主日礼拝

驚くべき恵み

「驚くべき恵み」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第112編1-10節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章14-18節  
・ 讃美歌:255、270、451

 わたしたちは先週クリスマス礼拝において、御子の誕生をともに祝い、その喜びをともに分かち合いました。クリスマスの出来事からわたしたちが知ることの出来る恵みは、救い主がわたしたちの所に来て下さったことです。暗い闇のような世の中に、また罪にまみれ汚れたわたしたちの所に来て下さり、闇の世をまことの光によって照らし、罪からわたしたちを救ってくださるために、平和を実現して下さるために、御子がこの世に来て下さった。これが、クリスマスの恵みでしょう。

ですが、まだまだ、クリスマスの恵みはあります。それは「驚くべき恵み」です。その「驚くべき恵み」とは、「イエス様がこの世に来て下さった」ということをもう少し注意深く見つめた時にわかることです。その「驚くべき恵み」とは「イエス様が人となってこの世に来てくださった」ということです。
ヨハネは感動を込めて、こう言っています。『言は肉体となった。わたしたちはその栄光を見た』と。これは簡単に言いますと、天地の創り主である神様が、わたしたちと同じ肉体をとって人間になられた、ということです。これは、キリスト教の核心です。もちろん十字架と復活は、キリスト教にとって大切なことです。が、しかし、キリストが肉体をとって来られなかったならば、十字架の上で死ぬることはできない。ですから、神様が肉体をとって人間になられたということは、キリスト教の中で最も大切な特色の一つでしょう。
たとえば、同じ唯一神教と言われるユダヤ教やイスラム教では、神様が肉体をとって人間になられたということは言われておりません。この教えはキリスト教だけにあることです。

しかし、なぜ、神様が人となることが、わたしたちの救いにとって必要なのでしょうか。二つのことが言えると思います。
一つは、わたしたちの罪の贖いです。罪を犯して神様から離れてしまっているわたしたちが、神様の所へ帰るためには、どうしてもその罪の贖いをしなくてはなりません。旧約聖書を見ますと、神様の贖いということが言われております。たとえばイザヤ書の43章の初めのところにあります。「わたしはあなたをあがなった」そのようにはっきり書かれています。人間はこうして救われるということを言っています。しかし、それが教えだけで、神様が本当に贖いを成し遂げて下さらないと、いかにこれが深くて、良い言葉であっても、救いは実現しないのです。
たとえてみれば、これは家の設計図みたいなものです。設計図に従って家を建てるのですけれども、設計図だけでは、その中に住むことはできない。やっぱり、その設計図に従って建てた家がないと、設計図の意味がないのです。
旧約聖書で預言されていたことというのは、設計図です。そして、実際に造られた家が主イエス・キリストです。
旧約聖書の中で言われている神様の恵みの教え、これが実際にイエス・キリストという肉体をとって来られた、この方において実現したのです。ですからキリストを通して、もういっぺん、旧約聖書を読み直した時に、ここに本当に大きな神様の恵みを見ることができます。

もう一つの「人となる」ことがわたしたちの救いに関係する理由は、「啓示」です。本当に神様が肉体をとって来て下さらなければ、わたしたちは神様を知ることができないのです。「そんなことはない。わたしたちは神様のことを知っている。天地の創り主だとか、全能であるとか、ちゃんと知っている」とわたしたちは考えるでしょう。確かに旧約聖書を読めば、神様について、いろんな知識を得ることできます。ですからそれは事実です。しかしその聖書を読んでわたしたちが知ったという、その神様の理解は本当に正しい理解でしょうか。
福音書に、イエス様とファリサイ人との衝突ということがよく出てきます。たとえば安息日の問題一つをとってみましても、ファリサイ人の考えていることと、イエス様のおっしゃることと、どんなに違うでしょうか。ファリサイ人の教えは人を殺すことである。イエス様の教えは人を活かす。天と地ほどの差があります。同じ旧約聖書に聞いていながら、ファリサイ人の教えというのは、本当に正しく神様の御心を知っていない。ですから、どうしても神様御自身がわたしたちに分かるように、体をもった人間になってきて「私の思いはこうだ。私はあなたがたをこういうふうに思っている」とちゃんと言って下さらないと、わたしたちには、本当に神様が分からないのです。

そういうわけで、この神様が肉体をとって人間になるということは、わたしたちの救いにとっては、かけがえのない大事なことなのです。
そして、ヨハネはこう言っています。14節『わたしたちはその栄光を見た』と。その人間になって来られた神、主イエス・キリストを通して、わたしたちはその神の栄光を見たというのです。「栄光を見る」とは、どういうことでしょうか。神様が臨在されるところには、本当におごそかな神様の力、権威、それを示す光があります。
たとえば旧約聖書のイザヤ書6章を見ますと、イザヤが神殿で神様の幻を見たという話が出てきます。そしてイザヤがこの栄光を見た時に「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」そう言って非常に恐れています。旧約聖書において神の栄光を見るということは、それは滅びる、死に価するほどの恐ろしいことだということが、しばしば書かれています。
ところが、ここでヨハネは「その栄光を見た。だから私は滅びる」というふうには言っていません。14節には『それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』と書いてあります。栄光を見たということは、神様の恵みと真理とを見たということです。

