夕礼拝

聞き、見て、触れる

「聞き、見て、触れる」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第11章19-20節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章1-4節  
・ 讃美歌:351、458、73

今ヨハネの手紙一、1章1節から4節の御言葉をわたしたちは聴きました。この1節から4節は、この手紙全体が何のために書かれているのか、また何を書いてあるか、そのことを初めに明らかにしているところであります。
では何のためか、何ついて書かれているのかというと、それは一節の最後のところですが、「命の言について──」これをヨハネは伝えたかったのです。命の言というのは、これは神様の言葉であります。神様の言葉をなぜ「命の言」と言うかというと、実は、その神様の言葉こそ私たちに「命」を与えるものだからであります。旧約聖書の申命記に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」という言葉があります。そのように、人が生きる、人が人として生きるということのためには、神様の言葉を聞くということが、どうしても必要になります。

しかし、私たちはどうか?私たちも神様の御言葉を聞きたいと思って一生懸命願っているけれども、「あ、いま神様の言葉を聞こえた」そのようには、簡単には聞けません。聖書を見るとアブラハムとか、イサクとか、ヤコブとか、信仰の先達が神様の言葉を聞いたということが書いてある。そこでは神様の言葉は、天から突然声が聞こえる。どうも旧約聖書の話の中では、アブラハムにしても、モーセにしてもそのように言葉を聞いております。わたしたちもそういう経験をすることができるのかと期待をしておりますけれども、大体わたしたちにはそのような経験はありません。そこで私たちは神様の言葉を聞いてないのだろうか、ということを悩み始めます。それではいったいどうしたら、私は神様の言葉を聞くことができるだろうかということが、わたしたちの問題になってくるのです。 ここでヨハネは、命の言を聞くにとどまらず、また見た、触れたとも言っています。では言葉を見る、触れるとはまた、いったいなんなのでしょうか。 これらの悩みに聖書は、答えております。それはヨハネによる福音書の1章の14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」という言葉であります。この「言」というのは、もちろん神様の言です。どうしたら、いったい神様の言葉を聞くこと、見ること、触れることができるだろうか、思い悩んでおります私たちに、その神様の御言葉が、肉体をとって私たちの目の前に現れたのだ、ということをヨハネは私たちに告げております。肉体を取るということはつまり人となるということです。

では人となられた神様の御言葉とは一体誰なのであるかというと。それは主イエス・キリストです。福音書でヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」といっておりますが、ヨハネは肉体をとった主イエス・キリストを栄光としてその目で見たのです。そのことをこのヨハネ手紙一の冒頭でも同じように言っております。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」とヨハネは言っております。命の言というところを、主イエス・キリストに置き換えてみるとはっきりとします。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、主イエス・キリストについて。――この主イエス・キリストは現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」 命の言であられる主イエス・キリストのことを私はあなたがたにお伝えするというのが、ヨハネの言っていることです。 ではヨハネはいつ主イエス・キリストに出会って、見て、聞き、触れたのか。ヨハネが主イエス・キリストに出会ったのは、日常生活をしていた時です。その時、イエスという方がヨハネの元に来られて「わたしについてきなさい」と言われました。ヨハネはその方の話、その肉声を彼自身の耳で聞ききました。主イエス・キリストはいろいろと話してくださったのです。また、その御顔、その御姿、なさることを、彼はその目で見た。そうしているうちに、この方はいったいどなただろうか、弟子たちが主イエス・キリストの御業を見て「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って驚いているところがあります。改めて、いったいこの方はどなただろうか、思いを込めて見直した、そういう経験もありました。それだけでなくて「この手でさわった」とヨハネは言います。主イエス・キリストがユダの裏切りを予告なさった夜に、主イエス・キリストの胸に寄りかかって「それはだれのことですか」と尋ねたのはヨハネです。 そういう目で見て、この手でさわることができた御方が、実は、命を与える神様だということを後に知った時の、弟子たちの衝撃はどのようなものだったのでしょうか。「私は、神様にこの手でさわっていたのだ」とその驚きと感動がこの短い言葉の中に表れております。私たちはそういう驚くべきメッセージをここで聞いています。

