主日礼拝

主のために生きる

「主のために生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第32章36-42節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第14章1-12節
・ 讃美歌:294、120、518

新しい目当てを示されて  
 先週の主日礼拝後、この教会の2月定期教会総会が行われました。2月の総会では、4月からの新年度の教会の活動計画と予算を決めます。またその新年度、教会の先頭に立って歩む長老、執事の選出を行います。つまり新しい年度を迎えるための備えをするのが2月の教会総会です。教会の歩みや営みというのは、基本的に、年度によってそんなに変わるものではありません。キリスト教会が二千年に亘ってしてきたことは、神を礼拝すること、救い主イエス・キリストを宣べ伝えること、そして神と人とに仕えることです。置かれた時代や地域の状況に即した仕方でこれらのことを誠実に行なっていくことが教会の使命であり、何か目新しいことをすることが課題なのではありません。この教会においても、現代の日本においてこの教会がどのように歩むのかの基本姿勢を表現するものとして「宣教基本方針」が定められています。これは年度毎に変わるものではありません。私たちはこの基本方針をいつも踏まえつつ、同時に年度ごとに新たな主題を掲げ、また重点課題を確認し合いながら歩んでいるのです。年度毎に新たな主題を掲げることには意味があると思います。私たちの信仰の歩みは、古代の教会以来変わらない土台に立ちつつ、しかし同時に主のみ言葉によって、またみ言葉を通して働かれる聖霊のお働きによって、常に新しくされていくものです。新しい年度の主題を定めることによって私たちは、主が私たちに新しい目当てを示して下さることを覚え、新しくされて歩み出そうとしているのです。その新しい目当てとして先日示されたのが、「聖霊に満たされる喜びに生きる教会」という2018年度の主題なのです。

キリスト信者の新しい生き方  
 この主題について本日の説教において取り上げるつもりはありません。それは別の機会にしていきたいと思います。新年度の主題の話をしましたのは、私たちの信仰は主のみ言葉によって常に新しい方向を示され、新たにされつつ歩んでいるのだ、ということを確認するためです。主イエス・キリストを信じて生きるとは、主によって常に新たにされ、自分を変えていただきつつ歩むことなのです。そのことは、先週の説教においても引用しましたが、ローマの信徒への手紙の12章2節の、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」というみ言葉において示され、勧められていました。神の御心をわきまえて生きる者へと常に新たにされ、変えられつつ生きる、それが信仰に生きる者の生活なのです。今私たちが主日礼拝において連続して読んでいるローマの信徒への手紙は、この12章以降において、主イエス・キリストによる救いにあずかり、洗礼を受けて主イエスと結び合わされ、キリストを信じる者として生きている信仰者の新しい生き方について語っています。信仰者が、主によって新たにされ、自分を変えていただいて、御心をわきまえて生きるようになる、それはどのように生きる者となることなのかが12章以下に語られているのです。12章と13章には、その新しい生き方の基本が語られてきました。本日から14章に入ります。ここには、13章までに語られた基本を、ある具体的な事柄に当てはめての教えが語られています。つまり13章までの基本を具体的な場面においてどのように実践していくかという応用編が14章であると言うことができるのです。

信仰の弱い人と強い人  
 14章で扱われている具体的な事柄とは何かを一言で言えば、1節にあるように、「信仰の弱い人を受け入れなさい」ということです。このことの前提には、教会の中に信仰の強い人と弱い人とがいる、ということがあります。そして両者の間にしばしば対立、軋轢が起るのです。「信仰の強い人と弱い人」ということでパウロがここで具体的にどのようなことを見つめているのかについては来週の説教に譲りたいと思います。しかし3節に、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とあることから分かるように、「食べる」とうことに関することだったことが分かります。その内容はともあれ、このことにおいて信仰の強い者と弱い者とがおり、両者が互いに相手を軽蔑したり裁いたりしていたのです。そのようなことがローマの教会において起っていることを知っていたパウロが、それをどのように考え、対処すべきかという信仰的指導を語っているのです。

