「仕事を離れて休みなさい」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:創世記 第2章1-3節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第12章13-21節
・ 讃美歌:496、532
第七の日に神様は御自分の仕事を離れて、安息なさいました。その七日目に休まれて神様は今、わたしたちに「仕事を離れて休みなさい」「仕事を離れてわたし共にいなさい」「仕事を離れて、わたしと交わりを持ちなさい」と望まれております。 時に、わたしたちは、教会に来て礼拝にでることを、なんだか仕事のようにしてしまっているということがないでしょうか。または、「わたしはクリスチャンであるから、礼拝にでることはあたりまえで、それはクリスチャンの義務であり、義務であるから礼拝いかなくてはいけない」と、そのように考え、礼拝に参加することを一つの課題や、義務のようにしていることはないでしょうか。 礼拝にでるということは、すなわち、神様に会いにいくことです。また礼拝とは、神様とわたしたちとの交わりの時です。わたしたちは、礼拝の中で、神様と交わりを持ちます。その交わりとは、神様が礼拝の場にいて下さり、わたしたちに、声をかけ、説教を通して言葉をかけて下さり、わたしたちその言葉から恵みを受け取り、祈りと讃美の歌を持って、神様に応答する。このような、言葉を持った会話、神様との交わりが礼拝の本質です。 先程申し上げましたが、礼拝、すなわち、神様に会うこと、神様と会話することを、わたしたちは、時に仕事や、やらなくてはいけない義務のようなものにしてしまうことがあります。しかし、「それのなにが問題なのか、クリスチャンだから礼拝に行くのは義務なのだから、そう考えてあたりまえだろう」という意見にわたしたちは反論しないし、わたしたちは「聖日厳守」を大事にしてきた面があります。しかし、この礼拝を仕事や義務してしまうことで、わたしたちが見落としてしまっていることがあります。それは、神様のお気持ちです。もし自分の愛する人や、大好きな友人、親友が、自分に会うことや話すことを、仕事や義務として、そのようにしていると知ったら、わたしたちは何を感じるでしょうか。友人だと思って話しているのに、相手は義務感で自分と話をしている。このような時わたしたちは、悲しい思いをするのではないでしょうか。わたしたちが、礼拝を義務としてしまっているとうことは、神様にこのような思いをさせてしまっているとうことになります。 神様は今日わたしたちに与えた御言葉を通して、「わたしは、仕事としてや、義務としてあなたたちと共にいるのではない」ということを語っておられます。それは、2章 2節の「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」と書かれていることの中に表されています。 神様は、仕事を離れ安息なさりました。 神様はなぜ仕事を離れられたのでしょうか。わたしたちは、創世記の2章の冒頭を、さらっと読むと、神様は創造の仕事を終えたから、仕事を離れたんだ、そして休まれたんだなと読むと思います。しかし、神様が、仕事を離れられたのは、創造の仕事を終えられたからではありません。たしかに、創造の業が完成したのは七日目なのですが、創世記の記述の仕方を見ると、どうやら、創造が完成したから、休まれたというわけではなさそうです。ではその創世記の記述を見て行きましょう。 2節には、「仕事を完成された」という記述と、「仕事を離れ、安息なさった」という記述の前に、それぞれ「第七の日に」という言葉が前に付いています。ここに何か違和感を覚えられる方がいるのではないでしょうか。なぜいちいち二回も「第七の日に」という言葉を付ける必要があったのか。二回目の第七の日という言葉は、書かれていないほうが、仕事が完成する→仕事を離れる→安息するという時系列がはっきりすると思います。しかし、あえて第七の日という言葉が「仕事を離れ、安息なさった」という言葉の前に置かれているということは、ここには意味が存在します。「仕事を完成する」ということと、「仕事を離れ、安息なさった」ということは、同じ日に起きているので、仕事が完成したから仕事を離れたとだけではなく、「仕事を離れ、安息なさる」ということによって創造は「完成する」と読むことも出来ます。後者の場合であるのならば、創造を「完成」させるために、あえて仕事を離れて、神様は安息なさったということになります。創造を完成されるとは、造られた者たちすべてを完成させるためということです。造られたものたちとは、世界や、動物、人などです。神様はそれらの被造物の完成のために、あえて仕事を離れられました。「離れる」ということは、その造るという仕事から離れるということである。そこで神様は、創造するということから一時的に身を離れられ、創造者として立つことから離れられます。神様はその時、創造という仕事として人や世界と交わるのでなく、ただ神様は、あらゆる関係から解き放たれて、神様として人と向き合って、交わってくださります。そのために、神様は仕事を離れられるのです。神様は、仕事上の付き合いとして、人との関係を持とうとされているのではありません。 神様はあらゆる関係から解き放たれて、わたしたちと向き合い、交わりたいと願っておられます。神様は、その交わりの時を、安息としてくださっています。 なんのために神様は安息なさったのかというと、それは、神様が創造という仕事に疲れたので休みたいとお考えになっていたからではありません。