夕礼拝

いくら稼いだとしても

「いくら稼いだとしても」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:申命記第8章11-18節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第12章13-21節  
・ 讃美歌:220、432

 今夕はルカによる福音書12章13節から21節までを、共に読みました。この話は、四つの福音書の中で、ルカによる福音書にだけ出てきています。最初に事の起こりですが、イエス様が人々に話をしておられますと、一人の人がやってまいりまして、遺産争いの問題で、イエス様に助けてもらいたいということを、願い出ました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」ずいぶんひどいお兄さんがいて、お父さんの遺産を独り占めしてしまった、何を言っても聞いてくれないから、イエス様に説得していただいたら、私の受ける分をまわしてくれるだろう、そう思ってこの人は、イエス様のところへお願いに来たようです。その、自分が受けとることのできる遺産を受けたいということは、別に不当な願いではありません。全くまともな願いを持っています。その願いをイエス様のところへ持って来ました。

 そうするとイエス様は、意外なことを言われました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」イエス様は、この人に対して、突き放すようなことをおっしゃいました。「私はお前の裁判人でもないし、遺産分配人でもない、そんな願いを私に言うのは、お門違いだ」とおっしゃっています。ずいぶん、冷淡な言葉だなぁとわたしたちは思ってしまいます。イエス様ともあろう御方が、こんなに困っている人の相談を受けたのならば「では、なにかその兄弟に一言いってやろう」、とその兄弟の所に出向いて、一言いってくれるのではないかとわたしたちは期待してしまいます。どうしてイエス様は、このような冷淡に思われるようなことを言われたのでしょうか。それは、このお願いをしに来た人の、人生に対する見方と言うか、本当の幸せというものに対する考えを変えさせるために、イエス様はこういう突き放すようなことを言われたのです。

 しかし、この言葉だけでは、ただ突き放されているようでよく分からないので、その理由を話してくださいました。そのことをイエス様はたとえ話で話してくださいました。そのたとえ話を話される前にこのようなことを言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」これは、たとえではなくて、はっきりとイエス様はご自身の考えを言われました。人がたくさんの財産を持っているからと言って、その人が本当に祝福された、幸せな人生を送るわけではない。人の命は財産にはよらないとおっしゃいました。しかし、そうは言っても、やっぱり世の中の幸せというものは、金持ちで、物がたくさんあって、自由になるってことじゃないかと、わたしたちは思ってしまいます。だから、イエス様はそのわたしたちが抱く基本的な疑問対して、たとえ話で答えを話してくださっています。それが、「愚かな金持ちの話」というたとえ話です。

 16節 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 ここを読んですぐ私たちが考えることは、「この金持ちの人は、前から自分が願っていた、理想的な生活を実現したんだなぁ」ということでしょう。この人はお金持ちだったので、普段から食べるに困るというわけではなかったでしょう。しかし、それでも今の生活が理想の生活であるとは思っていなかった。ところがある年にたくさんの作物が採れて、もう倉に入らない、もっと大きな倉を建ててそこに入れなきゃいけないほどに作物が取れた、もう何年も遊んで暮らせる、そういう状態になった時に「ああ、これで私が願っていた理想の状態が出来た」とそう思ったのです。わたしたちの場合だと、なんとか暮らしていく、収入があるが裕福というわけではない時に、宝くじがあたったという感じであると思います。

 そこで彼は自分に言い聞かせます「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。この節の口語訳を見てみると、彼は自分に「さあ安心せよ」と言っています。今までは安心がなかった、今年はどうにかいっても、来年はどうなるか分からんという、不安があった。けれども来年の分も、再来年の分もあるから、もう大丈夫、安心せよ。そこで「楽しめ」これからは人生を楽しもう、そういうふうに自分に言い聞かせた。

 先ほどもちょっと申しましたように、「宝くじが当たったらもう働かなくてよい。そういうふうになったら私の人生は楽しいだろう」と、わたしたちは心のどこかでそう思っています。毎日毎日、あくせく働くのではなく、もう生活の心配がないような、そういう生活ができたらなぁと思います。一言で言えば、私たちが理想とするような生活、そういう生活ができたら自分は幸せになるだろうなぁと、わたしたちがみな持っている、心の底にある思いです。そして、この人はそのような状態を自分のものにできたのです。そこで「安心せよ、楽しめ」と言っています。しかし、それが果たして、本当に幸せであるのかということが、問題です。イエス様のところへ、遺産を分けてもらうよう説得してくださいと言いに来た人も、そういう生活を求めていたのです。そもそも私たちが、こういう生活を送りたい、こういう生活をしたいと思っている、その目標そのものが正しいかどうかということが、ここでは問題になっています。

