主日礼拝

神の言葉が働く

「神の言葉が働く」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章11節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第2章13-16節
・ 讃美歌:55、408

このようなわけで
 しばらく間が空きましたが、テサロニケの信徒への手紙一第2章を読み進めています。本日の箇所の冒頭13節には「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています」とあります。「このようなわけで」と言われていますから、そのまま受け取るなら、これまで語ってきたことを理由としてパウロは感謝していることになります。すなわちその理由とは、パウロが宣べ伝えた福音をテサロニケの人たちが苦しみの中で聖霊による喜びをもって受け入れたことであり、また彼らが偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったことであり、そして彼らが信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることです。1章2節には「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」とありました。ですから1章2節の「いつも神に感謝しています」と2章13節の「絶えず神に感謝しています」に挟まれて、感謝の理由が語られているのです。「神への感謝の言葉」によるサンドイッチ構造が見て取れると言っても良いかもしれません。そのように読むことができる一方で、「このようなわけで」を、これから語ることに結びつけて読むこともできます。というのは、「このようなわけで」で始まる一文の後に、「なぜなら」とあるからです。つまり、ここでパウロが神に感謝している理由は、これまで語られてきことよりも、むしろ「なぜなら」で始まるこれから語られることにあるのです。このことを踏まえれば、2章13節の冒頭は、「わたしたちは、以下のことで、絶えず神に感謝しています」と訳して良いかもしれません。

何によって感謝の生活は支えられ続けるのか
 さて、その理由に目を向ける前に、「わたしたちは絶えず神に感謝しています」という御言葉にしばし立ち止まりたいと思います。先ほど、「神への感謝の言葉」によるサンドイッチ構造に言及したように、パウロは「いつも神に感謝しています」、「絶えず神に感謝しています」と記しています。またパウロは手紙の終わりでテサロニケの人たちにこのように勧めています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(5章16-18節)。さらに私たちは、神の一方的な恵みによって救われた者の生活は、感謝の生活であると知っています。キリスト者の生活は、一言で言えば感謝の生活であり、それは、いつも、絶えず神に感謝し、どんなことにも感謝して生きる生活です。しかしそのように言われるとき、私たちは自分たちの日々の生活が、絶えず神に感謝し、どんなことにも感謝する生活からかけ離れていると思わずにはいられません。先日、私は皆さまのお祈りに支えられて正教師試験を終えることができました。一年前頃から準備を始め、特に半年前に提出課題が発表されてからは、この試験のために多くの時間を割いてきました。その中で、課題が難しくて悩んだり、進み具合がはかばかしくなくて焦ったりしましたが、その悩みや焦りもさることながら、それ以上にそのような悩みや焦りによって自分の生活から感謝が失われていることに気づかされました。正教師試験において、正教師として立てられるための神からの召しが問われますから、その召しを繰り返し確認しつつ、与えられた課題に神への感謝を持って誠実に取り組んでいくことがなによりも大切であったと思います。そのように心がけつつも、課題の難しさへの悩みや自分の不甲斐なさへの憤りに翻弄されることもしばしばでした。自分の悩みや焦りによって神への感謝がどこかに吹き飛んでしまうことがありましたし、またそのような自分と向き合うときを過ごしてきたのです。このような経験は、正教師試験に臨んでいた私に限られたことではないと思います。絶えず感謝し、どんなことにも感謝することがどれほど難しいかを、私たちは日々突きつけられています。私たちの日々の生活に溢れている苦しみや悲しみ、不安や恐れや怒りによって、私たちは神への感謝を見失ってしまうのです。その苦しみや悲しみが深刻であればあるほど、その不安や恐れや怒りを引き起こしている事態が自分や自分の大切な人にとって重要であればあるほど、絶えず神に感謝し、どんなことにも感謝する生活からかけ離れてしまうように感じるのです。絶えず神に感謝することも、どんなことにも感謝することも、決して当たり前のことではありません。社会の常識とも相容れないものです。ですから社会における日々の歩みの中で、私たちが救われた者としての感謝の生活を過ごすことはとても難しいことです。自覚的に、意識して神への感謝の生活を送る必要があります。しかしそのように自覚し意識するとは、どんなことがあっても感謝できるように頑張る、ということではありません。なにがあっても自分の内側から感謝をひねり出すということではないのです。そのような自分の力による頑張りは、襲ってくる不安や恐れによって簡単に吹き飛んでしまいます。また、そのような自分の内からひねり出した感謝は、神への本当の感謝となっていないのではないでしょうか。キリストの十字架による救いに与った私たちが、その救いの恵みにお応えして神に感謝して生きていく、その感謝の生活は、何によって支えられ続けるのでしょうか。

