夕礼拝

サウルの死を悼むダビデ

「サウルの死を悼むダビデ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記下 第1章1-27節
・ 新約聖書:使徒言行録 第12章20-23節

上下巻の区切り
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記よりみ言葉に聞いています。3月にサムエル記上を読み終えました。本日からはサムエル記下に入ります。サムエル記も、次の列王記やその次の歴代誌も同じように上下に分けられていますが、それは昔聖書が巻物に手で書き写されていた時代に、一つの巻物には収まらなかったからです。サムエル記の場合は、本日の箇所からが下巻とされたわけですが、それは1節の冒頭の「サウルが死んだ後のことである」という文が、ヨシュア記1章1節の「主の僕モーセの死後」と似ており、士師記1章1節の「ヨシュアの死後」とも似ているからだと言われます。ある人の死によって古い時代が終わり、新しい時代が始まった。その新しい時代のことが新しい書物に語られていく、ということです。サウルの死によって新しい時代、即ちダビデの時代が始まったと考えられ、そこに上巻と下巻の区切りが置かれたのです。

サムエル記上のしめくくりの章
 しかしこの区切り方は必ずしも内容と合ってはいません。つまりこの1章からダビデの時代が始まるのかというと、そうではないのです。この第1章に語られているのは、ダビデが、サウルの死を悲しんだことであり、後半は、サウルと、その息子であり親友であったヨナタンの死を悼んでダビデが歌った歌です。つまりこの第1章は、ダビデの時代の始まりと言うよりも、むしろサウルの時代の終わり、サウルとダビデの物語のしめくくりなのです。従って注解書の中には、この1章までを上巻として、2章からを下巻として解説しているものすらもあります。そのようにこのサムエル記下の第1章は、新しい始まりの第一章と言うよりも、これまで読んできたサムエル記上のしめくくりの章であると言えるのです。

アマレクとの戦いのさ中に
 さて1節に、「ダビデはアマレク人を討ってツィクラグに帰り」とあります。その事情はサムエル記上の30章に語られていました。ダビデは、サウル王にうとまれ、憎まれて、命をつけ狙われ、逃亡の生活を余儀なくされていました。その中で彼は、イスラエルの敵であったペリシテ人の王のもとに身を寄せ、その傭兵隊長のようなことをしていたのです。それによってペリシテの王から与えらえれた町がツィクラグでした。しかしペリシテの王の部下になったということは、イスラエルの戦いが起ったら同胞と戦わなければならなくなる、ということです。そういう事態になりかけたことが29章に語られていました。しかしダビデは同胞と戦うことを免れることができました。ペリシテ軍の他の将軍たちが彼を信用せず、イスラエルとの戦いに彼が一緒に行くことをいやがったためです。そのためダビデは戦線を離れてツィクラグに戻ったのです。ところが戻ってみると、ツィクラグの町はアマレク人に略奪され、多くの者たちが捕虜となって連れ去られた後でした。ダビデは手勢を率いて後を追い、三分の一の兵が脱落するという強行軍の末、追いついてアマレクを打ち破り、虜とされていた人々を救出して戻って来ました。それが1節の「アマレク人を討ってツィクラグに帰り」ということです。ダビデがこうしてアマレク人と戦っている間に、ペリシテ軍とイスラエルの戦いが行われ、イスラエルは負けて、サウル王とその息子ヨナタンは、ギルボア山上で戦死したのです。