イエス様はマタイによる福音書5章のところで、こういうことを言われましたね。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」。これを言い換えれば「自分の敵を愛し、自分を責める者のために祈る。これが神様の御心である」ということになります。そしてイエス様の一生は、まさにその言葉を肉体を通して、生活を通して表される一生でありました。イエス様は、ただ教えとして「言葉」で教えておられるだけでなく、本当にそのように生きてこられた。「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのですから」という十字架上の、あの祈りを読むたびに、わたしたちは心を打たれます。それはまさに「敵を愛し、自分を責める者のために祈る」という父の御心をそのままに、イエス様が十字架の上で実行しておられるのです。
こうしてわたしたちは、言葉が肉体となって、そしてその栄光をわたしたちが見たということがどういうことか、改めて思わされるのです。
その恵みとは何であったか。17節にこうあります。『律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。』神様はモーセを通して、その御心を律法に表されました。ですからユダヤの人たちは、この神様の御心を表している律法を守れば、義とせられる、神の子とせられると、そう信じていたのです。ところがここでヨハネは、そうではないと言っています。「わたしたちの本当の救いは、律法を通して、律法を守ることによってではなくて、イエス・キリストの恵みと真理とを通してくるのだ」と。
それじゃあ、律法は何かという問題が起こってきます。パウロはこれについて「律法というのは、わたしたちをキリストに導くものである」と言っています。わたしたちをキリストに連れて行き、神様の恵みと真理とに会わせるように導いてくれるために、神様はモーセを通して律法を与えられたのです。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 」とローマ人への手紙3章の20節で、パウロが言っています。律法を守ろうとして努力すればするほど、そういう人ほど、自分の罪というものを痛感する。律法によってわたしたちは、自分の罪がどんなに深いかということを知る。わたしたちに与えられている十戒をきちんと守ることが出来るひとが、わたしたちの中にいるでしょうか。心の中で、「この人はいなくなって欲しい、この人と関わりたく」と思っている時には、十戒の「殺してはならない」という戒めに抵触してしまっています。わたしたちは、「何者をも神様にしてはならならず、偶像を自分の手で作ってはならない」のに自分が、苦しくなると、神様に救いを求めること少なく、自分の力で努力するか、またはその事柄から逃げるために、熱中しその嫌なことを忘れられる何かに頼りはじめます。このように、十戒を守れないという現実、これはわたしたちにとって、大変つらいことです。自分が罪深い者であるということを知ることは、わたしたちにとっては耐えがたい苦しみです。
しかし、その苦しみの中で、わたしたちは律法ではない、神の恵みによって救われるのだという、その真理へと導かれてゆきます。自分の努力、自分の行いで救いが達成できると思っていた、そういう思い上がりと言いますか、思い違いが打ち砕かれて、そこで、私の中にはもう何もありません、どうか神様助けて下さい。そういう打ち砕かれた、へりくだった心になった時に、初めてイエス・キリストを受け入れることができる。これが律法の役目です。わたしたちを打ち砕き、思い上がりをなくさせる。へりくだってキリストの恵みを受け入れる。そういう用意をさせる。それが律法の働きです。それで律法は、わたしたちをキリストに導くものになった、とパウロが述べるのです。

このように、神様が肉体をとって来られたということは、いかに大事なことであるか。改めて思わされるのです。
ヨハネは、ヨハネの手紙一の初めのところに、こう書いています。『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について』、「私はこの手で神に触った」これは何という感動でありましょうか。ただ自分で、黙想や瞑想をして神様のことを考える。そういうことではない。この手が神様に触った。こういう感動をもって、弟子たちはイエス・キリストの教えを宣べ伝えていきました。

しかしわたしたちはどうでしょう。このヨハネのように、この手で触ったんだという、そういう感動を持つことができるでしょうか。2000年もの時を隔てていますから、それはとてもできない、そのようにする方法がないとわたしたちは思います。そこで、ただわたしたちは聖書の教えを通して何かを学ぶ。「それしかないのだ」と思いがちです。しかしわたしたちは、一つの徴を与えられています。それは聖餐式です。わたしたちが聖餐式において受けるパン。イエス様がこれを「これは私の肉である」と言われました。ぶどう酒を「これは私の血である」と言われました。パウロはこの聖餐式のことを、キリストの死を示すと言っています。キリストが十字架の上で死んだということを、わたしたちにまざまざと証しするものが、このパンとぶどう酒であると。キリストが肉体をもって来られたからこそ、キリストは十字架の上で死なれました。その十字架のことをわたしたちに思い起こさせるために、キリストはパンとぶどう酒による、この聖餐式を定められた。直接、キリストの体にわたしたちの手を触れることはできませんけれども「これは私の肉である。これは私の血である」とイエス様が言われた、そのパンとぶどう酒をわたしたちの手に受けて、これを口に入れることができる。この聖餐式を通して、わたしたちはズーッと2000年の教会の歴史を遡って、あの最後の晩餐にゆきつくわけです。「あなたがたのために私は血を流し、命を捨てる」肉体をもった神様が親しくそう言って残していかれた、このパンとぶどう酒。わたしたちは今これを聖餐式で受けることができるのです。

これらが、「驚くべき恵み」です。イエス様は人となってこの世に来て、本当は、神様の前に立つことすらできない私たちを、その十字架の死によって、贖ってくださり、神様の前に立つことができるものにしてくださいました。イエス様は人となって、私たちにわかるように、「神様の思い、御心」をその体で、生涯を通して、教えて下さいました。またイエス様は私たちに今十戒を授け、罪を自覚させ、私たちを悔い改めさせ、神様に立ち帰るように導いてくださっています。そして、恵みを与えられていることを、救いを与えられていることを、忘れる事のないように、目に見えて、手で触れることができるように、聖餐式を私たちのために定めくださいました。これらは、イエス様が肉を取られて、人となって下さることがなければ、成しえません。今私たちが救いを受けることができるのも、救いに導かれるのも、救いを思い起こし確信することができるのも、すべてイエス様が人となっている間に成し遂げてくださったことに関係しているのです。
2013年の最後に、わたしたちは、肉体をとってわたしたちの救いを成し遂げて下さった神様の恵みをもう一度覚えて、御名を賛美したいと思います。

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