主日礼拝

陰府にくだり

「陰府にくだり」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第49編1-21節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第3章18-22節
・ 讃美歌:229、449

陰府にくだり
 先週の礼拝においては、主イエスが墓に葬られたことを語っている聖書の箇所からみ言葉に聞きました。十字架につけられて死んだ主イエスは、墓に葬られたのです。しかしそれは主イエスのご生涯の「終わり」ではありませんでした。死んで葬られてから三日目の日曜日の朝、主イエスは復活なさり、その墓は空になったのです。主イエスが「葬られた」ことは、この復活の出来事、つまり主イエスの墓が空になったことと共に見つめることによってこそ、その意味が見えてくる、ということを先週お話ししました。葬られたことと、三日目の復活とは、分かち難く結びついているのです。しかし私たちが毎週の礼拝において告白している「使徒信条」には、「葬られ」と「三日目に死人のうちよりよみがえり」の間にもう一つのことが語られています。「陰府にくだり」です。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」、そこまでが主イエスのいわゆる受難を語っているのです。本日はこの「陰府にくだり」について、聖書が語っていることを聞きたいと思います。

陰府は死者の世界か?
 陰府とは死んだ人が行く所のことであり、人は死ぬと陰府にくだる、というのは人間の素朴な感覚だと言えます。聖書にもそういうことが語られています。旧約聖書、創世記第37章35節に、愛する息子ヨセフが野獣に食い殺されてしまったと思った父ヤコブが嘆き悲しんで、「わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」と言ったとあります。死んだ息子のいる陰府に自分も下っていく、陰府はそのように、死んだ人がいる所と考えられているわけです。しかし聖書は基本的に、生きている者たちの住むこの世とは別に、死んだ人たちの住む陰府の世界というものがある、とは語っていません。陰府という言葉はしばしば出て来ますが、それは一つの世界を言い表す言葉としてではなくて、死あるいは墓の言い替えとして語られているのです。
 先ほどは詩編の49編が朗読されました。先週の説教でもこの詩の一部を紹介しました。この詩は、人間は誰も死を免れることはできないことを語っており、その悲しみ、苦しみ、絶望を、「葬られる」ことにおいて具体的な現実として正面から語っています。この詩の15節にこう語られています。「陰府に置かれた羊の群れ/死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き/誇り高かったその姿を陰府がむしばむ」。これも、死を免れない人間の現実を語っているのですが、この15節に二度、「陰府」という言葉が出て来ます。前半には、死んで陰府にくだるとは、死という羊飼いに飼われる羊となることだ、と語られています。「陰府」はここでも、ある世界と言うよりも「死の支配」という意味なのです。そして後半には、墓に葬られることが見つめられています。「朝になれば正しい人がその上を踏んで行き」というのは、葬られた墓の上を人々が踏んで行くということであり、「誇り高かったその姿を陰府がむしばむ」というのは、墓の中で朽ちていくことです。つまり後半では「陰府」は「墓」の言い換えです。このように詩編49編において「陰府」とは、死者の住む世界のことではなくて、死の支配下に置かれ、墓に葬られて朽ちていくことを意味しているのです。
 また詩編16編の10節には「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とあります。この箇所は主イエスの復活の予告として新約聖書にも引用されていますが、ここでも陰府は、別の世界のことではなくて、死の支配ないし墓穴の中での滅びを意味しています。このように聖書において陰府という言葉は、「死後の世界」と言うよりも、死の支配とそれによる滅びを意味しているのです。

