クリスマス礼拝

目から涙をぬぐいなさい

「目から涙をぬぐいなさい」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章15-17節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章13-18節
・ 讃美歌:248、265、271

クリスマスに問われていること  
 アドベントの四週を経て、クリスマス礼拝の日となりました。今年はこの25日が主の日となりましたので、昨日の讃美夕礼拝に続いてこのクリスマス礼拝を守ることになります。そして本日が2016年の最後の主の日となります。昨日の讃美夕礼拝では、マタイによる福音書第2章の1~12節からメッセージを語りました。本日はその続きである13節以下を読みます。昨日の讃美夕礼拝に続くものとしてこのクリスマス礼拝を守ろうということです。  
 しかし昨日の讃美夕礼拝には出席しておられない方々もいますから、昨日のメッセージを振り返っておきたいと思います。12節までのところには、主イエス・キリストが誕生した時、東の国から、占星術の学者たちがはるばる旅をして来て、幼な子イエスの前にひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬の贈り物を献げたことが語られていました。エルサレムに着いた彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いました。彼らはユダヤ人ではありませんが、彼らが東の国で見た星は、ユダヤ人の王としてお生まれになった方が、全世界の王であり救い主であることを告げていたのです。それゆえに、自分たちの王としてもお生まれになった救い主を拝むために、彼らははるばる旅をして、ユダヤの王の都であるエルサレムに来たのです。その時ユダヤの王だったのはヘロデでした。3節には「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」とあります。ヘロデは元々王家の出ではなく、敵対する人々を殺して王になった人です。王になってからも、自分の地位を少しでも脅かしそうな者たちはことごとく殺していきました。その中には自分の妻も、その妻との間にうまれた自分の子供も含まれていました。そのような彼はいつも、誰かが自分を殺して王位を奪うのではないかと不安を抱いていました。ユダヤ人の新しい王の誕生の知らせは彼にとって、自分の地位を脅かす者が新たに現れた、という恐ろしい知らせだったのです。しかしこの知らせに不安を覚えたのはヘロデだけではありませんでした。3節後半には「エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。王であるヘロデだけでなく、エルサレムの人々も不安を抱いた。それは彼らも、小さなヘロデとして生きていたからです。自分の人生の王は自分だ、自分の人生は自分のもので、自分の思い通りに生きるのだと思っている者には、まことの王の誕生の知らせは不安をもたらすのです。まことの王が現れれば、もう自分が王であることは出来なくなるからです。しかし東の国の学者たちのように、まことの王の誕生を喜び、自分が王であろうとするのではなくて、まことの王のみ前にひれ伏して礼拝しようとする者にとっては、クリスマスは救い主の誕生を祝う大きな喜びの時となります。クリスマスの出来事は私たちに、あなたはヘロデやエルサレムの人々のように歩むのか、それとも東の国の学者たちのように歩むのか、と問いかけているのです。

ヘロデによる幼児虐殺  
 学者たちは星に導かれて幼子イエスに出会い、ひれ伏して拝み、贈り物を献げました。まことの王である主イエスを礼拝した彼らは喜びに満たされました。ヘロデは彼らに、その子を見つけたら知らせてくれと言っていましたが、夢で神のお告げを受けた彼らは、ヘロデには知らせずに帰ってしまいました。そのことを知ったヘロデがどうしたか、ということが本日の13節以下に語られています。16節にあるように、ヘロデは「大いに怒った」のです。そして「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のです。自分の地位を脅かす危険性があると思ったら妻も子も殺した彼のやりそうなことです。このために、何の罪もない幼子たちが虐殺されたのです。主イエス・キリストの誕生に伴って、このような凄惨で残酷な出来事が起ったことを聖書は告げているのです。

