主日礼拝

貧しい人々への良い知らせ

「貧しい人々への良い知らせ」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1-11節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章39-56節
・ 讃美歌:208、175、127

<クリスマスの出来事>  
 2018年の最後の礼拝になりました。先週はクリスマス礼拝を守り、神の御子、イエス・キリストが、わたしたちの救いのために、人となって世にお生まれになったこと。そして、神がいつもわたしたちと共にいて下さる、ということが実現したことを聞きました。
 今日の聖書の「マリアの賛歌」は、イエスさまを聖霊によって身ごもった時のマリアの歌なので、クリスマスより、ちょっと遡ってしまいます。
 しかしこの賛歌は、主イエスが聖霊によってマリアの胎に宿ったことで、神がイスラエルの民と結ばれた救いの約束が実現し、すべての人に救いが及び、神の国の完成へと向かっていき、その時に何が起こるのか、ということを歌っている賛歌です。
 今日、わたしたちも、このマリアの賛歌を共に歌うことが出来るのです。

<主を大きくする>  
 さて、マリアがどのような場面でこの賛歌を歌ったかですが、マリアは天使のお告げを受けて、聖霊によって身ごもったことを知りました。そして戸惑いながらも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、神のご計画を信仰によって受け入れました。
 また、その時に天使が「しるし」として、年をとったエリサベトが身ごもっていることを告げました。それで、マリアは急いで確かめに行ったのでした。それが本日の箇所です。  
 エリサベトは確かに身ごもっており、マリアに出会うとその胎の子がおどり、またエリサベトも聖霊に満たされて、マリアを祝福しました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」  
 マリアは神の御業を確信し、自分の身に起こったことを、改めて喜びを持って受け止め、神を賛美しました。それが、「マリアの賛歌」です。  

 「マリアの賛歌」は、「わたしの魂は主をあがめ」という言葉から始まりますが、ラテン語では「わたしはあがめる」という意味の「マグニフィカート」という言葉から始まるので、そのように呼ばれることもあります。  
 「わたしの魂は主をあがめ」という部分は、直訳すれば「わたしの魂は主を大きくする」となります。主をあがめ、神を賛美することとは、主なる神を大きくする、ということです。それは同時に、自分を限りなく小さくすることでもあります。

 マリアは、自分が小さい者であることをよく知っていました。自分のことを「身分の低い、この主のはしためにも」と言っていますが、「身分の低い」というのは、単に社会的な地位のことを指すのではありません。神の御前に、本当なら立つことも出来ない、目に留められることもない、小さな僕に過ぎないということです。
 そのようなわたしに、神は目を留めて下さった。そのようなわたしを用いて、偉大なことをなさった。だから、わたしは幸いな者だ、とマリアは心から叫んだのです。

<自分を小さくする>  
 このように、自分を小さい者と知り、マリアのように主をあがめる者は、本当に幸いです。  
 ところが、わたしたちは中々自分を小さくすることが出来ません。へりくだることが出来ません。謙遜になろう、謙虚になろう、と意識していたり、わたしは小さい謙遜な者だ、などと思っている間は、恐らく本当に謙遜にはなっていません。
 また、へりくだることは、卑屈になることとは全然違います。「あの人と違って、自分なんてダメだ」と、人と比べて自分を必要以上に低く評価することは違うのです。
 とにかく、わたしたちは、自分を認めてもらいたいし、価値ある者だと思われたいし、尊重してもらいたい、気にかけてもらいたいと望んでいます。いつも自分を中心にしか、考えることが出来ません。わがままで、人を自分のように愛することが出来ません。人と比べて、少しでも上にいることを望みます。
 でも、謙遜でいなければならないことは知っているので、そのように装ったり、演じたりすることさえあるのです。そこにはまた、謙遜である自分が人に評価されること、批判されないことを望む思いがあります。

 しかし、わたしたちは、人の前ではなく、神の御前での自分の姿を見つめる必要があるのです。人は、その罪のために、本当は神の御前に出ることさえ出来ない者です。
 だからこそ、自分の中にではなく、ただ主にのみ、価値を見いだすこと。人の目ではなく、主の目に留められることだけを望むこと。自分の小ささ、無力さを認め、主の大きさに満たされるのでなければ、生きることさえ出来ないということを知ること。
 それが、本当に自分を低く、小さくするということであり、「神の御前にへりくだる」ことなのです。  

