主日礼拝

義と平和と喜びに生きる

「義と平和と喜びに生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第85編1-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第14章13-23節
・ 讃美歌:321、124、392

神の国を見失っているこの世
 本日の説教題「義と平和と喜びに生きる」は、主日礼拝において今読んでいるローマの信徒への手紙第14章の17節から取ったものです。そこにはこう語られています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。13-23節を読むのはこれで二回目ですが、本日はこの17節を中心にみ言葉に聞きたいと思います。
 「神の国は」と語られています。それはどこかにある国のことではなくて、「神のご支配」という意味の言葉です。神が支配しておられるところが神の国なのです。この世界は、元々神がお造りになり、神がみ手によって支配しておられる所です。ですからこの世界が元々は神の国だと言うことができます。しかしこの世界において、神のご支配は私たちの目には隠されてしまっています。神に逆らう罪がこの世界において、また私たちの心の中でも大きな力を振い、支配しているので、神のご支配などどこにもないように感じられるのです。またこの世界には時として大きな災害が起ったりします。東日本大震災や、今週から来週にかけて二年目を迎える熊本・大分の地震などで多くの人々が命を失ったり、苦しみを受けていることを思う時に私たちは、神がこの世界を支配しておられるならなぜこのようなことが起こるのか、そのみ心が分からない、という思いを抱きます。神のご支配は、この世において隠されていて、私たちはそれをはっきりと見ることができないのです。つまり私たち人間は、神の国を見失ってしまっているのです。

悔い改めて福音を信じる
 そのような私たちのところに、神の子である主イエス・キリストが来て下さって、「神の国は近づいた」と宣言なさいました。私たちが見失ってしまっている神の国、神のご支配が主イエスによって実現する、と語られたのです。しかも主イエスによって実現する神のご支配は、勝手気儘な暴君による専制的な支配ではなくて、恵みによる支配です。主イエスによって神の国、神の恵みのご支配が実現する、それが主イエスの宣べ伝えた福音、つまり良い知らせでした。しかしそれは、神の恵みのご支配が自動的に実現して、この世界が神の国になるということではありません。主イエスは「神の国は近づいた」と語ると共に、「悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃいました。神の国に生きるためには、悔い改めて福音を信じることが求められているのです。悔い改めるというのは、自分の悪いところを反省してマトモな人間になることではありません。そのような人間の努力で神の国が実現すると言っているのではないのです。悔い改めるとは、心と生活の向きが神の方へと向き変ることです。生まれつきの私たちは神からそっぽを向いていて、神と正しい関係を持って生きていません。その私たちが、神にちゃんと顔を向け、神との交わりに生きるようになること、つまり神を信じて生きる者となること、それが悔い改めです。そしてそれは、主イエスによって神の恵みのご支配が実現しているという福音を信じ、受け入れて、主イエスによる神のご支配の下に私たちも自覚的に生きていくことによって現実となるのです。そのように私たちが悔い改めて福音を信じるところにこそ、神の国は実現するのです。

神の国は教会において目に見えるものとなる
 従って神の国は、ある場所において現実となるのではなくて、ある共同体において明らかになるのです。主イエス・キリストによる福音を信じて、悔い改めて神の下で生きる者たちの共同体においてこそ、神の国は目に見えるものとなるのです。それはつまり教会です。キリストを信じる者の群れである教会は、神の恵みのご支配が隠されているこの世において、それを目に見えるものとして表わし、示す群れなのです。ですからパウロが17節で「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と言った時に彼が見つめているのは、どこか遠い所にある理想郷、実際には存在しないユートピアのような神の国ではなくて、目に見える具体的な教会です。パウロがこの手紙の14章の始めから見つめ、語ってきたのは、教会における具体的な信仰者どうしの交わりのことです。具体的な人間の集りである現実の教会を見つめながら彼は「神の国は」と言っているのです。

