主日礼拝

婚礼を祝す主イエス

「婚礼を祝す主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:列王記下 第4章1-7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第2章1-12節
・ 讃美歌:229、127、457

婚礼を祝す主イエス  
 本日ご一緒に読むヨハネによる福音書第2章1節以下には、ガリラヤのカナにおける婚礼の宴席で、主イエスが、水をぶどう酒に変えるという奇跡をなさったことが語られています。この婚礼には、主イエスの母と主イエス、また弟子たちが招かれて列席していました。主イエスが結婚式の披露宴の席に着いておられる、そういうお姿を私たちはあまり思い浮かべることがないかもしれません。主イエスはどんな顔でそこにおられたのでしょうか。お酒を飲み、宴会を楽しんでいる人々の間で、仏頂面をして、こんなことはよろしくない、というオーラを発しておられたのでしょうか。そんなことはないでしょう。婚礼の祝宴に連なるのは、列席の人々と楽しく食事をし、お酒を飲んで、結婚する二人を祝福し、その前途の幸せを祈り、喜びを分かち合うためです。そういうことをするつもりがないなら、そんなことはよろしくないと思っておられるなら、主イエスは招かれても列席されなかったでしょう。主イエスはこの祝宴で人々と楽しく食事をし、ぶどう酒を飲み、談笑しておられたのです。結婚は人間の人生における大事な節目であり、一つの家庭が誕生し、新しく船出する時です。そのような人間の営みを祝福し、喜びを分かち合って下さる主イエスのお姿がここに描かれているのです。  
 ところがこの楽しい宴会の最中に、ぶどう酒が足りなくなってしまいました。列席者の数を読み違えたのか、あるいはみんなが予想以上にガブ飲みしたのか、用意したぶどう酒が底をつきかけたのです。「もうお酒はありません」となってしまうのは、招いた新郎新婦にとって不名誉なことです。どうしよう、とこの宴会のお世話をしていた女性たちの間に動揺が走りました。その中には主イエスの母もいました。母は主イエスのところに来て、「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。ここから先の会話は不思議なまた不可解なものです。そもそも母は主イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言っただけです。「どうしましょう」という相談でもなければ、「こうしてください」という願いでもなくて、事実を報告しているだけです。それに対して主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。母親に向かって「婦人よ」はないだろうと思うし、「わたしとどんなかかわりがあるのです」もえらく冷たい言い方に思われます。これは、この訳し方だと「ぶどう酒がなくなったからといって、そんなこと私とかかわりはない、知ったことじゃない」と言っているようにも思われますが、以前の口語訳聖書ではここは「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」でした。こちらの方が原文の意味をよく表しています。主イエスが「どんなかかわりがあるのか」と言っておられるのは、ぶどう酒がなくなったことではなくて、母との関係のことなのです。あなたと私はかかわりがない、と言ったのです。ですからこれは、母親に対してそんなひどいことを言うなんて、と思わざるを得ない言葉なのです。しかしそこには「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が付け加えられています。それが、あなたと私はかかわりがない、と言っておられる理由です。そのことの意味は後で考えたいと思いますが、いずれにせよ、主イエスの母に対するこの言葉は突き放すような、冷たく感じられるものです。ところがそれを聞いた母は、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。主イエスが何か行動を起すことを予感し、期待しているような言葉です。そしてその通りに、主イエスは召し使いたちに、そこにあった水がめに水をいっぱい入れるようにお命じになり、その水が上等のぶどう酒になる、という奇跡が行われたのです。この奇跡のおかげで、婚宴は滞りなく行われました。新郎新婦は恥をかかずにすみました。それどころか、世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と褒めたのです。酔いがまわって味が分からなくなった頃には安物のぶどう酒を出す、ということがよく行われているが、あなたはそれと反対のことをした、人が分からない、気づかないところでしっかりおもてなしをしようというあなたは見上げた人だ、ということです。主イエスの奇跡のおかげで彼は面目を施したのです。それもまた、主イエスがこの婚礼を祝福しておられることの現れだと言えるでしょう。

