主日礼拝

神は望みを捨てない

「神は望みを捨てない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第9章38-41節  
・ 讃美歌:241、54、392

弟子たちの中心にいるヨハネ
 本日はマルコによる福音書第9章38節以下からみ言葉に聞きたいと思います。冒頭に「ヨハネが」とあるのは、主イエス・キリストの十二人の弟子の一人であったヨハネです。彼が弟子になった話は第1章に記されていました。ガリラヤ湖の漁師だった、ペトロとアンデレの兄弟と、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟、この二組の兄弟たちが、主イエスの最初の弟子となったのです。つまりヨハネは主イエスの活動の最初の頃から弟子として従って来た人です。主イエスも、このヨハネをいつもみ側近くに置いておられました。9章の始めのところに、ある山の上で主イエスのお姿が栄光に輝く姿に変わったという話がありましたが、主イエスに伴われて山に登り、そのお姿を見た弟子はペトロ、ヤコブ、ヨハネだったと語られています。ヨハネは主イエスの弟子たちの中で常に中心にいたのです。そのことは彼の気性、性格によることでもあったようです。3章13節以下には、主イエスが十二人の弟子を使徒として立てられたことが書かれていますが、そこに「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名を付けられた」とあります。主イエスから「雷の子」というあだ名をいただくほどに、この兄弟はよほど激しい性格だったのでしょう。主イエスに従い、仕えていくことにおいても、彼らは激しく熱心に励んでいたのだろうと思います。そういう熱心さのゆえに、弟子たちの中でも自然にみんなの中心になっていったのでしょう。

一番になりたい
 この兄弟のそういう熱心な働きの背後にはこんな思いもあったのだということが、この後の10章35節以下に示されています。ヤコブとヨハネが主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願いしたのです。主イエスが栄光を受け、全世界の主として支配なさる時に、自分たちを右と左に座らせてほしい、つまり主イエスの王国において誰よりも高い地位を与えて欲しいということです。他の弟子たち、信仰者の間で一番になりたい、主イエスに特別に重んじられる者になりたい、という思いが彼らの中にはあったのです。彼らが熱心に激しく主に仕えているのはそのためだったとも言えるし、あるいは逆に、これだけ熱心に奉仕しているのだから、主が自分たちを重んじて下さるのは当然だ、自分たちは主からも、また他の人々からも、一目置かれるべき者なのだ、という思いがあったとも言えるでしょう。そういうことを考え合わせていくと、本日のこの箇所が、33節以下の話の続きとして語られていることの意味が見えてきます。33節以下には、弟子たちが道々「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」と議論し合っていたことが語られていたのです。ヤコブとヨハネは、その議論において、最も激しく、自分たちこそ一番だ、と主張していたのではないでしょうか。ですから35節の「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という主イエスのお言葉は、主にこのヤコブとヨハネに対して語られた言葉だったとも言えるのではないかと思うのです。

突然怒り出す
 「雷の子ら」というあだ名についてはこのような想像もなされています。雷というのは、いきなりドカンと落ちるものです。また、「親父の雷が落ちる」などと言うように、これは怒りを表すものです。つまり彼らは、いきなり怒り出すことがよくあったのではないか。普通に話をしていても、何かのきっかけで急に雲行きが怪しくなって突然怒り始めることがある、それで「雷の子ら」と呼ばれたのではないか。今はそういう人のことを「瞬間湯沸器」などと言ったりします。そういうことというのは、激しく熱心に励んでいる人に往々にして見られます。ましてその熱心さが、今見たように、一番偉い者、重んじられる者になりたい、という思いと結び着いていると、必ずそういうことが起ります。突然怒り出す人というのは、たいていの場合、自分がないがしろにされたと思って怒っているのです。周囲の人々は全然そんなつもりはなくて、一緒に事を進めていると思っているのに、ひとたび自分が軽んじられている、と感じると怒り出して手がつけられなくなる、そういうことが彼らにもあったのではないでしょうか。それで「雷の子ら」というあだ名が生まれたと考えることもできるのです。

