主日礼拝

悲しみと悔い改め

「悲しみと悔い改め」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:ヨブ記第42章1-6節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第7章8-16節
・ 讃美歌:18、78、527

 パウロは、コリントの教会の人々に一通の手紙を書きました。その手紙は、8節にあるように、コリントの人々を悲しませるような手紙でありました。この手紙は、このコリントの信徒への手紙二の2章でも、言及されていました。それは、2章の3節「あのようなことを書いたのは、喜ばせてもらえるはずの人たちから、悲しい思いをさせられたくなかったからです。」4節「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。」とこの一通の手紙は、パウロが涙ながらにコリントの人々に書いた手紙であります。  

 この手紙を通して、パウロがコリントの人々に、なんらかの厳しいことを言ったのです。そして、その叱責は、今日の7章11節の後半で触れられている「例の事件」と言われていることと、関係があります。この「例の事件」も、2章の5節以下に書かれています。ここには、まとめますと、「具体的には何をしたかわからないけれども、ある一人の教会員が、パウロを悲しませるだけでなく、教会全体を悲しませるようなことをした。そして、その不義を行った者は、多数のものから罰を受けた。パウロは、その人に対しての罰はそれで十分で、これからは、その人を赦して、悲しみに打ちのめされないように力づけ、愛しなさい。」ということが5節以下には書かれていました。この「例の事件」の具体的なことや詳細については、色々と推測されていますが、実際にはよくわかっておりません。今日の7章12節で「不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく」と書かれておりますので、この「例の事件」では、教会員のある者が不義を行ったことで、教会の人の中で直接被害を被った人もいたということがわかります。パウロは、この涙ながらの手紙で、その事件を起こした人を叱責したり、その被害者を慰めたりということを書いたのではないと12節で言っています。この手紙は、パウロに対するコリントの人々の熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするために、書いたのだと、パウロは12節後半で、言っています。つまり、整理しますと、なんらかの事件が起こったけれども、その事件の当事者ではなく、そのまわりにいたコリントの人々に対して、パウロは涙を流しながら、なにかを叱ったということです。  

 ではその叱責の内容はなんだったのでしょうか。そのパウロの叱責の内容が、今日、わたしたちにとって、一番大切なメッセージとなります。結論から申し上げますと、コリントの教会は、一つのキリストの体になることができていなかったということです。それだけでなく、コリントの人々のある態度、ある行動が、パウロだけでなくイエス様をも悲しませ、傷つけていたのです。  

 ではコリントの人々がなにをしてしまったのかということを、見ていきたいと思います。この叱責は、「例の事件」と関係していると先ほど申し上げました。このコリントの人々が「例の事件」、つまり教会を動揺させるような事件に、コリントの人々が直接関与していた疑い、もしくは教会側になんらかの原因があったのでしょうか。それならば、パウロに怒られるということは、納得できます。自分たちも悪いことに関係していたのに、ある一人だけに罰を与えていたとしたら、それは大問題です。しかし、その線ではないということを、パウロが語っています。それは、11節後半で「例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」と証言しているからです。コリントの人々は、なんら、その不義を行った者のしたことに、関与していたり、それを起こさせたりしたわけではなかったということです。従って、コリントの人々が、この不義を行った者に行った処置、罰を与えたということですけれども、それも正しかったのでしょう。その処置はどのようなことをしたかはわかりませんが、現在の教会で例えれば、それは陪餐停止の戎規、つまり聖餐にあずかれないようにする、そのようなものだろうと思います。コリントの人々は、不義にも関与せず、正しく戎規を行った、それなのに、なぜかパウロに叱られたのです。  

 コリントの人々は、パウロのことを愛していましたし、パウロに対して従順であろうともしていました。何度も自分たちのことで怒られることはありましたが、パウロのことを慕っており、パウロに直接傷つけるようなことや、悲しませるようなことはしていないという自負もありました。パウロも、コリントの人々を愛しており、彼らに対して従順でありました。しかし、コリントの人々は、大事なことを見落としていたのです。その大事なことを、パウロはこのコリントの信徒への手紙二の冒頭から今までの所で、なんども書いており、またコリントの信徒への手紙一でも、そのことを強調していました。そのことがわかる箇所を、振り返って見たいと思います。コリントの信徒への手紙二1章6節「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」、2章3節「わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」。パウロは、ここでコリントの人々と自分が、常識では理解できないほど、密接につながっている、一つとなっているということを主張しています。パウロは、ここで自分の苦しみが、コリントの人々の苦しみにもなるけれども、自分に与えられた慰めも、コリントの人々の慰めにもなると言っていますし、またパウロの喜びが、コリントの人々の喜びとなるとも言っています。パウロは、コリントの人々と、関係世の中にある様々な関係とは比べ物にならないほどに、一つとなっていると考えています。パウロにとって、コリントの人々は、パウロ自身なのです。つまり、パウロは、コリントの人々に対して「あなたがたはわたしである」と感じており、さらに「わたしはあなたがた」であるとも感じているのです。だから、彼は、コリントの苦しみが、自分の苦しみにもなるし、自分の喜びがコリントの喜びになると信じています。パウロは、そのことを、コリントの信徒への手紙一12章26節で「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と表現しています。パウロは、教会の兄弟姉妹が、キリストの身体として、ひとつにされていると知っていました。だから、兄弟姉妹が、争い、分裂することに、とても痛みを感じていましたし、自分の身体が引き裂かれているような思いにもなっていました。さらにコリントの誰かが苦しむと自分も苦しくなっていたのです。   

