「ともにいる」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章18-25節
・ 讃美歌:255、267
<もうすぐアドベント>
今日は、青年伝道夕礼拝です。多くの方たちと共に礼拝を守ることができ、感謝です。
さて、先ほどご一緒に歌ったのは、クリスマスの讃美歌です。もう今週から12月に入って、次の日曜日から「アドベント」という期間に入ります。
アドベントは、日本語では「待降節」、イエスさまの降誕を待つ節、と言いますが、アドベントという言葉はもともとは「到来」、やって来る、という意味です。イエス・キリストが人間となってお生まれになり、この世へやって来られた、その「到来」を覚えて待つ時、ということです。
そして、アドベントにはもう一つ意味があります。それは、イエス・キリストの終末の再臨を待つ、ということです。十字架で死なれ、復活された後、天に上げられたイエスさまは、終わりの日、救いの完成の時に、再び来られると約束なさいました。この到来を待っています。
わたしたちは12月になると、イエスさまのご降誕を覚えてクリスマスを待つアドベントを過ごしますが、同時に、この世の終わりの日まで続くアドベント、イエスさまの再臨を待つ時を、年がら年中過ごしている、ということになるのです。
さて、横浜指路教会は、若者が大好きな「みなとみらい」がとても近いのですが、その辺りもクリスマスに向けて、もうすっかり準備が整っているようです。お店なんかは、ハロウィンが終わった瞬間、すぐクリスマスの雰囲気に変わりました。
クリスマスの本当の意味を分かって、たくさんの人がクリスマスを楽しみに、指折り数えて準備して待っている、というのなら良いのですが、最近では、イエスさまが生まれたことを記念する日だということさえ、知らない人がいると聞きました。それはだいぶショックでしたよね。教会がもっと、本当のクリスマスの意味を伝えなくちゃいけないな、と思いました。
そういえばだいぶ前ですが、あるタレントさんがテレビで、「あたしはキリスト教信じてないから、クリスマスはお祝いしない。信じてる人に悪いもん」と言っていました。クリスマスの意味をちゃんと知っているし、とっても真面目な人なんだな、と思いました。
<クリスマスとは>
さて、クリスマスに備えるアドベントですが、教会に集うわたしたちは、どのように覚えて、この期間を過ごしたらよいのでしょうか。
そもそも、クリスマスとは、どういう出来事だったのでしょうか。
それは、今日の聖書箇所にあるように、「自分の民を罪から救う」ために、神さまの御子がこの世にお生まれになることでした。そして、そのことによって、預言者を通して神さまが語られたこと、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」ということが実現する、ということであった、と語られています。
「インマヌエル」とは、聖書にあるように、「神は我々と共におられる」という意味です。
わたしたちは、「神さまが共におられる」ということを、どんな風に思っているでしょうか。神さまが、天からいつも見守っていてくれて、何でもお出来になる力で、わたしが困った時に助けてくれる。わたしの悩みを解決してくれる。それだけのことだと思っているなら、本当の神さまの深い愛と御心を、十分に受け取っていないかも知れません。
むしろそれは、神さまを、わたしを助けるための存在にしてしまい、神さまを自分の都合の良い神さまにしてしまっているかも知れません。
神の御子であるイエスさまが、人となって、この世に来て下さるというのは、もっと壮絶で、天地がひっくり返るような出来事です。
本来、触れることも、見ることも出来ない、世界をお造りになった、その神さまの御子が、人に世話をされ、守られなければ生きることができない、そんな弱く、小さな一人の赤ん坊になって、この世に差し出されたのです。そうやって世界の歴史の中に、わたしたちの中に、「到来」されたのです。
アドベントは、冒険という英語のアドベンチャーの語源であると言われています。冒険は、危険を冒す、と書きますが、神がこの世に来られるとは、まさにご自分を弱くし、小さくし、危険に晒すような出来事でした。
なぜ神さまが、そんなことをなさるのか。それは、わたしたちと同じになるためでした。