 自分が大きいと思っていては、主の大きさを受け入れることが出来ません。主をまことの自分の主人とすることは出来ません。
 自分が小さく、無に等しい、忘れ去られるような者であることを知っているからこそ、神がそのような自分に目を留めて下さり、憐れみ、顧みて下さったことを、心から喜び、感謝することが出来るのです。この主を大きくし、自分を支配する方として、あがめることが出来るのです。
 そして、主を大きくすることは、同時に、主が与えて下さる恵みと喜びに、空っぽの自分が充分に満たされることなのです。

 自分が大きくされることを望む中では、神が与えて下さる救いの恵みを、十分に受け入れることは出来ないでしょう。まだ足りない、もっとこうして欲しい、このようになりたいと、自分の理想を叶えることを望むようになるからです。その時、人は、神を自分より小さくして、自分に仕える存在にしようとしているのかも知れません。それでは、神を主人として仕えることは決して出来ないのです。

 主に仕えようとする時に、わたしたちはまず、わたしを支配し、主人となられるイエス・キリストが、どのような方なのかを知らなければなりません。
 この方は、天の栄光に包まれた神の御子でありながら、御自分を低くし、小さくし、貧しくなり、ユダヤ人の中でも顧みられることのないような、貧しい女性を母としてお生まれになりました。そして、無実の方であるのに、すべての人の罪のために裁かれ、辱められ、苦しんで十字架の死に至り、陰府にまで降られました。決して、わたしたちが行くことが出来ないところまで、深く、低く、降られたのです。
 わたしたちは、この低く降られた、御自分を徹底的に小さくなさったイエス・キリストを主人とするのです。ですからこの方を前に、本当は自分を大きくし、高める余地など、まったくどこにもありません。どんなにわたしが小さくても、この方が味わわれた程に低く小さくなることは出来ません。この方が、わたしのずっとずっと下から、深みから、わたしを包み、支えておられるのです。
 この方に従うためには、わたしたちは、ただこの方に自分を明け渡し、この方の御手に自分を委ねることしか出来ないのです。そこに、神は恵みを注ぎ、大きな御業を現わしてくださるのです。

<小ささ、貧しさ>
 さて、何も持たない貧しいマリアが神に選ばれ、その御業に身を委ね、「主に目を留められたわたしは幸いな者だ」と喜ぶ姿は、主イエスが教えて下さったこと、ルカによる福音書であれば、6:20に語られている「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」との御言葉を思い起こさせます。「貧しい人々に福音が告げられる」というのは、ルカ福音書全体の一つの主要なテーマとなっています。

 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」。
 何も持たず、自分を養うこともできず、自分を助けることもできず、ただ神の御力に頼ることしか出来ない。そのような人々は、神のご支配を求めるしかなく、また必ず神の恵みによって支えられます。このように神の恵みに生かされる者こそ、幸いです。

 しかし、繰り返すようですが、わたしたちは、自ら望んで貧しく、低くなることは出来ません。それは謙遜なふりをするのと、同じことです。
 貧しさ、低さというのは、わたしたちが望んで身を置くところではありません。貧しさとは、もちろん経済的なことだけではありません。飢え渇きの辛さはもちろんのこと、心が張り裂けるような悲しみであり、迫害の厳しさや痛みであり、傷つけられ、辱められることであり、病の苦しみであり、深い思い悩みです。また、逃れられない罪であり、神に逆らい、人を傷つけてしまう、醜く冷酷な自分の心です。それが、貧しさであり、低さです。
 決して、自ら望むなんてことはあり得ない、願わくばこれらから遠ざかり、無関係でいたいと望むもの。取りのけて下さいと、泣き叫びながら願うもの。それが貧しさであり、低さ、小ささなのです。

