召天者記念

最後の敵、死

「最後の敵、死」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第90編1-12節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第15章20-26節
・ 讃美歌:14、382

召天者と私たちを結びつけているもの
 本日の礼拝は、召天者記念礼拝です。この教会の教会員として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のことを覚えつつこの礼拝を守っています。お手元に、召天者の名簿をお配りしました。1991年以降の、つまり最近三十年間に天に召された方々の名簿です。昨年のこの礼拝以降新たにこの名簿に加えられたのは、丁度昨年の今日天に召された桑原功さん以降の14名の方々です。しかしこの教会は今年で147年の歴史があるわけですから、この名簿に記されている以前の百年以上の間に天に召された方々も勿論多くおられます。そのお名前を全て把握することはもはや不可能です。またこの名簿に名前がある方でも、どんな人か全く知らない、という人も多いでしょう。そのように私たちは、全く存じ上げない方々も含めて、この教会において信仰者として歩み、天に召された方々のことを記念してこの礼拝を守っているのです。
 しかし全く知らない人のことをどうして記念できるのでしょうか。教会では、先に天に召されたある方のことを覚えて、ご家族を中心にその方の「記念会」というのをすることがあります。その場合には、その方と親しかった者たちが集まって、その方に神さまが与えて下さった恵みを振り返りつつ礼拝を守ります。共に食事をして思い出を語り合ったりもします。しかし本日のこの礼拝において私たちは、そのように懐しく思い出すことができる方々だけでなく、全く面識のない、さらにはお名前も分からない方々のことをも記念しているのです。なぜそんなことができるのでしょうか。それは、私たちとその方々とを結びつけているものが一つだけあるからです。それは、主なる神がその方々と私たちとに命を与え、この教会においてご自分の民として歩ませて下さった、という事実です。その神の恵みのみ業こそが、私たちと召天者の方々とを結びつけている絆です。そして私たちも、遅かれ早かれ、地上の人生を終えて主のもとに召されていきます。召天者の一人となっていくのです。主なる神によって命を与えられ、人生を導かれ、そして神のみ心によって天に召される、そのことにおいて、召天者の方々と私たちとは一つなのです。このことを覚えることによって私たちは、全く存じ上げない方々のことをも記念することができるのです。

労苦と災いに満ちた束の間の人生
 私たち人間のこの世の人生は、主なる神によって与えられ、導かれ、取り去られるものです。そのことを印象深く語っているのが、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、詩編第90編です。旧約聖書創世記は、この世界の全ては神によって創造されたこと、そして私たち人間は、土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さったことによって生きる者となったことを語っています。神がその命の息を取り去られることによって、私たちは元の土の塵に帰っていくのです。そのことがこの詩の3節に語られています。「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」。私たちの地上の人生がどんなに充実しており、豊かであり、喜びに満ちたものであっても、神がひとたび「人の子よ、帰れ」とおっしゃったら、私たちの命は取り去られ、塵に返るのです。しかも神が命の息を吹き入れて下さってから「人の子よ、帰れ」とそれを取り去られるまでの地上の人生は、ほんの束の間だ、ということがここに見つめられています。6節に「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」とある通りです。しかもその束の間の人生は労苦と災いに満ちている、とも語られています。10節です。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」。この詩が書かれた紀元前の頃に比べて、現在の日本は寿命が随分伸びました。何しろ平均寿命が男女共八十歳を超えているのです。この詩においては、特別に健やかな人が八十に達することができる、と語られていますが、それが今では平均的なことになっているわけです。しかしそれだけ長寿になって、人間は幸せになったでしょうか。寿命が伸びても、それによって得るところは労苦と災いにすぎない、そう決めつけてしまってはいけないでしょうが、でも確かにそういう現実はあると思います。人生百年、と言われるようになっても、なおそれは束の間のことであり、その人生には苦しみや悲しみが多いのです。新型コロナウイルスのパンデミックの中で私たちはそのことを実感しているのではないでしょうか。

