主日礼拝

主であるイエス

「主であるイエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第110編1節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章9-11節
・ 讃美歌:

「我らの主」イエス・キリスト
 毎週の礼拝で告白している「使徒信条」に導かれつつ聖書のみ言葉に聞いていますが、先週からその第二の部分に入りました。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」から始まるのが、使徒信条の第二の部分です。ここには、神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰が語られています。先週はその最初にある「その独り子」という言葉から、主イエス・キリストが神の独り子であられるということについて、聖書が語っていることを聞きました。本日はその続きの「我らの主」という言葉を取り上げます。
 「我らの主」であるイエス・キリストを信じる、と使徒信条は語っています。それがキリスト教会の基本的信仰なのです。私たちは、イエス・キリストが「主」であられることを当然のこととして受け止めています。「主イエス・キリスト」とか「主イエス」という言い方が普通になされています。「主われを愛す」という讃美歌がお好きである方は多いでしょう。この讃美歌は各節の後半で、「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」と歌っています。イエス・キリストを「主」と呼ぶことは、私たちの信仰においてごく当たり前になっているのです。しかしそれゆえにかえって私たちは、イエス・キリストが「我らの主」であられることをあまり深く真剣に受け止めなくなっているのではないでしょうか。「イエス」と呼び捨てにするのは失礼な気がするので「イエス様」と呼ぶ、しかしこの呼び方は何か甘ったれた、子どもじみた感じがするので、もっと厳粛に「主イエス」と呼ぶ、そのぐらいの感覚で「主」という言葉が用いられていることはないでしょうか。つまり「主」という言葉が、イエス・キリストにつけられた単なる尊称となってはいないでしょうか。

人生の主人は誰か
 しかしイエス・キリストが「我らの主」であるというのは、とても重要なことだし、私たちにとって重いことです。なぜなら「主」という言葉は「主人」という意味であり、「我らの主」とは「私たちのご主人さま」という意味だからです。イエス・キリストは私たちのご主人さまであって、私たちはその僕、家来、従う者なのです。「我らの主イエス・キリストを信ず」という使徒信条の言葉は、私たちの主人はイエス・キリストであり、私たちは主であるイエスの僕、従う者である、という信仰を言い表しているのです。
 それは、私たちの人生の主人は自分ではなくてイエス・キリストだ、ということです。私たちは自分の人生の主人ではありません。主人はイエス・キリストなのです。それが教会の信仰です。それは私たちの常識や、世間一般の考え方とは正反対なことだと言えるでしょう。生まれつきの私たちは皆、自分の主人は自分だと思っています。自分の人生は自分のもの、自分が主人であるべきものであって、誰かに支配されることがあってはならない、自分の思い通りに生きることが正しくまた望ましい、というのが現在の世の中の常識であり風潮です。しかし、イエス・キリストを信じる信仰においては、その常識は覆えされるのです。自分の人生の主人が、自分ではなくてイエス・キリストになる、主人の交代が起こるのです。言い換えれば、私たちは自分の人生の主人の地位を、イエス・キリストに譲り渡すのです。それがイエス・キリストを信じるということであり、キリストによる救いにあずかることです。キリストによる救いとは、キリストが私たちの主人となって下さることであって、自分がもはや自分の人生の主人ではなくなることなのです。「我らの主イエス・キリストを信ず」という使徒信条の言葉は、イエス・キリストを敬って「主イエス」と呼んでいるというだけのことではなくて、私たちの人生に大きな転換をもたらす重いことを語っているのです。