 その後にこういう話が続いていきます。20節「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」幸せな、豊かな生活を送ろうと思って、一生懸命努力をして、やっとそういう状態になった、または運良くそのような状態になった。そして本当に裕福な生活を維持するために倉まで立てて用意している。ところがその肝心のその人が、今夜命が亡くなる。そうすると、明日から続く日々の生活のために用意した、これはいったいだれの物になるのか。ここに、この人の忘れていた大きな落とし穴があります。この人はそのことを理想の計画のうちに入れていなかった。これからずーと自分は長く生きていくものであるとして、そのために一生懸命、財産や食糧を蓄えました。けれどもその用意した物が、明日から使い物にならない、肝心の自分がそこで死んでしまう、そういう落とし穴がそこにありました。

 こういう話をイエス様がなさって、この話を通してイエス様は何を言おうとなさったのか。イエス様は最後にひと言、結論をおっしゃいました。21節「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」この富める人は何を間違えていたのか、これはクイズみたいなものです。人生に対する態度と言うか、姿勢と言いますか、どこを間違えていたのか。それは「自分のために宝を蓄えて、神に対して富を積んでいなかったからだ」これがイエス様の答えです。神に対して富を積むとはどういうことかというと、それは神様との関係を大事にして、それをちゃんと整えるということです。

 このたとえ話に出てくる人の言っていることを見てみると、実はそこにはどこにも神様が出てきません。「ああ、たくさん採れて良かった、お金持ちになった。もうこれから何年も生活の心配はない、遊んで暮らせる。これから楽しもうか。安心だ」この発言の中にはどこにも神様は出てきません。神様を無視して、財産のこと、自分のことだけ考える。人生というものを、そのように自分と目に見える物との関係だけで考える。いったい神様との関係はどうなっているのか、ということを全然考えていない。自分の人生から神様を押し出してしまって、入り込ませない、そういうところに、この人の気付かない大きな過ちがありました。そういうふうにして人生を見ていると、こういうどんでん返しがくるということを、イエス様はおっしゃいました。

 わたしたちが、お金をたくさんもうけたといって、その晩死ぬとは限りません。ですから、この話のとおりになるわけではないのです。しかし、このたとえ話でイエス様は、実は、私たちの人生というものを、非常に分かり易く、描いてくださったと思います。わたしたちは、どうでしょうか。たいてい普通の人は、神様と自分との関係というものを、一番大事なこととして考えようとはしません。それよりも自分の仕事のこととか、もうけのこととか、あるいは家庭のこととか、いろんな日常起こってくる、目に見える出来事や、物や、事柄や、そういうものに振り回されて生きています。そして、いったい自分と神様との関係はどうなっているのかということは、ほとんど考えない。これがわたしたちの日常です。しかし、実はわたしたちがこうして生きているということは、自分の力だけでは成り立っていないのです。私がこうしてここにいるということは、神様が生かしてくださっているということです。そして、いつ死ぬかということは、わたしたちはわかりませんし、知ることもできません。わたしたちの人生は、自分で計画して、組み立てているように見えるのですが、実はそうではないのです。わたしたちの人生は、神様の御手の中にあることです。その神様がどういう御方で、その神様と自分の関係がどうなっているかということを、その関係をちゃんとわきまえるということを、一番大事な、真っ先に、私たちがはっきりさせなければならないことなのです。

 「困った時の神頼み」という言葉が日本にあります。わたしたちは、いろいろ困ってくると「神様、神様」と言います。けれども、豊かで、生活が思いどおりにいくような時には、「神様なんていらないっ」と思います。これは、日本人ばかりではなくて、この聖書を書き残したユダヤの人も、そうであったということが、聖書に書かれています。旧約聖書の申命記の8章です。モーセという偉大な指導者が、もう自分がいよいよ、今までイスラエルの人たちを世話をしてきたけれど、死ぬと思った時に言い残した言葉があります。イスラエルの人というのは、エジプトで奴隷だったのですが、エジプトを逃げ出してから、神様が約束してくださったカナンという所へ行くのですけども、その間40年荒野という砂漠みたいな所を歩みます。そこには水がなく食べ物がない。そういう所を苦労しながら、神様からマナという不思議な食べ物を頂いたり、岩から水を出していただいて飲ませていただいたりして、そういう苦労を重ねながら、40年という長い間放浪の旅をして、そして約束の地カナンへ入ります。その間ずうっと面倒を見ていたのがモーセなのですけども、これからいよいよ、ヨルダンという川を渡ってカナンへ入っていくという、その時、モーセは死んでしまいます。そのモーセが、これから先カナンへ入っていったイスラエルの人のことを考えて言い残している言葉が、申命記の中に書かれています。口語訳聖書の8章の11節からお読み致します。「あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう」こういうことを言っています。あの荒野の旅をして40年、行き詰まった時は「神様、助けてください。神様、助けてください」と言って、助けてもらってきたイスラエルの人たちです。神様の助けということを、骨身にしみてわかっているはずなのです。けれども、その人たちでもやがて、カナンへ入っていって、そこで牛や羊が増え、金銀が増し、持ち物が増し加わって、美しい家を建てて住むようになると、神様を忘れると言っています。モーセという人は、人間はどういうものかということを、よく見抜いていると思います。「必ずそうなる、だから私は最後に言い残しておくが、決して神様のことを忘れてはいかんぞ」と。どんな時にも神様を忘れてはいかん、この神様に従っていくことがあなたがたの生きる道であるとモーセが言っているのです。

