夕礼拝

神の言葉を無にしない

「神の言葉を無にしない」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第29章13-21節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第7章1-13節
・ 讃美歌 ; 18、54

 
エルサレムから来たファリサイ派と律法学者
本日お読みした箇所には、「昔の人の言い伝え」を巡る、主イエスとファリサイ派の人々とのやりとりが記されています。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。エルサレムは、ユダヤ教の宗教的な中心地です。そこから、宗教的指導者である律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々がイエスの下に集まって来たのです。ガリラヤで活動する主イエスの噂はエルサレムにも届いていました。力強く神の国についての教えを語り、病を癒し、悪霊を追い出している。そして、行くところにはどこでも、群衆が押し寄せている。そのようなことを聞いて、エルサレムから主イエスの下にやって来たのです。ナザレのイエスとはどのような人で、どのような言葉を語り、どのような業をなしているのか、直接会って、この人の教えを聞き、業を見てみたいという思いがあったのでしょう。

ファリサイ派の人々の問い
しかし、この人々が注目したのは、主イエスの言葉や、業ではありませんでした。主イエスの弟子たちの姿に目をとめたのです。「イエスの弟子達の中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」とあります。彼らは、弟子の中に手を洗わずに食事をする者がいるということに驚かされたのです。ファリサイ派の人々を含め、ユダヤ人達は皆、食事をする前に念入りに手を洗っていました。それだけではなく、市場から帰って来た時には身を清めてから食事をし、又、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、「昔の人の言い伝え」を固く守っていたのです。ここで言われていることは、私たちが食事の前に手を洗ったり、風呂に入って体を洗ったり、食器を洗ったりすることとは異なります。「手を洗う」ということには、手についた雑菌を落とすということ以上の目的があったのです。「念入りに」と訳されている言葉は「こぶし」という言葉です。この言葉はいくつかの解釈がなされる箇所です。「手のひら一杯の水で」との意味であるとされたり、手首まで洗うことだとされたり、握り拳で、もう一方の手をこすったのだとされたりします。いずれにしても、手を洗う方法が決められていたのです。これは、この行為が、宗教的な意味を持つ行為であったことを示しています。食卓という清い場所に着く前に、自らの手の汚れを落として清め、又、市場という場所でお金を扱って取引をすることで汚れてしまった身を清めるのです。この行為は、衛生的にというよりも宗教的に自らを清めるために不可欠であったのです。そのために、主イエスの弟子達が行っていなかったことに躓いたのです。そこで、主イエスに向かって、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と聞くのです。
このようなことは、私たちの間でも起こることです。教会に通う中で、主イエス・キリストよりも、主イエスに従って歩む人々に目を向けるのです。これは、キリスト者でない人でも、既に信仰を与えられて、キリスト者となっている人にも起こることです。立派な行いをしている人を見て、あの人は熱心な信仰者だと言って褒めることがあります。又、反対に、倫理的に好ましくない歩みをしている人を見て、あの人はキリスト者なのに何であんな生き方をするのかと思ってしまうこともあるでしょう。そのような中で、立派な生き方をする人を見て、とても私にはあのような生き方は出来ないと思って、主イエス・キリストに従う歩みを自分とは無縁なことのように思ってしまったり、又、キリスト者の言動に対する躓きが原因で教会を去ってしまうということも起こるのです。

生きる指針として御言葉に聞く
何故この人々は、主イエスの弟子達の業に注目したのでしょうか。そこには、神様への信仰を、自らを高めて、立派な生き方をなすためのものとする考え方があります。汚れとされているものを遠ざけて、自ら清い者となろうとするのです。日本でも、信仰についてこのような、イメージで捉える人が多いように思います。信仰を持って歩むことが、人間的に見て、立派に生きることと一つなのです。ここで「汚れた」と訳されている言葉は「日常の」という意味にも使われる言葉です。「汚れ」というのは人々の「日常」を意味していて、手を洗って清めようとしたということは、「日常」を切り離すことによって、清められることを意味しています。日常の汚れを分離して、清い者へと向上していこうとするのです。
そこでは、掟が作られて、それを厳格に守るということが起こるのです。ここでユダヤの人々が守っている「昔の人の言い伝え」というのは、旧約聖書の律法に記されているものではありませんでした。彼らは、律法にだけ聞き、それを実践していたのではありません。4節の終わりには「昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とあります。旧約聖書に記された律法以外にも、それを守るための先祖伝来の伝承がたくさんあって、それらの細かな言い伝えを忠実に守ろうとしていたのです。旧約聖書に記されている律法は、神様から与えられた、神の言葉です。それに対して、「言い伝え」というのは、律法を守るために、人間が作った掟です。長い歴史の中で、様々な掟が生み出され、事細かなことまで規定していたのです。ここで、固く守ると言われている言葉は、「つかむ」という言葉です。彼らは、人間が定めた掟によって、自分の清さを「つかむ」ことに必死になっていたのです。そして、人間が自ら清さをつかもうとする時に、宗教的な慣習や、掟が生まれるのです。