 罪に捕らわれたわたしたちは、自分で自分を小さくすることは中々できませんが、このような貧しさの中に置かれた時に、自分の小ささ、無力さ、貧しさを、はじめて思い知ります。
 しかし、絶望を感じる中で、ただお一人、近く共にいて下さり、頼ることができ、まことに自分を慰め、癒し、赦し、満たして下さるのは、イエス・キリストしかおられないことを知るのです。
 この方は、共にいて、わたしの苦しみを知っておられます。もっと深い苦しみを受けておられます。「御心ならば、この杯を取りのけて下さい」と、血のような汗を流して祈り、父なる神に「なぜわたしをお見捨てになったのですかと」叫んだ方です。あらゆる苦しみ、恥、悲しみを受け、死なれた方です。
 低いところにいる自分の、さらに最も深いところに、救い主である主がおられ、その御手が支えて下さるのです。主がわたしと共に低くにおられ、わたしを憐れみ、目を留め、御自分の命を与えてまで、救い出して下さるのです。そこでまことに、主がわたしに偉大なことをなさるのを見るのです。神の御手からのみ、助けが来るのです。

 貧しい中で、その神の御手を知っていることは幸いです。それは、世のあらゆることに優ります。この主の力ある御手を知っている者だけが、貧しさを、苦難を忍耐する力が与えられ、そこに現わされる神の栄光を仰ぐことが出来るのです。
 貧しい人々は、これらの最も良いもの、最も確かなものが何かを知らされ、またそれを与えられるのです。

<富>
 そして、「貧しい人々は、幸いである」に続く6:24で、主イエスは「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と言われます。
 主イエスに頼らずに、自分の持っているもので、自分を慰めようとするもの、自分を助けようとするものは、まことの救いを受けないで、自分を救うことが出来るように感じてしまうからです。主イエスを抜きにして、生きることができる、幸せになることが出来る、と思うことは、とても危険なことです。
 また、主イエスを抜きにして得る、この世における幸せや富とは、他の人との比較であり、優位に立つことであり、多く持っていることです。それはきりがなく、また決して満たされることがありません。そして、最後にはすべて奪われます。
 ルカによる福音書は、地上の富や、人が所有しているものが、命を救うことは決してできないことを、繰り返し語っています。

 富んでいる人は、与えられているもの、本当に自分を支えているものは、目に見えるものではなく、神の恵みであることを、深く覚え、知らなければなりません。より神への恐れを持ち、自分の貧しさをしっかりと見つめていなければなりません。
 わたしたちが色々と心の中に、自分の支えとなるものを自分で持っている内は、わたしたちは、まことの救いを携えて来て下さった主イエスを、心の外に立たせたままにしているのです。

 具体的に世の多くのものを持っていても、本当は自分が貧しい者であり、そのすべてを、神こそが支えて下さっていること、すべては神が与えて下さっていることを覚えるなら、持っているものを感謝して、喜んで用いることが出来るし、必要があれば、いつでもそれを捨て去ることもでき、人に与えることも出来るのでしょう。  
 何も持たず、思い煩わず、ただ神のご支配を願い求めなさい。「ただ神の国を求めなさい」(12:31)と主イエスは言われたのです。

<引きおろし、高く上げ>  
 そして、神の国、神のご支配が実現するとき、マリアが歌うようなことが起こります。
 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引きおろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」  
 これは、社会がひっくり返るような革命が起きる、ということを言っているのではありません。
 主が御業を実現し、救いが完成する時、すべての者が、誰一人支配者なのではなく、神こそがまことの支配者であることを知り、神の前に低くされるということです。すべての権力ある者も、富める者も、身分の低い者も、飢えた人も、皆、主イエスの罪の赦しを必要とする者です。
 また、貧しさ、低さの中で、主なる神を大きくし、神の支配を受け入れる者たちは、すべて満たされ、高く上げられるということです。主イエスによって、神の子とされ、神の国を相続する者とされるのです。  
 この、神の救いのご計画を、神と共に見ることを許されたマリアは、喜びに満たされて、その救いの実現を歌い、主を讃美したのです。  