人の言葉としてではなく神の言葉として
 この問いを心に留めておきつつ、本日の聖書箇所に戻ります。13節の冒頭は「わたしたちは、以下のことで、絶えず神に感謝しています」と訳せ、その「以下のこと」が、「なぜなら」から語られているのでした。そこでは「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」と言われています。パウロはテサロニケの人たちに御言葉とその説き明かしを語りました。それを彼らは人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れたのです。これは驚くべきことです。パウロは特別で、彼が語ったことだから神の言葉として聞かれたということではありません。別の場所では彼の説教がまったく相手にされなかったり拒まれたりしたことを聖書は記しています。一方でパウロが語る聖書の説き明かし、つまり説教は人間の言葉です。パウロに限らず、あらゆる説教者の説教は人間の言葉であり、そして説教者自身は罪と弱さと欠けがあり、度々間違えを犯す人間であり、神の言葉を語るのにまったくふさわしくない者です。その一方で、神はそのような人間を説教者としてお立てになり、神の言葉を語れと言われます。そして人間の言葉である説教が神の言葉となるのはなによりも聖霊の働きによるものです。ですから説教に備えるときも説教を語るときも聖霊の働きを祈り求めます。それと同時に、説教者に与えられている務めへの畏れと誠実さが、なにより神への畏れと誠実さが、いつも説教者自身に問われているのです。だからパウロは、少し前の2章4節で「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくため」に御言葉を告げ知らせたと語り、6節でも「あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした」と語っていたのです。このことは、神の言葉を語ることへの畏れと、その務めへの誠実さによるのです。
 聖霊の働きによって、人間の言葉である説教が神の言葉となるように、同じ聖霊の働きによって、説教者の言葉を人間の言葉としてではなく神の言葉として受け入れることができます。テサロニケの人たちは「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」(1章6節)と言われていました。彼らが、パウロが宣べ伝えたことを人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れたのは聖霊の働きによるのです。それと同時に、説教者に神への畏れと誠実さが求められるように、説教を聞く者にも神への畏れと誠実さが求められます。その神への畏れと誠実さによってこそ、罪と弱さと欠けのある説教者の言葉を人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れることができるのです。礼拝において、聖霊なる神のご臨在の下で、神への畏れと誠実さを持って説教者が説教を語り、同じ神への畏れと誠実さを持って説教を聞く者が、その説教を人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れるのです。

神の言葉を受け入れる
 目を向けるべきことはもう一つあります。13節で「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき」と訳されていますが、直訳すれば「あなたがたは、わたしたちから聞いた神の言葉を受け入れた」となります。この「聞いた神の言葉を受け入れた」ということがとても大切なのです。コリントの信徒への手紙一15章3節には、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」とあり、それに続けて、キリストの十字架の死と復活が語られています。パウロが「わたしも受けたものです」と言う「受けた」という言葉が、テサロニケの人たちが「聞いた神の言葉を受け入れた」の「受け入れた」と同じ言葉です。ですからパウロがテサロニケの人たちに伝えた神の言葉は、パウロ自身が聞いて受け入れたものなのです。私たちが礼拝で聞く説教が豊かな広がりを持っているように、パウロはテサロニケの人たちに幾つもの(旧約)聖書箇所を説き明かしつつ御言葉を宣べ伝えたに違いありません。けれどもその核心は、その中心は、コリントの信徒への手紙一15章で語られているように、キリストの十字架の死と復活、そしてそれによる救いです。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」とは、パウロが告げ知らせた、キリストの十字架と復活による救いの福音を、テサロニケの人たちが人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れたことにほかならないのです。

神の言葉が働く
 テサロニケの人たちが神の言葉を受け入れるとは、パウロの説教を理解したとか、キリストの十字架と復活について学んだということではありません。説教を通して学びを得ることはありますし、新しい知識が与えられることもあります。しかしそれは、神の言葉を受け入れることと同じではありません。神の言葉を受け入れるとは、神の言葉を信じることであり、それも自分のこととして信じることです。キリストの十字架と復活による救いが、ほかならぬこの私のための救いである、と信じることなのです。そのように神の言葉を信じ受け入れる信仰者において神の言葉が働きます。13節の後半に「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」とある通りです。私たちは神の言葉を聞き信じ受け入れ、それでおしまいなのではありません。そうではなく、聞き信じ受け入れた神の言葉が私たちの中で働くのです。だからこそ私たちは礼拝で与えられる神の言葉によって新たにされ、新しい力を与えられてこの世へと遣わされ、新しい一週間を歩んでいくことができます。共に読まれた旧約聖書イザヤ書55章11節には、神の言葉の働きとその力が、このように告げられています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」神の言葉を聞き信じ受けれた信仰者において、その神の言葉は、主なる神の御心を成し遂げ、主なる神が与えた使命を必ず果たすのです。

