夕礼拝

メシアに会う

「メシアに会う」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第98編1-3節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章22-35節
・ 讃美歌:231、268

 本日はクリスマスです。   
 いつも夕礼拝では使徒言行録を読み進めていますが、本日は同じ著者ルカが書いた、ルカによる福音書から、クリスマスに関連するところを共に聞いていきたいと思います。      

 教会では、クリスマスの一か月前から「アドヴェント」というクリスマスを待つ期間を過ごしてきました。それはクリスマスがやって来るのを準備して整える期間です。それはクリスマスパーティーやプレゼントの準備をする期間、という意味ではなく、心と信仰を整える期間、ということです。   
 クリスマスは、イエス様のご降誕を覚えて喜ぶ日、わたしたちに神の救いが到来した出来事を喜ぶ日です。約2000年も前に、神の独り子イエス様が、小さな赤ちゃんとなって、人間となって、この世にお生まれになりました。神の救いの御業、つまり十字架にかかって、全ての人の罪をご自分の身にすべて負って下さるために、小さな赤ちゃんとなってこの世にお生まれになって下さいました。救い主がわたしたちのところに来て下さった。救いがやって来た。そのイエス様のご降誕の出来事を深く覚えて、わたしたちはクリスマスを待つアドヴェントの時を過ごし、今日の日を迎えたのです。         

 今日、お読みした聖書に出てくる「シメオン」という人は、救い主の誕生をずっとずっと待ち続けていた人でした。そういう意味では、これはアドヴェントのお話と言っても良いかも知れません。   
 しかしそれは、今のわたしたちのように、アドヴェントカレンダーでクリスマスまで後何日、とカウントダウンするように、指折り数える待ち方ではありませんでした。シメオンにとっては、救い主がいつお生まれになるか分からなかったからです。      

 25節以下に、シメオンがどういう人であったかが書かれています。   
 「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」   
 「メシア」というのは「救い主」という意味のヘブライ語です。ついでに言うと、ここの原文のギリシャ語では「キリスト、主」と書かれていて、わざわざ日本語にする時に「メシア」というヘブライ語に訳されているのです。      

 シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」、救い主に会うまでは死なない、と聖霊なる神様に告げられていました。   
 このお告げを受けてから、どのくらいの期間、シメオンが待たなければならなかったのかは、聖書には書かれていません。数か月か、数年か、数十年も待ったのか。シメオンは正しい人で信仰のあつい人だった、とありますが、信仰深い人でも、今か今かと、いつ来るか分からない日をずっと待ち続けるというのは、楽しいものであったとは思えません。   
 わたしたちが、今すでに与えられた喜びの時であるクリスマスを待つのとは違って、いつ救い主が来られるか分からないシメオンは、暗闇の中で、小さな光を見つけようとして、ずっと目を見張っているような、不安で、心細い、緊張感あふれる、待つ期間を過ごしていたのではないかと思います。      

 しかし、シメオンは「聖霊が彼にとどまっていた」とあるように、信仰によってその神様のお告げを確かな約束であると信じ、毎日毎日、メシアと出会う日を待っていたのです。         

 そして、とうとうその日がやってきました。それは、イエス様がお生まれになってから四十日後のことです。   
 22~24節に、「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩ひとつがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」と書かれています。   
 イエス様の両親となったユダヤ人であるマリアとヨセフは、旧約聖書の時代からユダヤ人が守ってきた律法に従って、エルサレムの神殿にやってきました。   
 それは二つの律法を守るためです。一つは、初めて生まれた男の子を神様に献げるため。もう一つは、母マリアの清めのためです。男の子を産んだ後の母親は、七日間出血の汚れがあるとされており、三十三日間清めに必要とされています。そしてその期間が終わったら、清めの儀式をするのです。レビ記によれば、本来ならこの時に、一歳の雄羊一匹と家鳩または山鳩一羽を献げることになっていますが、産婦が貧しい場合は二羽の山鳩または二羽の家鳩を献げるとされています。24節には「山鳩ひとつがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」と書かれていることから、マリアとヨセフは貧しい生活であったということが分かります。   
 このように、神の御子であるイエス様は、肉体をとり、一人の小さな赤ちゃんとなって、特定の時代、特定の民族、特定の場所で、イスラエルの民として律法のもとで、この人間の歴史の中に、まことの人となって、世に来られたのです。         

 さて、そのようにして、幼子イエス様を連れたマリアとヨセフが、エルサレムの神殿にやってきました。すると、27節にあるように、シメオンは「〝霊〟に導かれて神殿の境内に入ってきた」のです。   
 メシアとの出会いために、聖霊なる神様の働きがあったことが、何度も強調されています。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)。「お告げを聖霊から受けていた」(26節)。「霊に導かれて神殿の境内に入ってきた」(27節)。   
 聖霊なる神様の導きとお働きの中で、シメオンは神殿の境内に入り、そしてマリアとヨセフに連れられたイエス様と出会い、とうとう待ち望んでいた救い主を、その腕に抱いたのです。シメオンのもとに救い主がやって来ました。そうするとこれは、さきほどアドヴェントのお話しとも言えると言いましたが、クリスマスのお話だと言うことも出来るかも知れません。      

