主日礼拝

主イエスの復活

「主イエスの復活」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第30編1-13節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第24章36-49節
・ 讃美歌:

主イエスの復活を喜び祝う
 毎週の礼拝において共に唱え、告白している「使徒信条」に導かれて聖書のみ言葉に聞いています。先週まで、主イエス・キリストのいわゆる「受難」について語られている部分を読んできました。本日からは「三日目に死人のうちよりよみがえり」というところに入ります。十字架につけられて死んで葬られた主イエスは、三日目の日曜日の朝、復活なさったのです。そのことを喜び祝う日がイースター、復活祭です。このイースターこそ、教会のいくつかの祝祭日の中の最大のものです。世間ではクリスマスの方がよく知られています。イースターもようやく最近ある程度知られるようになってきましたが、卵のお祭りぐらいに思っている人が多いかもしれません。イースターは主イエス・キリストの復活を喜び祝う日であり、キリスト教会における最大の祝いの日なのです。そのことは、教会が日曜日にこうして礼拝をしていることからも分かります。日曜日は主イエスの復活の日です。そのことを記念し、喜び祝うために、教会は日曜日に礼拝をしているのです。つまり毎週の日曜日は小さなイースターなのです。旧約聖書における安息日は、週の最後の日である土曜日です。しかしキリスト教会は、主イエスの復活の日である週の初めの日、日曜日に礼拝を守っていきました。その信仰がローマ帝国全域に広がっていったことによって、日曜日が休日となったのです。ですから間違ってはなりません。教会は、日曜日が休日で集まりやすいからこの日に礼拝をしているのではありません。教会が、主イエスの復活を喜び祝って、あらゆる妨げを乗り越えてこの日に礼拝を守ってきたことによって、日曜日が休日となったのです。毎週日曜日に礼拝に集い、主イエスの復活を喜び祝うことが私たちの信仰です。私たちは今日もそのためにここに集っているのです。

キリストの復活なしに救いはない
 神が私たちの救いのために成し遂げて下さった救いのみ業の中心は、主イエスの復活です。主イエスの復活なしに私たちの救いはないし、信仰も成り立ちません。パウロがそのことをはっきりと語っています。コリントの信徒への手紙一の第15章14節にこうあります。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。17節にも「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。「今もなお罪の中にある」とは、救われておらず、罪のゆえに滅びるしかない、ということです。キリストの復活がなければ私たちは罪を赦されることなく、滅びるしかないのです。「信仰はむなしく」ともあります。神を信じていたとしても、キリストの復活がなければ何の意味もないのです。キリストの復活は私たちの救いに不可欠であり、信仰の拠って立つ土台なのです。

生きておられる主イエスと出会う
 十字架につけられて死んで葬られた主イエスが、三日目の日曜日、週の初めの日の朝に復活なさったことは、四つの福音書の全てが語っています。その語り方にはそれぞれ特徴があり、いろいろな違いがありますが、しかし四つの福音書に共通していることは、どれも、復活の出来事そのものを描いてはいない、ということです。つまり、主イエスの遺体が突然動き出し、起き上がって歩き出し、語り出した、というようなことは語られていません。語られているのは、主イエスが葬られた墓が空になったこと、そして、生きておられる主イエスが人々の前に現れ、語りかけて下さったことです。ルカによる福音書において主イエスの復活が語られているのは第24章ですが、その1?12節には、主イエスの墓が空になっているのを何人かの女性たちが見たこと、彼女らに天使が「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げたこと、しかし婦人たちからそのことを告げられても弟子たちは信じなかったことが語られています。そして13節以下には、その日、エマオという村に向って歩いていた二人の弟子のもとに主イエスが現れたことが語られています。彼らは主イエスであることが分かりませんでしたが、その人が夕食の席で祈ってパンを裂き、お渡しになるのを見て、主イエスであることに気づいたのです。その途端、主イエスのお姿は見えなくなりました。彼らは急いでエルサレムに引き返し、他の弟子たちに、主イエスとお会いしたことを告げました。先ほど読まれた箇所の冒頭の36節に「こういうことを話していると」とあるのは、弟子たちが復活した主イエスと出会ったことを話していると、ということです。するとそこに、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです。つまりここでも、復活した主イエスが弟子たちの前に現れて下さったのです。復活して生きておられる主イエスが来て下さり、お会いすることができた、それがイースターの出来事でした。小さなイースターである主の日の礼拝において私たちに起こるのもそれと同じことです。復活して生きておられる主イエス・キリストが、ここに来て下さり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのです。その主イエスと出会うために、私たちは毎週この礼拝の場に集まっているのです。