主イエスの名を使って悪霊を追い出している者
 ヨハネについてそのようにいろいろと想像を巡らすことができます。本日の38節の彼の言葉も、そういうことを前提として読む時に、その意味が見えてくるし、それに対して主イエスがおっしゃったことの意味もそこから分かってくるのです。ヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言いました。主イエスのお名前を使って悪霊を追い出す、ということをしていた人がいたのです。こういうことは必ずしも珍しくはありませんでした。名前というのは聖書において、その人の存在そのものであり、その人の持つ力がそこに込められているものです。十戒の中に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるのもそういうことを前提としているのであって、これは要するに主の名を呪文のように用いて自分の願いをかなえようとすることを禁じているのです。そういうことからすれば、ヨハネは、主イエスのお名前を呪文として用いて悪霊を追い出している人を見て、それをやめさせようとした、と考えられます。その人が「私たちに従わないので」とあります。この「従う」は、弟子たちが主イエスに従っていく、主イエスと共に歩んでいく、ということを言い表す言葉です。つまりヨハネはその人に、主イエスのみ名によって悪霊を追い出しているなら、あなたも私たちと行動を共にして、主イエスに従って来なさい、と言ったのです。しかしその人はそれに従わなかった。それでヨハネは、悪霊追放の業をやめさせようとしたのです。

人を見つめる目
 ヨハネはどんな口調で、どんな思いでこれを語ったのでしょうか。これまで見て来た彼の性格からすれば、主イエスに従って来ようとしないくせにそのお名前だけを利用しているけしからん奴がいる、という怒りをもってこれを語ったのだろうし、またそういうけしからん奴に注意してやったことを自分の手柄として誇り、主イエスがそのことで褒めて下さり、ますます自分を重んじて下さることを期待していたのだと言えるでしょう。ところが主イエスは、彼が期待していたのとは全く違うことをおっしゃいました。39、40節にこうあります。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。主イエスのこのお言葉の意味を私たちは正確に捉えなければなりません。主イエスは、ご自分の名前を呪文のように用いることを許したり奨励しておられるのではありません。ここはそういうことの是非を語っているのではなくて、それに対して怒り、やめさせることで手柄を立てたように思っているヨハネに、主イエスはこのお言葉によって大事なことを教えようとしておられるのです。その大事なことが示されているのが、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」というお言葉であり、それをもっと一般化しているのが「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」というお言葉です。これらのお言葉によって主イエスはヨハネに、人のことを見つめる際の見つめ方を教えておられるのです。先程から見ているようにヨハネは大変激しい、熱心な人でした。その熱心さによって彼は人一倍めざましい、優れた働きをしていたのです。しかしそういう人が陥りやすい落とし穴があります。それは、他の人のことを見つめる目が、厳しく狭いものになりがちだ、ということです。しかもそこに、ヨハネがそうだったように、自分が一番になり、人よりも重んじられたい、という思いが重なってくると、ますます人を見る目は厳しくなり、自分の意見に同意しない人を批判し、人を自分に従わせようとすることが起ります。そのように人を見る目が狭く厳しくなると、本来味方であるはずの人さえも敵に回してしまうことになり、自分の周囲にどんどん敵を作り出していくことが起るのです。激しく熱心な人は時としてそのようになる傾向があります。ヨハネはまさにそのような狭く厳しい目で人を見るようになっており、出会う人皆を敵に回してしまっている、主イエスはそのことを指摘しようとしておられるのです。

味方を敵に回してしまう?
 主イエスの名を使って悪霊を追い出している人については、このように考える人もいます。この人はただ主イエスの名前を呪文のように唱えて奇跡を行おうとしていたのではないのではないか、というのです。なぜならば、使徒言行録の第19章に、そういうことをしてみた人がいたことが語られているからです。あるユダヤ人の祈祷師が、悪霊に向かって「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみたのです。すると悪霊は言うことを聞くどころか、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って逆に飛びかかってきて、彼らはひどい目に遭ったのです。このことは、主イエスの名前だけを呪文のように用いるなどということは出来ない、ということを示しています。だとすれば、本日の箇所の「み名を使って悪霊を追い出している者」というのは、主イエスを信じる信仰者の一人だったのではないでしょうか。勿論この人は、弟子たちのように全てをなげうって主イエスに従い、共に歩んではいません。そういう意味では不十分な、欠けの多い信仰者です。けれども基本的には主イエスを信じる信仰によって、悪霊につかれた人を癒そうとしていたのではないか。そうだとすればヨハネは、基本的には共に主イエスを信じている仲間であるはずの人を、自分たちと同じようにしない、自分の言うことを聞かないという理由で、敵に回してしまっていることになるのです。