人を軽んじ、裁く心にどう対処するか  
 教会においてお互いに軽蔑したり裁いたりすることが、私たちの間にもあることを率直に認めなければならないでしょう。教会は、主イエス・キリストを信じてその救いにあずかった者たちの群れです。しかし同じ信仰によって生きているはずの私たちの間にも、相手を軽蔑したり、裁いたりということがしばしば起るのです。それは私たち一人ひとりの中に、人を軽んじる心、裁く心が根深く巣食っているからです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けたからといってその心が簡単に無くなってしまうことはありません。そのことを私たちは日々感じさせられています。そして私たちの中にあるそのような心は、多くの場合無意識の内に言葉や態度や行いとして現れてきて、それによって人を傷つけ、また傷つけられてしまうのです。そして私たちは、人から傷つけられた痛みにはとても敏感です。しかし自分が人を傷つけたことには気がつかないことが多い。その結果、みんなが自分は傷つけられた被害者だと思ってしまうのです。そうすると、この傷つけ合いの悪循環はいつまでも続いていきます。「あの時あの人に傷つけられた」という恨みが何年経っても残っていて、事あるごとに噴出して来るのです。そういう現実を見るにつけ私たちは、「クリスチャンだって聖人君子ではない。みんな罪人なんだ」と思います。そのように思うことによってあきらめて現状を肯定してしまうことも多いですし、それができないと、「教会なんて綺麗事を言っているだけの偽善者の集まりだ」と言ってつまずいて去っていくということにもなります。私たちはたいていこのどちらかの対応をしていると思うのです。しかしパウロはここで、そのどちらとも違う対応をしています。彼は「クリスチャンもみんな罪人だからなあ」と言ってあきらめたのでもなく、あるいは「人を軽蔑したり裁いたりしている者たちの中にはいられない」と言って去って行ったのでもなく、「教会の兄弟姉妹の間で、人を軽蔑してはならない、裁いてはならない」と言ったのです。つまり、人を軽蔑したり裁いたりすることは、キリストによる救いにあずかった者においてはあってはならないことだ、そのようなことから解放されて生きることこそが、キリスト信者に与えられる新しい生き方なのだ、だからそのように生きようではないか、と彼は教会の人々に勧め、求めたのです。

他人の召し使い  
 彼がそのように語ったのは、3節の後半にあるように「神はこのような人をも受け入れられたからです」、これがその理由であり、根拠です。あなたは教会の中のある人を軽蔑したり、裁いたりしているが、神はそのような人をも受け入れておられるのだ、神がご自分の民である教会に受け入れておられる人を、あなたが受け入れないということはあってはならないのだ、ということです。さらに4節ではこう言っています。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」。あなたが軽蔑し、裁いているその人は、他人の召し使いであってあなたの召し使いではない、その他人とは神のことです。彼は神の召し使い、神のものなのだ、それをあなたが軽蔑し、裁くとは、あなたはいったい何者だ。これはもっと日本語らしく言えば、「いったい何様のつもりだ、思い上がるな」ということです。人を軽蔑し、裁いているあなたは思い上がっている、自分がその人の主人であるかのように振る舞っている、自分を神の立場に置いてしまっている、パウロはそのことを私たちに気づかせようとしているのです。自分の召し使いならば、自分の思い通りにしなければならないのであって、そうしない者を裁くことができます。しかし教会における兄弟姉妹は、自分の召し使いではありません。私の思い通りにするとか、私の意見に従うことがその人の義務ではないのです。ところが私たちは実にしばしば、自分の意見が通らないと、思い通りにならないと、相手を軽蔑したり裁いたりします。それは、自分が相手の主人になっているということであり、あってはならないことなのです。私たちは、主イエス・キリストをこそ自分の主と信じ、受け入れた者です。つまりキリスト信者となった私においては、もはや自分が主人なのではなくて、キリストが主人であり、私はその僕、召し使いなのです。同じ信仰に生きる兄弟姉妹は主の召し使いどうしなのです。召し使いであるのに、主人の他の召し使いを自分の下にいる者のように軽蔑したり裁いたりすることは、主人であるキリストをないがしろにする罪です。だからそれは、「人間はみんな罪人だから仕方がない」と見過ごしにしてよいことではなくて、人間が神を押しのけて主人になろうとしている、自分が神になろうとしている重大な罪なのです。私たちは今こうして神を礼拝しているわけですが、その私たちがそのようなことをしているとしたら、私たちは神を自分の主として礼拝していない、自分が主になっているのであって、私たちの礼拝は自分の願いを叶えるために偶像に手を合わせているのと同じことになってしまっているのです。