主イエスの姿を見ることと、復活を信じることは違う
 主イエスはこの礼拝に、目に見えるお姿で来て下さるわけではありません。だから私たちは主イエスをこの目で見ることはできません。しかしこの復活の日、主イエスは弟子たちの前に目に見えるお姿で現れて下さいました。弟子たちは、復活した主イエスのお姿を、はっきりと見たのです。うらやましいな、と思います。私たちのこの礼拝にも、主イエスが目に見えるお姿で現れて下さったらいいのに、そうすれば自分も、主イエスのことをもっと確かに信じることができるのに、と思います。しかしそうではない、ということがここに語られています。37節に、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。主イエスのお姿を見た弟子たちは、主イエスの復活を信じて喜んだのではなくて、幽霊が現れたと思って恐れおののいたのです。主イエスは彼らに語りかけました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。そして彼らに手と足をお見せになったのです。幽霊なんかじゃない。幽霊には肉も骨もないが、私には手も足もある。日本でも幽霊には足がないわけですが、私にはちゃんとそれがある。触ってみることもできる。肉体をもって復活したことを、主イエスははっきりとお示しになったのです。
 やっぱりうらやましい、と思います。そんなふうに主イエスが手や足を示して下さって、触ってよく見なさいと言って下さったなら、自分の信仰も確かなものになるのに、と思うのです。しかし41節にはこうあります。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」。主イエスのお姿を見て、その手や足を見たことによって、弟子たちは確かに大いに喜びました。しかしその喜びによって信仰が確かなものとなったかというとそうではなかった。彼らは「まだ信じられず、不思議がって」いたのです。それで主イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、弟子たちが差し出した焼き魚を食べて見せたのです。これはとてもユーモラスな場面です。主イエスはご自分が肉体をもって生きていることを示すために、手と足をお見せになっただけでなく、「ほら見てごらん」と言って焼き魚をおいしそうに食べて見せた。主イエスが鯵の開きか鯖の塩焼きを食べているところを想像してみて下さい。主イエスは時にそういうユーモアたっぷりのことをなさるのですが、これによって示されているのは、主イエスのお姿を見て喜ぶことと、主イエスの復活を信じる信仰に生きることは違う、ということなのです。

復活は奇跡
 それでは、主イエスの復活を信じる信仰に生きるとはどういうことで、その信仰はどうしたら得られるのでしょうか。そのことが44節以下に語られているのですが、そこに入る前に、主イエスがここで、ご自分の手や足をお見せになり、焼き魚を食べて見せるというパフォーマンスまでして、肉体をもって復活なさったことをお示しになったことの意味を先ず考えておきたいと思います。主イエスは、肉も骨もある、手も足もある、食事もする、そういう方として復活なさったのです。つまり主イエスの復活は、心の中の事柄ではないのです。主イエスを愛し、慕っていた弟子たちの心の中に、主イエスの思い出や教えがいつまでも残り続けた、そのことが「イエスは復活した」という言い方で伝えられていった、というようなことではないのです。主イエスの復活をそのように合理的に説明することはできません。これは奇跡なのです。使徒信条には既に、主イエスが「処女マリヤより生れ」たことが語られていました。それは大きな奇跡です。しかし「三日目に死人のうちよりよみがえり」は、それ以上の、最大の奇跡です。人間の理性や科学によって説明し、理解し、納得することは出来ません。主イエスは確かに死んで葬られたけれども、三日目に肉体をもって復活した、という神のみ業、奇跡を教会は、私たちは、信じるのです。

主イエスの復活によって実現した救い
 それは、そこにこそ神による救いがあるからです。これまで私たちは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、隠府にくだり」という主イエスの受難、苦しみと死について聖書が語っていることを聞いてきました。聖書は、主イエスが肉体をもってこの世を生き、十字架につけられて死んで、肉体をもって葬られたことを語っています。その苦しみと死は私たちのための苦しみと死でした。私たちがこの肉体において味わう苦しみと死を、主イエスがご自分の身に背負い、引き受けて下さったのです。私たちは、神によって命を与えられ、生かされているにもかかわらず、神に従わず、神を神として敬わず、神からそっぽを向いて、神なしに生きようとしています。その罪によって私たちは、神との良い関係を失い、同時に、共に生きるべき隣人との良い関係も失い、お互いに傷つけ合っています。それによって私たちの人生は苦しみ悲しみに満ちたものとなっており、また死においても、自分のものだと思って生きている命を奪い取られる苦しみ、悲しみ、絶望を感じているのです。主イエスの苦しみと十字架の死は、神の独り子であられ、ご自身は何の罪もない方である主イエスが、私たちが罪のゆえに味わうその苦しみ、悲しみ、絶望の中に身を置いて下さったという出来事でした。主イエスはそのために、肉体をもって生きる人間となってこの世に来て下さり、肉体をもって十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。葬られ、陰府にくだったというのも、罪と死に支配されている私たちが、肉体をもってこの世を生き、そして死んでいく中で味わう最も深い苦しみ悲しみ絶望の中に身を置いて下さったということでした。私たちが自分の罪のゆえに、また苦しみや悲しみ、恐れや不安のために、望みを失って、もうだめだ、と絶望してしまう時、そこに、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで葬られ、陰府にくだった主イエスが共にいて下さるのです。その主イエスが、私たちの苦しみ、悲しみ、絶望を共に担って下さっているのです。私たちは先週までそのことを繰り返し見つめてきました。その主イエスが、肉体をもって復活なさったのです。肉体をもって苦しんで死んだ主イエスを、神が肉体をもって復活させて下さったのです。それは、主イエスが代って負って下さった私たちの罪を、父なる神が赦して下さったということであり、また主イエスが代って負って下さった私たちの最も深い苦しみ悲しみ絶望を、父なる神が打ち破り、滅ぼして、新しい命、永遠の命を与えて下さったという出来事でした。主イエスの復活によって、神の救いの力が、私たちの罪と、私たちが味わう最も深い苦しみ、悲しみ、絶望にまで及び、それらに勝利することが示されたのです。神は私たちの罪と、最も深い苦しみ悲しみ絶望を打ち破り、罪を赦して新しい命を与えて下さることを、主イエスの復活によって約束して下さったのです。その救いは、心の中だけの、精神的な気休めではありません。神は死の力に勝利して私たちを新しく生かして下さるのです。主イエスが肉体をもって復活されたことにおいて、そのことが示されたのです。パウロが、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とか、「あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」と言ったのは、キリストが肉体をもって復活したことを抜きにしてしまったら、私たちの信仰はただ心の中だけの、気休めに過ぎないものになってしまうし、罪を赦されて本当に新しく生きることはできない、ということなのです。

