主日礼拝

霊から生まれた者

「霊から生まれた者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第37章1-10節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章1-10節
・ 讃美歌:3、276、152、77

新しくなることを願っている私たち
 新しい年、主の2019年を迎え、その最初の主の日に神さまのみ前に集い、礼拝をささげることができることを、皆さんと共に感謝したいと思います。新年になると私たちは、「あけましておめでとうございます」と挨拶をします。何がおめでたいのかはよく分からないのですが、とにかくおめでとうございますと言い合い、「今年もよろしくお願いします」と挨拶するのです。12月30日が31日になることと、31日が1月1日になることの間には特に違いはありませんが、しかし今用いられている暦において2019年という新しい年になったことに、私たちはある新しさを感じます。新たな気持ちで新しい年を歩み出そうとするのです。そういうことが一年に一度あるのはよいことだと思います。真っ白な新しい画用紙に向かうように、ノートの新しいページを開いて書き始めるように、心機一転新しい思いをもって歩み出す、そのことを世の中全体でしているのが新年なのでしょう。
 それは私たちの誰もが、新しくなりたい、新しくやり直したい、という思いを持っているということだと思います。これまでの自分の歩みにはいろいろなつらいこと、苦しいことがあった、失敗したことがあった、人を傷つけたり傷つけられたりして、人との関係がうまくいかないことがあった、体にも心にもいろいろな弱さがあった。そして何よりも様々な罪があった、それらをご破算にして、新しい画用紙に向かって新たに絵を描き直していくように、ノートのページをめくって新しい、何も書いていないところから改めて書き始めるように、新しく歩み出したいと誰もが思っているのです。年末に大掃除をして新年を迎えるという習慣もそういう思いの現れだと言えるでしょう。
 新しい年を迎えた私たちのそのような思いと通じることを、本日の箇所、ヨハネによる福音書第3章で主イエスは言っておられます。3節です。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。新しく生まれること、生まれ変わって新しく生きることが人間には必要なのだと主イエスは言っておられるのです。新年に私たちもそのことを願っているのです。

翻訳の変遷
 ところで話は少し脱線しますが、ここに「はっきり言っておく」というお言葉があります。これはヨハネ福音書に特徴的な主イエスのお言葉です。既に1章51節にも語られていました。この言葉の原文には「アーメン」という言葉が二度繰り返されています。それを生かして直訳すると、「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」となります。その二回繰り返されている「アーメン」を日本語にどう訳すかが大変難しく、翻訳者を悩ませてきました。「アーメン」はそれだけだと、「本当にその通り、然り」という強い肯定の言葉です。主イエスはその言葉を二度繰り返した上で、「私はあなたに言う」とおっしゃったのです。私たちが今使っている新共同訳聖書はそれを「はっきり言っておく」と訳しました。以前の口語訳聖書では「よくよくあなたに言っておく」でした。そしてつい先月出版された新しい翻訳、「聖書協会共同訳」では「よくよく言っておく」となっています。新共同訳の「はっきり言っておく」は、はっきり言ってあまり良い訳ではなかったので、以前の「よくよく」に戻ったわけです。こういう翻訳の変遷を辿ることも、聖書を読む面白さの一つなのです。

神の国に入る
 そこで本筋に戻りますが、ヨハネ福音書において、主イエスがこのように「アーメン、アーメン」と繰り返してからおっしゃったことは、とても大事なことです。これから言うことは大事なことだからよく聞きなさい、という感じで主イエスは「よくよく言っておく」とおっしゃったのです。その枕があって、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われているのですから、これはとても大事なこと、主イエスが私たちにぜひとも伝えたいと思っておられることです。私たちが新たに生まれること、生まれ変わることを、主イエスご自身も私たちに求めておられるのです。
 新たに生まれなければ「神の国を見ることはできない」とありますがこの「見る」は、傍観者として「眺める」ことではありません。その後の5節、ここにも「はっきり言っておく」「よくよく言っておく」が語られていますが、そこには「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とあります。神の国はただ外から眺めているものではなくて、入るべきものです。神の国を見るとはそこに入ることなのです。神の国はそこに入らなければ意味がないのです。それこそが救われることだからです。だからあなたがたは、神の国に入るために、新しく生まれることを熱心に追い求めなさい、と主イエスは言っておられるのです。
 神の国に入る、ということを私たちは普通、死んだ後地獄ではなくて天国に行くことだと思っています。恐ろしい地獄ではなくて天国、神の国に入るために、今この地上の人生においてできるだけ良いことをするように教えているのが宗教だ、と世の中の多くの人が思っています。しかし主イエスが「神の国に入る」ということで言っておられるのは、そういうこととは違います。主イエスはここで、地獄の恐ろしさと神の国の素晴しさを比べて、だから神の国に入れるように努力しなさいと言っておられるのではないし、死んでから神の国に入るために今の内にこうしなさい、と言っておられるのでもありません。主イエスが言っておられることは裏返して言えば、「あなたは水と霊とによって新しく生まれるなら、神の国に入ることができる」ということです。新しく生まれるなら、あなたは今すぐにも神の国に入ることができる、と言っておられるのです。