死は苦しみ、悲しみ、絶望
 つまり聖書は、死んだら死者たちのいる別の世界に行く、とは語っていません。死の力、言い換えれば滅びの力の支配下に置かれる、それが聖書における死の理解です。ですから聖書の信仰においては、死後の世界での幸福を祈る、つまりいわゆる「冥福を祈る」ということはしません。死は、私たちが祈ることによって「幸福な憩い」になるようなものではありません。死とは、神の恵みを失い、滅びの力に支配されてしまうことなのです。つまり死は最も深い苦しみ、悲しみ、絶望なのだ、ということを聖書は見つめているのです。そのことを最もはっきりと語っているのが、詩編第88編です。その4?8節にこう語られています。「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ/汚れた者と見なされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。あなたの憤りがわたしを押さえつけ/あなたの起こす波がわたしを苦しめます」。さらに11?13節にはこうあります。「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり/死霊が起き上がってあなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が告げ知らされたりするでしょうか」。この88編に語られているのは、死において人間は神の御手から切り離され、地の底の穴つまり墓穴の中で、暗闇に閉ざされ、神の慈しみや恵みを告げ知らされることのない滅びに支配されるのだ、ということです。死は「安らかに憩う」ことではなくて、人間の苦しみ、悲しみ、絶望の極まりであることが見つめられており、その苦しみ、悲しみ、絶望を「陰府」という言葉が代表して表しているのです。つまり「陰府」は、私たちが味わう最も深い苦しみ、悲しみ、絶望を意味しているのであって、死者の住む世界のことを言っているのではないのです。

主イエスは陰府にくだった
 その陰府に、主イエス・キリストがくだった、と使徒信条は語っています。主イエスは、十字架につけられ、死んで葬られたことにおいて、陰府に、人間が味わう最も深い苦しみ悲しみ絶望の中に、身を置かれたのです。それは神の驚くべき恵みのみ業です。私たちが生きている間にも、死においても味わう、最も深い苦しみ、悲しみ、絶望を、神の独り子でありまことの神である主イエス・キリストが、ご自分の身に引き受け、その中に身を置いて下さったのです。
 私たちは、この世を生きる中で、様々な苦しみ、悲しみを味わいます。その原因はいろいろです。自分自身がその原因を作ってしまって、その結果として苦しむこともあります。あるいは、自分のせいではない、外からふりかかって来る災いによって苦しむこともあります。突然の事故とか災害とか、今の「コロナ禍」はまさにそういう苦しみです。それらの苦しみによって私たちは絶望してしまいます。自分自身に原因がある苦しみの中で、悔やんでも悔やんでも悔やみきれない深い嘆きを覚え、もうだめだ、と希望を失ってしまいます。自分のせいではない、外からふりかかって来た苦しみなら絶望しないですむかというと、そんなことはありません。なぜこんな苦しみが突然ふりかかって来たのか、自分が何をしたと言うのか、という怒りとも嘆きともつかない、やり場のない思いはまことに深いものであり、苦しみの理由が分からないことが私たちを絶望させるのです。だから、理由や原因がはっきりしていても、それが分からなくても、いずれにせよ私たちは苦しみ、悲しみ、希望を見失い、絶望に陥るのです。しかしその時そこに、苦しみを受け、死んで葬られ、陰府にくだって、人間の受ける最も深い苦しみ、悲しみ、絶望の中に身を置いて下さった主イエス・キリストがおられるのです。私たちの苦しみ、悲しみ、絶望を、主イエスが共に担い、共に苦しんで下さっているのです。最も深い苦しみ悲しみ絶望の中でも、私たちは一人ではない。主イエス・キリストが死んで葬られ、陰府にくだったことによって、そういう恵みが与えられているのです。
 さてここまでは、主イエスが陰府にくだったことの意味を、旧約聖書から見てきました。旧約聖書に基づけば、陰府にくだり、というのは、主イエスが死後の世界、死者たちの国に行ったということではなくて、私たちが味わう最も深い苦しみ、悲しみ、絶望の中に身を置いて下さった、ということなのです。