キリストの召し使いとなって  
 自分が主人となり、全てのものが自分に仕えることを求めている、それが生まれつきの私たちであり、罪に支配されている人間の根本的な姿です。主イエス・キリストによる救いにあずかるとは、そのような罪に支配された生まれつきの生き方から解放されることです。自分が主人であることをやめて、イエス・キリストを自分の主として受け入れ、主イエスに従う者、主の召し使いとなって生きることによってこそ、私たちは罪の支配から解放され、救いにあずかることができるのです。そのまことの主であられるイエス・キリストとの出会いこそが私たちを新しく造り変えます。そして神のみ心をわきまえて生きる新しい生き方を与えるのです。パウロも、自分が迫害していた教会の人々が信じているイエスと出会い、その方こそが復活して生きておられるまことの主であられることを知らされたことによって、教会を迫害していた者からキリストを宣べ伝える伝道者へ、という人生の大転換を与えられたのです。このパウロのような劇的な体験はしていなくても、キリストを信じる者となるということは、自分の主人が自分からキリストへと転換する、という根本的な変化を体験することです。その転換によって私たちの生き方も、主イエス・キリストの召し使いとしての生き方へと当然変わるのです。そこにおいて私たちは、教会における兄弟姉妹の一人ひとりを、いろいろと考え方が違い、感覚が違っていても、共に主イエスに仕える召し使い仲間として認め、受け入れ合う者となるのです。それによって、生まれつきの自分が持っていた、人を軽蔑し、裁く思いから解放されるのです。それこそが、キリストによる救いにあずかった者としての新しい生き方なのです。

主のために生き、神に感謝する  
 その新しい生き方が6節においてはこのように語られています。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」。「特定の日を重んじる」とか「食べる、食べない」というのが、「信仰の強い人と弱い人」の間で問題になっていた具体的な事柄です。その内容は来週に譲るとして、本日この6節において注目したいのは、パウロが、いずれの場合においても「主のため」にそれがなされ、そして「神に感謝する」ことが大切だと言っていることです。「主のために生き、神に感謝する」。これこそが、キリストを信じる信仰において私たちに与えられる新しい生き方なのです。主イエス・キリストこそが自分の主人であり、自分はその召し使いとなって生きる、その時私たちは自分のためにではなくて、「主のために生きる」者となります。それは、もう自分のために何もしてはならない、自分の喜びや楽しみを求めてはならない、主によって奴隷のようにこき使われる者となる、ということではありません。そこにおいて私たちは「神に感謝する」者となるのです。感謝するというのは、「感謝しなさい、感謝すべきだ」と命令されて、仕方なく、いやいやながら「じゃあ感謝します…」と不承不承に言うようなことではありません。感謝は、自然に生まれるものです。喜びがあるから感謝が生まれるのです。神から豊かな恵みが与えられていることが実感されるから、その喜びの中で、神に感謝するのです。主イエス・キリストの召し使いとして、主のために生きるところには、神の豊かな恵みによって与えられる本当に深い喜びがあるのです。その神の豊かな恵みは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられているものです。主イエス・キリストは十字架の死において、私たちの全ての罪を背負い、私たちの代わりに苦しみと死を引き受けて下さいました。その死によって私たちは罪を赦されたのです。そして主イエスは復活において、神の子として生きる新しい命を得て、それを私たちにも与えて下さっています。主イエスのもの、主の召し使い、主のために生きる者となることによって私たちは、キリストの十字架と復活による罪の赦しと、新しい命の豊かな恵みを受け、その深い喜びの内に神に感謝して生きることができるのです。