ニコデモ
 そんな神の国なんてよく分からない、と私たちは思います。まさにそのように思った人のことが本日の箇所に語られているのです。それはニコデモという人です。この人は、1節によれば、ファリサイ派に属する人でした。それはユダヤ人たちの中でも、宗教的な指導者であるということです。神からの掟である律法を研究し、それに厳格に従って自分自身も生きており、一般の人々に律法に従って生きることを教えていたのがファリサイ派です。当時のユダヤ人にとっての聖書、それは私たちで言う旧約聖書ですが、その聖書に精通していた人です。そして彼は同時に、ユダヤ人たちの議員であった、とも語られています。その議会は最高法院と呼ばれ、大祭司を議長とする71人からなるユダヤ人の政治、司法の最高権威です。ニコデモはその議員の一人だったのです。そのように宗教的にも政治的にも高い権威と地位にいた人だったわけですが、そのニコデモがある夜、主イエスを訪ねて来たのです。「夜」というのは人目を忍んで、ということでしょう。彼は目立たないようにこっそりと主イエスのもとに来たのです。そして「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです」と言いました。「ラビ」とは律法の教師のことです。彼は主イエスを律法の教師の一人として尊敬をもって呼びかけています。それは、主イエスのなさったしるし、つまり奇跡のゆえです。2章25節に、主イエスが過越祭の間エルサレムに留まり、いくつかのしるし、奇跡をなさったことが語られていました。彼はそれを見て、イエスは神から遣わされた教師だと信じて、その教えを聞こうとして来たのです。今の25節の後半に、「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とありますが、ニコデモはまさにその一人だったのです。

私たちの代表であるニコデモ
 そのニコデモに対して主イエスは先程の3節のお言葉を語られたのです。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。しかしその主イエスのお言葉が、ニコデモには分かりませんでした。4節で彼はこう言っています。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。このニコデモの言葉を私たちはなんだかとても幼稚な反応のように感じます。主イエスが「新たに生まれなければ」とおっしゃったのは、もう一度お母さんのお腹から生まれて来いなどということではなくて、もっと精神的な意味であることが分からないのだろうか、と思うのです。でもだからといって、私たちにその精神的な意味が分かるのでしょうか。新たに生まれて神の国に入るとはこういうことだよと説明できるでしょうか。そんなことはありません。私たちも、「新しく生まれると言われてもよく分からない」ということにおいて、ニコデモと大して変わりはないと言わなければならないでしょう。ニコデモは、新しく生まれることによって神の国に入る、ということが分からない私たちの代表なのです。

肉から生まれたものと霊から生まれたもの
 ニコデモも、私たちも、新しく生まれるという主イエスのお言葉が分からないのはなぜなのでしょうか。どうしたら私たちはこのお言葉が分かるようになる、つまり新しく生まれて神の国に入ることができるようになるのでしょうか。そのヒントを語っているのが6節のお言葉です。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と主イエスはおっしゃいました。「肉から生まれたもの」と「霊から生まれたもの」とが対称的に並べられています。「霊から生まれたもの」とは、「水と霊とによって新しく生まれたもの」でしょう。それに対して「肉から生まれたもの」とは、まだ霊によって新しく生まれていない、古いままの私たちです。元々の、生まれつきの私たちです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」というのは、「肉から生まれたもの」である生まれつきの私たちはどこまで行っても肉なのであって、霊によって新しく生まれることが分からない、ということです。霊によって新しく生まれることが分かるのは、霊から生まれたものです。霊から生まれたもの、水と霊とによって新しく生まれた者だけが、霊のことが分かる。霊によって新しく生まれることが分かるのです。つまり、霊によって新しく生まれることは、霊によって新しく生まれなければ分からない、と主イエスはこの6節で言っておられるのです。