なぜ神の御子が、わたしたちと同じにならなければいけないのか。それは、わたしたちの苦しみ、悩み、そして罪も、永遠の滅びに至る死も、それらすべてにおいて、この方が本当にわたしたちと共にあり、それらすべてを、この方がわたしたちの代わりに担って下さるためでした。
それは、今日お読みした旧約聖書のイザヤ書の「苦難の僕」と呼ばれる歌に、示されていたことです。少し抜粋してお読みするので、聞いていて下さい。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/かれが打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」
わたしたちの罪とは、造り主である神さまから離れ、道を誤り、自分の思うがままの方向へ歩むことです。聖書の罪は、「的を外す」という言葉で、本来向かうべき神さまの方向を向かず、自分勝手な歩みをすることです。それは、神さまを悲しませ、怒らせることです。また神さまから離れるということは、命から、恵みから離れていくこと、つまり永遠の滅びへと向かっていくことなのです。
しかし神さまは、離れてしまった者たちが、神さまの許に立ち帰ることができるように、神の御子がまことの人となり、すべての人の苦しみを引き受け、十字架で死なれることを通して、ご自分の民、つまりわたしたちを罪から救おうと、ご計画なさったのです。そのようにして、イエス・キリストという方が、神がわたしたちと共にいる、ということを実現して下さったのです。
<イエスさまが来られた次第>
その神さまのご計画のために選ばれたのが、今日の聖書箇所に登場する、マリアとヨセフという、婚約したばかりの夫婦でした。
18節から、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とあり、イエスさまがお生まれになるまでのことが語られています。
神の御子イエスさまが、自分たちの子どもとして到来する。そんな、ヨセフとマリアの、世界で最初のアドベントです。
現代のわたしたちは、アドベントの時を、うきうきワクワクしながら、飾り付けをしたり、プレゼントを準備したりして、楽しく待っているかも知れませんが、ヨセフとマリアのアドベントは全く様子が違いました。
本当は、一人の赤ちゃんが生まれる、ということでも、家族は心待ちにして、色々準備をして、喜んで待っているものではないかと思います。
でも、イエスさまがお生まれになるために、神さまに選ばれたマリアとヨセフは、苦しみと、悩みと、不安を覚えなければなりませんでした。そしてヨセフは、その中で神さまの御業を受け入れ、神さまのご計画に従うという信仰の決断を求められた。アドベントとは、そのような出来事だったのです。
イエスさまは、神の御子ですが、まことの人となってこの世に来られました。それは、マリアが聖霊によって身ごもった、ということに表されています。
マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が一緒になる前に、身ごもっていることが分かったのです。マリア自身が聖霊によって身ごもったことを天使に告げられ、受け入れるまでの出来事は、ルカによる福音書に詳しく語られています。
しかし、マタイによる福音書では夫のヨセフを中心に語られているのです。
ヨセフがどれだけ悩み苦しんだかは、察して余りあります。マリアは、自分は聖霊によって身ごもっている、と訴えたでしょうが、それは簡単に信じられることではありません。マリアに対する疑いが起こり、悲しみを覚え、これからどうすれば良いのか、途方に暮れてしまったと思います。
そして19節に「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。
当時、婚約というのは結婚と同じ重さを持っていました。婚約したら法律上では既に夫婦です。そうして一定期間を過ごし、結婚して一緒に生活を始めるのです。だから婚約中なのに、他の男の人と関係を持ってしまったりすると、それは姦淫の罪となり、その女の人は石打ちの刑で殺されてしまうのです。
「マリアのことを表ざたにする」ということは、マリアが自分との関係なしに身ごもっていることを公にして、刑に処す、ということです。しかしヨセフは、そうすることを望まなかった。マリアが殺されないで済む道を考えようとしたのです。
