主日礼拝

聖なる教会

「聖なる教会」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第14章2節
・ 新約聖書:使徒言行録 第20章28-32節
・ 讃美歌:

聖霊は教会を築く
 使徒信条の第三の部分を読みつつ、み言葉に聞いています。第三の部分には、聖霊なる神への信仰が語られています。先ず最初に「我は聖霊を信ず」とあります。私たちは、父なる神と、その独り子であるイエス・キリストと共に、聖霊なる神を信じているのです。父なる神が、天地を造り、この世界を今も支配しておられること、その独り子イエス・キリストが、人間となって地上を歩み、十字架にかかって死んで下さった救い主であられることは分かりやすいけれども、聖霊はよく分からない、イメージがわかない、と感じることもあります。しかしこれまで繰り返しお話ししてきたように、聖霊は、今私たちに働きかけ、私たちを主イエスによる救いにあずからせ、神を信じて生きる者として下さっている、最も身近な方なのです。聖霊が働いて下さっているからこそ私たちは、父なる神とその独り子主イエスを信じることができるのです。そしてこの聖霊は、私たち一人ひとりに主イエスを信じる信仰を与えて下さるだけでなく、主イエスを信じる者の群れである教会を築いて下さっています。教会は、聖霊が降ったことによって誕生したのです。それが、先日共に祝ったペンテコステの出来事でした。弟子たちに聖霊が降ったことによって、彼らは主イエスを証しする新しい言葉を与えられ、主イエスこそ神の子であり救い主であると宣べ伝えていきました。その弟子たちの言葉を聞いた人々が、「イエスは主である」という信仰を与えられ、洗礼を受けて弟子たちの群れに加えられました。そうして教会が誕生したのです。そして弟子たちに降った聖霊は、新たに教会に加えられた人々にも降り、彼らも主イエスの証人として立てられ、遣わされていきました。そのようにして聖霊のお働きによって、主イエスによる救いの福音が、人から人へと伝えられ、全世界へと広がっていったのです。世界中に、主イエス・キリストの体である教会が築かれているのは聖霊のみ業です。私たちも、この教会において今、その聖霊のみ業を受け、信仰者として歩んでいるのです。

教会を信じるとは
 このように聖霊は、教会を築いて下さっています。聖霊を信じて生きるとは、聖霊によって築かれている教会に連なって、その一員として生きることなのです。それゆえに使徒信条は、「我は聖霊を信ず」に続いて「聖なる公同の教会」と語っています。聖霊を信じている私たちは教会をも信じているのです。しかし前回も申しましたが、神である聖霊を信じることと、教会を信じることでは「信じる」の意味が違います。私たちは教会を神として信じているわけではありません。「聖なる公同の教会を信じる」ということにおいて私たちは何を信じているのか、そのことを語っている「ハイデルベルク信仰問答」問54の言葉を前回も紹介しましたが、本日もそれを読みたいと思います。「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか」という問いに対する答えはこうなっています。「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれるということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです」。「聖なる公同の教会を信じる」ということにおいて私たちは、神の御子主イエスが、ご自分の群れを、選び、集め、守り、保って下さっていることを信じているのです。つまり教会を信じるというのは、教会という神の民が、神の恵みのみ心によって築かれていることを信じる、ということです。しかも、この答えに語られているように、そういう神の民がどこかに存在しているというのではなくて、この自分が主イエスによって選ばれ、集められてそのメンバーとされており、主イエスによって守られ、保たれていることをも信じるのです。つまり「聖なる公同の教会を信じる」というのは、神が聖霊のお働きによって教会を築き、主イエスによる救いのみ業をおし進めて下さっていることを信じるだけでなく、この自分が聖霊のお働きによってその教会に連なる者とされ、救われていることを信じる、ということなのです。

主の聖なる民
 さて本日からは、その教会のことが「聖なる公同の教会」と言われていることに目を向けていきたいと思います。本日はその前半の「聖なる」についてです。教会は「聖なる」ものだと使徒信条は語っています。それはどういうことなのでしょうか。「聖なる」という言葉は聖書において、主なる神をほめたたえる言葉として語られています。代表的なのはイザヤ書第6章3節です。天使が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と呼び交わして主なる神をほめたたえています。神を聖なる方とほめたたえることは聖書の信仰の基本です。しかし教会が聖なるものだというのはどういうことでしょうか。教会を聖なるものとしてほめたたえるのでしょうか。ここでも先ほどの、神である聖霊を信じるのと、教会を信じるのでは意味が違う、というのと同じことが言えます。教会は神ではありません。だから神が聖なる方だということと、教会が聖なるものだということは意味が違うのです。その違いをわきまえていないと、教会は聖なるものだから過ちに陥ることはないとか、だから教会への批判は許されないとか、教会の言うことには必ず従わなければならない、というような間違った考えが生まれるのです。教会が聖なるものだというのはそういうことではありません。その正しい意味は、先ほど朗読された旧約聖書の箇所、申命記第14章2節から分かります。そこには「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた」とありました。ここで「あなた」と言われているのはイスラエルの民です。イスラエルの民は「主の聖なる民」だと言われているのです。しかし元々そうだったのではありません。主なる神が彼らを選んで、御自分の民として下さったことによって、彼らは聖なる民とされたのです。つまり聖書において、元々「聖なる」方であるのは主なる神お一人です。その他のものに「聖なる」という言葉が用いられるのは、そのものが「神に選ばれ、神のものとされた」ことによってです。主なる神に選ばれて、神のものとされたので、イスラエルは「主の聖なる民」とされたのです。この「聖なる」には、人間の感覚において清いとか正しいとか、罪がない、などという意味はありません。イスラエルが主の聖なる民、宝の民とされたのは、彼らが力強く、清く正しい人々だったからではありません。前回読んだ申命記第7章6節以下に語られていましたが、彼らイスラエルはむしろ他のどの民よりも貧弱だったのです。しかしそのイスラエルを、主なる神が、恵みによって選んで下さり、御自分の宝の民として下さったのです。その主の恵みによる選びによって彼らは主の聖なる民とされたのです。