 しかし、神に選ばれ、用いられるマリアの現実の歩みは、人間の目から見れば、決して喜びに満ちたものではありませんでした。2:22以下には、主イエスが生まれ、神殿で主イエスが献げられる場面がありますが、ここに、救い主の誕生を預言され、待ち望んでいたシメオンという人物が登場します。シメオンは、この幼子イエスさまこそ、神の約束の救い主であり、すべての民に光が与えられることを告げました。そして、マリアとヨセフ、幼子のイエスさまを祝福し、このように言ったのです。
 「ごらんなさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」  

 マリアは、神のなさる御計画のために、胸を刺し貫かれるのです。神のなさることのために、悲しみ、苦しみに遭うのです。自分の息子が、辱められ、苦しめられ、鞭打たれ、神に呪われた十字架につけられるのを見るのです。徹底的に、嘆きの中に投げ込まれ、貧しく、小さく、低くされるのです。しかし、そこにこそ、神の憐れみ、恵み、救いが注がれます。低くされた者は、高く上げられます。  

 まず、見つめるべきは、誰よりも最も低くされ、わたしたちのすべての罪を担い、死の中まで、墓の中まで、陰府にまで降られた主イエスが、神によって復活させられたということです。そして、わたしたちの罪の贖いを成し遂げ、高く天に上げられたのです。

 この神の御業は、人の経験するどのような貧しさ、低さ、小ささも包み込み、覆いつくし、打ち砕かれた者を、主イエスだけが与えて下さる恵みへ、喜びへと、引き上げます。  
 主イエスの救いを信じる者は、聖霊によって、主イエスと結ばれ、低い底の底から、高く神の栄光のもとにまで引き上げられます。そして、最も貧しい、小さい者が、主イエスによって、神の子と呼ばれるようになるのです。  

 クリスマスとは、このような救いの出来事の始まりです。
 救い主、主イエスの到来は、思い上がり、支配者のように振る舞う者にとっては、まことの王の出現の知らせであり、引きずり降ろされ、打ち散らされ、低くされる出来事です。  
 身分の低い、貧しい、小さい者にとっては、自分がどんなに小さくても、神が目に留めて下さることを知らされ、そのような自分のところに、神の御子主イエスが来て下さり、天におられる神のもとに、高く引き上げ、受け入れて下さるという出来事です。
 そして、そのすべての根底は、わたしたちへの神の愛、神の憐れみなのです。

<神の国>  
 わたしたちのこの一年の歩みは、どうだったでしょうか。身分の低い、貧しい者であったでしょうか。思い上がり、富める者ではなかったでしょうか。救い主イエスさまを受け入れる歩みだったでしょうか。来て下さった主人を、外に立たせたままではなかったでしょうか。  

 わたしたちは、神の御前に、ただ小さい者であることを認め、ただ神によって強められ、赦され、満たされることを信じ、祈り求めて、歩みたいと願います。  
 主イエスは、わたしたちのすべての罪を十字架の死によって贖って下さり、死から神が復活させて下さり、今は生きて天におられます。それは、わたしたちも、この方を通って、死に打ち勝ち、復活し、天に入れられるためです。天にわたしたちの場所を用意し、そこに高く引き上げて下さるためです。わたしたちは、この福音を知らされています。
 そして今、地上を歩みながらも、わたしたちは遣わされた聖霊によって、天の主イエスと共にあり、心を、魂を天に高く上げ、神を大きくし、ほめたたえることを許されています。主が再び来られ、終わりの日に完成する神の国を待ち望みながら、この礼拝の場において、今からその喜びに生き始めることを赦されているのです。  

 新しい年は気持ちを切り替える良い機会ですが、わたしたちは、いつでも、聖霊によって新しくされ、変えていただくことが出来ます。思い上がりを打ち散らされ、高いところから引き下ろされ、また、徹底的に貧しい中から高く上げられ、空っぽを良い物で満たしていただくことが出来るのです。  
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」
 世のすべての者が、共に声を上げて、このように歌い、神の国を求め、神のみを大きくし、新しい神の民として、歩んでいくことが出来ますように。
 この地上を歩みながら、ここに確かにある、見えない神の国を、選ばれ、召し集められたわたしたち一人一人が、教会の群れが、力強く、喜んで証しすることが出来るようにと、祈り願います。

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