神よりも人間に目を向ける
このような掟に生きる筆頭が、宗教的指導者であるファリサイ派の人々です。この人々は、律法の教師として人々を教えていたのです。事実、当時の社会の価値観から見れば、品行方正で非のうちどころの無い生活をしていて、人々からも尊敬されていたのです。彼らは、掟を守り、清く正しい生活をすることによって信仰深く生きていると考えていました。ですから、ファリサイ派の人々は、力強い教えを語り、神の国を説いている主イエスの弟子であれば、当然自分たちが守っている「昔の人の言い伝え」は守っているだろうと思ったのです。この人々は、自ら清さを保とうとして、日常の汚れを分離して歩み、自分自身が清さを保つことに必死になる一方で、自分たちのように清さを保たないものを軽蔑していました。自らの掟で人を裁いて歩んでいたのです。そこでは、神様のことを重んじているように振る舞いつつ、実際は、神様ではなく、人間にのみ目を向けて歩んでいたのです。自分で自分を清めようとして、人間の立てた掟に忠実になるあまりに、神様の御心とは離れてしまう歩みをなしていたのです。神ではなく人間に目を向ける歩みの中で、真に神の言葉に生きるいうことがなされなくなってしまうのです。

偽善者
 弟子に目をとめて、「なぜ、手を洗わないのか」と聞く、律法学者やファリサイ派の人々に向かって、主イエスは、「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。」と言われ、預言者イザヤの言葉を語ります。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。律法を説いているが、そこで教えているのは、「人間の戒め」である。又、神の御心に従っているように歩んでいるが、実際、心は、神から離れているというのです。それは全く、主なる神をあがめていることにはならないと言うのです。 ここで主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々に対して、偽善者と言っています。偽善とは「役を演じる」という意味の言葉です。人々の顔を気にして、その前で役になりきっている。神様ではなく人間を見つめて、「あの人はしっかりと信仰によって生きている清い者だ」と思われるために、役を演じているのです。そして、そのような歩みは、外側は、神様に従って清く生きているように見えながら、実際は、神様をあがめるのではなく、自分自身をあがめる歩みなのです。主イエスは、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろしにしたものである」と言われています。ここで、「自分の言い伝え」と言うのは「あなた方が立てる言い伝え」という意味の言葉です。実際は人間の立てた教えに忠実なのです。自分の言い伝えに忠実になっているために、神の掟をないがしろにしてしまうのです。又、ここで「よくも」という言葉が加えられています。これは「見事に」という言葉です。6節において「見事に」預言したと言われている言葉と同じ言葉で、「美しい」とか、「すばらしい」という意味の言葉です。主イエスは、ここで、驚嘆しているのです。あたかも神の律法に従っているように振る舞う中で実際には自分の立てる掟に従っている」、なんと見事に、神の掟をないがしろにしたものかというのです。それは、見栄え良く、美しく見えるのです。まるで、神の言葉に生きているように見えるのです。

父、母を敬え
 8節以下には、神の掟をないがしろにしていることの具体的な例が語られています。モーセの律法には、『父と母を敬え』と教えられています。十戒の第4の戒めです。ここには、両親を敬い支えることが教えられているのです。しかし、彼らの間には、この戒めが教えることを骨抜きにしてしまっていたのです。11節にあるように、『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものはコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父母に対して何もしないで済むのだ』と言われていたのです。父母を敬うということは、当たり前のことのようですが、簡単なことではありません。事実、年老いて生活が困難になった親の世話をするということには困難も伴います。働くことができなくなった両親を経済的、物質的に支えなくてはならないこともあるでしょう。しかし、この人々は、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバンです」と言うことによって、この律法の教えに生きることから逃れていたのです。「コルバン」というのは、「神への供え物」であると記されています。これは、実際に神殿で備えるのではなく、神に供えるために日常の用途から区別したもののことです。本来は父母を敬うためになさなくてはならないはずのこと、父母のために与えなくてはならないものは、神様へ捧げてしまった。私は、何よりも第一に考えるべき神様にお捧げしていると言うことで、両親に対する義務を逃れていたのです。神様に仕えることを理由に、神の言葉に背くのです。
主イエスご自身も、従う人々に向かって、父、母を捨てて、わたしに従うようにと教えています。主イエスに従う時に、その他のものを捨てて、自らの歩みの全てをこの方に傾けるということが不可欠です。様々なものに同時に仕えることは出来ません。しかし、このような御言葉を、自分の両親を敬わないことを正当化するのであれば、そこでは、神の言葉に忠実に振る舞っているように見えて、実際は人間が立てた掟に従っているのです。あたかも、外見では、自分は神様を第一にしている、神様に従っているという姿を見せながら、実際には、御言葉をないがしにしてしまっているのです。最も、敬虔そうな歩みをしているように見える中で、実際は神の言葉が無にされているのです。