最初のしるし  
 これが、本日の箇所に語られているガリラヤのカナにおける主イエスの奇跡です。この奇跡について11節にこのように語られています。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。これは主イエスのなさった最初の奇跡なのです。そしてその奇跡のことをヨハネ福音書は「しるし」と言っています。これはヨハネに特徴的な言葉です。ヨハネ福音書における主イエスは、しるしを行う方です。本日の箇所の最初のしるしから始まって、この福音書には主イエスのなさった七つのしるしが語られています。七つ目の、最後のしるしは、第11章に語られているあの「ラザロの復活」です。ヨハネ福音書は、その七つのしるし即ち奇跡を軸にして、主イエスのご生涯を語っているのです。そしてこの11節には、主イエスはこのしるしを行うことによって「その栄光を現された」とあります。主イエスのなさった奇跡は、主イエスの栄光をこの世に現すための「しるし」なのです。主イエスの栄光とは、1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と語られていたその栄光です。神の独り子、まことの神である方が人間となってこの世に来て下さり、私たちの間に宿って下さった、それによって、私たちの罪の闇の中に、神の栄光が輝いたのです。主イエスの奇跡はその栄光のしるしです。そのしるしを見て、弟子たちはイエスを信じたのです。それこそが、この福音書が書かれた目的だったことが20章30節以下に語られています。そこを読んでみます。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである」。ヨハネ福音書が主イエスのなさったしるしを中心にそのご生涯を語っているのは、そのしるしを通して読者が、つまり私たちが、イエスは神の子であり、メシア、つまり神から遣わされた救い主であると信じて、主イエスによる命を受けるためなのです。本日の箇所の最初のしるしを見て弟子たちがイエスを信じたというのは、先ずは弟子たちの間で、この福音書の目的が実現し始めた、ということなのです。

清めのための水が喜びのぶどう酒へ  
 さてこの最初のしるしの内容をさらに見ていきたいと思います。六つの水がめにいっぱいに汲まれた水が上等のぶどう酒に変えられたのですが、その水がめは6節によれば、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」でした。この水がめの元々の用途がこのようにわざわざ語られているのは意図的なことです。ヨハネ福音書はそこに象徴的な意味を見ているのです。ユダヤ人たちの間では、身を清めるための水が用いられていました。それは体を清潔にするという衛生的なことではなくて、神の民として、神の御前に出るためには、この水で罪の汚れを落とし、清くならなければならないということです。罪の汚れを負っている人間は、そのままでは神の御前に出ることはできない、神との交わりに生きることはできないのです。この水がめはその清めの水を入れるためのものでした。そこに満たされた水を、主イエスはぶどう酒に変えたのです。このぶどう酒は、婚礼の祝宴に出されるものです。新郎新婦の結婚を人々が祝福し、その喜びを分かち合うために欠かすことのできないものです。その祝宴に、神の子であられる主イエスが列席しておられます。主イエスもこの宴会の席について、人々と喜びを分かち合っておられるのです。罪の清めのための水が、主イエスと共に喜び祝う祝宴のぶどう酒に変えられたというこの奇跡は、主イエスがこの世に来られたことによって、神と人間との関係が決定的に変化したことを象徴的に現しています。主イエスが来られるまでは、罪ある人間は自らを清くしなければ御前に出ることができませんでした。罪の汚れをかかえたままで神との交わりを持つことはあり得なかったのです。しかし独り子である神主イエスが人間となってこの世に来て下さったことによって、私たちは、自ら身を清めることなしに、神の子である主イエスの前に出ることができるようになったのです。罪人である私たちを、主イエスが招いて下さり、祝福して下さり、私たちとの交わりに生きて下さり、喜びを分かち合って下さることが実現したのです。それは勿論、主イエスがこの後、私たちの罪をご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったことによってこそ実現した救いです。十字架の死と復活に至る主イエスのご生涯の全体によって、私たちの罪は赦され、救いが実現しました。それによって私たちは、自分で自分を清くすることなしに、主イエスと喜びの宴席に共に着くことができるようになったのです。主イエスが与えて下った良いぶどう酒によって大いに盛り上がったこのカナの婚礼の祝宴は、主イエスによる罪の赦しの恵みを受けた私たちが、主に招かれて主のもとで喜び祝う救いの祝宴を先取りするものとなったのです。