今も起っていること  
 この幼い子供たちは、支配者、権力者であるヘロデの憎しみと猜疑心の巻き添えとなって殺されました。そういうことが今も起っています。シリアの内戦において、最近はアレッポという町のことが特に取り上げられていますが、そこでの政府軍と反政府勢力の、そしてそれぞれの背後にいるロシアと欧米諸国の、そしてイスラム過激派の三つ巴の戦いの巻き添えとなって多くの市民が命を落としており、小さな子供たちも犠牲になっています。瓦礫の中から助け出され、血まみれで呆然としている子供の映像が流されました。戦争はいつの時代にもこのような弱い、権力とは無関係な人々を傷つけ、殺します。ヘロデの幼児虐殺はこのような形で今もこの世界に起っているのです。またこの幼児虐殺は、主イエスの誕生、クリスマスの出来事とのつながりの中で起っています。そのことは先日ベルリンで起ったテロ事件を思わせます。クリスマス・マーケットの中に大型トラックが突っ込んで十二人の人々が殺されました。クリスマスを祝う多くの人々を標的としたテロです。そのようなテロ事件が今年も世界の各地で起きました。ヘロデによる幼児虐殺と同じことがこういう形でも起っているのです。またこのことはヘロデの身勝手な思いによって起ったことを思う時、今年の7月にこの神奈川県の津久井で起った、知的障碍者の施設での悲惨な事件を思い起こさせられます。「障碍者は不幸しか作り出さない」というあの犯人の全く根拠のない勝手な思い込みの言葉は、「この幼な子は自分に不幸をもたらす」というヘロデの思いと同じです。障碍者に対するそのような偏見がこの社会にはあることがこの事件によって浮き彫りにされました。そしてそれは、私たちの心の中のどこかにもそのような思いがあることを示しているのではないでしょうか。幼な子を虐殺したヘロデはこの社会の中にいるし、私たちの心の中にもいるのです。

主イエスは何のためにお生まれになったのか  
 マタイによる福音書は、主イエス・キリストの誕生を語りつつ、このような人間の深い罪の現実と、それによって起る悲惨な出来事を見つめています。マタイはこのことによって、神の独り子である主イエスが、このように悲惨な世界に、このような罪深い人間のもとに来て下さったことを語っているのです。13節には、天使がヨセフの夢に現れて、ヘロデが幼な子を殺そうとしているからエジプトに逃げるように告げたことが語られています。そのおかげで主イエスはヘロデも魔の手から逃れることができたのです。イエスが生まれたために多くの幼な子が殺され、当のイエスだけは天使のお告げによって生き残ったのは納得できない、と私たちは考えてしまうかもしれません。この出来事だけを見ればそのようにも感じられます。しかし私たちは主イエスのご生涯の全体を見つめなければなりません。この時ヘロデの手を逃れて生き伸びた主イエスは、成長してから、苦しみ悲しみの中にいる人々に神の国、つまり神のご支配を告げ知らせ、病を癒し悪霊を追い出すことによって人々に神の救いを示し、そして最後は、人々の罪を全てご自分の上に背負って十字架にかかって死なれたのです。私たちの心の中に根強くあり、私たちを支配している罪と、そのもたらす悲惨さ、苦しみ悲しみを、主イエスはご自分の身に背負い、引き受けて下さって、十字架の死への道を歩み通して下さったのです。主イエスがヘロデの虐殺を生き延びたのは、十字架の死へと向かう生涯を生きることによって、人間の罪とそのもたらす悲惨さをより深く知り、それをご自分の身において味わい、その苦しみ悲しみを全て背負って死ぬためだったと言うことができます。神の独り子であられる主イエスが、その地上のご生涯において、罪に支配され、そこから抜け出すことができずにいる私たちと共に歩み、私たちの苦しみや悲しみを共に味わって下さったのです。そして私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって、罪の悲惨さの中にいる私たちに神による赦しを与えて下さったのです。主イエスがそのためにこそこの世に生まれて下さったことを示すために、マタイはクリスマスの出来事の中でこの幼児虐殺を語っているのです。

エレミヤの預言の実現  
 マタイは、ヘロデによる幼児虐殺は預言者エレミヤの預言の実現だった、と語っています。そのために引用されているのが、先程共に読まれた箇所、エレミヤ書第31章15節です。「ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから」。息子を殺された母親の、慰めを拒むほどの深い嘆き悲しみがここに語られています。エレミヤが見つめているのは、ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、人々が虐殺され、そしてバビロンに捕囚として連れ去られたという、国の滅亡の破局、混乱の中での出来事です。それと同じことが、主イエスがお生まれになった時のヘロデの幼児虐殺においても起ったし、今も、武力衝突の中で起っているし、テロにおいても起っているし、一見平和に見える日本の社会においても起っています。それらの出来事によって、慰めの言葉も失われるような深い悲しみがこの世界に満ちているのです。神の子イエス・キリストは、このように罪と悲惨と嘆きに満ちたこの世界に生まれて下さったのです。