 イエス様はこのとき生まれて四十日ほどです。この教会にも小さな赤ちゃんを連れた方がいらっしゃいますけれども、赤ちゃんは本当に小さく、かわいらしく、愛おしくなる存在です。ついそのプルプルの肌に触れたくなります。小ささに驚き、こわごわとしながら、この手に抱いてみたくなります。小さくて、でも意外とずしっと重たくて、温かくて、甘いにおいがする、始まったばかりの命です。      

 シメオンは、そのような赤ちゃんのイエス様を、どんな思いでその腕に抱いたのでしょうか。シメオンは、実際に、救い主がどのようなお姿で来られるか、どうやって出会うのか、まったく知りませんでした。こんなに小さく幼い赤ちゃんと出会うとは、思っていなかったかも知れません。一体誰が、こんなに無力で貧しい家庭に生まれた、一人の小さな赤ちゃんが、人々を救うために来たメシアだと分かるでしょうか。   
 しかしシメオンは、聖霊の導きによって、この幼子が確かに救い主であると知りました。シメオンは救い主をその目で見て、その手で触れ、腕に抱き、もしかすると泣き声も聞いて、腕に重みと温かさを感じ、そのようにして確かに「メシアと会った」のです。   
 そして、28節の「幼子を腕に抱き」の「抱く」という言葉は、「迎える」とか「受け入れる」とも訳すことが出来る言葉です。聖霊によってシメオンは、幼子を神からのすべての民の救い、慰めとして、幼子イエス様を受け入れたのです。神の救いを自分の手に確かに受け取ったのです。        

 イエス様が人となってこの地上に来て下さる前、旧約聖書の時代には、人は全能の神の顔を見たら死ぬ、と言われていました。それほどに神の栄光は輝かしいものであり、また神に逆らった人間は、神の御前に出ることが出来ないほど罪深い者だからです。   
 しかし、救い主である神の御子を見ることは、旧約聖書の時代のように、栄光に輝く神の顔を見て、人が死に至る、ということを意味しているのではありませんでした。神の御子は、むしろその神の栄光を打ち捨てて、貧しくなり、低くなって罪人のところへ降ってこられて、人々を生かすために、目で見て、手で触れることができる方になって下さったのです。   
 こうして旧約聖書の時代が終わり、救い主が来て下さったことによって、まったく新しい時代が始まりました。神ご自身が、人の罪を赦し、神と共に新しい命を生きることが出来るようになるために、救い主を遣わして下さったのです。   
 その神の救いの御業を見る、ということが、メシアに会う、ということでした。         
 幼子のイエス様を腕に抱いたシメオンは、神を賛美します。29節以下です。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせて下さいます。  
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」  

 シメオンは、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていました。シメオンには、救い主を見届けるという務めが与えられていたのです。  
 メシアに会うまでは決して死なない。  
 この時、「死」はシメオンにとってどちらの意味を持ったでしょうか。死が恐ろしいもので、この世に長く生き長らえたいと願うなら、メシアを見る日は恐れるべき日であったかも知れません。メシアを見る、ということは、決して死なないという約束がそこで終わること、彼がそれ以降はいつ死んでもおかしくない、ということだからです。  

 しかし、シメオンはメシアに会うこと、救いを見ることを待ち望んでいました。   
 それは、神の慰めと救いが与えられる約束であったからです。   
 不安もあったでしょう。約束を待ち望んでいるけれど、しかしそれはいつ来るか分からない。遥かに先かも知れないし、今、その時は来るかも知れない。「待つ」ということは忍耐が必要です。確かな約束がなければ、耐えられるものではありません。しかも、自分の命が左右されることを、待っているのです。   
 しかしそのような中でシメオンは、いつも聖霊の助けによって信仰を持って神を見上げ、神の慰めの約束を希望として、いつ来るか分からないその日を待ち続けて、生きていたのではないでしょうか。   

 だから、その待ちに待ったメシアを見たシメオンは言います。   
 「今こそあなたは、お言葉通り この僕を安らかに去らせてくださいます。」   
 この「去らせる」という言葉は、「死」ということも表現していますが、「解放」や「釈放」という意味で、ルカでは何度も登場する言葉です。   
 シメオンは、今こそ、神によってまことに平安の内に解放されるのです。待って生きることからの解放であり、また暗闇の中からの解放です。   
 それは、「この目であなたの救いを見た」からです。人間の罪を赦し、死をも克服し、人間をまことに解放して下さる、救い主が来られたのです。人をまことに生かす方です。その神の救いの約束の始まりを、シメオンは確かにその目で見て、その腕で受け取ったのです。そして、シメオンが生きるということも、死ぬということも、もはや神の救いの御手に捕らえられているのです。   
 だからシメオンは、平安の内に、自分の生と死を、存在のすべてを、賛美しつつ神に委ねることが出来たのではないでしょうか。      