神と人間との本来の関係
 そしてここに、聖書が語っている信仰の大切な特徴が、言い換えれば聖書における神と人間の本来の関係が示されています。聖書においては、私たち人間は主人ではありません。神が主人なのであって、人間はその僕、従う者です。それが聖書における神と人間の正常な関係なのです。けれども、誤解を招かないために言っておかなければなりませんが、このことは、人間は神という主人の奴隷であって自由のない者だ、ということではありません。使徒信条の第一部、父なる神についての部分において見てきたように、神がこの世界を創造して下さったのは、私たち人間への愛のみ心によってです。神は人間が生きることができる場としてこの世界を整えて、全ての準備が整ったところで、最後に人間を、ご自分にかたどって、神に似た者として造って下さいました。そこには神の私たちへの大いなる愛が示されています。人間が神に似た者として造られたというのは、神の愛に応答して、人間も神を愛して、神との交わりに生きることができる自由な者として造られたということです。つまり神は私たち人間を、決して奴隷として造られたのではないし、ご自分の意のままに動くロボットとして造られたのでもなくて、自由な者として造り、生かして下さっているのです。神は人間が、自分を造り命を与えて下さった神の愛に自発的に応えて、自由な意志によって、神に従う僕として、神と共に生きていくことを願っておられるのです。それが神と人間との本来の、正常な関係なのです。

自分が主人であろうとする罪
 しかしこれもこれまでに見てきたことですが、人間はこの神との本来の関係を失ってしまっています。神を愛し、神に従って神と共に生きることを、不自由な、窮屈なことと思い、自分が主人となって、神なしに生きるようになったのです。それが人間の罪の根本です。つまり「自分の人生の主人は自分だ」という私たちの常識、また昨今の世間の風潮は、人間が罪によって神との正常な関係を失っていることの現れなのです。人間は罪に陥り、神を無視して、自分が主人となって生きているのです。このことは、神が人間を、ご自分に従うことしかできない奴隷やロボットとしてではなくて、自由な者として造って下さったことをはっきりと示しています。神は人間を、神を愛し、神に従って神と共に生きることもできるし、神から離れ、神を無視して、神なしに、自分が主人となって生きることもできる自由な者としてお造りになったのです。その自由をどのように用いて生きるかは私たち次第なのです。そして私たちは、最初の人間アダムとエバ以来、この自由を間違って用いており、自分が主人となって生きるという罪に陥っているのです。
 その私たちが、自分の人生の主人の地位を、「我らの主」であるイエス・キリストに譲り渡すこと、それが信仰です。そのことによって、私たちはもはや自分自身の主人ではなくなり、イエス・キリストが私たちの主人となるのです。そのイエス・キリストは、先週聞いたように、神の独り子であられ、父なる神と共にこの世界を創造して下さった神である方です。神の独り子であるイエス・キリストが主人となり、私たちはその僕、従う者となることによって、神と私たちとの本来の、正常な関係が回復されるのです。それが、イエス・キリストによって与えられる救いです。私たちの救いとは、私たちの罪によって失われている神との良い関係が回復されることです。そしてそのことは、イエス・キリストが私たちの主、主人となり、私たちがその僕、従う者となることによってこそ実現するのです。