捕らわれていた霊たちのところへ行って
 それでは新約聖書においてはどうなのでしょうか。主イエスが陰府にくだった、ということをはっきりと語っている箇所は、実は新約聖書にありません。なので、古代の教会で告白された信条の中には「陰府にくだり」という言葉がないものもあります。使徒信条と並ぶもう一つの基本信条である「ニカイア信条」にはこの言葉はありません。「陰府にくだり」に果たして聖書的な根拠があるか、という議論もあるのです。そういう中で、その根拠としてあげられる箇所が、先ほど共に読まれた、ペトロの手紙一第3章の18節後半から19節にかけてのところです。そこには、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」とあります。キリストは死んだが、霊において、「捕らわれていた霊たち」のところへ行った。その「捕らわれていた霊たち」とは、20節に「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」だと言われています。ノアは神の命令によって野原の真ん中に大きな箱舟を作りました。それは、人間の罪に対する神の怒りによる洪水が迫っている、という警告でもありました。神は忍耐しつつ人々の悔い改めを待っておられたのです。しかし人々は箱舟を見ながらも悔い改めることをしなかったので、洪水で死んでしまったのです。その人々の霊が「捕らわれていた霊たち」です。その霊たちのところへキリストが行って宣教した、それは、主イエスが、神を信じることなく死んだ人々のところへ行って、彼ら死者たちに福音を宣べ伝えて下さったということではないか。ここに、主イエスが陰府にくだったことと、その意味が語られている。主イエスは陰府にくだり、死者たちにも伝道して下さったのだ。そのように考えられたのです。

死の力も主イエスによる救いを妨げることはできない
 この箇所は謎のような文章で、聖書を読む人たちを悩ませてきました。その中で今のような読み方もなされたわけですが、この解釈では、主イエスが死者たちの住む世界に行ってそこで伝道した、ということになります。つまり陰府という死者たちの住む世界がある、ということです。しかしそれは先ほど見た、旧約聖書において陰府という言葉が意味していたこととは合いません。ですからペトロの手紙一第3章のこの箇所は、このように読むべきではないと思います。主イエスが捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教した、と語られているのは、死者たちの住む世界に行ってどうこうしたということではなくて、死の力に支配され、捕らわれてしまっている者たちにも、主イエスのご支配が、その救いが及ぶ、ということを語ろうとしているのだ思います。つまり、主イエスによる救いは、人間の最も深い苦しみ、悲しみ、絶望である死に捕らわれてしまった者たちにも及び、彼らをも生かすのだ、ということです。18節の前半、本日の箇所の最初のところに、「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」とあります。主イエス・キリストは、十字架の死において、苦しんで下さったのです。「ただ一度苦しまれた」というのは、一度限りの、空前絶後の深い苦しみを味わわれたということです。それは、正しい方が、正しくない者たち、つまり私たちのために負って下さった苦しみでした。私たち罪人が赦されて救われるために、主イエスは最も深い苦しみ悲しみ絶望を味わって下さったのです。それが「陰府にくだり」の意味です。その主イエスの徹底的な苦しみによって、正しくない罪人である私たちが、赦されて神のもとへと導かれた、罪を赦されて神と共に生きることができるようになったのです。このキリストの十字架の苦しみと死による救いにあずかることのしるしが洗礼です。この箇所には、箱舟によって洪水の中を通って救われたことが、洗礼のことを前もって表しているのだと語られています。そして21節に「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」とあります。洗礼において私たちは、キリストの苦しみと死による罪の赦しにあずかると共に、キリストの復活にもあずかって、新しい命を生きる者とされるのです。洗礼において私たちがあずかっているこのキリストの十字架と復活による救いは、それによって与えられた新しい命は、死の力に捕らえられ、支配されてしまっている者をも新しく生かす、死の力も、このキリストによる救いを妨げることはできない。この箇所はそういうことを語っていると読むべきだと思うのです。

信仰を持たずに死んだ人はどうなるのか
 ペトロの手紙一3章のこの箇所を、信仰を持たずに死んだ人たちのところに主イエスが行って伝道して下さった、と読むことには動機があります。そのように読むことによって、生きている間に信仰を得ることがなくても、死んだ後の世界で、主イエスの伝道によって救いにあずかる可能性を見つめたい、ということです。主イエスが陰府にくだったことに、陰府において信じて救いにあずかる希望を見ようとする思いが働いているのです。それは私たちにある慰めや希望を与える解釈だと言えます。私たちの家族親族には、主イエスを信じる信仰を持たずに死んだ人たちが沢山います。そもそも聖書や主イエス・キリストのことに全く触れることなく生涯を終えた人たちだって大勢います。そういう人たちはどうなるのか、主イエスによる救いにあずかる機会はないのか、という疑問は誰もが抱きます。死んだ人たちが行く陰府において主イエスがその人たちを導いて下さるのだとしたら、そこに救いの希望を見出すことができるわけです。