わたしの時はまだ来ていません  
 主イエスの最初のしるしのこのような意味を見つめる時、あの母との不可解な会話の意味も見えてきます。母が「ぶどう酒がなくなりました」という事実のみを語ったのも、主イエスが母に「婦人よ」と語りかけ、「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」とおっしゃったのも、この後行われる、水をぶどう酒に変えるというしるし、奇跡が、身内である母との関係において、母が主イエスに願ったので、主イエスが他ならぬ母の頼みだからとそれに応えてなされたものではない、ということを示しているのです。この奇跡は、主イエスの身内への愛によってなされたのではありません。罪の汚れのために神の御前に出ることができない、しかも水で洗ったぐらいでは本当には清くなることができず、神との良い交わりを失っている私たち人間を主が深く憐れんで下さり、ご自身が人間となってこの世を歩み、私たちの罪と汚れを全てご自分の身に引き受けて十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、私たちが赦された者として神の御前に出て、神との良い交わりを喜ぶことができるようにして下さる、その主イエスの深い恵みのみ心によってこそ、このしるしはなされたのです。「わたしの時はまだ来ていません」というみ言葉も、この救いが本当に実現するわたしの時、つまり十字架の死と復活の時は、この時点ではまだ来ていないということです。しかしそうおっしゃりつつ、ご自分の十字架の死と復活によってこそ実現する救いを先取りするようにして、主イエスはこのしるしを行なって下さったのです。つまり「わたしの時はまだ来ていません」というみ言葉は、主イエスによる救いは十字架の死と復活においてこそ実現するのだ、ということを示しているのです。母は、これらのことを完全に理解できていたわけではなくても、主イエスの思いを感じ取っていたので、一見冷たく突き放すように感じられる主イエスのお言葉にもかかわらず、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召し使いたちに言ったのです。

召し使いたちの働き  
 この最初のしるしにおいて、この召し使いたちが大事な役割を果たしていることにも注目したいと思います。主イエスの命令に従って召し使いたちが、六つの水がめの縁まで水を満たしたのです。このかめは二ないし三メトレテス入りだったと6節にあります。聖書の後ろの付録にある「度量衡および通貨の表」を見ると、一メトレテスは約39リットルとありますから、このかめはおよそ80ないし120リットルの容量です。そのかめ六つに水を汲んで満たすのはかなりの作業だと言えます。そして主イエスは彼らにさらに、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」とお命じになったのです。9節には「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので」とあります。つまり主イエスの命令に従って水を汲んだ召し使いたちだけが、自分たちがかめに満たした水がぶどう酒に変わったという奇跡を体験し、それが主イエスの力によってなされたことを知っていたのです。ヨハネ福音書がこのような細かいいきさつを語っているのは、やはりそこに象徴的な意味を見ているからでしょう。この召し使いたちこそが、主イエスの最初のしるしを体験したのです。そこに現されている主イエスの神の子としての栄光を見たのです。花婿花嫁も、宴会の世話役も、またこの宴会でそのぶどう酒を飲んだ人々も、主イエスによるそのしるしに気づくことはありませんでした。このぶどう酒が主イエスの力による奇跡によるものであることを知ることができたのは、彼ら召し使いたちだけだったのです。彼らは、主イエスのご命令に従って、かめに水を満たし、それを汲んで持って行くという奉仕をしたからこそ、そのことを体験し、知ることができたのです。

