意味が18節から19節前半にかけてのところに語られています。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」。つまりパウロはキリストが自分を通して働いて下さったことを誇っているのです。キリストは彼を通してどのように働いて下さったのでしょうか。彼はどのようなことのために用いられたのでしょうか。それは「異邦人を神に従わせるため」でした。パウロは、ユダヤ人でない異邦人にキリストの福音を宣べ伝える者として立てられ、用いられているのです。16節にもそのことが語られていて、そこではパウロの働きは「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるため」であると言われています。異邦人は聖なる者つまり神の民ではない、汚れた者であって救いにあずかることはできない、というのが、当時のユダヤ人たちの一般的な思いでした。その異邦人が、神に従う者となり、聖なるものとなって神に喜ばれる供え物となる、つまり彼らも神の民に加えられ、神による救いにあずかる、そういう救いのみ業のためにパウロは用いられたのです。パウロがキリスト・イエスにあって誇っているのはこのことです。キリスト・イエスがわたしを通して異邦人の救いのみ業を行って下さった、そのことを自分は誇るのであって、それ以外のことはあえて何も言わないと言っているのです。

キリストのみ業を誇る
 つまりパウロが誇っているのは自分の働きではありません。主イエス・キリストが自分を通して行って下さったキリストのみ業を誇っているのです。そのみ業のために自分が用いられたことを喜び、感謝しているのです。19節の後半から20節にかけてのところには、パウロのこれまでの伝道者としての働きが語られていますが、彼はそれを自分の業績として誇っているのではありません。彼が語っているのは、自分を用いて下さったキリストのみ業の足跡です。19節には「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」とあります。「エルサレムから」とありますが、パウロ自身はエルサレムで伝道をしたわけではありません。エルサレムから始まったのはパウロの働きではなくて、主イエス・キリストご自身の救いのみ業です。そのキリストの救いのみ業の中で彼は用いられ、各地を伝道して回ったのです。「イリリコン州まで」とあるのは、パウロがこれまでの伝道旅行において行った一番遠くの地のことです。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の中に「パウロの宣教旅行2、3」があるので見ていただければ、点線で描かれている第三回伝道旅行の道すじの左上の隅のあたりがイリリコン州です。彼はそこまで足を伸ばしてキリストの福音を宣べ伝えてきたのですが、しかしそれは彼自身の計画や力によることではありません。パウロの伝道旅行は聖霊なる神の導きによってこそなされたのであって、彼は聖霊によって何度も計画を変更され、当初行こうとしていたのとは違う道へと導かれたのです。イリリコン州まで福音を宣べ伝えたことも、主イエス・キリストご自身が彼を通して、聖霊によって行って下さったみ業です。だから彼はここで、自分の業績を誇っているのではなくて、キリストご自身が救いのみ業の前進のために自分を用いて下さったことを感謝しつつ振り返っているのです。パウロの誇りは、主イエス・キリストにおいて、そのみ業の中で神が自分を用いて下さったことへの感謝を根拠としているのです。

古い誇りと新しい誇り
 パウロの誇りはこのように感謝に基づいたものです。誇りが人に対する自己主張となり、人を傷つけ、人間関係を破壊していくものとなることから解放されるための鍵はそこにこそあります。自分の力や業績を誇ろうとするところでは私たちはどうしても、人と自分とを見比べようとします。自分の力や業績の評価は、他の人の力や業績と比べることによってはっきりするからです。そこで、人よりも自分の方が優れている、より大きな業績をあげていると思えればまさに自分の誇り、プライドを満足させられるし、逆に人の方が自分より優れていると思うと、誇り、プライドを傷つけられたと感じてしまうのです。だから自分の業績を誇ろうとすることは、人よりも優れた者になろうと努力することと結びつきます。主イエスと出会う前のパウロはまさにそのように生きていました。彼はユダヤ教ファリサイ派の若きエリートでした。ファリサイ派は、神の律法を厳格に守ることによって一般の人々とは違う生き方をしていました。そのことによって、自分たちは神の民ユダヤ人の中核を担う者だと思い、誇り高く生きていたのです。その誇りは、律法をきちんと守らない人や守れない人を批判し、そもそも律法を与えられていない異邦人を軽蔑することと結びついていました。まさに人との比較において自分の誇りを確かめていたのです。そういう誇りに生きていたパウロにとって、新たに起って来たキリスト教会は我慢がならない存在でした。彼らは、律法を守って正しく生きることによって神に義と認められて救われることを否定して、十字架に着けられて死んだイエスをキリスト、つまり救い主と信じることによって、罪人が罪あるままで赦されて救われると教えている。それは熱心に律法を守ることによってパウロたちが得ている誇りを打ち砕く教えです。つまりパウロはキリスト教会の教えによってプライドを傷つけられたのです。そのために彼は、このけしからん教えを撲滅するために、教会を激しく迫害し、キリスト信者たちを捕らえて獄に投じていたのです。そのパウロがある日、復活して生きておられる主イエス・キリストと出会い、人生の大転換を与えられて、イエスこそキリストであると信じる者となり、キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝える伝道者になりました。この大転換によって、彼の誇りも決定的に変えられ、新しくなったのです。律法を守ることによって得る自分の正しさ、つまり自分の業績を誇り、そのプライドを傷つける者を激しく攻撃するという生き方を生んでいた古い誇りは捨て去られて、主イエス・キリストの十字架の死によって、罪ある人間が赦されて救われる、その救いの恵みへの感謝を土台とする新しい誇りに生きる者となったのです。この新しい誇りは、人との比較によって得られるものではありません。人に対する優越感も、その裏返しである劣等感、ひがみも、この新しい誇りとは無縁です。新しい誇りは、自分の優越感が全て否定され、罪人であり、何の価値もとりえもない自分が、その自分のために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストによって赦され、救われた、その恵みを感謝して受け、その神の恵みこそが自分の人生を支えている土台であると信じるところに与えられます。だからそれは「喜び」を土台とすると誇りでもあります。感謝と喜びに基づくこの誇りは、人との関係を破壊してしまうものではなく、神の救いを共に喜び合うことによって人と人とが結び合わされ、共に生きることを可能にする誇りです。神の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪人である自分が赦され、新しく生かされていることを感謝し、自分自身には何の正しさも立派さもない者が、ただキリストの恵みによって神の恵みのみ業のために用いられることを喜ぶ、その感謝と喜びによる誇りであり、自分の業績ではなく神の救いの恵みをこそ誇る誇りなのです。