 シメオンが見た救いは、「万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ。」となります。   
 救い主は、神殿で、初めて生まれる男子として神に献げられ、確かに一人のイスラエルの民の一員としてこの世に生まれました。そして、この方の罪の贖いによって、世のすべての人々が神の子とされる道が開かれたのです。   
 この方は、万民のための救いとなり、異邦人、つまりイスラエルの神の民だけでなく、世の全ての人々を照らす啓示の光となるのです。神の救いの御心が、この方によって現わされ、すべての人を照らす光となるのです。      

 そのために、シメオンは幼子イエス様を連れて来た母親のマリアに、このように告げなければなりませんでした。   
 「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」   
 お生まれになったイエス様は、人々の救いのために、多くの苦難を受け、十字架へと向かう生涯を歩まれます。神に逆らう人々の罪のために、主イエスは十字架に付けられ死なれます。しかし、それらの御業を成し遂げて下さることによって、十字架の死によって、すべての人々の罪を赦し、また復活によって、主イエスを信じる者たちに、永遠の命と復活の約束をお与え下さいます。人々を罪と死に虜にされている中から、まさに神の恵みと平安の中へと解放して下さるのです。そうして、万民の救い、異邦人を照らす啓示の光となって下さったのです。         

 この光は、エルサレムから遠く離れ、時間も2000年経った、異邦人である、今のわたしたちにまで強く差し込み、眩く照らす光です。   
 シメオンが聖霊に導かれて神殿に入ったように、わたしたちも聖霊に導かれて、この神を礼拝する場所へ来たのです。そしてシメオンが聖霊によって救い主と出会ったように、わたしたちも救い主と出会うのです。シメオンが、その目で見て、手で触れて、声を聴き、腕に抱き、幼い命を希望として、慰めとして、救いとして受け取ったように、わたしたちも、救いの御業を成し遂げられ、天におられ、今生きておられる主イエスと出会い、その命を受け取るのです。      

 今朝、お二人の方が礼拝で洗礼を受けました。救いを見たのです。十字架と復活の神の救いの御業が、自分のものであると信じ、主イエスの罪の赦しと新しい命を、自分の手に確かに受け取り、その信仰を告白したのです。一人の人が罪を赦され、主イエスに一つに結ばれ、新しい命を与えられる。洗礼は、その神の救いの御業が、目に見えるしるしとして与えられる時です。その時、洗礼を受ける本人も、信仰の共同体も、まさに「この目であなたの救いを見た」と、共に神を賛美するのです。      

 またここの聖書箇所は「シメオンの賛歌」(賛美の歌)と呼ばれていますけれども、宗教改革の時代には、教会の礼拝の中で、聖餐の後に歌われたそうです。聖餐では、わたしたちの罪の赦しのために、主イエスの十字架で裂かれた肉、そして流された血を覚えて、目に見えるしるしとして、パンとブドウ酒をこの目で見て、手で触れて、口で味わいます。また礼拝の聖書の説き明かしの説教では、生ける神の言葉を、この耳で聞きます。今、そこに生きて働かれる神が、共におられるのであり、その主イエスの体を、命を、わたしたちはこの目で見て、この耳で聞いて、この手で触れて、食べ飲みする如く、まことに受け取っているのです。   
 ですからわたしたちは、礼拝を通してメシアに会い、共に   
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせて下さいます。    
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」   
と神を賛美します。救い主の命をこの手に受け取り、慰めと、平安と、希望を受け取り、自分のすべてをこの方に委ねることが出来るのです。         

 そして、救いを見たわたしたちは再び、待つ時を過ごしています。主が再び来られる日を待っています。しかしそれは、シメオンのように、暗闇の中で光を探し求めるようにして待つ時ではありません。すでに光は世に来ました。そして、救いの御業は成し遂げられました。わたしたちは、主イエスの救いの光に照らされた中を歩んでいます。聖霊がいつもわたしたちの心を、天に上げられ、生きておられる主イエスと結び合わせ、導いて下さいます。そして、世の隅々にまでその光が照らされるのを待ちつつ、希望と確信を持って、主が再び来られ、神の国を完成させて下さる日を待っているのです。      

 イエス様がお生まれになったことを覚える、このクリスマスの日。聖霊の導きによって、主が遣わして下さったメシアがわたしたちと出会って下さったことを感謝し、与えられた慰めを、救いを、命を、この手でしっかりと受け取り、希望と確信の内に、主が再び来られる日を待ち望みつつ、共に神を心から賛美したいと願います。

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