 コリントの人々は、そのことを忘れてしまっていたのです。忘れてしまっていたのか、もしくはそのキリストの身体であり一つであるという真実を知識としては知っていたけれども、頭の中だけのことになり、そのことが実際の生活なかでは実を結んでいなかったのではないかと思います。彼らは、パウロから、「あなたはわたしであり、わたしはあなたである。」「それほどまでに一つとなっている」と言われて嬉しかったに違いありません。彼らは、パウロに対しては、本当に良い関係であろうと熱心になっていましたし、パウロの思いを自分の思いにし、ひとつとなろうと、頑張っていました。しかし、その彼らが、パウロを悲しませ、傷つけてしまったのです。それは、彼らが、例の事件の時に、不義を行った人に対して、「罰を与えた」だけになっていたからです。コリントの兄弟姉妹は、その不義を行った人に対して「あなたはわたしであり、わたしはあなたである」ということを忘れてしまったかのように、扱ってしまったのです。パウロは、コリントの人々に対して、罰を与えたことを怒っているのではなく、コリントの人々が罰を与えた後、その人が悲しみに打ちのめされたままにされていることが、ショックだったのです。その悲しみに打ちのめされたままの人も、パウロにとっては、「わたし」なのです。自分なのです。パウロは、その人が過ちを犯してしまったという意識でなく、「わたし」が過ちを犯してしまったと思い、その「わたし」がその過ちに対しての罰を多くの兄弟姉妹から受けたけれども、その後、だれからも、赦してもらえず、無視されて、愛されず、独りになっている。それは、悲しい、苦しい、痛すぎると、パウロは感じたのです。だから、パウロは、この「例の事件」に関しての手紙だったのですが、涙ながらに書いたのは、「コリント教会のあなたがたは、今わたしを苦しめ、傷つけている」と思ったからです。実際に「あなたがたは、今わたしを苦しめ、悲しませている」と書いたと思います。パウロは、その不義を行ったものが、「わたし」であるから、赦して欲しい、愛して欲しい、悲しませるのではなく、力づけて欲しいと彼は、本心でそうコリントの人々に書けたのだと思います。おそらく、さらに、パウロは、「このパウロが悲しみ、苦しみ、傷ついているということは、その身体の張本人であるイエス様も悲しみ、苦しみ、涙を流していると」コリントの人々に書いたでありましょう。パウロは、それほどまでに、自分がイエス様と、ひとつになっていると確信しています。彼はイエス様が傷つくということを、自分の体験してきたことの中でよく知っています。彼は、かつて、キリスト者を捕らえ、裁判にかけ、死刑に賛成している者でした。そのパウロがイエス様と出会い、回心をします。その回心の出来事の中で、彼はイエス様から「なぜわたしを迫害するのか」と問われたのです。彼は、キリスト者を傷つけるということが、イエス様を直接傷つけることであると、この時、知ったのです。だから、パウロ自身が、洗礼を受け、イエス様とひとつになってからは、自分を苦しんでいる時、同時にその身体であるイエス様も苦しまれる。自分が悲しんでいる時、イエス様も悲しまれる。自分が喜んでいる時、イエス様も、喜ばれるということを知っていたのです。ですから、その教会内で不義を行った者が、今、孤独で悲しみ、苦しみにあることを知り、自分も苦しみ、イエス様も苦しんでいるということを知っていたのです。だから、その者を、孤独と悲しみのままにしている、コリントの人々に涙ながらに「なぜわたしを、そしてイエス様をきずつけるのか」と訴えたのです。  