ヨセフは「正しい人であったので」とあります。もしそれが、正義感に溢れ、決められたことは必ずその通りに守る!という「正しさ」であったなら、ヨセフはマリアを表ざたにして、律法で定められた通りに、死刑にしていたのではないかと思います。
でも、聖書が語る「正しさ」は、そのようなことではありません。相手との関係を大切にすること。相手のことを思いやり、心から愛するということ。それが、聖書が求めている「正しさ」なのです。
ヨセフは正しい人であった。相手を愛し、思いやる人であった。だからこそこのことは、マリアを思うがゆえに、誰にも相談できない、深い、孤独な悩みであったのです。
何が起こったのか。どうしてこんなことになったのか。どうしたらいいのか。そうして思い悩み、考え込むヨセフに、主の天使が夢に現われました。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。
天使は、マリアが身ごもっている理由を告げました。それは、聖霊によって宿った、つまり、神さまのご計画によることであること。そして、生まれてくる子どもが、「自分の民を罪から救う」者である、神の救いのご計画を実現する者である、ということ。そのことをヨセフに示したのです。
「その子をイエスと名付けなさい」とありますが、「イエス」という名前は「主は救い」という意味です。これは特別な名前ではなく、当時よくある名前でした。人々は、主なる神への信仰を表す名前として、「主は救い」「イエス」と名付けたのです。
しかし天使は、生まれてくる子どもは、この子自身が「主」となり、「自分の民を罪から救う」と言いました。
そして、名前を付けるというのは、その父親が責任をもってなすべきことであり、それは同時に、赤ちゃんを自分の子どもとして認め、受け入れるということでした。
神さまは、天使を通してヨセフに、聖霊によって身ごもった妻マリアを迎え入れること、そして、生まれて来た子どもを、自分の子どもとして受け入れることを、求められたのです。
神は、すべての人を罪から救う、その救いの御業をなさるために、ご自分の御子を、一人の小さなマリアという女性に宿らせ、一人の貧しい大工のヨセフという男に、その命を委ねられたのでした。
<ヨセフの決断>
さて、ヨセフが妻マリアを迎え、その子を自分の子とする、ということが、一体どういうことであったのか。
ヨセフは「ダビデの子ヨセフ」と言われているように、イスラエルの民の中でも、ダビデの家系の者でした。そして旧約聖書には、このダビデの子孫から、まことの王が誕生する。約束の救い主が現れる、ということが、預言されていました。
イエスさまは、ヨセフと直接血が繋がっていませんが、ヨセフが自分の子として受け入れたことで、イエスさまは確かにこのダビデの家系図に連なることになります。
そうして、ダビデの子孫から救い主がお生まれになる、という預言が、実現することになるのです。
それはつまり、旧約聖書の時代からの神さまの、長い計画の実現が、一人のヨセフという男の決断に委ねられていたということです。これは驚くべきことではないでしょうか。ヨセフがイエスさまを受け入れることが、すべての人を罪から救う、その神さまの御業が実現するために、必要だったのです。
そして、神の御子は、まことの人となり、まったく弱く、世話をしてもらわなければ生きられない、小さな赤ん坊としてお生まれになりました。生きるために、養い、守ってもらわなくてはならない存在です。そのために、神さまはヨセフを選び、聖霊によってマリアが生む子を、あなたの子として受け入れ、守り、育てて欲しいと、イエスさまを託されたのです。
そうして、ヨセフは天使が命じた通りにした、とあります。
このようにして、ヨセフはイエスさまの到来を受け入れました。これが、世界で最初のアドベントです。
不安と悩みの奥底で、祈り求める中で、神の御言葉を聞き、聖霊の働きを信じる中で与えられた、ヨセフの決断でした。
ヨセフが神の御子イエスさまを受け入れ、その命を預かって育てることは、神さまのご計画に参加することであり、救いの御業に欠かすことの出来ないことでした。
しかしそれはまたヨセフにとっては、神さまがこの救いのご計画を必ず成し遂げてくださると信じ、これから先のことをすべて神に委ねて、そのご計画に飛び込んでいくということでした。このことは、ヨセフにとっても冒険であり、アドベンチャーだったのです。