キリスト・イエスに結ばれている神の教会に倣う者
 14節でパウロは、テサロニケの人たちに神の言葉が働いていることを一つの具体的な出来事に見ています。それは、テサロニケの人たちが「ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者」となったことです。ユダヤとは、パレスチナ全体を指していると考えられます。その中心はエレサレムであったに違いありませんが、使徒言行録で言われているように「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土」に教会は広がっていきました。ここでパウロは、とても重要な表現を用いて教会について語っています。それが、「キリスト・イエスに結ばれている神の教会」です。「神の教会」とは、神のための教会という意味ではなく、神がご支配している教会という意味です。教会は、神のために人間があれこれ知恵を出して運営しているのではありません。そうではなく、神こそが教会をご支配していてくださり、導いていてくださるのであり、私たちはそのご支配がますます確立され、主に栄光が帰されるために仕え用いられるのです。「キリスト・イエスに結ばれている教会」とも言われています。「キリストに結ばれている」は、「キリストにある」とも訳せます。キリストは教会の頭であり、神は教会をキリストにあってご支配されるのです。ユダヤの諸教会やテサロニケの教会と同じように、私たちの教会は、横浜の、キリスト・イエスに結ばれている神の教会にほかなりません。
 テサロニケの人たちが「ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者」となったとは、14節にあるように、ユダヤの諸教会の人たちが同胞であるユダヤ人から苦しめられたように、テサロニケの人たちも同胞から苦しめられたということです。どのように苦しめられたかは記されていませんが、神の言葉を受け入れた人たちが、同じテサロニケに暮らす神の言葉を拒んだ人たちから苦しみを受けたことは容易に想像できます。もしかしたら仕事仲間から苦しみを受けたかもしれません。あるいは友人、知人からかもしれません。それどころか家族からであったかもしれないのです。しかしそのように苦しみを受けることにおいて彼らはユダヤの諸教会に倣う者となりました。神の言葉が彼らの中で働き、苦しみの中にある彼らの歩みを、救いに与った者としての歩みを支えたのです。

神の言葉を受け入れる者と拒む者
 15、16節は、後の時代に、民族としてのユダヤ人に対する非難の言葉として読まれることもありました。しかしそのような読み方はパウロの意図からすれば、まったく間違っていると言わなければなりません。ここでは民族としてのユダヤ人について語られているのではありません。そうではなく神の言葉を聞き信じ受け入れる者と、それを拒む者とが見つめられているのです。ユダヤ人の中にも、テサロニケに住む人たちの中にも、神の言葉を受け入れる者と拒む者がいました。神の言葉を拒む者は、「神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し」ていると言われています。神の言葉を拒むことは、キリストの十字架による救いを拒み、その救いの恵みに感謝して生きることを拒むことです。神への感謝に満たされるのではなく、人々に対する敵意に満たされて生きます。神が自分に与えてくださっている恵みに目を向けるよりも、人と比べて自分は劣っているとか、あるいは不幸だとか、そのような不平や不満で心が一杯になり、あらゆる人々に敵対することになるです。それは、神に感謝する生き方とは正反対の生き方であり、神に喜ばれない生き方にほかなりません。そのようにあらゆる人々に敵対して生きていくならば、自分の罪をあふれんばかりに増やしていき、16節の最後で言われているように、ついには神の怒りが「余すところなく」臨むのです。

神への感謝に満たされて
 キリストの十字架による救いに与った私たちがその救いの恵みにお応えして神に感謝して生きていく、その生活は何によって支えられ続けるのかという問いを心に留めて読み進めてきました。そこで示されたのは、私たちが苦しみや悲しみ、不安や恐れの中で、神への感謝に生きることができるのは、神の言葉の働きによる、ということではないでしょうか。礼拝において私たちが神の言葉を聞き信じ受け入れ、その神の言葉が私たちの内に働きます。テサロニケの人たちが苦しみを受けることにおいてそうであったように、私たちが苦しみを受けることにおいて神の言葉が働いているのです。私たちは苦しみの中にあっても、神の言葉の働きによって、人々に対する敵意に生きるのではなく神への感謝に生きるようになります。それは、私たちが自分の力で神への感謝をひねり出すのとはまったく異なることです。キリスト者として生きていく中で、同僚や友人や家族から理解されず、ときには心ない言葉を言われ、苦しみ悲しむときも、私たちが聞き信じ受け入れた神の言葉が私たちの内に確かに働くのです。私たちが受ける苦しみにおいて、私たちは主イエス・キリストの苦しみに与ります。救いに与った者として、キリストに結ばれている者として、キリストの苦しみのほんの一端を担うのです。キリストの苦しみに与ることを伴う神への感謝の生活は、神の言葉を聞き信じ受け入れ、その神の言葉が私たちの内に働くことによって支えられ続けます。キリストによる救いの良い知らせが、福音が、私たちの内に今、現に働いています。そのことによって私たちは苦しみや悲しみ、恐れや不安から解放され、敵意からも解放され、神への感謝に満たされるのです。

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