主のために生き、主のために死ぬ  
 「主のために生き、神に感謝する」という私たちの新しい生き方について、7、8節にはさらにこのように語られています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。もはや自分のために生きるのではなく、主の召し使いとして主のために生きる者となったキリスト信者は、主のものとして主のために死ぬ者となります。それは、主のために死ななければならない、いわゆる殉教の死を遂げなければならない、という話ではありません。主イエスの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと新しい命の豊かな恵みを受けて、その深い喜びの内に主のものとして生きる者は、死においても、主による罪の赦しと新しい命、永遠の命の約束という深い恵みの内に、主のものとして死ぬことができる、ということです。つまり、主の召し使いとして主のために生きるところに与えられる深い喜びは、死においても失われることがない、ということです。死においても、私たちは主のものであり、主こそが私たちを支配して下さっているのです。つまり私たちがこの世の人生を終えて死ぬ時にも、そこで私たちを支配するのは死の力ではなくて、主イエスの救いの恵みなのです。9節には「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあります。主イエス・キリストが十字架の死を体験して下さり、そして復活して永遠の命を生きておられることによって、私たちは、生きている時も死においても、主イエスによる救いの恵みのご支配の下に置かれているのです。

ただ一つの慰め  
 主のものとして生きるところに与えられる深い喜びは死においても失われることはない。その喜びは「慰め」と言い替えることができます。求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」の問一を思い起こします。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いです。その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」となっています。この答えの元になっている聖書の言葉が、本日の箇所の8節の「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」なのです。私はもはや私自身のものではなく、主イエス・キリストのものとされている。つまり私の主人は主イエス・キリストであり、私は主の召し使いとして、自分のためにではなく、主のために生きる。キリスト信者に与えられているこの新しい生き方こそが、この世を生きる人生においても、死を迎える時にも、私たちを本当に慰め、支え、喜びを与えるのです。

真実の喜びに生きる  
 主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちはこのように、主イエスのもの、主イエスの召し使いとして、主のために生きる者とされています。そこにこそ与えられる深い喜びのゆえに神に感謝して生きるという新しい生き方を与えられているのです。主イエスの十字架と復活によって与えられた救いの深い喜びに裏付けられた新しい生き方においては、共に主のもの、主の召し使いとして生きている兄弟姉妹を軽蔑したり、裁いたりすることは、あってはならないと言うよりも、あり得ないことです。そのようなことは、真実の喜びを知らないところに生じるのです。人を軽蔑したり、裁いたりすることは、自分が人よりも優れた者、立派な者、上に立つ者であろうとするところに起ります。人と自分とをいつも比べていて、自分が人よりも高くなることに喜びを見出し、逆に自分が低くなってしまうことに苛立ちや怒りを覚えてしまう、それが私たちの生まれつきの古い生き方です。そこにおいて私たちはいつも「自分のため」に生きています。しかし主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちは、そのように人との比較によって得られたり失われたりするような相対的な喜びではなくて、生きている時ばかりでなく死においても、私たちを本当に支え、慰めを与える真実の喜びを与えられています。この喜びを本当に知ることができれば、私たちは、生まれつきの古い生き方から解放されて、新しく生きることができるのです。人を軽蔑したり裁いたりする心からの解放は、そういうことをしてはいけない、という教えによってではなくて、そのようなことによって得られる喜びとは比べものにならない、本当の喜び、死においても失われない喜びを得ることによってこそ起るのです。その喜びは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって与えて下さるものです。私たちがその喜びにあずかるために、主は聖餐を定め、与えて下さっています。これからあずかる聖餐において私たちは、主イエス・キリストの体と血とに聖霊のお働きによってあずかり、主イエスと一つとされ、主のために生きる者とされるのです。そこに、真実の喜びに生きる新しい歩みが与えられていくのです。

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