これは、信じるべき事柄でした。神が人になられるということ。天使が神さまの御言葉を告げてくれたとは言え、目に見える確かなものは何もありません。ヨセフは、ただただ、御言葉を信じて、従うしかありませんでした。しかし、このやって来られるイエスさまを受け入れる決断と、神さまの御言葉に応え、信頼して、神の御業に仕えることを決めた、ヨセフの真剣な態度を、神さまは望んでおられたし、喜ばれたのです。
ここに、神さまと人との、深い、真剣な、交わりがあります。この交わりこそ、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ということなのではないでしょうか。
<わたしたちの決断>
だから、神がわたしと共におられる、ということは、高い遠くの天から見守っている、ということや、神によって自分の願いが叶うことや、単純に抱えている苦しみや悩みが解決する、ということではありません。
それはわたしたちが、救いのために、低くまでやって来られたイエスさまを信じ、受け入れ、神の望まれる歩みをすることです。そしてそこには、神と共に歩むことで、抱えなければならなくなる苦しみがある、ということです。
しかしそれは、神がすべてご存知の苦しみであり、神が共にいて下さるからこその悩みです。その根底には、イエスさまがご自分の命を与え、わたしたちの苦しみも、死も担って下さり、新しい命を与えて下さる、まことの救いがあります。
世の終わりに再び来られ、救いの完成を与え、わたしたちにも復活を約束して下さる、その救い主が近く、共にいて下さる、という、まことの喜びと平安が満ちているのです。
わたしたちにも、誰にも語ることの出来ないような、孤独な苦しみ、悩みの奥底で、絶望の中で、あなたと共にいる。あなたのもとに行くから、このわたしを受け入れなさい、とイエスさまがご自分を差し出して下さっています。神の救いに、自分を委ね、献げなさい、と言われているのです。
神さまは御言葉によって語りかけ、わたしたちがそれに答えること、イエスさまを受け入れ、神さまとの交わりを始めることを、求めておられます。待っておられます。
ある求道者の方が、救いとは、わたしたちがイエスさまを受け入れることだ、と聞いて「神さまって、人間のことをとっても信頼しているみたい」と言われたことがあります。その通りだと思いました。
神さまは、ご自分の意のままに人間を操って、支配なさろうとするのではありません。
神さまは、わたしたちと真剣に向き合い、愛する関係を築こうとして下さる。愛をもって語りかけ、わたしたちがそれに喜んで答えることを信じ、待って下さっているのです。
ですから、アドベントは、神の御子がやって来られるのをただ待つだけではありません。来て下さる方を真剣に見つめ、自分の存在を懸けて受け入れることです。
ヨセフが天使から神さまの御言葉を聞き、救いのご計画を示され、そのことを信じて従う決断をしたように、わたしたちも、神の御言葉に励まされ、恵みを示され、この神の救いの計画に、あなたも入ってきなさいとの招きに応えて、冒険の一歩を踏み出すということなのです。そうして、神さまと共に、まったく新しい人生を歩み出す、ということなのです。
洗礼を受けるということは、まさにこの具体的な一歩です。
そこに、本当に深い、真剣な神さまとの交わりがあり、「神がわたしと共にいてくださる」喜びが与えられていくのです。
マタイ福音書の一番最後の章の28:19には、このようにあります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
復活の主イエスの、約束とご命令です。この世にお生まれになった時から、復活して天におられる今も、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って下さいます。
また、最初から変わらず、神さまはご自分の救いのご計画に、わたしたちを用いようとして下さいます。福音をわたしたちに委ね、まだイエスさまを知らない人に、この福音を知らせて欲しい。救いの完成に向かって、共に歩み、共に働いて欲しい。そういって、ヨセフのように、大切な救いの御業の一端をわたしたちに委ねて下さるのです。それが、教会の歩みです。
そうして、イエスさまの再臨の終わりの日までのアドベントを、わたしたちはまことに神さまと共に歩み、インマヌエルの恵みを、ますます深く味わっていくのです。