神の国は飲み食いではない
 14章の始めから語られてきたことは、教会における信仰者の交わりの中に、互いに人を軽蔑したり裁いたりする思いがあり、それによって人をつまずかせることが起こっており、そのために神の恵みのご支配を告げるキリストの福音が「そしりの種」となってしまっている、ということです。ここでの具体的な問題は、食べ物についてのことでした。ユダヤ人の伝統的な律法に基づいて、キリスト信者もある種の食べ物を汚れたものとして避けるべきだと思っている人と、主イエス・キリストが実現して下さった救いによってそれらの律法はもう意味を失っており、だから食べてはいけない物などはないと思っている人がいたのです。そしてそのような人は、あるものを食べない人のことを、あの人はまだ信仰による自由が分かっていない、主イエスによる救いへの信頼が足りない、と言って軽蔑しており、逆にあるものを食べないでいる人は何でも食べる人のことを、信仰者のくせに不信仰な者たちと同じ生き方をしている、と裁いていたのです。そういう対立、裁き合う現実の中でパウロは、「神の国は、飲み食いではなく」と言ったのです。あなたがたは、悔い改めて福音を信じ、神の国、神の恵みのご支配の下に生きる者となったはずではないか。この世において隠されている神の国が、あなたがたにおいて目に見えるものとなっているはずではないか。それなのに、そのあなたがたが飲み食いのことでお互いに裁き合っているようでは、神の恵みのご支配の下に生きているとは言えない。それでは神の国が目に見えるものとならない、とパウロは言っているのです。

自由をどう行使するか
 これは、飲み食いのことについての意見の違いなど些細なことだから、そんなことで対立せずにお互い認め合って仲良くしなさい、ということではありません。既に何度も言っていますが、パウロ自身は、それ自体汚れているものなど何もない、だから何を食べてもよい、という立場にはっきりと立っています。主イエス・キリストの救いのみ業によって、信仰者は食物に関する律法から解放され、自由を与えられているのです。だから今なお食べ物に関する律法に縛られている人は、信仰による自由に生きていない、信仰の弱い人だとパウロは言っているのです。しかしパウロはここで、自分と同じように何を食べてもよいという自由を得ている信仰の強い人たちに対して、主イエスによって与えられたこの自由をどのように用いるかに注意するように教えています。何を食べてもよい、という自由を闇雲に主張し、まだその自由に生きることができていない人にもそれを強制するなら、その自由はあなたがたの自己主張になっている。自己主張は、弱い兄弟の心を痛め、つまずきを与えることにしかならない、とパウロは言っているのです。何を食べてもよい、という考えそのものは正しくても、それが自己主張となってしまうなら、それは悪いものになってしまうのです。キリストによって本当に自由にされた人はそのようなことはしない。弱い兄弟のことを思いやって、自分の自由の行使を差し控えて、弱い者と共に歩もうとするのです。それこそが本当に自由な者、また本当の愛に生きている者の姿です。自己主張をしている間は、まだ本当に自由ではない、自分の主張に捕えられ、愛を失っているのです。つまり、何を食べてもよい、という自由に生きている人が、それによって自己主張をするなら、その人たちも、「信仰者は肉を食べるべきではない」と言っている人たちと同じように、神の国を「飲み食い」の事柄にしてしまっているのです。ですから、「神の国は飲み食いではない」によってパウロが本当に言おうとしているのは、飲み食いなど些末なことだということではなくて、神の国は私たちの自己主張、自分の意見を通すことによっては実現しない、ということなのです。神の国とは神のご支配です。神のご支配が確立し、私たちがそれに従うところにこそ神の国があるのであって、自分の主張に固執し、それをあくまでも通そうとすることは神の国とは相容れないのです。