それは、神様は創造されたものと共に、創造した世界を見て、創造されたものたちとの交わりを持つためです。 今わたしたちに与えられている、神様との交わりの持てる機会、それはこの礼拝です。真の安息のあるところ、それはこの礼拝の中での神様との交わりの中です。 そのために、礼拝という安息の時に、わたしたちもまた仕事ということから離れなくてはなりません。それは、第一に、礼拝を仕事や義務のようにしていることを止めなくてはならないということです。第二は、礼拝の時に、自分の今行っている仕事や職業から離れるということです。それは、礼拝のために仕事を休んで時間を作れば良いということではありません。もちろん、礼拝のために、一旦すべてを中止して、自分の時間を献げることは大事です。しかし、それも、すべてを中止して取り敢えず、礼拝に出ているというだけででは意味がありません。仕事を休んで、礼拝に参加したけれども、頭の中は、仕事のことや、仕事の進み具合の心配ばかりしているのであれば、それは仕事から離れられているとは言えません。学生ならば、学校の事柄と置き換えることができるでしょう。 わたしたちは、そのようになってしまう原因としては、礼拝と仕事とが同列に並べる、もしくは礼拝を下にして並べてしまっているからでしょう。仕事は、わたしに価値を与えるものであるとわたしたちは考えがちです。またわたしたちは、自分の価値は、自分の職や仕事によって決まると思い込んでいることがあります。わたしたちは時に、自分の存在意義として、自分の仕事をなそうとする。そのように考えているわたしたちが、仕事をやめた時、または仕事をすることができなくなった時に、急に虚無感に襲われるということが起きます。それは「自分の存在意義」=「働くこと」となっているからです。また仕事を見つけられない自分が、まったく価値のないもの、自分ということを持っていないものだと、自信をなくし思い悩むことがおきるのもその「自分の存在意義」=「働くこと」となっているためであると思います。 わたしたちのアイデンティティ、わたしがわたしであるということは、仕事をすることによって保たれているのではありません。わたしたちの価値は、は神様との交わり、他者との交わりにおいて、与えられるはずです。神様と、そして他者と交わりを持つことができるというのが、創世記で神様が、「神様に似せ造った」という、人間のみ与えられた、形だからです。本当にわたしがわたしであるということを認識できるのは、また本当に自分に価値がある、自分を持っているとわかるのは、神様と応答関係を結び、また他者とも応答関係を結び、互いに愛し合うときでしょう。 神様との応答関係が結ばれる場所と時、それがこの礼拝にあるのです。 その時が、わたしたちにとっての本当の安息の時となるでしょう。それは、次の仕事に向けての休憩としての安息ではありません。次の仕事のための英気を養うために、ただ御言葉によって元気をもらうために礼拝に来ていたのであれば、それは仕事ための礼拝になっています。そうであるのならば、それは安息ではなくて、一時的な休憩です。礼拝において、体力的にも、精神的にも養われるということは、実際にあるでしょう。それらは、礼拝を通して与えられる恵みであるでしょう。その恵みは確かに神様から与えられている恵みです。しかし、礼拝における恵みをその部分だけしか見ないのならば、それは、恵みを少し小さく捉えていると言えるでしょう。神様は、この礼拝において、わたしたちの命と魂を養う恵みの御言葉やパンを与えてくださっていますが、ただ与えてくださっているだけではありません。もしそうであるとわたしたちが考えているとしたら、わたしたちは、自分たちのことを、餌を与えられる生き物のようなものとしてしか神様に扱われていないと勘違いしているといえるでしょう。神様はわたしたちに恵みを与えられるときには、上からポンと放り投げて、ハイ食べなさいとしているのではおられません。どのように礼拝の場において、恵みをお与えになっているかといえば、神様はわたしたちと共に近くにいて下さり、共に食卓を囲み、わたしたちを友人のように扱って下さり、言葉を語りかけてくださり、パンとぶどう酒を与えてくださる。このようにして、恵みを与えて下さっています。このような楽しい、喜びの食卓に安息があるのです。神様と、愛する兄弟姉妹と、食卓を囲み、話し、共に同じものを食べる。ここに安息が在るのです。日本で言うならば、こたつに入って、話しながら、鍋を食べるということになるでしょう。このような交わりの時の全体がわたしたちの恵みであり、安息の時なのです。そのような神様との交わりがこの礼拝にあるのです。そのときに、仕事として、この食卓と語らいの場に来たのであれば、本当に楽しんで交わることができないでしょう。また、ご飯を食べるときに、その場で宿題や、明日の仕事の準備をしていたのならば、その喜びの食卓は興ざめに成ってしましいます。神様も今、私たちのために働かれておられます。わたしたちを救い出し、危険なものから守り、養う。そのように働かれておられます。しかしその働きの究極的なゴールは、この交わり食卓の時のためです。今も、わたしたちを救い出し、守り、養い育てるという働きを神様はしてくださっているその目的は、この食卓のためです。礼拝の時に、神様も仕事から離れて、ここに来られています。だから、神様はわたしたちにも「仕事を離れてここに来なさい」とよびかけられます。わたしたちがすべてを置いて、ただ神様と兄弟姉妹と交わるとき、そこに本当の安息、平安、喜びがあるでしょう。