しかしここで気付かされることがあります。2000年前に、実際に主イエス・キリストを見、その肉声を聞き、触れたことのあるすべての人が、弟子たちのように主イエス・キリストの御言葉に聞き従ったのか、というと実はそうではありません。実際、主を十字架にその手で架けた人物、主イエス・キリストを陥れようと問答を仕掛けた律法学者やファリサイ派の人たち、その人達も主イエス・キリストを見、その声を聞き、時には触れたことのある人たちです。その者たちは、主を肉眼で見たが、その時にすぐにその主の御言葉を受け入れて、従うということはありませんでした。ですからここから、わたしたちは、直接主を見たり、そのお言葉を直接聞いたりすることができれば、すぐさま「わたしは命の言を聞いた」と自覚するというわけではないのだ、とわたしたちは気付かされます。弟子たちも初めから主イエス・キリストの言葉を命の言だと自覚していたのではありません。弟子たちも最初は主イエス・キリストの言葉は「先生の権威あるお言葉」、「風や湖を従わせることのできる不思議なお言葉」、だったのです。そう理解していたのです。 この弟子たちが「主イエス・キリストは命の言である」と気付くのは十字架と復活の出来事の後のことです。十字架の出来事以前の弟子たちは、「イエスが生ける神の子、救い主である」ということを告白していましたけれども、実際にはどれほど主イエス・キリストに従えていたかというと、主イエス・キリストがエルサレムで無実の罪で逮捕されるその時には、弟子たちは主イエス・キリストの下から逃げ出す、また一番弟子ペトロは三度も主イエス・キリストのことなど「知らない」と否む。このようなものでした。なぜ聞き、見て、触れることのできた人たちが、命の言である主イエス・キリストを拒否してしまったのか。それは人の持つ、そしてわたしたちにもある罪の故です。神様などわたしとは無関係である。神様を信じ従うのでなく、自分の信念に従う。神様中心でなく自分中心となる。その罪の中での人の耳は、神様の言葉も都合のいいように聞く耳になっていたり、そもそも聞くことすらも拒否する耳であったりするのです。 罪とは神様をいらないと人間の側から神様との関係を切ることなのです。命を与える神様の言葉を拒否するということは、自ら命を絶っているということに等しいのです。

しかし、主イエス・キリストは弟子たちが主を拒絶している時でも、弟子たちが言葉を理解できない時も、弟子たちの信仰が揺れ動いてぶれている時も、彼らをお見捨てにならないで、むしろ言であるかたの方から弟子たちに近づいてきてくださったのです。このことは弟子たちのみならならずわたしたちにも同じなのです。   

しかも、命であられるその方が、人の罪のために十字架に架かって死に、わたしたちの罪と死を代わりに受けてくださり、死ぬべきはずのわたしたちを生かしてくださいました。そして三日目に復活され、死に打ち勝つ御姿をわたしたちに示してくださいました。悔い改めてその主イエス・キリストの信じるものは、死ぬことのない永遠の主の命に与ることがゆるされました。 弟子たちはその復活された主イエス・キリストに出会って、既に主が語られていたこと、主イエス・キリストがわたしたちを罪の中から救うメシアであることを理解しました。そして主イエス・キリストが命の言である、わたしたちを死から生へと変えてくださる方であると知るようになった。

しかし、ここで最後に大きな問いが残ります。それは、なるほど、ペテロやヨハネ、そういう主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御姿を見、手でその御体をさわり、復活された主イエス・キリストと出会った。けれども、2000年の時を隔てた、今この日本に住んでいる私たちはいったいどうなるのか、「イエス様を見ることはできないじゃないか」と思ってしまいます。確かに、私たちは自分自身の目で主イエス・キリストの御姿を見、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御体に触れることはできません。