神がキリストを主人として下さった
 しかしここでも、誤解を防ぐために言っておかなければならないことがあります。このことは、私たちが人生の主人の地位を主イエスに譲り渡し、主イエスに従う者となり、その命令に忠実に従って生きる者となるなら、その私たちの功績、信仰的手柄のゆえに、救いが与えられる、ということではありません。救いは、私たちが主イエスの僕となって従って生きていくことの見返りとして得られるものではないのです。なぜなら、そのように考えているうちは、人生の主人はいつまでも自分だからです。先ほど、自分の人生の主人の地位をイエス・キリストに譲り渡すことが信仰だと申しました。その通りなのですが、しかしそのことが自分の手柄になってしまうならば、つまり私たちが主イエスを自分の主人として迎え、主イエスに従って生きる者となるという立派な信仰に生きる者となることによって救いを得ることができる、と捉えてしまうならば、そこでは自分の人生の主人はなお私たちであるままです。主イエスを主人として迎えるのも自分だし、主イエスに従って生きるのも自分です。それによって救いが得られるのだとしたらそれは、自分が人生の主人として何かをすることによって救いを獲得する、ということでしかありません。イエス・キリストが私たちの主人となり、私たちはその僕、従う者となるというのはそういうことではないのです。私たちがイエス・キリストを自分の主人とすることによって救いが実現するのではなくて、イエス・キリストが私たちの主人となって下さるのです。
 使徒信条がイエス・キリストを「我らの主」と言っているのは、イエス・キリストは私たちが自分の主人として信じ、受け入れ、従っていくべき方である、と言っているのではなくて、イエス・キリストが私たちの主人となって下さった、ということです。私たちがイエスを自分の主人として信じ、受け入れて従っていくことによって救いが実現するのではなくて、イエスが私たちの主人となって下さったことによって救いは与えられているのです。イエスを私たちの主人とすることによってこの救いを与えて下さっているのは神です。この神による救いを信じて受け入れることが信仰です。自分の人生の主人の地位をイエス・キリストに譲り渡すというのは、私たちが主人としての地位を譲ることによって初めてキリストが主人となるということではなくて、既に神がキリストを私たちの主人として下さっている、その事実を私たちが信じて受け入れ、主人となって下さったキリストに従って生きていく、ということなのです。これは微妙なことですが決定的に大事なことです。一言でまとめるならば、私たちがキリストを自分の主人とすることによって救いを得るのではなくて、神がキリストを私たちの主人として下さったことによって私たちは救われるのです。

詩編110編
 神がキリストを主、つまり私たちの主人として下さったことを語っている二つの聖書の箇所が先ほど朗読されました。一つは旧約聖書、詩編第110編1節です。ここには、主なる神が、「わが主」と呼ばれている方を、ご自分の右の座に就かせたこと、つまり神のご支配を司る権威と力を持つ者となさったことが語られています。「主」という言葉が二度出てきてまぎらわしいのですが、「主の御言葉」の方の「主」は、旧約聖書における神のお名前を指す言葉です。文語訳聖書の時代には、この言葉は「エホバ」と訳されていましたが、その後その読み方は間違いであることが分かり、今は「ヤーウェ」とか「ヤハウェ」と読むのが正しいとされています。つまりこの言葉は神の固有名詞です。口語訳聖書以来この言葉を「主」と訳すようになったために、「わが主」の方と同じ訳語になって区別がつかなくなってしまったのですが、「わが主」の「主」は、本日私たちが取り上げている「我らの主」と同じ、「主人」という言葉です。つまりここには、「ヤーウェ」という名の神が、「わが主(わたしの主人)」と呼ばれている人をご自分の右の座に就かせた、ということが語られているのです。この詩は「ダビデの詩」とされていますから、ダビデ王がこの方を「わが主」と呼んでいるのです。偉大な王ダビデすらも「わたしの主人」と呼んでいる方が、神の右の座に就いて、神のご支配を司る者とされたのです。新約聖書をも与えられている私たちにとって、この「わが主」は、十字架にかかって死に、復活して天に昇り、父なる神の右に坐しておられるイエス・キリストです。つまりここには、神がイエス・キリストをご自分の右の座に就かせ、私たち全ての者を支配する「主」として下さることが預言されていたのです。このように旧約聖書も、神がイエス・キリストを私たちの主人として下さることを語っているのです。

「イエス・キリストは主である」
 もう一つの箇所は新約聖書、フィリピの信徒への手紙第2章9節以下です。その9節に「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とあります。それは、その前のところからの流れからすれば、十字架につけられて死んだ主イエスを、父なる神が復活させ、天へと引き上げ、そしてご自分の右の座に就かせたことを指しています。つまり詩編110編に予告されていたことの実現がここに語られているのです。主イエス・キリストは父なる神によってこのように「高く上げ」られ、「あらゆる名にまさる名」を与えられました。それゆえに、10節以下に語られているように「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。父なる神が主イエス・キリストを高く上げ、あらゆるものを支配する権威と力を与えて下さったので、私たち全ての者が「イエス・キリストは主である」という信仰を告白して生きることができるようになったのです。私たちがイエス・キリストを選んで自分の主としたのではありません。神がイエス・キリストを私たちの主として立てて下さったのです。「イエス・キリストは主である」という信仰の告白は、私たちの決心や決断を語っているのではなくて、父なる神が成し遂げて下さったこのみ業を語っているのです。

