夕礼拝

救い主はどこに

「救い主はどこに」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第60章1-7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章1-12節
・ 讃美歌:260、278、247、262、261

不安に覆われた社会  
 皆さん、横浜指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。この讃美夕礼拝はいつも24日に行っています。24日が平日の年は、午後4時と7時の二回行っていますが、今年は土曜日なので、一時間早めて3時と6時としました。この後皆さんがクリスマスイブの土曜日の晩をゆっくり満喫できればよいと思っています。そして明日25日は日曜日です。教会では明日の午前10時30分より、クリスマス礼拝を行います。普通の年はこの讃美夕礼拝よりも前の日曜日にクリスマス礼拝が行われるのですが、今年は逆になりました。この讃美夕礼拝に続いて、明日のクリスマス礼拝にもご参加いただければと嬉しいです。  
 さて皆さんにとって2016年はどのような年だったでしょうか。人によって、良い年だったという人もいれば、つらい一年だったと思っている人もいるでしょう。世の中全体としてはどうだったでしょうか。今年の国内のニュースを振り返って、一つ、大きな時代の転換点を迎えたことを実感させられるものがありました。それは、昨年行われた国勢調査の結果が発表され、日本の人口が初めて減少に転じたということです。そうなることはもう前から分かっていましたが、ついに実際の調査結果にそれが現れたのです。そしてこのことは今後どんどん進んでいくことが目に見えています。いよいよ日本は人口減少社会に突入したのです。人口減少と同時に高齢者の比率はどんどん増えていきます。現役の世代が高齢者世代を支えていく、という社会保障の制度が次第に成り立たなくなってきています。そのことを筆頭に、人口減少社会においてどのようなことがこれから起っていくのか、私たちは経験したことのない局面にさしかかりつつある、そういう不安が今この社会全体を覆っていることを感じます。  
 世界に目を向けるなら、シリアの内戦は欧米とロシアとの代理戦争の様相を呈し、イスラム過激派との三つ巴によって泥沼のように続いています。多くの観光客が集まる場所を狙ったテロ事件が、つい最近もベルリンであったし、世界のあちこちで起っています。多くの難民がヨーロッパに押し寄せ、EUの諸国が、人道的な観点から難民を受け入れようという考えと、自分たちの社会を守るためにそれを制限しようとする考えの間で揺れています。イギリスが国民投票でEUからの離脱を決めたのは、自分たちの国、社会を混乱から守ろうという思いが多数を占めたということでしょう。世界全体がそのように、厳しい状況の中で、自分たちの国の利益を最優先にし、それを守るためには他の国の人々のことにまで思いを向けてはいられない、という方向へと向かおうとしています。アメリカにおいてもそうです。今年の始めには、トランプが共和党の候補になるとすら思っていませんでした。それが大統領選挙で勝ったというのも、アメリカ国民の間に、アメリカのことが第一、という彼の主張への共感が集まったということでしょう。先行きへの不安の中で、世界の国々でナショナリズムが高まっています。このような傾向の行き着く先に何が待っているのか、いずれにしても幸せなことにはなりそうもない、と感じます。

救い主を待ち望んでいる  
 このような中で、多くの国々において、強い指導者が求められ、もてはやされています。ナショナリズムをくすぐって自国民の気持ちを高揚させ、希望を与えて元気にするような、そのためにはかなり乱暴なことも言ったりするような政治家に人気が集まるようになってきています。それはつまり、人々が救い主を待ち望んでいる、ということでしょう。暗く混沌とした閉塞状況を一気に変えてくれる、明るい未来を切り拓いてくれる、そんな「救い主」が現れることを、私たちは心のどこかで待ち望み、求めているのではないでしょうか。けれどもこのような状況は、第一次世界大戦の後、苛酷な賠償を課されて不況にあえいでいたドイツにヒトラーが登場して政権を得ていった時と似ていると言うことができます。あの時ヒトラーは、まさにドイツ国民の救い主として登場したのです。強い指導者が待ち望まれる時代というのは、独裁者が現れる時代でもあるのです。

