主日礼拝

み名をあがめさせたまえ

説 教 「み名をあがめさせたまえ」 牧師 藤掛 順一

旧 約 詩編第138編1-8節
新 約 マタイによる福音書第6章9節

神の子として生きるための祈り
主イエスが私たちに「こう祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を、先週から読み始めています。先週はその冒頭の呼びかけの言葉「天におられるわたしたちの父よ」について、この呼びかけの言葉が主の祈りにおいてある意味で最も大事なのだ、ということをお話ししました。主イエスは私たちに、神さまに向かって「天の父よ」と呼びかけて祈ることを教えて下さったのです。それによって主イエスは、主イエスの父である神が、私たちとの間にも、父と子という関係を築こうとして下さっていることを示して下さいました。私たちが、神に愛されている子として、天の父である神を信頼して生きていくために、主の祈りは与えられたのです。

「あがめさせたまえ」の意味は?
この呼びかけの言葉によって始まる主の祈りは、六つの願い求めから成っています。その一つ一つをこれから毎週の礼拝において味わっていきたいと思います。本日はその最初の願い求め、「御名が崇められますように」、私たちが普段祈っている言葉では「願わくはみ名をあがめさせたまえ」についてです。今私たちが礼拝において祈っている主の祈りの言葉は、1880年の訳です。指路教会の創立は1874年ですから、その6年後です。明治時代に訳された文語訳聖書では、本日の箇所は「願はくは御名の崇められん事を」となっていました。「崇められん事を」は、新共同訳の「崇められますように」と同じ意味です。それらと、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」は意味が違うように私たちは感じるのではないでしょうか。それは、「あがめさせたまえ」を「私たちにあがめさせてください」という意味に理解しているからです。しかしそれは実は私たちの誤解です。およそ150年前の日本語の意味が今私たちにはもう分からなくなっているのです。「あがめさせたまえ」は「崇められますように」と同じ意味です。この祈りは、私たちに神を崇めさせて下さい、と言っているのではありません。神ご自身が、み名を崇められるものとして下さるように、と祈っているのです。ちなみに、今教会学校の礼拝では、最近の新しい訳で主の祈りを唱えていて、この祈りは「み名が聖とされますように」となっています。新しく出た聖書協会協同訳における9節もこれと同じです。今は「あがめる」よりも「聖とする」と訳されることが多くなっているのです。

御名を聖とするのは誰か?
ここには、どういう訳語を用いるかよりも、もっと根本的な問題があります。その問題とは、神の御名を崇める、あるいは聖とするのは誰か、ということです。御名を崇めるのは私たちに決まっている、と思うかもしれません。しかしそれは「崇める」という言葉に引きずられた捉え方です。今申しましたようにこの言葉は、「聖とする、聖なるものとする」という意味でもあります。私たち人間が神の御名を聖なるものとするのであれば、それは「崇める」と訳すことができるでしょう。けれども、神の御名を聖なるものとするのは、果たして私たち人間なのでしょうか。私たち人間が何かをすることによって神の御名を聖なるものとすることなどできるのでしょうか。聖書において、「聖なる」の意味は、神のものとして区別された、ということです。イスラエルは聖なる民であるというのは、神がこの民をご自分の民として選び、他の民とは区別されたからです。十戒の中に、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。安息日が聖なる日であるのは、神がこの日を他の日から区別して、神を礼拝すべき日となさったからです。つまり何かが聖なるものとなるのは、神がそれをご自分のものとして選び分かたれるからなのであって、私たちが崇めることによってそれが聖なるものとなるわけではないのです。御名が聖なるものとされることにおいてもそれは同じです。御名を聖とするのは基本的に神ご自身です。ですから、「御名が聖とされますように」という祈りは、私たちに神の御名を聖なるものとして崇めさせてください、ということではありません。神ご自身が、御名を聖として下さることを祈り求めているのです。

御名を大いなるものとする神
神の御名を聖なるものとなさるのは神ご自身です。そのことを語っている聖書の個所の一つが、本日共に読まれた旧約聖書、詩編138編です。その2節に、「聖なる神殿に向かってひれ伏し、あなたの慈しみとまことのゆえに、御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって、あなたは仰せを大いなるものとされました」とありますが、この2節の最後のところは、聖書協会共同訳ではこうなっています。「あなたはすべてにまさって 御名と仰せを大いなるものとされた」。この訳の方がよいと思います。神が、ご自身のみ名を、すべてにまさって大いなるものとされた、つまり聖なるものとされたと語られているのです。神が御名を大いなるものとし、聖なるものとされたから、人間はその御名に感謝をささげるのです。