キリストによって実現した救い
 父なる神がイエス・キリストを私たちの主として立てて下さった、そこにこそ私たちの救いがあります。そのことをフィリピの信徒への手紙第2章は語っています。先ほど読まれた箇所よりも少し前のところからですが、神の独り子であり、まことの神であられる主イエスが、神としての栄光を放棄して私たちと同じ人間となり、この世を生きて下さいました。しかもただ人間として生きて下さっただけでなく、私たち全ての者の罪を背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちが神の愛に応えようとせず、神なしに、自分が主人となって生きている、その私たちの罪の償いのために、神の独り子である主イエスが、私たちに代って死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、神は私たちの罪を赦してくださり、私たちとの正常な関係を回復して下さったのです。その救い主イエス・キリストを、父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。キリストの十字架の死によって罪の赦しが、復活によって新しい命、永遠の命の約束が与えられたのです。このように私たちの救いを実現して下さったイエス・キリストを、神は天へと高く上げて、ご自分の右の座に就かせました。つまりキリストを全ての者の主として立てて下さったのです。この主イエス・キリストのご支配の下に置かれることこそが私たちの救いです。イエス・キリストの前にひざまずき、「イエス・キリストは主である」という信仰を告白することによって、神が独り子イエス・キリストによって実現して下さった救いが私たちの現実となるのです。

私たちの主人となって下さったイエス・キリスト
 それゆえに、イエス・キリストが私たちの主、主人となって下さり、私たちはその僕、従う者として生きていくことこそが私たちの救いなのです。自分が人生の主人であろうとするところには、救いはありません。自分が自分の人生の主人であろうとする時、そこに生まれるのは、全てのことは自分次第、という生き方です。それはある意味で気持ちの良いことかもしれません。順調に行っている時は、大いに自尊心を満足させられるでしょう。しかし人間の人生、そんな時ばかりではありません。ひとたび歯車が狂ってきた時、そこに現れるのは、「全ては自己責任」という苛烈な世界です。失敗したのは全てその人の責任とされ、そうしていわゆる「勝ち組」と「負け組」というレッテルが貼られていくのです。今は「勝ち組」である人にとっても、いつ失敗して転落してしまうか分からない、一瞬たりとも気を抜けない、平安のない世界です。現在の社会はそんなふうになっているのではないでしょうか。そのことの根本的原因は、「自分の人生の主人は自分だ」という思いにあるのです。それは、私たちを愛して、命を与えて下さった神を見失った罪の思いです。この思いによって私たちは神との本来の良い関係を失い、神の愛を見失っているのです。その私たちを救うために、そして私たちとの良い関係を回復するために、神はその独り子、イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして主イエスの十字架の死と復活によって私たちの罪を赦して下さり、復活と永遠の命の約束を与えて下さったのです。神はその主イエスを高く上げ、ご自分の右の座に就かせ、私たちの主、主人として下さいました。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが「我らの主」となって下さったことによって、私たちは、独り子をすら与えて下さるほどの神の大いなる愛の中に置かれたのです。私たちの能力や、この世における成功や失敗とは関係なく、神の愛は私たち一人ひとりに注がれており、私たちもその愛に応えて神を愛し、神と共に、神の僕として、従う者として生きることができるのです。私たちの主人となって下さったイエス・キリストは、私たちから自由を奪い、奴隷のようにこき使おうとしておられるのではなくて、私たちが本当に喜んで、自分から、神を愛し、神と共に生き、神のみ心を行っていくことを願っておられ、そのためにご自分の命すら与えて下さいました。この主イエス・キリストこそ私のご主人さまであり、私はその僕、従う者だ、という信仰に生きるところには、「自分の人生の主人は自分だ」と肩肘張って生きている間は得られない、深い喜びと平安が与えられるのです。

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