目から涙をぬぐいなさい  
 しかしマタイは、このエレミヤ書31章15節を引用することにおいて、その続きのところをも意識していたに違いありません。16、17節にはこうあります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。息子たちを失い、慰めを拒むほどに嘆き悲しみ、泣いている母親たちに、主なる神はこう語っておられるのです。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある」。つまりエレミヤはこの箇所で、バビロン捕囚の苦しみ、絶望の中にいるイスラエルの民に、主なる神が希望をお与え下さることを語っているのです。主が、あなたがたの今の苦しみ悲しみに報いて下さり、救いを与えて下さる、喜びを回復して下さる、と告げているのです。マタイは、そのことを知っており、意識しています。しかしここではそれを表に出して語ってはいません。15節のみを引用し、16節以下には触れていないのです。それは、この希望は、主イエスの誕生と、それがもとになって幼児の虐殺が起ったこの時点で語られる得ることではないからです。主なる神によって与えられる絶望からの解放、救いの希望は、主イエス・キリストの十字架と復活を経てこそ語られ得るのです。神の独り子である主イエスが、人々の苦しみ悲しみに寄り添い、それをご自分の身に負って下さったご生涯、とりわけ私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったこと、さらには父なる神がその主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さったこと、それらのことによってこそ、罪人である人間に赦しと救いが与えられたのです。主イエスの十字架と復活においてこそ、エレミヤがここで告げた、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある」という主の言葉は実現したのです。主イエスの誕生、クリスマスの出来事は、神の独り子、まことの神であられる主イエスが、この救いを私たちに与えるために、神としての栄光を捨ててこの世に来て下さり、苦難の道を歩み始めて下さった、その出発点です。ここからこの世を歩み出された主イエスは、ヘロデによって幼な子を殺された親たちの絶望と悲しみ嘆きをも、今もこの世界で起っている戦いやテロや悲惨な事件によって深い悲しみの中にいる人々の絶望をも、そしてそれらの悲惨な出来事を生み出してしまう私たちの心の中の罪の闇を、全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。そして父なる神は主イエスを復活させて下さることによって、慰めをも拒む絶望の中にいる者に、ただ神のみが与えることのできる慰めを与えて下さり、罪人である私たちが赦されて神の子として新しく生きることができるようにして下さったのです。この主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活による救いを見つめることによってこそ、私たちは本日のこの、クリスマスの出来事を語りつつ、まことに悲惨な、人間のどんな慰めも通用しないような暗い現実を語っている箇所の背後に、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある」という神からの希望のメッセージを聞き取ることができるのです。

洗礼を受けた者は  
 本日この礼拝においてお二人の方々が洗礼を受け、教会に加えられます。洗礼を受けるとは、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストが、十字架の苦しみと死とによって私たちの全ての罪と悲しみ苦しみ絶望を背負って下さり、そして父なる神の力によって復活して、新しい命、永遠の命を生きておられる、その主イエスの十字架と復活による救いにあずかり、主イエスを自分の救い主としてお迎えすることです。洗礼において私たちは主イエスの十字架の死にあずかり、罪に支配された古い自分が死んで、主イエスの復活にあずかり、主と共に永遠の命を生き始めます。そして洗礼を受けた者は、主イエスの十字架と復活による救いの恵みをこの口と心で味わい、新しい命を養われていくための食物である聖餐にあずかり、この体をもって主と共に生きていきます。洗礼を受けたからといって、この世を生きる私たちの現実が全く新しくなってしまうわけではありません。私たちはなお、深い罪の中にあり、その罪によって生じる様々な悲惨な出来事を体験します。人の罪によって傷つけられ、自分の罪によって人を傷つけ、お互いが苦しみ悲しみに陥っていくことも体験します。人間の罪によってこの世に起る悲しい出来事の前で、どうすることもできない自分の無力さを覚え、また同じ罪が自分自身の心にもあることを突きつけられて愕然とすることもあります。しかしそのような罪の現実の中にあっても、洗礼を受けた者は、主イエスの十字架と復活による赦しの恵みの中に自分が既に入れられていることを信じて、その恵みに常に立ち返ることができるのです。そこにおいて私たちは、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある」という主のみ言葉を常に新しく聞きつつ生きることができるのです。

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