独裁者ヘロデの不安  
 イエス・キリストがお生まれになった時にユダヤの王であったのは、ヘロデという人でした。この人はまさにヒトラーと並び称されるような独裁者でした。ヘロデは、ユダヤの王子として生まれ育ち、父から王位を受け継いだのではありません。彼の父は前の王朝に仕える将軍の一人でした。つまり彼は王の家来の家系だったのです。しかし血で血を洗う争い、戦いに勝利し、また当時地中海周辺の世界全体への支配を確立しつつあったローマに取り入って、ローマのお墨付きによってユダヤの王となったのでした。そして王となったヘロデは、その地位を盤石なものとするために、前の王朝の生き残りの人々をことごとく殺していきました。その中には、前の王の孫であった自分の妻も、またその妻との間に生まれた自分の子供も含まれていました。妻だろうと子供だろうと、前の王朝の血筋を少しでも受け継いでいる者は、自分の王位を脅かす者として排除したのです。そのあたりが、政権を握ってからのヒトラーと同じです。自分の地位を少しでも脅かす危険のある者は容赦なく殺す、独裁者はそのようにして自分の地位を守っていくのです。  
 このヘロデが王として治めているユダヤの都エルサレムに、はるか東の国から、占星術の学者たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったのです。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」とありますが、それは当然です。自分のあずかり知らない所でユダヤ人の新しい王が生まれたというのは、独裁者ヘロデにとっては最悪の知らせです。自分の王位を脅かす者が新たに現れた。これもまた、早いうちに排除してしまわなければならない。しかしその新しい王と言われる者はどこに、誰の子として生まれたのか。この学者たちもそれを知らないと言う。何とかしてそいつを見つけ出して始末しなければ…。ヘロデが「不安を感じた」というのは、そのような思いだったでしょう。ヘロデがこれまでしてきたことからして、それは当然のことです。

エルサレムの人々の不安  
 しかし3節の後半にはそれに続いて「エルサレムの人々も皆、同様であった」と語られています。ユダヤ人の王となるべき方が新たに生まれたという知らせを聞いて、ヘロデだけでなく、エルサレムの人々は皆不安を抱いたのです。それは不思議なこと、驚くべきことです。なぜならこの時エルサレムの人々の多くは、ヘロデが王であることを喜んでいなかったからです。ヘロデは、ヒトラーのように人々の支持を受けて王になったのではありません。対抗する者を倒し、またローマの後ろ立てによって王位を得たのです。征服者であるローマの息のかかったヘロデの支配をユダヤ人たちは喜んでいませんでした。しかもヘロデはユダヤ人ではありません。他の民族出身の者がローマの力を借りてユダヤの王となっているのであって、それはユダヤ人にとって屈辱的なことでした。だからユダヤ人のまことの王が新しく誕生したという知らせは、喜びをもって受け取られても不思議はありません。むしろその方が自然なのです。ところがエルサレムの人々も皆、ヘロデと同じく不安を抱いたと聖書は語っています。新しいまことの王の誕生の知らせに不安を覚えるのは独裁者だけではないのです。エルサレムの人々とは、王でも支配者でもない一般の人々、つまり私たちと同じ人々です。イエス・キリストの誕生の知らせは、私たちにも、ヘロデと同じように不安を与えるのです。

自分が王であろうとするなら  
 ヘロデが不安を覚えたのは、自分の王としての地位が脅かされることを感じたからです。私たちは、王でもなければ独裁者でもありませんが、でも私たちも実は、自分の人生という国の王であろうとしているのではないでしょうか。人生の主人は自分だ、自分の人生は自分のものだ、と思っている私たちは、その地位を脅かすものが現れたなら、不安を覚えるのです。ユダヤ人の新しい王がお生まれになったという学者たちがもたらした知らせは、私たちにとってもそういうことを意味しているのです。自分はユダヤ人ではないから、ユダヤ人に新しい王が生まれても関係ない、とは言えません。この学者たちははるか東の国から来た、ユダヤ人ではない人々です。その彼らが、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来たのは、その方が世界の全ての人の王でもあられるからです。彼らが東方で見た星は、世界の全ての人々の王が、ユダヤ人の王としてお生まれになったことを告げていたのです。それで彼らはその方を拝むためにユダヤにやって来たのです。イエス・キリストの誕生は、私たちと無関係などこかの国の王が生まれたという出来事ではありません。この私の真実の王が、自分の人生の本当の主人がこの世に来られた、ということなのです。この真実の王の誕生の知らせを私たちはどう聞くか。道は二つです。この学者たちのように、その王の誕生を喜び、はるばる旅をして拝みに行くか、ヘロデのように、自分の地位を脅かされることへの恐れを覚え、その王を抹殺しようとするかです。ヘロデを嫌っていたはずのエルサレムの人々も、自分の人生の主人は自分だと思っていることにおいてはヘロデと同じだったので、まことの王の誕生に不安を覚えたのです。  
 今世界中の人々が、先行きへの不安の中で、ナショナリズムをくすぐり、閉塞状況を一気に変えて、明るい未来を約束し、自分たちを元気づけてくれるように思える強い指導者、救い主を求めています。そのような思いは下手をすれば、ヘロデやヒトラーのような独裁者を生み出す不幸な歩みとなってしまうかもしれません。私たちが、ヘロデやエルサレムの人々と同じように、自分の人生の王は自分だと思い、自分の王座を守ろうとするなら、そういうことが起るのです。なぜなら自分の王座を守ろうとする時私たちは、自分を満足させ、自分のために便宜をはかり利益を守ってくれる、要するに自分のことを第一にしてくれる、と思える指導者を求め、そういう人を救い主として喜ぶようになるからです。自分たちのことが第一という私たちの思いが、独裁者を生み出していくのです。エルサレムの人々が、ヘロデを嫌いながらも結局は彼の支配を受け入れていたのはそのような思いがあったからです。そしてそのように生きている限り、新しいまことの王の誕生を告げるクリスマスのメッセージは不安をもたらすものでしかないのです。