味方を得ていく目で
 そういうヨハネに対して主イエスは、人を敵に回すのではなくて味方を得ていくような、そういう目で人を見つめなさいと教えておられるのです。それが、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」というお言葉の意味です。人を敵として見つめ対立していくのではなく、味方として見て行くような目、それは、人が自分と違っており、自分の意見に従わず、自分を尊重しないからといって怒り、批判し、攻撃するのではなくて、人が自分の悪口を言わないことを喜び、たとえいろいろ意見は違っても、根本のところで共通しているならば、むしろその共通点をこそ見つめ、交わりを大切にし、忍耐をもって共に歩もうとするという目です。違いを見出して対立していくのでなく、一致している所を見出して喜ぶ姿勢と言ってもよいでしょう。そういう目で人を見、そういう姿勢で人と接しなさいと主イエスは教えておられるのです。そうすることによってあなたがたは、周囲に敵を作り出して孤独になっていくのでなく、味方を作り出し、良い交わりの輪を広げていくことができる、それが主イエスのここでの教えなのです。

キリストの弟子だという理由で
 その続きとして41節が語られています。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。「キリストの弟子だという理由で」という所は直訳すれば、「あなたがたがキリストのものだ、というその名のゆえに」となります。主イエス・キリストを信じ、従って生きる私たち信仰者は、キリストのもの、という名を負って生きています。「クリスチャン」というのはそういう意味です。キリストのものとして、その名を負っているのがクリスチャンです。私たちがそのクリスチャンであることのゆえに、あるいはそのことを知りつつ、一杯の水を飲ませてくれる人は敵ではない、あなたがたの味方なのだ、そのことを喜び、感謝しなさい、と主イエスは教えておられるのです。このことは、圧倒的に多数の人々が主イエス・キリストを信じておらず、主イエスの父なる神様を知らないでいるこの社会に生きている私たちに対する主イエスの慰めに満ちた勧めであると言うことができるでしょう。私たちがクリスチャンであることで悪口を言わない人、私たちが信仰を持って生きることに、少なくとも反対しない人、そのことを認めてくれる人、そしてその私たちに一杯の水を飲ませてくれる人、つまり、どんな小さなことであっても、助けてくれる人、協力してくれる人は、あなたがたの味方なのだ、そのことを喜んだらいい、感謝したらいい、彼らは必ずその報いを受けるのだ、と主イエスは言っておられるのです。私たちは、周囲の人々と、また特に家族と、主イエスを信じる信仰を共にしたいと切に願っています。共に礼拝を守り、祈ることができたらどんなにすばらしいだろうかと思います。しかしなかなか願ったようにはなりません。一生懸命働きかけても振り向いてもらえなかったり、働きかけるきっかけさえ掴めない、ということもあります。けれども、そのことを悲しんだり、いらだったりするな、と主イエスは言っておられるのです。あるいは、家族を信仰に導くことができないのは自分の信仰が足りないからだなどと否定的にものを見るなと言っておられるのです。自分が主イエス・キリストを信じる信仰者であることを、家族の者たちが少なくとも認めてくれているなら、礼拝へと送り出してくれるなら、ましてや教会の前まで車で送ってくれたり、迎えに来てくれるなら、そのことを大いに喜び、感謝しなさい、その人たちは敵ではない、味方なのだ、その味方をわざわざ敵にしてしまうようなものの見方をするな、私たちは信仰において、敵を作り出していくのではなく、どんなところでも味方を見出していくことができるのだ、それが主イエスのこのお言葉の意図なのです。