主イエスに奉仕することの中でこそ  
 それと同じことが私たちにおいても起ります。私たちが、主イエスの力ある恵みのみ業を体験し、それが主イエスによるしるしであることに気づき、そこに示されている神の子としての栄光を見ることができるのは、主のみ言葉に従って奉仕することによってこそです。「召し使い」と訳されているのは「奉仕する人」という言葉であり、それは後に教会において「執事」という務めの名となりました。しかしそれは執事という務めに立てられた者だけが奉仕する人だということではありません。主イエスの弟子である信仰者は、一人ひとりが主に「奉仕する人」です。私たち一人ひとりに、主イエスが、あなたはこのことをしなさい、とお命じになっている働き、奉仕があるのです。信仰者として生きるとは、主が自分に求めておられる奉仕とは何かを祈り求め、主のご命令に従って奉仕しつつ生きることです。そしてそのように主から与えられた具体的な奉仕の業を担っていくことの中でこそ私たちは、主イエスの恵みを体験し、主イエスの力を感じ取り、神の子としての主イエスの栄光を見ることができるのです。主は私たちに、出来もしないこと、無理なことをお命じになることはありません。一人ひとりの賜物に応じて、それぞれに相応しい、また可能な奉仕をお与え下さるのです。この話において召し使いたちに命じられたのは、かめに水を満たすこと、それを汲んで運んでいくことでした。それは肉体的には力のいることだったでしょうが、決して難しいことではありません。ごく単純な作業です。彼らはその単純な作業を、主のご命令に従ってしていく中で、主イエスの大きな恵みのみ業を、その力と栄光を見ることができたのです。主イエスが私たちにお求めになっているのは、このような肉体的な奉仕だけではありません。力仕事は出来ない者でも、祈ることによる奉仕はできます。教会のために、兄弟姉妹のために執り成し祈ることは、主イエスの救いのみ業の前進のための大切な奉仕です。このたびの私の治療のための休暇において皆さんが私のために熱心に祈って下さったこと、またその間の、伝道師を中心とした教会の営みのために祈って下さったことは大きな、また大切な奉仕でした。その祈りの奉仕の中で私にも癒しが与えられましたし、またその間の教会の歩みにおいて主イエスが力強い恵みのみ業を行って下さったことを私たちは体験することができたのです。祈りを中心とする様々な具体的な奉仕をしていく中でこそ私たちは、主の恵みの力を体験し、苦しみや悲しみの中にいる者たちが慰められ、力づけられ、罪を赦されて新しく生かされていくという救いのみ業、聖霊によってなされる奇跡を目撃することができます。そういう体験を通して、主イエス・キリストを信じる私たちの信仰は深められていくのです。

奇跡としるし  
 このことは、先程も読んだ11節に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」とあったこととも通じます。このしるしがなされたことによってイエスを信じたのは、弟子たちだったのです。まだ弟子になっていなかった人々が、このしるし、奇跡を見て、主イエスを信じるようになり、弟子になった、というのではないのです。しるしをしるしとして受け止めることが出来るのは、既に主イエスに従っている弟子たちなのです。単なる奇跡としるしの違いがそこに語られていると言うことができます。奇跡は誰もが驚く出来事ですが、それによって信仰が与えられるわけではありません。しかしその奇跡が主イエスに従っていく信仰の歩みの中で受け止められる時に、それは主イエスこそ神の子、救い主であられることを確信させる「しるし」となるのです。 私たちが招かれているカナの祝宴  
 主イエスが水をぶどう酒に変えて下さったカナにおける結婚披露宴は、主イエスの十字架の死と復活によってこそ実現する救いの先取りであり、私たちが罪を赦され、神の子とされて、主と共に喜びの宴席に着くことができる、その喜びの祝宴を先取りしたものでした。私たちも、その祝宴に招かれています。それが、この後共にあずかる聖餐です。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストが私たちの罪を赦し、神の子として下さるために十字架にかかって死んで下さったこと、そこで裂かれた主イエスの体と流された血とを表すものです。洗礼を受け、主イエスによる救いの恵みにあずかった私たちは、聖餐において、主イエスの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと、永遠の命の約束をこの体をもって味わい、体験します。そしてこの聖餐は同時に、世の終りの救いの完成において、復活と永遠の命を与えられた私たちが、主のみもとで、全ての兄弟姉妹と共に、主が中心におられる食卓に着く、その喜びの食卓の先取りでもあります。主イエスの十字架と復活による救いの先取りであったカナの祝宴の恵みと喜びを、私たちは聖餐において体験しつつ、主がもう一度来て下さって私たちの救いを完成して下さることを待ち望むのです。  
 本日からアドベントに入ります。アドベントとは「到来」という意味であり、主イエス・キリストが肉となってこの世に生まれて下さったこと、その第一の到来を喜び祝うクリスマスに備えていく時です。それだけでなく、アドベントは、主イエスがもう一度来て下さること、その第二の到来によって私たちの救いを完成して下さることを待ち望む時でもあります。私たちが招かれているカナの祝宴である聖餐にあずかり、主の再び来りたもうことを待ち望みつつ、クリスマスを迎えたいと思います。

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