神の選びによる聖なる教会
 このことはそのまま教会にあてはまります。私たちは、神によって選ばれて、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、教会に連なる者とされています。私たちは自分で決心して洗礼を受け、教会に連なる者となりましたが、しかし信仰者は誰もが、神が自分を選んで、洗礼へと導いて下さったと感じています。自分で信仰を獲得したと思っている者はいません。神が選び、招いて下さったからこそ私たちは信仰者として生きているのです。この場にはまだ洗礼を受けておられない方々もおられますが、この礼拝にこうして集っているのは、神が多くの人々の中から皆さんを選び、招いて下さっているからです。ここにいる私たちは皆、神に選ばれ、集められているのです。その私たちは、清く正しく信仰深く生きている立派な者たちなのでしょうか。そうではありません。むしろ私たちは、いつも神に背き逆らっている、神のみ心よりも自分の思いや願いを優先にしている、罪深い者です。神に選ばれるに相応しい清さや正しさは私たちの中にはありません。その私たちを、神は選び、ご自分のもとへと招き、呼び集めて下さったのです。そして、独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずからせて下さったのです。それは神が、罪人である私たちを、それにもかかわらず、独り子の命をすら与えて下さるほどに愛して下さっているということです。この神の愛によって私たちも、主の聖なる民、宝の民とされているのです。私たちが清く正しい者ではないように、私たちが築いている教会も、清く正しい群れではありません。そこには様々な罪があり、弱さがあり、欠けがあります。人間の感覚からしたら、この群れのいったいどこが「聖なるもの」なんだ、と思わずにはおれないのです。それにもかかわらず、神がこの群れをご自分の民として選び、集め、守り、保って下さっている。だから教会は聖なる教会なのです。
 先ほどのハイデルベルク信仰問答の問54の答えには、神の御子が、全人類の中から、御自身のために、選ばれた一つの群れを、集め、守り、保って下さっている、と語られていました。それが「聖なる」の意味です。教会が聖なるものであるのは、神の御子主イエスが、全人類の中からこの群れを、御自分のために選び、集め、守り、保って下さっているからです。そして神は私たち一人ひとりをも選び、集めて下さって、この「聖なる教会」に連なる者として下さっているのです。

御子の血によって神のものとされた教会
 先ほど共に朗読された新約聖書の箇所、使徒言行録第20章28節以下にも、教会が聖なるものであることが語られています。それは28節の、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」というところです。教会は「神の教会」つまり神のものである群れです。それは神が御子の血によって教会を御自分のものとして下さったからです。御子の血によってとは、主イエス・キリストの十字架の死によってということです。神は御子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さり、その御子の十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、そして私たちを選んで、復活した主イエスのもとに集めて教会を築いて下さいました。神が、御子の血つまり命をも与えて下さった愛によって御自分のものとして選び、集め、守り、保って下さっている神の群れだから、教会は「聖なるもの」なのです。そこに連なっている私たちも、清く正しく信仰深い者だからではなくて、聖なる方である神が「あなたは私のものだ」と言って下さったことによって「聖なる者」とされているのです。

聖なる者となれ
 清くも正しくもない罪人である私たちを、神が選んでご自分のものとして下さったことによって「聖なる者」として下さった。それは神の大いなる恵みです。しかしその恵みは私たちにとって同時に、大きな課題でもあります。そのことが、旧約聖書レビ記第11章44節に語られています。そこにはこのようにあります。「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」。主なる神はここで、「わたしはあなたたちの神、主である」と言っておられます。あなたたちは私の民、私のものだ、と宣言しておられるのです。それはつまり、あなたたちは既に聖なる者とされている、ということです。その民に主は、「あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ」と言っておられます。既に聖なる者とされているあなたたちは、自分自身でも聖なる者となりなさい、と主は命じておられるのです。それは「わたしが聖なる者だからである」とあります。聖なる者である主の民とされたことによって聖なる者とされたあなたがたは、その事実を受け止めて自分でも聖なる者となりなさい、ということです。神の選びと招きによって聖なる者とされた者には、同時にこういう大きな課題が与えられているのです。

