主日礼拝

肉体の復活

「肉体の復活」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第25章6-9節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第15章50-58節
・ 讃美歌:8、327

既に与えられ、これからも与えられる救い
 毎週の礼拝で告白している使徒信条の第三の部分、聖霊なる神への信仰を語っている部分を読みつつみ言葉に聞いています。先週は「罪のゆるし」についてでした。ここから先、つまり「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命」は、私たち一人ひとりに与えられる救いです。私たちは聖霊なる神のお働きによってイエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスによる救いにあずかり、主イエスが頭である教会に連なる者とされて、神の民として生きていきます。父なる神はその私たち一人ひとりに「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命」という救いを与えて下さるのです。先週取り上げた「罪のゆるし」は、主イエスの十字架の死によって神が私たちの罪を赦して下さった、ということであり、それは既に実現し、与えられている救いです。主イエスが十字架の死によって私たちの罪の償いを既に全て済ませて下さったのです。そのことを信じることによって私たちは罪を赦されて生きることができます。しかしそのように罪を赦されてはいても、私たちはこの世の人生において、今も、これからも、繰り返し罪を犯してしまいます。罪はそれほどに深く私たちを支配しているし、私たちには、自分の決意や努力で罪に打ち勝つ力はないのです。でも、私たちがこれから犯してしまう罪も含めて、全ての罪の償いを、主イエスが既に成し遂げて下さっているのです。だから私たちは、罪に陥ることがあっても、主のもとに立ち帰ることができます。そして赦されて、その赦しの恵みの中で悔い改めて新しく生きることができるのです。つまり罪の赦しは、既に与えられている恵みであると同時に、これからも与えられ続ける恵みです。私たちは生涯罪の赦しを受けつつ生かされていくのです。罪の赦しが完成するのは、世の終わりの救いの完成の時です。その時には、私たちがこの世の歩みにおいて犯してきた全ての罪が赦され、完全に義とされて、神が天地創造において人間を造って下さった、そのみ心の通りに、神との良い関係を与えられて、み前に立つことができるのです。

世の終わりに与えられる救い
 さて本日は、「罪のゆるし」の次の「からだのよみがえり」を取り上げます。罪の赦しと並んで、からだのよみがえり、という救いが神によって私たち一人ひとりに与えられるのです。それは、私たちのこの体のよみがえりです。肉体の復活です。そういう救いが神によって与えられることを私たちは、教会は信じているのです。それは、この世の歩みのどこかで、一旦死んだ肉体が生き返るという話ではありません。死んだ肉体を冷凍保存しておいて、将来、死者を蘇生させる技術が開発されるのを待つ、というプログラムがあるということを聞いたことがありますが、「からだのよみがえり」はそういうこととは全く違います。人間の知識や技術が進歩していけばいつか死者を復活させることができるようになる、というのは人間の思い上がりです。命は、神が与え、神が取り去るものです。その神が、世が終わりの救いの完成において、「からだのよみがえり」という救いを与えて下さるのです。それは、もはや死ぬことのない新しい体を神が与えて下さるということであり、「とこしえの命」を与えられることでもあります。つまり「からだのよみがえり」も「とこしえの命」も、この世の終わりに神が与えて下さる救いであって、私たちはそれを信じて待ち望むのです。先ほどの「罪の赦し」は、既に与えられているものであると同時に、世の終わりに完成するものでした。それに対して「からだのよみがえり」と「とこしえの命」は、今はまだ与えられておらず、世の終わりに完成するものです。「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命」という救いが、この世の終わりに完成することを、私たちは待ち望みつつ生きているのです。

主イエスの復活
 さて「からだのよみがえり」について聖書はどのように語っているでしょうか。新約聖書には、主イエス・キリストの復活が語られています。それはまさに「からだのよみがえり」です。主イエスは肉体をもって復活なさったのです。復活した主イエスは、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に現れたり、弟子たちの目の前から忽然と消え去ったりしたと語られています。そういうことからすると、復活した主イエスの体は、私たちのこの肉体と全く同じではない、と言えます。しかし、復活した主イエスが弟子たちにご自分の手や足をお見せになったとか、手とわき腹をお見せになって「触ってみなさい」と言われたとも語られています。それは、復活した主イエスの体には、十字架に釘打たれ、槍で突かれた傷があり、それに触れることができたということです。肉体をもって十字架につけられて死んだ主イエスが、その肉体をもって復活なさったのです。復活というのはそもそも肉体の復活です。体のない霊魂のようなものだけが生き返ったことを復活とは言いません。聖書は、「からだのよみがえり」が主イエスにおいて起こったことを語っているのです。