イスラエルの陣営から来た男
 本日の第1章には、ダビデのもとにサウルとヨナタンの戦死の知らせが届けられたことが語られています。今のように、戦争の様子がテレビでリアルタイムに中継されるような時代ではありません。どこそこで戦闘があり、どちらが勝って、誰が戦死した、ということは、誰かが戦場から来て報告しなければ分からないのです。ダビデがツィクラグに戻って三日目に、一人の男がやって来ました。その衣服は裂け、頭に土をかぶっていたとあります。それは深い嘆き悲しみを表す姿です。11節にも、サウルとヨナタンの戦死の知らせを聞いたダビデが「自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った」とあります。嘆きの思いを表現するために、自分で服を裂き、頭に土あるいは灰をかぶる、ということが行われていたのです。この男は、嘆きを表す姿でダビデのもとに来たのです。ダビデが「どこから来たのだ」と尋ねると、男は、「イスラエルの陣営から逃れて参りました」と言います。ペリシテとの戦いの場から来たと言うのです。「状況はどうか。話してくれ」という問いに彼は「兵士は戦場から逃げ去り、多くの兵士が倒れて死にました。サウル王と王子のヨナタンも亡くなられました」と報告します。さらにその詳しい状況を尋ねるダビデに、彼はこう語ります。「わたしはたまたまギルボア山におりました。そのとき、サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、戦車と騎兵が王に迫っていました。王は振り返ってわたしを御覧になり、お呼びになりました。『はい』とお答えすると、『お前は何者だ』とお尋ねになり、『アマレクの者です』とお答えすると、『そばに来て、とどめを刺してくれ。痙攣が起こったが死にきれない』と言われました。そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます」。

この男は何のために来たのか
 ここに、サウルの死の様子が語られているわけですが、これは、サムエル記上の31章に語られているサウルの最期とは違っています。31章の方では、傷を負ったサウルが、もはやこれまでと従卒に自分を殺すように求めたが、主人を殺すことを恐れた従卒はそれができなかった。それでサウルは自ら剣の上に倒れ伏して死んだ。それを見た従卒も同じようにして死んだ、という話になっています。しかしこの男の話では、自分がサウルに頼まれてとどめを刺したというのです。混乱した戦場でのことですから、どのようにして死んだかについて違った証言が出て来ることはあり得ます。しかしこの場合には、「自分がこうした」という話ですから、混乱の中での勘違いということはあり得ません。彼が言っていることが真実か、嘘か、どちらかです。はっきりと証明することはできませんが、いくつかのことからして、この男の言っていることは嘘だと思われます。それは、この男がこうしてダビデのもとに来た動機を想像してみるとはっきりします。ダビデはサウルと敵対しており、ペリシテの王の手下になっているのです。イスラエル軍から見れば、ダビデは現在敵なのです。そのイスラエルの陣営に加わっていたこの男が、サウルの戦死を伝えるべきなのは本来はダビデではないはずです。彼がダビデのところにやって来たのは、ダビデに、あなたの命を狙っていたサウルは死にました、という知らせをもたらすためです。ダビデにとって良い知らせであるはずのこのニュースをいち早く知らせれば、ダビデが自分を家臣に加えてくれるのではないか、という期待が彼にはあったのだと思います。そう思って読むと、2節に、彼がダビデの前で地にひれ伏して礼をしたとあることも、また10節でサウルの王冠と腕輪を「御主人様に持って参りました」と言っていることも、ダビデに取り入るための振る舞いに見えてきます。「サウルに頼まれて自分がとどめを刺した」と言っているのも、「あなたの敵であるサウルを私が殺しました」と言っているわけで、暗に自分の手柄を語っているのです。彼が「衣服は裂け、頭に土をかぶって」いたというのも、わざと嘆きのポーズをとってダビデのもとに来た、ということを暗示しているのです。

時代の転換を敏感に察知している男
 ダビデに取り入ろうとしているこの男は、時代の転換を敏感に察知しています。サウルが死んで、これからはダビデの時代だ、ダビデは今はペリシテ王の家臣になっているが、必ずイスラエルの次の王になる、と彼は踏んでいるのです。だから、次の王であるダビデにいち早く取り入るための手柄話を持ってダビデのもとに来たのです。この男の時代を読む感覚はまことに敏感であり、正しかったと言わなければなりません。彼は時代の波に上手に乗ろうとしているのです。彼が13節にあるように「寄留のアマレク人の子」であったこともそれと関係しているかもしれません。彼はイスラエルに寄留していた外国人でした。よそ者として差別され、つらい思いもしたのでしょう。そういう中で彼は、自分にとって有利な道を見出し、誰よりも先にそこを歩むことによって身を守っていくすべを身につけたのです。そこでもう一つ注目すべきは、彼がサウルの王冠と腕輪を持って来たということです。それはおそらくサウルの遺体から盗み取って来たものでしょう。それをダビデのもとに持って来ることは、第一に、自分がサウルを殺したことの証拠になるし、第二に、サウルの王冠をダビデに捧げることによって、あなたこそこの王冠を受け継ぐべき方です、という思いを伝えることができるのです。ダビデへの「おみやげ」としてこれ以上のものはないということでしょう。