神が与えて下さる義
 神の国は飲み食いではない、それでは何なのか。それは「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と語られています。義と平和と喜び、この三つが神の国の印である。その三つの印について聖書から聞いていきたいと思います。
 先ず「義」についてです。これは「正しさ」という言葉ですが、私たちの正しさ、良い行い、ということではありません。パウロはこの手紙の最初の方、1章18節から3章20節までにおいて、人間は自分の正しさによって救いを獲得することはできない、ということを徹底的に語りました。そのしめくくりである3章20節にこうあります。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。私たちは、律法を行うという自分の義、自分の正しさによって神の前で義とされることはないのです。それを受けて3章21節にはこう語られていました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。この「神の義」こそが、神の国の第一の印とされている「聖霊によって与えられる義」です。それはどのようなものかが3章22-24節にこのように語られています。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。つまり神の義とは、主イエス・キリストの十字架の死による贖い、つまり罪の赦しによって神から無償で与えられた義です。無償でとは、私たちの正しさには全くよらずにただ神の恵みによって、ということです。だからこの「神の義」は「神による救い」と言い替えることもできます。その神の義、神による救いをいただいて生きることが、神の国、神の恵みのご支配の下で生きることなのです。飲み食いのことで自己主張をするのは、神の義によってではなくて、自分の義、自分の正しさによって生きようとすることです。自分の義、自分の正しさを主張してそれによって正しい者として生きようとするところに、人を裁き、軽蔑し、つまずせることが起こるのです。しかし神の国に生きる者は「神の」義によって生きるのです。父なる神が主イエス・キリストによって打ち立てて下さった義に聖霊によってあずかって生きるのです。そこには、自己主張から解放されて生きる道が開かれているのです。

神との平和
 次に「平和」についてです。これも単に人間どうしの間に争いがないことではありません。この手紙の5章1節でパウロはこの平和について語っていました。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」。信仰によって義とされ、神の義を与えられたことによって私たちは、神との間に平和を得ているのです。神の国の第二の印とされている平和はこの神との間の平和です。第5章でパウロは、この神との間の平和が私たちに、苦しみの中でも希望を失わずに忍耐して生きる力を与えることを語っていました。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むのだと言っていたのです。それは一般的な真理ではありません。苦難がいつも忍耐を生むわけではないし、忍耐が練達、練達が希望を必ず生むというものではないでしょう。このことが起こるのは、神との間に平和が与えられているからです。言い替えれば、5章5節にあるように、神の愛が私たちの心に注がれているからです。神との間が平和であるとは、神の愛が心に注がれており、神が自分を愛して下さっていることを知っているということなのです。その愛は、6節にあるように、キリストが不信心な私のために死んで下さったことによって示されました。8節には「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。この愛によって私たちは、神との間に平和を与えられているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第85編9節にあるように、主なる神が、背きの罪に陥っている民に平和を宣言して、与えて下さるのです。この神との間の平和が、人間どうしの平和の源です。人間が自分の正しさを主張し、権利を主張することからは争いと戦いしか生まれません。しかし神との間に平和を得ている人は、主イエス・キリストが罪人である自分のために死んで下さり、それによって神が平和を宣言して下さったことをいつも覚えているのです。そこに、正しさと正しさがぶつかり合う争いからの解放があります。食べる者と食べない者の対立も、お互いが自分の正しさに固執し、それを主張することによる争いです。そこに平和が与えられるのは、お互いに妥協して認め合うことによってではなくて、主イエス・キリストの十字架によって実現している神との間の平和が、聖霊の働きによってお互いに与えられることによってなのです。

喜びに生きる
 神の国の第三の印は「喜び」です。神の恵みによって義とされ、神との間に平和を与えられた者は、喜びに満たされるのです。この喜びこそ神の国の印です。神の恵みのご支配の下にある者は喜びに生きるのです。キリストを信じる信仰とは、眉間に皺を寄せて難しいことを考えて生きることではありません。青筋を立ててしゃかりきになって何かを頑張ることでもありません。神によって与えられたこの命、この人生を喜んで生きること、それが信仰です。自分が幸せだから喜ぶのではありません。神が独り子イエス・キリストを与えて下さったほどに私を愛して下さっているからです。その神の恵みのご支配の下に自分の人生の全てが置かれていることを信じるがゆえに、苦しみ悩みの中にあっても、喜びと希望を失ってしまうことはないのです。苦難が忍耐、忍耐が練達、練達が希望を生むのは、この喜びが与えられているからです。飲み食いのことについて自己主張をして裁き合っている者はこの喜びを失っています。信仰の生活は、神の恵みに感謝してその喜びに生きることであるはずです。何を食べてもよいという自由に生きることもその喜びの現れなのだし、何かを食べないでいることも喜びを表現するためであるべきなのです。どちらの人も自分の喜びをそれによって表現すればよいのであって、他の人にそれを押しつけ、それによって裁くならば、つまり人に対する意地悪な思いがそこにあるならば、それは神の恵みを喜んでいるのではなくて、むしろ自己主張を喜びとして生きているということです。神の救いを本当に喜んで生きている人は、人を裁く意地悪な思いからは解放されているはずなのです。