自分自身の復活を信じる
 しかし聖書は、「からだのよみがえり」は主イエスのみのことだとは言っていません。主イエスの復活と並んで、私たち自身の復活のことを聖書は語っているのです。その代表的な箇所が、コリントの信徒への手紙一の第15章です。その12節以下にこう語られています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられており、それを信じているのに、「死者の復活などない」と言っている者がいる、それは、「キリストの復活なんてなかった」と言っているということではありません。自分たちの将来の復活などないと言っている、つまり「からだのよみがえり」を自分たちのこととしては信じない、ということです。そういう人たちに対してパウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言っています。それは、私たち自身の将来の復活がないなら、キリストの復活だってなかったはずだ、ということです。つまりこの言葉は、キリストの復活と私たちの復活とが不可分であることを強調するために語られているのです。パウロが言っているのはこういうことです。キリストの復活は、神が私たちをも復活させて下さるために実現して下さった救いのみ業なのだから、キリストの復活は信じるけれども自分たちの復活は信じないというのでは、神がキリストを復活させて下さったことが無意味になってしまう。つまり自分たちの復活を否定するのは、キリストの復活を、そんなこと必要なかったと言うのと同じなのです。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」とはそういうことを言っています。そしてパウロはさらに「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と言っています。キリストの復活を信じ、それゆえに自分たちの復活をも信じるところに、神みよる救いがあるのであって、キリストの復活と自分たちの復活を合わせて信じないなら、キリストを信じても無駄なことになるし、キリストを救い主として宣べ伝える宣教も無駄なことになるのです。なぜなら、そこにおいては、人間は結局最後は死に支配されて終わるのだ、ということになるからです。自分自身の復活を信じないというのは、自分の歩みを最終的に支配するのは死の力であり、死こそがこの世で最強の力だと認めるということです。死んだら天国だか極楽だか、そういう所に行って平安に暮らすことができるという思いは、死が自分の最後の支配者だということを認め受け入れた上で、死の支配の中で何とか平安を得ようとする人間の願望の表れです。しかし神が与えて下さる救いはそんなものではありません。神は、死を打ち破って私たちに新しい命と体を与えて下さるのです。それが「からだのよみがえり」です。つまりからだのよみがえりを信じるとは、私たちを最終的に支配するのは死の力ではなくて神の恵みの力なのだと信じるということです。逆にそれを信じないというのは、神による救いとか恵みはこの世を生きている間だけのことで、死んだらもうそこには神の力も及ばない、死に勝利する力は神にだってない、と思っているということなのです。

眠りについた人たちの初穂
 神を信じるとは、神こそが私たちを最終的に支配して下さる方だと信じることです。つまり神は死の力にも勝利して下さる方だと信じることです。聖書は、神が死の力に勝利なさったという事実を語っています。それが主イエス・キリストの復活です。主イエスの復活を信じるとは、神が死の力を打ち破って、十字架につけられて死んだ主イエスを復活させ、新しい命、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことを信じるということです。つまり神は死よりも強いと信じることです。聖書は主イエスの復活によってそのことを語り、示しているのです。そして聖書は、この主イエスの復活と私たち自身の復活とは、切り離すことができないものだと語っています。主イエスの復活と私たちの復活はどう繋がっているのか。それを語っているのが、この15章の20節です。そこにはこうあります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。主イエス・キリストの復活は「初穂」だったのです。そこに、主イエスの復活と私たちの復活の繋がりが示されています。「眠りについた人たち」とは死んだ人たちです。主イエスが死者の中から復活したのは、死んだ人たちの初穂としてだった。初穂とは、その年の収穫の最初のもの、最初に刈り取られた実りです。初穂が与えられたということは、それに続いて豊かな収穫が得られることが約束されているのです。つまり主イエスの復活は、それだけで完結する出来事ではなくて、それに続く私たちの復活の最初のもの、先駆けだったのです。主イエスの復活によって、私たち自身の復活がそれに続いて与えられることが約束されているのです。