死も陰府も滅ぼされる
 ですからこれは魅力的な解釈ではありますが、聖書全体の教えからは逸れていると言うべきでしょう。聖書は基本的に、与えられているこの世の命において、主イエス・キリストを神の子、救い主と信じて、洗礼においてキリストと結び合わされることによって、その十字架と復活による救いにあずかることを語っています。死んだ後の世界で信じて救いにあずかることができる、とは語っていないのです。主イエスが陰府にくだったのは、死んだ後に信じて救われる道を開くためではなくて、私たちがこの世の人生において味わう最も深い苦しみ、悲しみ、絶望をご自分の身に引き受け、味わい、その苦しみの中にいる私たちと共にいて下さるためです。そして主イエスは、陰府にくだってそのままなのではなくて、復活して天に昇り、新しい命、永遠の命を生きておられるのです。陰府が指し示している最も深い苦しみ、悲しみ、絶望の中に主イエスも身を置いて下さったけれども、父なる神はその苦しみ、悲しみ、絶望を打ち砕いて、主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さったのです。そこに私たちの希望が示されています。私たちが人生において、そして死においても味わう最も深い苦しみ、悲しみ、絶望を、父なる神は打ち砕き、それに勝利して復活と永遠の命を与えて下さるのです。その希望が主イエスの復活において示されているのです。洗礼において主イエスと結び合わされている私たちは、その希望を信じて歩むことができるのです。新約聖書の最後のヨハネの黙示録の第20章14節には「死も陰府も火の池に投げ込まれた」とあります。つまり、この世の終わりの神による救いの完成においては、死も陰府も滅ぼされるのです。私たちを捕らえている死と陰府を、最も深い苦しみ、悲しみ、絶望を、神が滅ぼして、私たちに、神と共に生きる永遠の命を与えて下さるのです。主イエスが陰府にくだり、そして復活して下さったことによって、その救いが約束されているのです。

救いの喜びと伝道への促し
 信仰を持たずに、あるいは持つ機会なしに死んだ人たちはどうなるのか、というのは確かに私たちにとって大きな問いです。「コロナ禍」になってから毎週日曜日の午後6時から青年会のWeb祈祷会が続けられていますが、先週その祈祷会で一人の青年が、この問題をとりあげました。聖書も主イエスのことも知らず、信じる機会もなしに死んだ人たちは救われないのか。その青年は、この問いを抱きつつ聖書を読み、そして自分なりに得た答えとして、ローマの信徒への手紙第10章14、15節をあげました。その14節だけを読みます。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」。信仰を持てずに死んだ人たちはどうなるのか、という問いへの答えをこのみ言葉に見出したというのは素晴らしいことです。この問いは私たちを、主イエス・キリストによる救いを宣べ伝えることへと促しているのです。主イエスが死者たちのところへ行って伝道して下さったという解釈に希望を見出すよりも、だからこそ自分たちは今伝道のために遣わされているのだ、ということを聞き取る方が、よほど正しい聖書の読み方です。私たちが信じ、宣べ伝えている主イエス・キリストは、十字架にかかって死んで、葬られ、陰府にくだられました。私たちがこの世の歩みにおいて、そして死において受ける最も深い苦しみ、悲しみ、絶望の中に身を置いて下さったのです。しかし父なる神はその苦しみ悲しみ絶望を滅ぼして主イエスを復活させ、私たちにも復活と永遠の命の希望を与えて、新しく生かして下さっています。「陰府にくだり」は私たちにこの救いの喜びを示し、その救いを宣べ伝えていくことへと促しているのです。

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