サウルの死を悼むダビデ
 この男はそういうもくろみをもってダビデのもとに来たのだと思います。しかし、ダビデが示した反応は、彼が期待していたのとは全く違っていました。彼はこの知らせを聞いたとたん、「自分の衣をつかんで引き裂いた」のです。それはこの男の場合のようなポーズではありませんでした。ダビデの、サウルとヨナタンの死を悼む心からの思いが、19節以下の、「弓の歌」と呼ばれる哀悼の歌に歌われています。旧約聖書に数多く出て来る歌の中でも最も美しいものの一つとされるこの哀悼の歌には、サウルと、親友ヨナタンの死を心から悼むダビデの思いが歌われています。サウルの死の知らせは、ダビデにとって、あの男が思ったような「良い知らせ」ではなかったのです。

主なる神を畏れる
 それは何故でしょうか。親友であるヨナタンの死を悼む思いはともかく、自分の命をつけ狙い、そのために逃亡の生活を余儀なくされ、本来は敵であるペリシテ人の家来にならなければならないような苦しみを与えたサウルの死を、ダビデはどうしてそのように悼むことができたのでしょうか。むしろ常識的には、この男が考えたように、自分を脅かしていたサウルが死んだことによって、ようやく自分の時代になると喜んで、表面的にはサウルの死を悼むふりをしながら、この男が持って来た王冠を掲げて、自分こそサウルの後継者だ、とアピールしていく、というのが普通ではないかと思うのです。当然そうなると思ったから、この男はダビデのもとに来たのでした。しかし結局この男は、ダビデの命令によって撃ち殺されてしまいました。ダビデは彼の報告を喜ぶどころか、彼の行為を死に値するものと考えたのです。何故か。その答えが14節に語られています。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か」。この訳ですと、主なる神が油を注いで王として立てたサウルを殺害したことが問題とされているように読めます。しかしここは前の口語訳ではこうなっていました。「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。これもなにか間延びした、緊張感のない訳です。さらに前の文語訳聖書を読んでみるとこうなっています。「ダビデかれにいひけるは汝なんぞ手をのばしてエホバの膏そそぎし者をころすことを畏れざりしやと」。講談調という感じですが、これらの訳を読み合わせてわかることは、ダビデが問題にしたのは、彼がサウルを殺したことよりも、主が油を注がれた方に手を下すことを彼が恐れなかったことだ、ということです。上巻の31章のサウルの最期の記事では、まさにその恐れのゆえに、従卒はサウルにとどめを刺すことができない、それでサウルは自ら剣の上に倒れ伏して死んだと語られているのです。たとえもはや助からないということが明らかでも、主が油を注いで王として立てた人に手を下して殺すことは、それほどに恐しいことなのです。また、これまで読んできた上巻の24章と26章には、ダビデが、サウルを殺す絶好の機会を得たけれども、「主が油を注がれた方に手をかけ、殺すことはできない」と言ってそれをしなかったことが語られていました。ダビデ自身も、そういう恐れを抱きつつ生きていたのです。それは、「そんなことをしたらバチが当るかも」という恐れではなくて、主なる神のみ心を尊重し、それに従おうとする、神を畏れかしこむ思いです。サウルは、主なる神が油を注いでイスラエルの王とした人物なのです。イスラエルの王はそのように、神がお選びになり、お立てになるのです。サウルへの選びは途中で取り消され、新しくダビデが油を注がれましたが、しかしサウルからダビデへの王位の継承がどのようになされるかは、人間が決めることではなく、神がお決めになることです。神がそれを実行なさるまでは、新たに油を注がれたダビデ自身も、その他の人々も、どうこうするべきではないのです。ところがこの男は、自分がサウルを殺したと平気で言っています。それはおそらく嘘でしょう。彼はむしろ戦死者から金目のものを盗む盗賊のたぐいで、ダビデが喜びそうな手柄話をでっち上げただけだと思います。しかし問題なのはその行為よりも、彼には、主なる神を畏れかしこむ思いが全くないことです。そこにあるのは、相手の喜びそうな話をして取り入ろうとする人間の駆け引きです。主なる神を畏れず、人間の間の駆け引きによって上手に立ち回ろうとする、ということに対してダビデは、それは死に値する罪だと言ったのです。