では一体どうすれば、今を生きるわたしたちは神様の言葉、命の言に出会うことができるのか。実は2000年後のこの私たちとは同じ立場にある人達がいます。その人達はこのヨハネの手紙一の手紙の受け取った人たちです。ヨハネは主イエス・キリストを見ることのできなかった人たち、その人たちにこの手紙を書いております。「あなたたちはイエス様を見たからいいでしょうけれども、私たちは見ておりません」この手紙を受け取った人たちは皆そういう人です。そういうことから言えば、この手紙の受取人である当時の教会の人たちと同じです。そういう主イエス・キリストを見たことのない人たちに向かって、ヨハネが主イエス・キリストのことをあなたがたに書き送る。そこでヨハネは自らの言葉をもって、復活の主の福音、命の言をこの人たちに伝えようとしているのです。 「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」私たちが神様の言葉を聞き、神様の御言葉にお答えをするという、そういう交わりを与えられていると同じように、あなたがたもそうなる、そのために私はこの手紙を書いている。ヨハネは教会の人たちに向かって手紙を書いています。そこで重要なことが三節にいわれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」 主イエス・キリストを見た、神様にさわった、それはただ、不思議な神秘な経験をするということではなくて、その神様との深い交わりを与えられるということです。神様の御言葉を聞き、それにお答えをする、そういう神様との交わりに入れられる、弟子たちはそういう恵みに与りました。

「交わり」というものは、いつも言葉がかけられ、それにお答えをするという、そういう生きた関係というものがないと、その交わりの「命」というものは続かない。人間の体は、これは生まれた時から生き続けていますけれども、いつも呼吸をしています、いつも脈を打っています。信仰者の集まりである教会というものは、ただそこに黙って動かず存在しているというのでなくて、生きています。その生きている生命を保っていくために、いつも呼吸をし、脈打たなければならない、これが信仰者の営み、また教会の営みであります。そのために私はこの手紙を書くというのです。人間というものは一度聞いて、信じて「分かった」と言って、それでそのまま生命がつながっていくかというとそうではない。どうしたら、生き生きとした生命を持つことができるか、これがわたしたちにとっての大切な問題です。  

主イエス・キリストは神の御子であって、私たちの救い主である。私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださった。主イエス・キリストは復活をなさった。私たちの罪は赦された。死ぬものから生きるものへと変えられる。この命の言を礼拝において、わたしたちが聞いている。実は、この今語られている説教を通して、神様が私たち一人一人に語りかけておられるのです。私たちはアブラハムが神様の言葉を直接聞いたというところを読むと、「いいなあ」と思います。それで「私たちはそんな風には聞けない」と思っているのですけれども、そうではありません。聖書の言葉そのものが、また礼拝の説教を通して、わたしたちは神様の語りかけを聞いています。 わたしたちは説教で神様の言葉を聞く、そして生きている主イエス・キリストと出会います。しかしわたしたちは、時にそのみ言葉を聞くことができなくなることがあります。大変な試練の中にある時、悩み苦しみの中にある時、病の中にある時、わたしたちは苦しみの囲いの中にいて一人耳を手で塞ぎ、座り込んでしまう。その時私たちは主の言葉を聞くことができなくなる。しかしその苦しみの囲いの中に主は見える姿で私たちの目の前に現れてくださいます。今日わたしたちの与る聖餐は、まさに見える主の体と血です。そしてわたしたちは聖餐において主の肉と血に触れることができます。 これが見える神の言葉としての聖餐です。主イエス・キリストが、今肉眼で主を見ることのできないわたしたちのために備えて下さいました。神様は、この礼拝を私たちに備えてくださいました。 今わたしたちはこの礼拝において神様の御前にいます。肉体をとって来られた神の言。目で見、手でさわることのできたあの言が、今この説教を通して私たちに語りかけてくださっています。そして見、触ることの出来る御言葉を聖餐として与えてくださっています。この礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、賛美をし、神様を讃え、わたしたちの身を主に捧げる、これが私たちの応答であり、交わりです。

このことが起こるためにヨハネはこの手紙を書きました。この手紙を通して、主イエス・キリストが、神様が、礼拝を通して私たちに語りかけてくださる。今教会の中でその御方が生きて働き、私たち一人一人に語りかけてくださっている、このことが大変な喜びなのです。 そして最後にヨハネは「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」と言っております。神様が言葉を語り、神様の言葉を聞く、そういう交わりの中で本当に信仰生活の喜びというものがあります。そのような恵みをわたしたちは与えられています。そうした恵みに与っていることを自覚して、また新しく感謝をもって信仰生活を続けたいと思います。

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