神のまなざしの中で
 このことは、私たちの置かれているこの社会がいわゆる異教の社会だからそのように考えた方がよい、ということでは決してありません。主イエスが教えておられる、このようなものの見方、あるいは人をどのような目で見るかは、私たちの置かれた状況によることではなくて、そもそも主イエスご自身が、そして父なる神様が、私たちのことをどのような目で見つめて下さっているか、ということによっているのです。神様は私たちを、狭い、厳しい、裁きの目で見てはおられません。私たちは神様に背き逆らってばかりいる罪人です。神様に従い、その御心を行なうのでなく、自分を中心として、自分の思いによって生きてしまっています。つまり私たちはいつも神様に敵対し、神様をないがしろにしているのです。ですから神様が私たちを厳しい裁きの目でご覧になり、敵として退け、断罪されたとしても仕方がありません。しかし神様はそうはなさいませんでした。罪人である私たちのために、独り子イエス・キリストを遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦し、敵であった私たちを友として下さったのです。人間の罪によってもたらされる敵対関係を乗り越えて、敵を味方へと変えて下さる、それが主イエスによる救いであり、そういう救いを与えようとする目で、神様は私たちのことを見つめて下さっているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第42章の3節に、神様が遣わして下さる僕、つまり救い主が、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」救いのみ業を行うと語られていました。神様はこういう恵みのまなざしで私たちを見つめておられるのです。この恵みのまなざしを感じ取ることによって、私たちは少しずつ変えられていきます。神様に敵対し、主イエスに逆らっていた私たちが、先ずは、主イエスの悪口を言わない者、敵対しない者となるのです。そしてさらに、主イエスを信じている人に一杯の水を飲ませてあげるぐらいの、ほんの小さな協力をする者となるなら、そのことを主イエスは心から喜んで下さり、あなたは私の味方だ、と言って下さるのです。主イエスはそのように、私たちの足りないところや欠けを捜し出して批判したり断罪するのではなくて、私たちが少しでも主イエスを信じ受け入れる者へと変えられていくことを、そして主イエスのゆえに、ほんの小さなことでも人のためにするようになることを、喜んで下さるのです。

一杯の水を飲ませてくれる者は
 「一杯の水を飲ませてくれる者は」、というみ言葉を読む時に私は「ベン・ハー」という映画のあるシーンを思い起こします。前半と後半で対になっているシーンです。前半において、主人公ベン・ハーが、無実の罪で囚人となって炎天下を引かれていきます。彼は喉の渇きによって死にそうになっています。その囚人たちの一行がナザレの村を通りかかった時、主イエスが、兵士たちの威嚇や妨害をものともせず、彼に水を飲ませてくれるのです。それによって彼は生き返り、命を助けられたのです。後半になって、自由の身となりエルサレムに戻って来たベン・ハーは、主イエスが十字架を背負わされてゴルゴタの丘へと引かれて行くのに出会います。その時彼は、目の前を十字架の重さにあえぎながら歩いていく死刑囚が、かつて自分に水を飲ませ、生き返らせてくれたあの人であることに気づきます。彼は駆け寄って主イエスに一杯の水を飲ませようとする。しかしその器は兵士によって蹴飛ばされて、彼は主イエスに一杯の水を飲ませてあげることも出来ずに、ゴルゴタの丘へと引かれていく主イエスを見送ることしかできないのです。主イエスは私に命の水を与え、魂を生き返らせて下さったのに、自分は主イエスに一杯の水を飲ませてあげることすら出来ない。私はこの場面でいつも泣いてしまうのですが、これが私たちの姿ではないでしょうか。主イエスに一杯の水を飲ませてあげることすらできない私たちのために、主イエスは十字架の苦しみと死とを一人で背負って下さり、私たちの罪を赦し、あなたは私の敵ではなくて味方だ、友だ、と語りかけて下さっているのです。

神は望みを捨てない
 主イエスによるこの救いの恵みにあずかった私たちは、隣人の中に敵ではなく味方を、友を見出していくことができるはずです。小さな違いをほじくり出して敵対していくのではなくて、様々な違いがあっても、主イエス・キリストの救いに共にあずかることを喜ぶことができるはずです。自分が一番になり、重んじられなければ気がすまないのではなくて、人の働き、人の奉仕を、喜んで受け入れることができるはずです。また、たとえ今私たちと同じ信仰に立とうとしていなくても、私たちの信仰を認め、礼拝へと送り出してくれ、どんな小さなことでも協力してくれる人の存在を、喜び、感謝することができるはずです。神様は、私たちにそうして下さったように、その人たちのほんの小さな協力をも喜び、ご自身の味方として見て下さっています。つまり神様は、その人たちを救うことにおいて、希望を捨ててはおられないのです。本日から、クリスマスに備えるアドベントに入ります。主イエス・キリストがクリスマスに人間となってこの世に来て下さったのは、神様が私たちに対して希望を捨てることなく、敵である私たちをも愛によって味方へと変えて下さるためでした。独り子の命をも与えて下さった神は、決して望みを捨てない、それゆえに私たちも望みを捨てることなく、神様が私たちを見つめて下さっているその愛のまなざしで、周囲の人々を友として見つめ、良い交わりを築いていきたいのです。

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