努力しても分からない
 そんな実も蓋もない話があるか、と思うかもしれません。霊によって新しく生まれなければ、霊によって新しく生まれることは分からないのだとしたら、生まれつきの、肉である私たちは、霊によって新しく生まれることをいくら分かろうと努力しても分からないということになります。それでは、霊によって新たに生まれることを、そして神の国に入ることを求めていくすべがないではないか、と思うわけです。そして事実その通りです。霊によって新しく生まれることは、私たちが分かろうとして分かることではないし、私たちが努力して求めていくことによって得られるものでもないのです。そのことは、ニコデモでさえそれが分からなかったことから明らかです。ニコデモは先程見たように、宗教的にも政治的にも、ユダヤ人たちの先頭に立っていた指導者でした。当時のユダヤ人たちの中で最高の学識を持つと共に、神のみ言葉である律法をしっかり学んでいた人だったのです。人間が頑張って得ることができるものを彼こそは得ていたし、人間の努力によって到達することができる境地に、彼こそは到達していたのです。その彼が、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という主イエスのお言葉が理解できなかった。何のことか分からなかったのです。だとしたら、私たちがどうにかすればそれが分かるようになるとか、努力して少しずつ新しく生まれ変わっていくことができる、などということはあり得ないのです。肉から生まれた私たちはどこまでいっても肉なのです。

風と霊
 それでは私たちには、新たに生まれて神の国に入るために、つまり救われるためにできること、なすべきことは何もないのでしょうか。「霊から生まれる」という不思議な出来事がたまたま起ることをただぼんやり待っているしかないのでしょうか。主イエスはそこで大切なことを語って下さいました。7、8節です。「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。主イエスはここで「風」をたとえに用いてお語りになりました。その「風」という言葉は「霊」とも訳すことができます。新しい聖書協会共同訳を見るとそのことが欄外に書かれています。風と霊とは共通するところがあるのです。何が共通しているか。私たちは風そのものを見ることはできません。風がどこから吹いてきて、どこへ吹いていくのかを知ることはできないし、ましてそれをコントロールすることはできません。風は私たちの思いや予測や常識を超えて、また私たちの努力とは関係なく、自由に吹いて来るのです。そこが、風と霊との共通するところです。霊、神の霊も、目に見えないし、私たちの予測や常識を超えて、また私たちの努力とは関係なく自由にそのみ業をなさるのです。しかし私たちは目に見えない風の音を聞くことができます。その「音」という言葉には「声」という意味もあります。風の音が聞こえることが、神の霊、聖霊が語りかける声が聞こえて来ることと重ね合わされているのです。目には見えないし、予測できない、また私たちの努力とも関係なく、しかし確かに生きて働いておられる神の霊、聖霊が、私たちに語りかけて下さり、そして私たちを確かに新しく生まれ変わらせて下さるのです。「霊から生まれた者」として下さるのです。風のように吹いて来るこの聖霊を信じて、求めなさいと主イエスは言っておられるのです。