神が主イエスを復活させた
 そこで大事なのは、聖書が、主イエスの復活は父なる神のみ業であり、神が主イエスを復活させた、と語っていることです。使徒言行録第2章24節でペトロは「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」と語っています。32節にも「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」とあります。ローマの信徒への手紙第4章24、25節にも「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させられた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」とあります。その他にも、父なる神が主イエスを復活させた、と語られている所は沢山あります。つまり、主イエスの復活は父なる神のみ業であって、主イエスが自分の力で死に勝利して生き返ったのではないのです。これがとても大事なことです。もし主イエスが自分の力で復活したのだとしたら、それはもう私たちとは関係のないことになります。私たちにはそんな力はありませんから、「へえ、すごいですね」と言うしかありません。しかし、主イエスも、父なる神によって復活させられたのであって、自分の力で復活したのではなかったのです。そこに私たちの希望があります。私たちは、自分で死に勝利して新しい命を獲得することはできません。つまり私たちは、死こそが自分の最後の支配者だと認めるしかないのです。しかし神は、死に勝利して、主イエスを死者の中から復活させて下さいました。同じことを神が私たちにもして下さる、それを私たちは信じて待ち望むことができるのです。主イエスは「眠りについた人たちの初穂」として復活した、というみ言葉がその希望を私たちに与えます。主イエスの復活は、父なる神がそのみ力によって実現して下さる復活の初穂、最初の実りであって、父なる神はそれに続いて私たち自身の復活をも実現して下さるのです。父なる神はそういう救いを私たちに与えるために、独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのです。主イエスの十字架の死は、私たちに「罪の赦し」を与えて下さるためになされた神の救いのみ業でした。同じように主イエスの復活は、私たちに「からだのよみがえり」を与えて下さるためになされた神の救いのみ業だったのです。

死の不気味な語りかけ
 肉体をもってこの世を生きている私たちは、いつか必ず死の支配下に置かれていきます。そのことを逃れることは誰にも出来ません。目に見える地上の人生だけを見つめるならば、死こそが私たちを最後に支配する力であり、最終的な勝利者であるように感じます。私たちはその事実をなるべく見ないように、考えないようにして生きています。そんなこと考え始めたら暗くなってしまって、喜びをもって生きることができなくなってしまうから、とりあえず死のことは考えずに、今の人生を充実させ、喜ばしいものにしようとしています。でも、死は様々な仕方でその姿を現して、私たちを脅かします。病気や、老いや、また人々の命が失われる様々な事件や事故、あるいは戦争などを通して、死が顔を覗かせて、「お前を最後に支配するのは私だ、そのことを忘れるなよ」と不気味に語りかけてくるのです。新型コロナウイルス感染症においても、私たちの生活の中に死が顔を覗かせ、圧倒的な力を示して私たちを恐れさせようとしています。

神の語りかけ
 しかし私たちは、そのような死の語りかけを否定する神からの語りかけを聞いています。「あなたを最後に支配するのは、死の力ではない。私だ。私はあなたを愛しており、あなたの救い主として独り子イエス・キリストを遣わした。イエスの十字架の死によって、私はあなたの罪をすべて赦し、あなたを義とした。だからあなたは私と良い関係をもってこの世を生きることができる。あなたがこの世の人生を終えて死ぬ時にも、あなたは私の愛の中にいる。死は確かにあなたを一時支配するが、私は既に死の力に勝利してイエスを復活させ、永遠の命を生きる者とした。その力をもって私はあなたをも、この世の終わりに復活させる。あなたを支配している死の力を滅ぼして、あなたに、イエスに与えたのと同じ新しい命、永遠の命を与える。だからあなたを最後に支配するのは、死ではなくて私なのだ。あなたは死に支配されて終わるのではなくて、私が与える永遠の命に生きる者となるのだ。そのことを覚えて歩みなさい」。神はこのように私たちに語りかけて下さっています。この神からの語りかけを聞きつつ生きることが私たちの信仰なのです。

死は勝利にのみ込まれた
 その語りかけが、本日の新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第15章50節以下にあります。51節以下にこうあります。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。この世の終わりを告げる最後のラッパが鳴り響く時、死者は復活して朽ちない者とされるのです。この世を終わらせ、救いを完成して下さる神が、死んで朽ちていった私たちに新しい命、新しい体を与えて下さって、朽ちない者、永遠の命を生きる者として下さるのです。私たちの行きつく先は、死んで天国で幸せになることではありません。神が与えて下さるこの復活と永遠の命こそが、救いの完成です。復活して朽ちない者とされるというのは、どんな状態になることなのか、それは私たちには分かりません。そのことについては、来週の礼拝において改めてみ言葉に聞きたいと思っています。しかし、今地上を生きている私たちには、世の終わりの救いの完成において与えられる復活の体のことは基本的に分からないのであって、それは神さまにお任せするしかありません。けれども今私たちにはっきりと示されているのは、復活して朽ちない者とされた私たちは、54、55節に語られているように高らかに歌うことができるのだ、ということです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。今は、死の力こそが私たちを支配しています。死のとげによって私たちは苦しめられています。しかし最終的には、主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さった父なる神が死の力に勝利して、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるのです。その時私たちは、神の勝利を喜び祝い、もはや死の勝利はどこにもない、死のとげは跡形もなく消え去った、と歌って神をほめたたえることができるのです。「からだのよみがえり」を信じるとは、この、神の最終的な勝利を信じ、そこにおいて私たちが死の支配から解放されることを信じることです。それを信じて待ち望む私たちに主は、最後の58節のみ言葉をも語りかけて下さっているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

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