主イエスの復活を信じて生きるとは
 主イエスの復活を信じて生きるとは、このように、神の恵みが私たちの罪と死の力に勝利したことを信じて、また私たちが味わう最も深い苦しみ悲しみ絶望をも神が打ち砕いて新しく生かして下さることを信じて生きることです。その信仰は、主イエスのお姿をこの目で見たからといって得られるわけではありません。44節で主イエスは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言われました。「モーセの律法と預言者の書と詩編」つまり旧約聖書に、主イエスについて書いてあることがすべて、主イエスの十字架の死と復活において実現したのです。このことを信じることが、主イエスの復活を信じて生きることなのです。主イエスについて旧約聖書に書いてあること、それは言い換えれば、旧約聖書に示されていた父なる神のみ心です。そのみ心が主イエスの十字架と復活において実現したことを信じることこそが、主イエスの復活を信じることなのです。旧約聖書に示されていた父なる神のみ心とは何でしょうか。それが46節に語られています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。これが、旧約聖書に書かれていた、主イエスについての父なる神のみ心です。父なる神は独り子主イエスを、メシア即ち救い主としてこの世に遣わして下さり、主イエスが苦しみを受け、十字架につけられて死に、そして三日目に死者の中から復活することによって、私たちの罪を赦して下さり、その恵みの中で私たちが悔い改めて神のもとに立ち帰り、神と共に新しく生きることができるようにして下さったのです。罪と死に支配され、苦しみ悲しみ絶望に捕えられている私たちを、父なる神が、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦されて神と共に新しく生きる者として下さったのです。そのことを信じることこそが、主イエスの復活を信じて生きることなのです。そしてこの信仰に生きる者は、キリストの十字架と復活による救いを、あらゆる国の人々に宣べ伝えていくのです。48節には、「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。主イエスの十字架の死と復活によって、父なる神が自分の罪を赦して下さり、悔い改めて神と共に生きる者として下さった、そのことの生き証人として、主イエスによる救いを語り伝えていくことが、主イエスの復活を信じて生きることなのです。

聖霊によって心の目を開かれて
 45節には、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。主イエスについて聖書に書かれている父なる神のみ心を私たちが悟ることができるのは、つまり主イエスの十字架の死と復活によって父なる神が私たちの罪を赦して下さって、神から顔を背け、神なしに生きようとしていた罪人である私たちが、悔い改めて神の方へと向き変わり、神と共に新しく生きることができるようにして下さった、その救いの恵みが本当に分かるようになるのは、主イエスご自身が私たちの心の目を開いて下さることによってです。自分で聖書をいしょうけんめい読んでいても、それだけでは私たちは、主イエスについて聖書に書かれていること、そこに示されている父なる神の救いのみ心を悟ることができません。主イエスの復活を信じて生きる者となることは、主イエスが心の目を開いて下さることによってこそ実現するのです。そのために、主イエスが私たちのもとに遣わして下さっているのが聖霊です。49節で主イエスは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とおっしゃいました。「父が約束されたもの」「高い所からの力」、それは聖霊のことです。聖霊が与えられるのを待って都にとどまっていなさいと主イエスはおっしゃったのです。それは、主イエスの復活から50日目に起こった聖霊降臨、ペンテコステの出来事を待ちなさい、ということです。ペンテコステに聖霊が降ったことによって、弟子たちは主イエスの復活の証人として福音を宣べ伝えていくことができたのです。その聖霊が私たちの内に働いて下さることによってこそ、私たちは主イエスについて聖書に書かれていることを悟り、主イエスの十字架の死と復活において実現した神の救いを信じて、悔い改めて罪の赦しにあずかり、そして主イエスによる救いの証人となって歩むことができるのです。この礼拝に復活なさった主イエスが来て下さり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのも、この聖霊のお働きによってです。私たちは、復活した主イエスのお姿をこの目で見ることはできませんが、聖霊が心の目を開いて下さり、聖書に示されている神の救いのみ心を悟らせ、主イエスの復活を信じて生きる者として下さるのです。そして私たちも、主イエスの十字架と復活による救いの証人となって、福音を宣べ伝えていくのです。

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