人間の罪に対する神の怒り
 人生は束の間であり、労苦と災いに満ちている、そのような人生の虚しさをこの詩は語っているわけですが、詩人はその虚しさの根本に、人間の罪に対する神の怒りを感じ取っています。7?9節にこうあります。「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。人生が束の間であり労苦と災いに満ちているのは、私たちの罪に対して神がお怒りになっているからなのです。
 そんなこと言われても納得できない、神を怒らせるような罪なんて犯した覚えはない、と私たちは思います。しかし、この世界は神によって造られ、私たちも神によって命を与えられた者です。しかも創世記によれば、神は私たち人間への愛のゆえに、私たちが生きることができる場としてこの世界を造り、整えて下さったのです。そのように全ての準備を整えた上で、そこに人間を造り、命の息を吹き入れて下さったのです。この世界が存在していることも、私たちがこうして生きていることも、全ては神の私たちへの愛によることなのです。また神は人間をご自分にかたどって、神に似た者として造って下さった、ということも聖書は語っています。それは人間が神の愛に応えて、自分も神を愛して、神と共に生きることができる者として造られた、ということです。神は私たちが神の愛に応えて神を愛し、神と良い交わりをもって生きることを期待しておられるのです。そのように私たちを愛しておられるのです。しかし私たちはこの神の愛に、その期待に、応えているでしょうか。神の愛を受け止めてそれに応えるどころか、むしろ「神なんていらない、関係ない」と言って、神を抜きにして自分たちだけで生きようとしており、神と共に生きることを頑なに拒んでいるのではないでしょうか。つまり私たちは神の愛を豊かに受け、生かされていながら、その神を無視している。それを聖書は「罪」と呼んでいるのです。人間に罪があるというのは、何かとてつもない極悪非道なことをしている、というのではなくて、もちろんそういうこともありますが、惜しみなく愛を注いで下さっている神を無視して、関係を築こうとしていない、ということなのです。この私たちの罪のゆえに、神と私たちとの良い関係は損なわれてしまっているのです。惜しみなく愛を注いだ相手から無視されたら、私たちだったら怒ります。神もそのように怒っておられるのです。私たちはそのことをうすうす感じています。自分に命を与え、人生を導き、そしてそれを取り去る方との関係がうまく行っていないことを感じているのです。それゆえに、人生の様々な労苦や災いに直面する時に、そして神が「人の子よ、帰れ」と言って私たちの命を取り去ろうとする、つまり死に直面する時に、そこに神の怒りを感じるのです。私たちが人生の虚しさを感じ、死を恐れているのは、命を与え、人生を導き、そして命を取り去る方である神と私たちとの良い関係が損なわれているからであり、私たちはそこに神の怒りを感じているのだ、と詩編90編は語っているのです。

主よ、帰って来てください
 そしてそれゆえにこの詩は13節以下でこのように神に訴え、願っています。「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」。自分たちの罪のゆえに神は怒っておられ、自分たちを見捨ててどこかへ行ってしまった、いなくなってしまった、その神に「帰って来てください」と願っているのです。本当は私たち人間の方が神を捨てて、神のもとを去ってしまったのですから、神のもとに帰らなければならないのは、つまり悔い改めなければならないのは私たちなのです。でも、主なる神さまに「帰って来てください、私たちを捨てておかないでください」と願うことしかできない、それが私たちの現実だということでしょう。「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」とか、「わたしたちに喜びを返してください」というのは、本来ずうずうしい願いです。自分たちが神の愛にちゃんと応えなかったから、慈しみを失い、喜びを失ってしまったのです。でも、自分の罪によって失ってしまった神の慈しみを、喜びを、つまり神との良い関係を、自分の力で、自分の信仰的努力で取り戻し、回復することは、私たち人間にはできないのです。だから、「主よ、帰って来てください。私たちを捨てておかないでください」と願うしかないのです。
 詩編90編はこの願いで終わっています。主なる神は、この人間の願いに応えて下さって、罪人である人間を救って下さったのです。人間が罪のゆえに失ってしまった神との良い関係を神ご自身が回復して下さったのです。そのことを語っているのが新約聖書です。新約聖書は、神の独り子イエス・キリストによって実現した救いを告げています。「主よ、帰って来てください」という人間の願いに、神は、独り子イエス・キリストをこの世に遣わすことによって応えて下さったのです。この世に来て下さった神の子主イエスは、私たちの罪を全て背負って、私たちの代わりに、十字架にかかって死んで下さいました。神の愛を無視して、神なんていらない、関係ない、と言って神と共に生きることを拒んだ私たちの罪と、それに対する神の当然の怒りとを、独り子主イエスが全て背負って、死刑を受けて下さったのです。神の独り子である主イエスが私たちのために死んで下さったことによって、神は私たちのもとに帰って来て下さったのです。

死の意味が変った
 この主イエスの十字架の死によって、死ぬことの意味が決定的に変りました。主イエスの十字架の死以前は、死ぬことは、神が「人の子よ、帰れ」と言って私たちの命を取り去り、私たちが塵に返されることであり、私たちはそこに人間の罪に対する神の怒りを感じずにはおれなかったのです。しかし主イエスの十字架の死によって、死の意味は変りました。神が「人の子よ、帰れ」と言って私たちの命を取り去り、私たちが塵に返る、そのことは変りません。しかしそこに込められていた、人間の罪に対する神の怒りは、主イエスが十字架の死において全て引き受けて下さったのです。死はもはや、私たちの罪に対する神の怒りや裁きによる滅びではありません。主イエスの十字架の死が自分のための救いの出来事だったことを信じるなら、死は私たちにとってもはや神の怒りによる出来事ではなくなるのです。地上の人生が終わり、愛する人々と共に生きることがもはやできなくなる、ということにおいて死が悲しみや苦しみであることは変りありませんが、しかしそこには、私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さった神の独り子主イエスが共にいて下さるのです。その主イエスが「人の子よ、帰れ」と言って下さり、私たちを、主イエスのもとへと迎えて下さるのです。主イエスと共にいる者とされ、それによって、神との良い関係を回復されて、神のもとに帰ることができる、それが、主イエスを信じる者の死です。私たちが覚えている召天者の方々は、主イエスの十字架の死によって決定的に意味が変ったこの死にあずかったのです。