無にしている私たち
私たちは、ファリサイ派程、宗教的な慣習に縛られて生きてはいません。多くの先祖伝来の言い伝えに縛られて生きてもいないでしょう。しかし、主イエスの福音に生かされる信仰生活が人間の立てる掟によって、形骸化するということは起こります。汚れを清めるという感覚で手を洗うことはないかもしれません。しかし、例えば、キリスト者の習慣で食事の前に祈りをするということがあります。与えられた糧に感謝していただくことは大切なことです。又、祈りを生活の習慣にすることによって、感謝する思いが増し加わるということもあるでしょう。ですから、このような習慣は良いものであることは間違い有りません。しかし、それを一つの「人間の掟」にしてしまい、自分の中で、「敬虔なキリスト者は食事の前には祈るものである」との掟を立てて、その掟に従うために、祈りを捧げるということであれば、実際に神様に感謝するという気持ちが忘れられた祈りが捧げられるということにもなるのです。そして、時には、この習慣を守らない人々のことを裁いたり、この習慣に生きられたかった時に自らを責めるということも起こるのです。人間によって掟が定められる時には、人間に目を向けられ、裁く思いに支配されてしまうのです。そこでは、私たちを自由にするはずの神の言葉を無にして、自ら作り出した掟に縛られて自由を失ってしまうのです。主イエスは、そのような、人々に向かって、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで、神の言葉を無にしている。」と語られるのです。

神の言葉を無にする
私たちは時に、神に従っているように装いつつ、自分の立てた掟に従って歩む時、神の言葉を無にしてしまいます。人間の立てる宗教上の規定に縛られ、自分自身や隣人を裁くことから自由になれないのです。ここには、自ら、清くなろうとすることの背後にある人間の罪があるのです。そして、そのような私たちの罪が、真の神の子である主イエスを十字架につけたのです。この後、律法学者達やファリサイ派達をはじめとして、ユダヤの人々は、主イエスを十字架に架けることになります。そのことの原因の一つに、当時の宗教的な掟、人間の立てた掟に従わない主イエスに対する躓きがあります。主イエスは、徴税人をはじめ、当時、神様の救いから外れていると考えられていた罪人のもとに行き食卓を共にされました。ユダヤの人々が、決して共に食卓を囲むことがなかった人々と食卓を共にされたのです。このことは、ファリサイ派の人々にとっては、自ら汚れを避けて、清くなろうとする歩みの逆を行く歩みです。
主イエスが裁かれた裁判において問題となったのは、主イエスが神を冒涜したということでした。人々は、まるで、自分自身が神のことをよく分かっている者であるかのように振る舞い、神の子に向かって神を冒涜したとの判断を下したのです。自ら清くなろうとする者がなすことは、神の言葉である主イエスを「神を冒涜している」として、殺してしまうということなのです。ここに、真の神の言葉を無にする人間の罪が示されています。しかし、この十字架によって、主イエスは自らを無にしようとする人々の罪の贖いをなして下さるのです。ただ、そのことによって、人間を本当の意味で罪から清めるためです。

神の言葉を無にしないで歩む
 私たちは、自分の掟を立てることによって、神の言葉を無にしてしまうことがあります。自ら掟を立てることよって、日常の汚れを区別して、自ら清くなろうとするからです。しかし、そのような歩みにこそ罪が潜んでいるのです。そこで起こることは、神に目を向けるよりも、人間に目を向けることです。自分の掟に縛られる中で、自分自身を裁き、隣人を裁きます。そこでは、神の言葉に従っているように振る舞ってはいても、神の言葉は無にされています。神の言葉というのは、そのような私たちが自ら清くなるために守るべき掟ではないのです。むしろ、肉となられた主イエスの歩みの中に、真の神の言葉が示されています。罪の中にある私たちを救うために、肉となって世を歩み、十字架に架かることによって、私たちを清めて下さる主イエスこそ、神の言葉そのものなのです。私たちが、罪によって、人間の掟を立てて、自らを清めようとする歩みに対抗するようにして、神の言葉は、私たちを清めるために、私たちのもとへと下って来るのです。
この方の十字架の血による清めによって、私たちが赦されていることを示される時に、私たちは、自らの掟によって「清さ」へと向上することを止めて、主イエスがなされた罪の赦しに自らを委ねて歩む者とされるのです。私たちが神の言葉を無にしないで生きることが出来るとするならば、肉として来られた主イエス・キリストが十字架にまで謙られて、死なれたことの意味を知らされて、そこに真の恵を見出して歩むことにおいてです。その時、人々の掟から自由とされ、主イエスの恵によって生かされるようになるのです。そこで、私たちも主イエスがなさった謙りの歩みに倣って、自らの掟から自由にされて、赦された恵を喜んで、隣人を赦しつつ生きはじめるのです。その時、私たちの歩みは、自分自身をあがめることを止めて、真に神をあがめる者とされているのです。

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