まことの王の前にひれ伏す  
 それに対して、あの東の国の学者たちは、まことの王の誕生を喜び、はるばる旅をして拝みに来ました。その方を拝むとは、その方を自分の王として受け入れるということです。この学者たちはそれぞれ東の国の王様たちだったのだ、という伝説もあります。だとしたら彼らは、自分が王であることをやめて、まことの王の前にひれ伏そうとしたのです。彼らは幼子イエスに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた、とあります。これらのものは、彼らが占星術を行うために必要不可欠なものだった、という説もあります。だとしたら彼らは、自分の一番大事な商売道具を、それがあったからこそ高い地位を得ることが出来たそのものを全て、まことの王に献げてしまった、ということになります。つまりこの学者たちは、自分が人生の王であること、主人であることをやめて、主イエス・キリストに自分自身をささげて礼拝する者となったのです。

大きな喜び  
 このように、このクリスマスの物語には、二つの正反対な生き方が示されています。一方には、まことの王の誕生に脅威を感じて不安を覚えているヘロデとエルサレムの人々がおり、他方には、自分が王であることをやめてまことの王の前にひれ伏して礼拝する学者たちがいるのです。学者たちは、彼らが東の国で見た星によって、幼子イエスのもとへと導かれました。10節には「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。自分が王であり続けようとしているヘロデたちが不安を覚えているのとは対照的に、まことの王の前にひれ伏そうとしている彼らは、クリスマスの大きな喜びに溢れているのです。  
 彼らがこのような大きな喜びに溢れることができたのはなぜなのでしょうか。それは、クリスマスにこの世に生まれ、彼らがひれ伏して拝んだ主イエス・キリストが、ヘロデやヒトラーのような、自分に敵対する者たちを、その可能性のある者たちも含めて皆殺しにするような、恐怖によって人々を支配する独裁者、つまり偽りの救い主ではなくて、まことの救い主だからです。主イエス・キリストは、神の独り子、まことの神であられました。まことの神がその栄光を捨てて人間となって私たちのところに来て下さった、それがクリスマスの出来事です。そのように人間となり、この世を生きた主イエスは、力をもって人々を支配するのではなく、愛によって弱い者、貧しい者、苦しんでいる者に寄り添い、罪人として軽蔑され差別されている人々の友となり、神の愛が苦しんでいる者、悲しんでいる者にこそ及んでいることをご自分の歩みによってお示しになりました。そして最後は、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちのためにご自分の命を犠牲にして下さることによって救いを与えて下さる方として、イエス・キリストはこの世に来られたのです。この方こそ私たちのまことの救い主です。学者たちはこのまことの救い主を迎えてそのみ前にひれ伏して礼拝をすることができたのです。そこには、神がもたらして下さるまことの平和があり、大きな喜びが満たされるのです。

平和の器として  
 私たちは今日、このまことの救い主をお迎えし、そのみ前にひれ伏して礼拝するためにここに集まっています。占星術の学者たちを東の国から旅立たせ、幼子イエスのもとへと導いたあの星が、今日私たちの上にも輝いたのです。クリスマスに独り子を私たちの救い主としてお与え下さった神が、私たち一人一人を導いて、この讃美夕礼拝へと集わせて下さったのです。私たちの生きているこの世界は、暗い闇に包まれ、不安に満ちています。この国は、この世界はこれからどうなっていくのか、神ならぬ私たちには分かりません。けれども今日私たちは、その闇の中に輝く星に導かれて、まことの王であり救い主であられる神の独り子イエス・キリストのもとに集いました。独り子の命をお与え下さったほどに私たちを愛して下さっている父なる神が、私たちをも、神の子として生かそうとしておられるのです。主イエス・キリストを救い主としてお迎えし、その救いにあずかり、神の子とされて生きる私たちには、自分が王であり続けようとすることによる不安に満ちた歩みとは全く違う、神が与えて下さる平和があり、あの東の国の学者たちに与えられた大きな喜びがあります。そしてその喜びの中で私たちは、平和の主であるキリストが私たちを、不安に満ち、憎しみと戦いの溢れるこの暗い世界の中で、ご自分の平和の器として用いて下さることを信じて生きることができるのです。主は私たちを、憎しみのあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いがあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇があるところに光を、悲しみがあるところに喜びをもたらす者として用いて下さろうとしているのです。その恵みを共にいただくために、今年も皆さんとご一緒に、アッシジのフランチェスコの平和の祈りを祈りたいと思います。

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