 これはイスラエルの人だけのことではありません。イスラエルというのは、言わば人間の代表です。ですからわたしたちもこの事柄に対して、無関心でいるわけにはいきません。わたしたちは、自分が安定しているような時は、神様を忘れがちになります。それは、豊かさに酔っているような感覚です。しかし、その豊かさがなくなれば、大きな不安が訪れます。アルコール依存症の人のアルコールが体から切れた時に、起こるような不安といえるかもしれません。豊かさに依存していなくても、冷静に世界を見つめ、目に見える現在の繁栄に酔うことができなければ、その次にくる破綻と言いますか、そういうものに対する不安が心の中にどうしても起こってきます。二年前も、マヤ文明の暦が2012年で終わっているので2012年に人類が滅亡するという説が、大変はやりました。やっぱりそれは人間の心の中に、自分たちの将来はどうなるだろうか、近い将来に人間は駄目になるのではないだろうか、そういう不安が形となってあのような仮説を立てるのではないかと思います。一方では、もう豊かだから、その豊かさの中ですっかり「安心せよ、楽しめよ、飲み食いせよ」そういうふうに生きている人がいるかと思うと、もう一方では「いや、すぐ駄目になるのではないか」そういう不安を心に抱いている人がいます。そのどっちも、自分たちは神様によって造られ、神様によって生かされているという、根本的なことを本当に受け止めようとしていませんし、忘れてしまっています。イエス様は、貧しさの中にあっても、豊かさの中にあっても、この私をこの世に存在させてくださり、今全能の御手をもって生かしてくださっている、その神様に目を向けなさい、その御方がどういう御方であり、あなたに対してどういうかかわりを持っておられるかということを、もう一遍、良く目を開いて見なさい、ということを教えてくださいました。それが神に対して富みを積むということです。

 山上の説教でイエス様はそのことを、非常に丁寧に教えてくださっています。マタイによる福音書6章の31節です。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 」ここでイエス様は、自分の人生に必要なものを、分析したり推量したりするのではなく、真っ直ぐに、父なる神様に目を向けなさい。あなたがたがどういう状態であり、何が必要であるかということは、父なる神様が御存じである。その父なる神様があなたがたの生活を支配しておられる。まずこの神様との関係を本当にただしていくことが、人生の正しい出発点である。そしてその、あなたの人生を支配しておられる方、その方は、あなたを限りなく愛しておられる父なる神様である。その神様が、あなたを限りなく愛しておられるということから、あなたの人生をもう一遍見直してみる。これがクリスチャンの人生の出発点です。では、自分を造ってくださった父なる神様、その全能の父なる神様から限りなく愛されているのだと、そのことを確認してから、その次にわたしたちはどう生きたらいいか。わたしたちが、その次にすることは、私を愛してくださっている、その父なる神様を信頼して、その父なる神様に自分を委ねて生きてゆくことです。

 わたしたちは、日々糧があたえられています。生きるに必要なものがわたしたちは与えられています。私たちがこの天の父を信じる信仰の目をもって見るならば、この一つ一つの物の中に主なる神様の深い恵みを見ることができます。私たちが本当に意味のある人生を送ろうとするなら、まず天の父のもとへ帰って、父と共に歩む生活を始めることです。分かりきったことですけれども、その分かりきったことを、モーセがもう一遍、あのカナンを前にしてイスラエルの人たちに遺言としていったように、私たちは常に新しくこの原点に帰って来ます。わたしたちは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」このイエス様の約束という原点に帰り、再び力強く歩み出したいと思います。

関連記事

TOP