私たちの復活を信じる
 けれども、主イエス・キリストによって実現した救いはそれだけではありません。死はもはや神の怒りによる滅びではない、召天者の方々は主イエスのもとに迎えられ、神との良い関係を回復され、その平安の内に置かれている、しかしそれでハッピーエンド、ではないのです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第15章20節以下です。ここで見つめられているのは、キリストの復活です。キリストの十字架の死は、三日目の復活と切り離して捉えることはできません。神の救いは、キリストの十字架の死と復活とによってなされたのです。キリストの復活においてどのような救いが実現したのか、がここに語られています。20節に「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とあります。「眠りについた人たち」とは、死んだ人たち、つまり召天者の方々のことです。キリストの復活はその方々の「初穂」だった。初穂とは、収穫の季節になって最初に刈り入れられたもの、その年の最初の実りのことです。初穂が与えられたということは、それに続いて続々と豊かな実りが与えられることが約束されているのです。キリストの復活はその「初穂」だった、ということは、それに続いて、「眠りについた人たち」の復活が約束されているのです。死んだ人のことが「眠りについた」と言われているのは、復活によって「目覚める」時が来ることを意識しているからです。主イエス・キリストの復活によって、召天者の方々の復活が約束されている、と聖書は語っているのです。主イエス・キリストの復活を信じるというのは、このことを信じることです。そうでなければキリストの復活に意味はありません。およそ二千年前にいたイエスという人が、十字架にかけられて死んだけれども、三日目に復活した、そういう出来事が本当にあったのかなかったのか、そんなことはいくら考えても分からないし、また私たちにとって意味はありません。肝心なのは、キリストの復活が初穂であって、それによって神は私たちにも、復活の約束を与えて下さっている、ということです。キリストの復活を信じるとは、いつか死んで召天者の一人となっていく私たち自身に復活が約束されていることを信じる、ということなのです。

神の国の完成において
 その私たちの復活は、23節にあるように、「キリストが来られるとき」に起こります。つまり復活して天に昇られた主イエス・キリストがもう一度来られる、いわゆる主の再臨の時です。それは24節にあるように「世の終わり」でもあります。24節に「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」とあります。主イエス・キリストがもう一度来られる時には、キリストの神の子としての力と権威が誰の目にもはっきりと示され、その国が、つまりキリストのご支配が完成するのです。それはキリストを遣わして下さった父なる神のご支配が確立し、神の国が完成するということです。キリストの再臨において神の国が完成し、その時に、私たちの復活も実現するのです。それが神による救いの完成です。キリストがもう一度来られてこの世が終わり、神の国が完成するその時に、主イエス・キリストを復活させて下さった神は私たちをも復活させて下さるのです。

最後の敵である死が滅ぼされる
 その復活ってどんなことなのだろうか、復活したら私たちはどうなるのか、どんな体が与えられるのだろうか、などと考えると分からなくなります。復活は、救いの完成において、神が私たちに、今のこの体とは違う全く新しい体を与えて下さることですから、いつか死んで葬られていく今のこの古い体しか知らない私たちには、復活したらどうなるのか、ということは分かりません。それを見て来たように語ることは誰にもできません。しかしここには、私たちが復活について最低限知っておくべき大事なことが語られています。それが本日の箇所の最後の26節です。「最後の敵として、死が滅ぼされます」。このことこそ、私たちが復活について知っておくべき最も大事なことなのです。復活とは、神が死を滅ぼして下さることです。死は、誰も抵抗することができない圧倒的な力をもって私たちを脅かしています。私たちはいつか必ずその力に捕えられ、支配されます。召天者の方々は既に死の力に捕えられ、その支配下に置かれたのです。私たちも同じようにいつか、死に支配されていくのです。その死の意味は、主イエスの十字架の死によって既に決定的に変っています。私たちにとって死は、神の怒りによる滅びではなくて、キリストと共にいる者とされること、神との良い関係を回復されることです。しかし死の力が私たちをいつか必ず支配するということには変わりはありません。けれども、それが最終的なことではないのです。この世の終わりに、この世界と私たち全てに対する神のご支配があらわになります。その時神は、最後の敵として死を滅ぼして下さるのです。死の支配はその時終わるのです。召天者の方々を支配している、そして私たちをも遅かれ早かれ必ず支配する死の力が、神によって滅ぼされ、召天者の方々も私たちも、そこから解放される時が来るのです。死の支配から解放された者は、生きるのです。しかももはや死に支配されることのない命を生きるのです。それが復活であり、永遠の命です。主イエスが復活して初穂となって下さったことによって、召天者の方々にも、私たちにも、この復活と永遠の命が約束されているのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えて下さったこの約束に共にあずかり、世の終わりに実現する復活と永遠の命を希望をもって待ち望んでいる、そこにおいて私たちと召天者の方々とは一つです。この希望を確認することによって私たちは召天者を記念するのです。

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