神に栄光を帰す
 この男がダビデに言っていることは、要するにお追従、おべっかです。あなたこそ次の王様ですよ、と言うことによって取り入ろうとしているのです。しかしダビデにとって、自分がイスラエルの王になることは、人間の策略によって実現することではありません。主なる神のみ心による神のみ業なのです。主に栄光を帰し、主のみ心に従っていくことにおいてのみ、そのことは実現していくのです。このことは、本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録12章20節以下に語られていることと通じます。そこには、ヘロデという王が、自分に取り入ろうとしている人々の、「これは神の声だ、人間の声ではない」という歯の浮くようなおべっか、お追従をいい気になって聞いているうちに、主の天使に撃たれて死んでしまったということが語られています。それは「神に栄光を帰さなかったからである」とあります。「あなたは神だ」などと言われていい気になり、自分が神の下にあり、ただ神の導きによってのみ生かされ、地位や働きを与えられていることを言い表そうとしない、それが「神に栄光を帰さない」ことです。あの男がダビデに言ったことも、それと同じようなことです。「あなたこそ、実力から言っても、これまでの経緯から言っても、次の王になる人ですよ」、というのは、神のみ心を全く無視した、人間の思いのみによる言葉なのです。ダビデはそれに対してはっきりと否を言いました。イスラエルの王となることは、人間が次は誰と決めるような事柄ではない、また自分がそのために手を打って道切り開いていくようなものでもない、主なる神のみ心によることであって、自分はそれに従うだけだ、ということを明らかにしたのです。それは彼が「神に栄光を帰した」ということです。そのような歩みを貫いていたからこそ、ダビデはサウルの死を、良い知らせと喜ぶのではなく、それを心から悼むことができたのです。

筋の通った人生を生きる
 サムエル記は、神によって油注がれ、選ばれて立てられた王サウルが、しかし神によって退けられ、新たにダビデが油注がれ、王として立てられていった、その経緯を語っています。それは人間の歴史として見るならば、ダビデによるサウル王家からの王位簒奪です。あるいは、サウルがその器の小ささによって力を失い、没落していって、より実力のあるダビデが台頭していった、ということです。しかし聖書はそこに、神の選びのみ心と、歴史を導くお働きを見ています。そして、そのみ心を謙虚に受け止め、神に栄光を帰し、神が行って下さるみ業を受け入れて歩む者こそが、その歴史を本当に担っていく者なのだということを教えているのです。この世界の歴史は、また私たち一人一人の人生は、決して、人間の権謀術数や駆け引きのみによって動いているのではありません。そのように見えることが多々あるとしても、根本的なところに働いているのは、主なる神のみ心であり、ご計画なのです。そのご計画に従って、神は、このダビデを王として立て、その子孫に、独り子主イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスこそ私たちにとっての、油注がれた方、メシア、救い主です。その主イエスは、私たちのために、私たちの罪を全て身に負って、十字架にかかって死んで下さいました。そして私たちに、死を越えた新しい命の希望を与えるために復活して下さいました。この主イエスによる神の恵みの前に、畏れかしこみつつ生きるのが私たちの信仰です。ダビデが神に栄光を帰して歩んだように、私たちは主イエス・キリストに常に栄光を帰しつつ、そのみ心を受け止め、み業を受け入れて歩みたいのです。その時私たちは、神が導いておられるこの世の歴史を担う者となることができます。それは何か大それた働きをして有名になるということではなくて、私たちが一人一人の人生において、人間の駆け引きやお追従、人からの評価評判によって左右されるのでなく、神が自分を導いて与えて下さる使命を受け止めて、それをしっかりと果たしていくことができる者となる、ということです。主イエス・キリストに栄光を帰し、神のみ心こそが実現していくことを信じて、神のみ心に自分の歩みを委ねていくことによってこそ、私たちは、そういう確かな、しっかり筋の通った人生を生きることができるのです。

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