 この手紙を受け取った、コリントの人々は、悲しみました。彼らは、あの不義を行った者に対してのことで、愛するパウロと愛するイエス様を傷つけ、苦しめていたなどと思っていなかったからです。しかし、彼らは、その悲しみの後に、悔い改めたとパウロが9節で書いています。彼らは、本当に、パウロを苦しめ、悲しませてしまった、なにより、イエス様を傷つけて、苦しめてしまったということを、受け止めたのです。ですから、悔い改めたのです。悔い改めるとは、後悔して、反省して、もうしないようにするということではなく、神様の方に向きをかえて、神様を見つめて生きるようになるということです。彼らは、イエス様を傷つけていたということを、この時パウロの言葉を通して知ったので、本当にイエス様に赦しを請い願ったのです。それが悔い改めだったのです。パウロは、イエス様がコリントの人々に赦しを与えられることを知っておりました。パウロは、イエス様が「あなたがたのその罪のためにわたしが十字架で死んだのだ。だから赦されている。」とコリントの人々に、言ってくださっているに違いないとわかっておりました。だから、10節にあるように、コリントの人々が、「取り消されることのない救い」に与ったと確信していたのです。コリントの人々は、これらの経験を通して、本当に、自分たちがイエス様とひとつになっているということ、パウロとも兄弟姉妹とも、ひとつになっていることを知ったのです。「イエス様を傷つけてしまった」という自覚、その悲しみが、救いをもたらす悔い改めを生じさせたのです。  

 では、わたしたちは、どうでしょうか。今、わたしたちは、教会の兄弟姉妹に対して、「あなたはわたしである」「わたしはあなたである」「彼、彼女はわたしである」という自覚はあるでしょうか。「わたしはイエス様のものである、そしてわたしはイエス様の身体である」、そして「兄弟姉妹もイエス様のものであり、彼、彼女もイエス様の身体である」と思っているでしょうか。わたしが傷つく時、苦しむ時、イエス様も、傷つかれ、苦しまれる。彼、彼女が苦しむ時、悲しむ時、イエス様も苦しまれ、悲しまれる。それを、わたしたちは、忘れてはいないでしょうか。目には見えないけれども、わたしたちは、そのように苦しみと喜びを共有するキリストの身体として、一つとされているのです。兄弟姉妹の苦しみは、その兄弟姉妹だけのものでないのです。わたしの苦しみであり、イエス様の苦しみです。なぜならば、イエス様において一つとされているその兄弟姉妹は、自分であり、イエス様の一部であるからです。罰を受けた人も、わたしたち自身であり、それから孤独となってしまった者もわたしたち自身であり、慰めを求めるのもわたしたち自身なのです。兄弟姉妹は、もはや他者、他人じゃないのです。兄弟姉妹は、ひとつとなったわたしであり、イエス様御自身と言って良いほどにイエス様のものとなった者なのです。  

 パウロのこの手紙を通して、今日、イエス様は、それを忘れていたわたしたちに向かって、涙ながらに「思い出しなさい」「なぜわたしをきずつけるのか。」と言われております。イエス様を傷つけた。わたしを、わたしたちを救ってくださったイエス様を、わたしたちは傷つけておりました。これに勝る悲しみがあるでしょうか。しかし、今日、パウロは、この悲しみは、「取り消されることない救いに通ずる悔い改め」を生じさせると言っています。この悲しみは、神様の御心に適った悲しみだとも言っています。イエス様は、コリントの人々にも知らされてようにわたしたちにも「あなたのために、そのあなたの罪のために十字架に掛かったのだ。」といってくださっております。そして「既に赦されている。和解している。」と言ってくださっています。これがわたしたちの慰めであります。  

 わたしたちは今一度このことを胸に刻みたい。そしてもう一度これらのことを思い起こしたい。「兄弟姉妹であるあなたはわたしである。わたしはあなたである。あなたはキリストのもの。わたしもキリストのもの。あなたはキリストの身体であり、わたしもキリストの身体である。一部分が苦しめば、全体が苦しむ。ある一人が苦しむと、わたしも苦しむ。わたしが苦しめば、イエス様も苦しまれる。兄弟姉妹が苦しむと、イエス様も苦しまれる。わたしたちが、兄弟姉妹や隣人を、ただの他者にしてしまった時、イエス様の身体は引き裂かれるのです。その時、身体全体が、教会全体が、イエス様が苦しまれる。わたしたちは、それを時に、してしまっている。今、その悲しい現実があることを、イエス様が告げてくださいました。今、わたしたちは悔い改めねばなりません。主はそれを望んでおられます。主は赦してくださいます。わたしたちが、悔い改めた時、天には喜びがあるのです。「裂かれていた身体、ひとつになった。バラバラになっていた兄弟姉妹が、ひとつなった。バラバラになっていた愛する羊達が一つの群れになって戻ってきた」と、天も、そして主も喜んでくださるのです。 この今、この今が、わたしたちが悔い改めて、主とひとつになり、再び兄弟姉妹とひとつになる時なのです。悲しみが慰めと喜びになる時なのです。

関連記事

TOP