自分自身を聖別する
 この課題を正しく受け止めなければなりません。主は、あなたがたが聖なる者となったら、私の民としてあげる、と言っておられるのではありません。彼らは既に主の民とされているのです。聖なる者、主の宝の民とされているのです。全く相応しくないのに、神の愛と恵みによってです。だから私たちは、自分の力で聖なる者と「なる」ために努力するのではありません。神が、愛と恵みによって、「わたしはあなたたちの神、主である」と宣言して、私たちを聖なる者として下さっているので、その事実を受け止めて、神の愛と恵みの中で生きていくのです。それが「自分自身を聖別して、聖なる者となる」ということです。「聖別」という言葉がとても大事です。それは、聖なるもの、つまり神のものとして、他のものとは別にする、分ける、ということです。神は多くの人々の中から私たちをご自分の民として選び、集め、他の人々から区別して下さったのです。その恵みに応えて私たちも、自分が神によって選ばれ、集められた者であることをしっかり自覚して、他の人々とは違う生き方をしていくのです。神に選ばれ、神のもの、つまり聖なる者とされた者の生き方は、必然的に、他の人々の生き方とは違うものとなります。あの人たちはどこか違う、という独自性が必ず生じて来るのです。
 そのことは、聖なる者、神のものとされた私たち一人ひとりにおいてのみでなく、神が選び、集めてご自分の民として下さった教会においても言えることです。罪人である私たちがただ神の愛と恵みによって選ばれ、集められて聖なる者、神のものとされているように、教会も、様々な弱さや罪に満ちている群れですが、ただ神の愛と恵みによって選ばれ、集められ、守られ、保たれて、聖なる民、神の民とされているのです。だから教会も、その神の愛と恵みを受け止めて、自分たちが神によって選ばれ、集められた民であることをしっかり自覚して歩むことを求められているのです。教会がそのように歩むことによって、あの群れはこの世の他のいろいろな群れとはどこか違う、ということが起っていくのです。

教会が聖別されるために
 使徒言行録第20章28節以下は、パウロがそのために心を砕いている箇所です。パウロはここで、エフェソの町の教会の長老たち、つまり指導者たちとの別れに際して、エフェソの教会をくれぐれもよろしく、と言っています。28節に「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」とあります。あなたがたは聖霊によって、この教会の監督者、指導者に任命されたのだから、自分自身が神に選ばれ、集められた聖なる者として生きることだけでなく、群れ全体に気を配り、この教会が神のものとされた民として、つまり聖なる教会として歩めるようにしっかり世話をしなさい、ということです。そしてそのしっかり世話をするとはどういうことかというと、この群れが、自分たちは「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのだ、とうことを信じて、その神の愛と恵みの中をしっかり歩むように指導する、ということです。つまり、神がこの群れを選び、集め、ご自分のもの、聖なる教会として守り、保って下さっている、その神の愛と恵みに応えて、教会が自らを聖別していくことをパウロは求めており、その先頭に立つようにと教会の指導者たちに教えているのです。そのようにして教会が「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」として歩むなら、そこに、他の様々な群れとの違いがはっきりと示されていきます。神に選ばれ、集められた聖なる教会としての独自性をこの世に示していくことができるのです。教会の頭である主イエス・キリストの栄光がこうして示され、新たな人々が加えられて、主イエスによる救いのみ業が前進していくのです。

神とその恵みの言葉に自らを委ねる
 しかしこのことは、放っておいて自然に実現することではありません。そのことを妨げる様々な力がこの世には働いています。29、30節に「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」とあります。神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の歩みを妨げ、聖なる教会としての独自性を失わせ、この世の人間の集まりと何ら変わらないものにしてしまう力が、教会の外からも内からも働いているのです。だからよく警戒して、自らを聖別して、違いを保たなければなりません。そのために必要なのは、私たちの感覚で「これが正しい、聖なることだ」と思うことをしていくことではなくて、私たちを選び、集め、守り、保って下さっている神のみ言葉によって生かされていくことです。そのためにパウロは32節でこう言っています。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。神とその恵みの言葉こそが、私たちを聖なる者とし、聖なる教会を造り上げていって下さるのです。神とその恵みの言葉に自らを委ねることによってこそ、私たちは自分自身を聖別して、聖なる教会を造り上げていくことができるのです。そこには、聖なる者、聖なる教会としての独自性が与えられていきます。それは私たちが立派な者となり、立派な群れを築くということではなくて、神が、主イエスによる愛と恵みによって私たちを選び、集め、守り、保って下さっていることを感謝し、喜んでその恵みに応えていくところに生じる独自性なのです。

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