聖霊によって、私たちにおいてこそ
 これらの義と平和と喜びを私たちに与えて下さるのは聖霊なる神です。私たちが、教会が、聖霊によって義と平和と喜びを与えられ、またそれを求めつつ生きるところに、神の国、神の恵みのご支配が目に見えるものとして表されていくのです。教会が即神の国なのではありません。ここにも見つめられているように、教会は、本来そうあるべき神の国の姿からかけ離れたものとなってしまいがちです。聖霊による義と平和と喜びを失って、自分の義を主張し、平和でなく争いに、喜びでなく意地悪な思いに陥ってしまうことがしばしばです。教会こそ神の国だ、などと私たちにはとても言えないのです。しかしそのような私たちに、主イエス・キリストによって神の救いの恵みが与えられています。主イエスは罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さったのです。この礼拝に集っている私たちは、聖霊によってキリストによる救いへと招かれています。そのキリストによる救いを信じて洗礼を受け、キリストのものとされて生きている者たちの共同体が教会です。神の国が、人間の正しさによってではなく、キリストの十字架によって神が与えて下さった義によって実現するならば、それが起こるのは他所のどこかではありません。聖霊のお働きによって、私たち教会においてこそそれは実現するのです。私たちはそのことを信じて、神の恵みのご支配の下に生きることを真剣に願い求め、またそれに相応しい交わりを築いていく努力をしていきたいのです。神は、まことに欠けの多い私たち教会によって、ご自分のご支配、神の国をこの世に示そうとしておられるのです。

人々に信頼される
 18節には「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます」とあります。聖霊の働きによって、神による義、神との平和、神からの喜びを与えられて生きることによってキリストに仕えていく、それが私たちの信仰です。そのようにキリストに仕える人は、神に喜ばれると共に、人々にも信頼されるのです。この「信頼される」という言葉は以前の口語訳では「受け入れられる」となっていました。聖霊によって与えられる義と平和と喜びに生きている者は、人々にも信頼され、受け入れられるのです。それは、自分の義、自分の正しさを立てようとする自己主張に生きていないからです。またキリストによる神の愛を受けることによって、心の内に平和と失われることのない喜びを得ているからです。そのような人は、誰にとっても一緒にいて気持ちがよいのです。信頼できるのです。つまり私たちが本当に信仰に生き、神の国に生きる者となるなら、私たちと周囲の人々との間に、たとえ意見の食い違いや対立があったとしても、関係が根本的に損なわれてしまうことはないのです。しかし私たちが自己主張によって自分の正しさを立てようとして、自分の正しさを誇り、人に対する意地悪な思い、人を軽蔑したり裁いたりする思いに陥っていくならば、そこには人をつまずかせることばかりが起り、信頼関係が失われていくのです。

互いの向上に役立つことを
 19節には「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」とあります。義と平和と喜びに生きている者は平和と互いの向上に役立つことを追い求めるようになるのです。自分の正しさを主張していたずらに争いの種を蒔くのではなく、神が主イエスの十字架によって罪人である私たちに与えて下さった平和を隣人との間にも打ち立てていく努力をしていくのです。また「互いの向上」と訳されているのは、「家を建てる、建設する」という言葉です。それは次の20節の「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」と対になっている教えです。「無にする」は「破壊する」という言葉です。破壊するのではなく建設することをこそ追い求めなさい、とパウロは言っているのです。私たちの自己主張は、たとえそれが内容的に正しくても、相手を破壊し、交わりを壊していくものです。お互いを建て上げていくような建設的な働きは、聖霊によって与えられる義と平和と喜びの中でこそなされるのです。聖霊による義と平和と喜びに生きる者は、人を裁き批判して打ち倒すのではなくて、建て上げるために語り、行動するのです。そのようにしてお互いがお互いを建て上げていくところに、神の恵みのご支配の下にある群れである教会が築かれていきます。その教会は、神のご支配が見失われてしまっているこの世に、神の国を、神の恵みのご支配を、目に見える仕方で示し表す群れとなることができるのです。

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