神が御名を聖なるものとして下さることによる救い
しかし、神がご自分の御名を聖なるものとなさるとは、具体的には何をなさることなのでしょうか。そのことを語っているもう一つの個所を読みたいと思います。旧約聖書エゼキエル書第36章の17節以下です(1355頁)。「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった。それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、『これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』と言った。そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。

23節に「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」とあります。神がご自身の御名を聖なるものとする、と宣言しておられるのです。それは、その御名が汚されているからです。神の御名を汚しているのはイスラエルの民です。18節に、「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚した」とあります。神に選ばれ、聖なる民とされたはずのイスラエルの人々が、神に背き、偶像の神々を拝むようになったことによって、神の御名は汚されたのです。神はその罪に対して怒り、彼らを約束の地から追いやり、他国に捕われの身とされました。いわゆるバビロン捕囚です。そのことによって神の御名は他国の人々の間でも汚されてしまったのです。そこで神は、おまえたちが汚した私の名を私自身が聖なるものとする、と宣言なさいました。イスラエルの民のためと言うよりも、ご自身の御名のために、神は行動を起こし、御名を聖なるものとなさるのです。具体的には何をするのか。それは24節にあったように「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」ということです。つまり、諸国に散らされてしまっているイスラエルの民をもう一度集め、国を再興して下さるのです。つまり彼らの罪を赦して、新しく出直させて下さるのです。そのことによって、「イスラエルの民が汚した神の御名を、神ご自身が聖なるものとする」ことが実現するのです。つまり神がご自身の御名を聖なるものとして下さる時、神の民であるイスラエルは罪を赦され、救われるのです。神がご自分の御名を聖なるものとしてくださることによってこそ、神の民は救われるのです。

神の御名を汚している私たち
エゼキエルが語っているように、イスラエルの民は、神の民とされていながら、神の御名を汚しています。それは私たちのことでもあります。私たちは、神の御名を聖なるものとするどころか、むしろそれをいつも汚しているのです。自分が神の御名を聖なるものとすることができる、などと思うのはとんでもない傲慢です。自分が神のために何かをすることができると思うことは、最も質の悪い傲慢です。なぜなら、自分は神のためにこれをしているのだ、と思っていると、自分と違う思いを持っている人、自分に反対する人は、神に敵対する悪魔だ、ということになるからです。そこには、批判を許さない自己絶対化が起ります。そういう自己絶対化に陥る時、私たちは平気で人を傷つけ、殺すようになります。ですから、自分が神の御名を聖なるものとすることができる、という思いほど恐しいものはない、と言わなければなりません。私たちが常に意識し、繰り返し確認していくべきなのは、自分は神の御名を汚している、ということです。自分が何かをすることによって、神の御名は聖なるものとされるどころか、ますます汚され、泥まみれになっていく、私たちはそういう罪人なのです。

神の民とされている私たち
けれどもそこで私たちが同時に知らなければならないことがあります。それは、私たちが神の御名を汚してしまうのは、神が私たちをご自分の民として下さっているからだ、ということです。イスラエルの民は神に選ばれ、召された神の民でした。主なる神が彼らを、ご自分の御名を背負う民として下さったのです。それゆえに、彼らの罪は神の御名を汚すことになったのです。神の民は、神の御名を背負って生きています。だからこそ、御名を汚す者にもなるのです。神と関係のない者が何をしようと、御名が汚されることはありません。つまり私たちが、自分は神の御名を汚していると意識することは、神が自分に関わって下さっており、自分を神のもの、神の民、神の御名を背負って生きる者として下さっていることを意識するということなのです。神が私たちを選んで、ご自分の民とし、神の御名を背負って生きる者としてて下さっているからこそ、私たちの歩みによって神の御名が汚されるということが起っているのです。

そして神は、私たちが汚してしまっている御名を、聖なるものとして下さるのです。つまり私たちの罪の尻拭いをして下さるのです。その時、24節にあるように、「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」ということが起るのです。つまりイスラエルの民が自らの罪の結果捕え移されている捕囚の地から解放され、故郷に連れ帰されるのです。つまり神は、ご自分の御名を汚している罪人を赦し、救って下さることによって、御名を聖なるものとして下さるのです。

御名の栄光を現してください
ここで、ヨハネによる福音書第12章27、28節を読みたいと思います(192頁)。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。』すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」

主イエスはここで「父よ、御名の栄光を現してください」と祈っておられます。御名の栄光が現されるとは、御名が聖なるものとされることです。主の祈りの最初の願いを、主イエスご自身がここで父なる神に祈り願っておられるのです。