異邦人伝道の体験の中で
 主イエス・キリストがパウロを、異邦人にキリストの福音を宣べ伝える者としてお立てになったのは、この古い誇りと新しい誇りの違いを明確に示すためだったと言ってもよいでしょう。以前のパウロは、自分が神の民ユダヤ人であることを誇り、その中でもファリサイ派であることを誇って生きていました。その古い誇りにおいては、異邦人は救いに値しない、軽蔑の対象でしかありませんでした。その異邦人にキリストによる救いを宣べ伝え、彼らがキリストによる罪の赦しにあずかって神の民に加えられていくための働きをパウロは与えられたのです。それはパウロにとって非常に厳しい体験だったでしょう。しかしこの体験を通して彼は、自分が元々抱いていた古い誇りを徹底的に打ち砕かれていったのです。自分の力によって獲得した正しさを救いの根拠として誇ることはできないのであって、主イエス・キリストによって与えられた神による罪の赦しの恵みこそが全ての人々に救いをもたらすのだということを、パウロ自身も、異邦人伝道の体験を通して学ばせられてきたのです。パウロはこの新しいまことの誇りとその喜びを、まだそれを知らない人々と共有し、共にその喜びにあずかるために、福音を宣べ伝えているのです。

驚くべき福音によって
 21節には、旧約聖書イザヤ書52章の終りのところからの引用がなされています。パウロはこのイザヤ書の言葉を、まだキリストの福音を告げられていない人々がそれを知って救いにあずかるようになる、そのために自分は用いられている、という意味で引用しています。しかしこの箇所は、元のイザヤ書においては、52章13節から53章に至る「主の僕の歌」と呼ばれる箇所の一部です。ここに描かれている主の僕は、特に53章において、自らは罪がないのに、人々の罪や苦しみや病を背負って苦しみを受け、殺されるのです。人々は彼を見捨て、嘲り、軽蔑し、あれは神の怒りによって滅ぼされたのだと思っていたが、実はそのような人々の罪を彼が全て背負い、命を投げ出して償いをし、執り成しをしたのです。それはまさに主イエス・キリストの十字架のお姿です。主イエスの十字架において何が起るのかが、このイザヤ書において預言されていたのです。ここに引用されている52章15節は、そういう内容を持った「主の僕の歌」の中で、主の僕のこの姿は、これまで誰も考えたことがなかった、そんなことを語ったものは一人もいなかった、それほど驚くべきことなのだ、ということを語っています。パウロが今宣べ伝えているイエス・キリストの福音も、それと同じように驚くべきことなのです。神の独り子が人となってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、神の独り子の死によって私たちは罪を赦され、神のものとされ、救いにあずかっている、それは驚くべき福音です。この驚くべき福音こそが、パウロがそれにしがみついていた旧い誇り、自分の業績を誇ろうとするプライドを打ち砕いて、主イエスによる救いへの感謝と喜びに基づく誇りに生きる者へと彼を新しくしたのです。私たちも、生まれつき古い誇り、プライドにしがみついている者ですが、主イエス・キリストによる驚くべき救いの出来事を示されることによって、古い自分を打ち砕かれて新しく生かされるのです。
 これから私たちは、この主イエスによる驚くべき救いの知らせを体をもって味わうための聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、神の独り子が自分のために十字架にかかって死んで下さったという、人間にはとうてい考えつくことのできない、誰も語ることのできなかった神の救いの恵みを味わい、体験していくのです。聖餐にあずかりつつ生きることによって私たちも、自分の正しさや業績を誇る古い誇りから解放されて、主イエス・キリストによる救いの恵みをこそ誇って、感謝と喜びに生きる者となることができるのです。

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