信仰の基本
 聖霊が自分を生まれ変わらせ、新たに生きる者として下さることを信じて祈り求めること、新しく生まれて神の国に入るために私たちに出来るのはこのことだけです。しかしこのことがあるかないかは決定的な違いです。ニコデモはこの主イエスのお言葉を聞いてもなお9節で「どうして、そんなことがありえましょうか」と言っています。聖霊の自由な働きによって自分が新しくされ、生まれ変わることを信じることができないのです。そのニコデモは主イエスに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と叱られてしまいました。神の民であるイスラエルにおいて、このことは基本中の基本ではないか。アブラハムを始めとするイスラエルの先祖たちを選び、その旅路を導き、ご自分の民として下さったのは神の霊のみ業ではないか。エジプトでの奴隷の苦しみの中にあったこの民が、モーセを通して行なわれた数々の奇跡によって救い出され、約束の地カナンへと導かれたのも、また国を滅ぼされバビロンに捕囚となっていた民をこの地に連れ帰ったのも、すべて主なる神の霊、聖霊のお働きではなかったのか。人間の思いや計画や努力を超えて自由にみ業を行なう神の霊、聖霊によって導かれてきたのが神の民イスラエルではないか。神の霊が吹き来るなら、枯れた骨も復活し、新しく生きる者となることを、あのエゼキエルの預言も語っているではないか。この神の霊、聖霊のみ業を信じることが、主なる神さまを信じる信仰の基本であり、そこに、あなたが新しく生まれ変わり、霊から生まれた者とされる希望があるのだ。そのように主イエスは言っておられるのです。
 私たちも、この信仰の基本を見失わないようにしなければなりません。ニコデモが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という主イエスのお言葉を受け止めることができなかったのは、彼が主イエスの教えをちゃんと聞いていなかったからではありません。彼は主イエスが「神のもとから来られた教師」であると信じて、その教えを聞きに来たのです。また彼の信仰における知識や努力が足りなかったからでもありません。彼は聖書について、当時の人々の誰よりも深い知識を持っており、また神に従って生きようと熱心に努力していたのです。しかし彼には欠けていたことがあった。神の霊、聖霊がみ業を行なって下さるなら、自分が新たに生まれ変わることができる、新しく生き始めることができる、ということを信じて求めることが彼には欠けていたのです。そしてそれこそが、信仰をもって生きるために決定的に必要なことだったのです。聖霊のお働きによって自分が新しくされること、変えられることを信じることなしに何をどう努力しても、たとえ主イエスのことを尊敬し、一生懸命良い行いに励んでも、私たちは新たに生まれることはできないのです。神の国に入ることはできないのです。救いにあずかることはできないのです。

聖霊の自由なお働きを信じて
 新しい年を迎えた私たちは、新しくなりたい、心機一転新たに歩み出したいと願っています。その私たちに主イエスが今問いかけておられるのは、あなたは本当に新しくなることができる。聖霊なる神はあなたを本当に新しく生まれ変わらせ、新しい人生を生きる者とする、そのことをあなたは信じるか、ということです。私たちは、新しくなりたいと願いながらも、自分が本当に新しく生まれ変わることなどあり得ないと思っているのではないでしょうか。ニコデモと同じように「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いながら、大掃除をしてカレンダーを新しいものに掛け替えるぐらいで、何となく新しくなったような気分だけを味わっているのではないでしょうか。しかし、聖霊なる神がその自由なみ業を行なって下さるなら、私たちは本当に新しく生まれ変わるのです。霊から生まれた者とされるのです。神の国、神さまの恵みのご支配の中を生き始めることができるのです。そのみ業は、私たちの努力によって起るわけではないし、そのみ業を引き起こす方法があるわけではありません。必要なことはただ一つ、聖霊の自由なお働きを信じて祈り求めることです。その信仰と祈りに生きる新しい年でありたいのです。

洗礼と聖餐にあずかって
 そしてもう一つ、主イエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。私たちが新しく生まれるのは聖霊のお働きによってですが、主イエスはそこに「水と」を付け加えておられるのです。それは洗礼における水です。聖霊によって生まれ変わり、新しく生きていくことが、洗礼を受けることと結び合わされているのです。私たちの生まれつきの、罪に支配された自分が死んで新しく生まれ変わるのは、主イエス・キリストの十字架の死と復活にあずかることによってです。洗礼はそのことの目に見えるしるしであり、洗礼を受けた者は、生まれつきの自分が主イエスの十字架にあずかって死に、主イエスの復活にあずかって生まれ変わったことを信じて生きることができます。洗礼において私たちは、水と霊とによって新しく生まれ、神の国、神の恵みのご支配の中で生きる者とされるのです。そして洗礼を受けた者は、本日も行われる聖餐にあずかりつつ歩みます。聖餐は、世の終わりに神の国が完成する時、つまり私たちの救いの完成の時に、神のみ前であずかる盛大な祝宴の予告編です。洗礼を受けて生まれ変わり、主イエスと結ばれて神の国に入れられて生きる者は、聖餐にあずかりつつ、世の終わりの神の国の完成を希望をもって待ち望みつつ歩むのです。洗礼と聖餐という二つの聖礼典にあずかり、聖霊なる神がその自由なお働きによって私たちを新しく生かして下さることを信じて祈り求めながら、2019年を歩んでいきたいと思います。

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