御名の栄光はどのようにして現されるのでしょうか。主イエスはここで、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と言っておられます。これはヨハネ福音書におけるゲツセマネの祈りです。主イエスは、目前に迫った十字架の苦しみと死とを思って心騒ぎ、「わたしをこの時から救ってください」と祈っておられるのです。しかし同時に、「わたしはこの時のために来たのだ」とも言っておられます。主イエスがこの世に来られたのは、十字架の苦しみと死を引き受けることによって私たちの罪を赦して下さるためでした。だから主イエスは、「わたしをこの時から救ってください」と願いつつも、十字架の死への道を歩み通そうとしておられるのです。その決意をもって主イエスは、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られたのです。その祈りに父なる神が応えて下さり、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と天から語りかけて下さったのです。つまり御名の栄光は、主イエスが父なる神のみ心に従って十字架の死への道を歩まれることによって現されるのです。エゼキエルの預言において、御名を汚しているイスラエルの民を、その罪の結果である捕囚から解放し、救って下さることによって、神はご自分の御名を聖なるものとして下さると語られていたのと同じように、私たちが主イエスの十字架によって罪を赦され、救われることによって、神は私たちが汚している御名の栄光を表して下さるのです。「御名が崇められますように、聖とされますように」という祈りは、そのような主なる神のみ業を祈り求めているのです。ですから主イエスはこの祈りを、神のために祈りなさい、と言っておられるのではありません。神ご自身が神の御名を聖として下さることによってこそ、あなたがたの救いが実現する、そのことを願う祈りを、主イエスは与えて下さったのです。

天の父の子として生きるための祈り
主イエスは私たちが神に愛されている子として、天の父である神を信頼して生きていくために、主の祈りを与えて下さったのだ、と最初に申しました。それは、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけの言葉だけのことではありません。「御名が崇められますように」というこの第一の願い求めも、私たちが神に愛されている子として生きるために与えられているのです。ですからもしも私たちが、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉には、神が父として愛して下さっていることを感じることができるけれども、次の「御名が崇められますように」という祈りは、神をちゃんと崇めなければダメだぞ、と命じられているようで、父としての神の愛が感じられない、と感じるとしたらそれは間違いです。「御名が崇められますように」も、独り子主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、天の父となって下さった神の救いにあずかって、神の子とされて生きていくために主イエスが与えて下さった祈りなのです。

ハイデルベルク信仰問答において
私たちが普段唱えている「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」は、「私たちにみ名をあがめさせてください」という意味ではない、と先ほど申しました。しかし私たちが大切にしている「ハイデルベルク信仰問答」の問122の答えは、この祈りの意味をこのように語っています。「第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すそのすべての御業において、あなたを聖なるお方として、あがめ、賛美するようにさせてください、ということ、第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです」。つまり「ハイデルベルク信仰問答」はこの祈りを、私たちが神の恵みを正しく知って神を崇め、賛美することができるようにして下さい、そして私たちが神の御名を汚してしまうことなく、むしろそれがあがめられるような生き方ができるようにして下さい、という意味で捉えているのです。ですから、「私たちに御名をあがめさせてください」という捉え方もあながち間違いではありません。ただしそれは、私たちが御名をしっかり崇めることができたら救われる、ということではありません。私たちの救いは、神ご自身が御名を聖なるものとして下さったことによって既に与えられているのです。私たちは、御名を聖とするどころか、それを汚してばかりいる罪人です。その私たちの罪を、主イエスが十字架の死によって贖って下さり、赦して下さったことによって、神はご自身の御名を聖なるものとして下さったのです。私たちの救いはこの主イエスの十字架によって既に与えられています。私たちはその救いの恵みにお応えして、神の御名を崇めるのです。神が聖なるものとして下さった御名を、私たちも聖なるものとし、崇めるのです。私たちはそういう意味でのみ、神の御名を崇め、聖なるものとすることができます。それは、私たちが神のために何かをすることができる、ということではありません。私たちが神の御名を聖なるものとすることなど、できはしないのです。しかし神ご自身が、その独り子の命を与えて、私たちの罪を赦して下さり、私たちが汚している御名を聖なるものとして下さり、その御名の下に私たちをもう一度集めて、神の子として生かして下さるときに、私たちは、神の父としての愛を知って、感謝して、御名をほめたたえつつ、神の子として生きていくことができる、そのようにして私たちは、神を崇め、聖なるものとすることができます。そして私たちは、自分の生活のすべて、すなわち、思いと言葉と行いを正して、神の御名が私たちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ賛美されるように努めていくのです。「御名があがめられますように」という祈りは、私たちがそのように生きていくために主イエスが与えて下さったものです。この祈りを祈りつつ生きることによって、神は弱く罪深い私たちを用いて、御名の栄光を現して下さるのです。

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