主日礼拝

キリストの軛

「キリストの軛」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:サムエル記上 第14章14-15節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第11章28-30節  
・ 讃美歌:7、463、460

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」主イエスキリストはわたしたちにこう呼びかけておられます。この言葉は呼びかけの言葉であり、この「来なさい」という言葉は「さあここに来なさい」という、特別に声をかけてくださっていることを表す言葉であります。この言葉は、主イエスキリストがこの地上で生活をしておられた時に、言われた御言葉でありますから、私たちから言えば、二千年近く前に言われた御言葉でありますけれども、しかし、この御言葉を通して、主イエスキリストは今でも、私たち一人一人に呼びかけてくださっています。今も私たちに呼びかけてくださっている。その御言葉を、今朝、私たちは聞きました。  ここで、主イエス・キリストに「来なさい」と呼びかけられて、そこに行きたい、と私たちは思いますが、さて主イエス・キリストのところへ行くとはどういうことだろうか、どうしたら主イエス・キリストのところへ行けるだろうかと、考えてみますと、それはとても難しいことだと気づかされます。次の節で主イエス・キリストはこう言っておられます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」これは主イエス・キリストが急に28節で語られたことと、別の事をおっしゃったのではありません、「わたしのもとに来なさい」という28節の内容の説明をしている、言葉であります。さて、その主イエス・キリストの言葉に従おうとしますと、まず分からない言葉が出てまいります。それは「わたしの軛を負い」という言葉です。軛とはいったい何でしょうか。軛というものを生で見たことがある人は、少ないと思います。じつは私は見たことがありません。軛、これは主イエス・キリストが生活しておられた地方で、二匹の牛を農耕に使ったり、あるいは、車を引かせたりする時に、勝手な動きをしないように、この二匹の牛の首のところに木または鉄で作った道具を、くくり付けて、二匹が一緒に動くようにするための農耕の道具であります。  そして聖書の中には実際にその道具そのものの事を語っている言葉がたくさん出てきます。そしてまたこの言葉をたとえとして使っていることもあります。たとえば旧約聖書の中に「バビロンの軛」という言葉があります。これはどういう事かと言いますと、南ユダの人たち(旧約のイスラエルの人たち)が紀元前597年、586年にバビロンに攻め滅ぼされて、捕虜になって連れていかれた。そしてそこで捕虜の生活をしなければならない。捕虜ですから自由はない。そこから逃れたいと思っても、バビロンの支配の下にありますから、逃れることができない。そこには苛酷な労働がある。そういう苦しみ、自由にはならないということを「バビロンの軛」と旧約聖書はたとえています。イザヤ書47章6節にこのようにあります「わたしは自分の民に対して怒り/わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず/老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。」エレミヤ書では28章14節で「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」このように聖書が軛をたとえに使う時には、重荷とか、奴隷のように仕えるとか、苦しみとか、そういう意味で使っています。そこで私たちがこの主イエス・キリストの御言葉を読む時も「わたしの軛を負い」とこう言われると、ああ、バビロンの軛を負うように重荷を負うことだろうか。何かイエス様のために、辛い事も辛抱してやっていきなさいと、そういう意味じゃないかと、そのように思ってしまいがちなのです。ですがここにこの言葉を受け取る時の一つの間違いがあります。  実は「わたしの軛」と言われていますこの言葉は「バビロンの軛」と言う時とは、全く違う意味で使われています。それはどういうことかといいますと、ここでは軛というものの本来の使い方にそくして使われているのです。軛というものは二匹の牛を一緒に動かすための道具です。一つの牛ともう一つの牛が同じように行動をする、そのための道具であります。「キリストの軛」というのは、バビロンの軛のように他人に負わせた、軛ではなくて、主イエス御自身が負っている軛です。「バビロンの軛」という時には、バビロンは軛を負っていないで、人に負わせている。けれども、主イエス・キリストが「わたしの軛」と言う時は、主イエス・キリストが人に負わせる軛ではなくて、主イエス・キリスト御自身が負っている軛、その軛の片方に「あなたは繋がれなさい」と呼びかけていらっしゃるのです。言葉を換えて言えば、「連帯」ということです。聖書ではそれを「一軛」と言っています。本日読まれました、サムエル記上の14章14節でも「一軛の牛が一日で耕す畑の半分ほどの場所」と書かれているように。一つの軛で結ばれた二匹牛、これが「一軛の牛」です。このように私たちも、イエス様と結ばれています。 「主イエス・キリストと一つに結ばれる」、そういう意味で主イエス・キリストは「軛」という言葉を使っておられます。そして「わたしに学びなさい」というのは、牛がこの軛に繋がれて使われる時には、一方にはよく仕事に慣れた牛を繋いで、一方にはまだ余り慣れてない牛を繋ぐ。そうすると、ちゃんと慣れた方の牛が、うまく行動しますので、もう片方の牛も、それにつられて、すべての行動が、慣れた牛と同じ行動になるわけです。ちょうどそのように主イエス・キリストと全く一つになって全く一つにつながって生活をしていく。そういう事をここで主イエス・キリストは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われたのです。  この事によって私たちは今まで気付かなかった大事な事を知らされます。それは、自分はこんなに苦しい思いをし、苦しい目に会っていることを、誰にも分かってもらえない。そういうふうに思って嘆くのですけれども、実はそうではない。この私の負っている重荷、この軛を主イエス・キリストが一緒に負ってくださっている。「キリストの軛」を負うということは、逆の方から見れば、私の軛を主イエス・キリストが負っておられるという事です。「どんな時にも私はあなたと離れません」と主イエス・キリストはおっしゃっているのです。その事に気づいた時に、私たちは「本当の慰め」を得ることができます。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と主イエス・キリストはおっしゃいます。ああ、私は一人ではない。主イエス・キリストが一緒にこの軛を負ってくださっている。どこへ行ったらいいか分からないで、戸惑っているけれども、主イエス・キリストが私を義しい道に連れて行ってくださると、そういう事に気づかされた時に、私たちは本当に平安を得ることができるのです。 しかし、この御言葉はいま述べた事だけではない、という事に気付かされます。主イエス・キリストと一つになる。これを、たまたま私たちの苦しみ、その苦しみを主イエス・キリストが一緒に負ってくださる、助けてくださるという、その事だけではなくて、言わば神様の救い全体にかかわる事だという事に気づかされます。主イエス・キリストは神様の御子です。ヨハネによる福音書の初めを見ますと、主イエス・キリストが世界をお造りになった。造られたもので彼の手によらないものは一つもない。そう書かれてあります。その神の子イエス・キリストがなぜ人間になったのか、それは私たちに近づき一つになるためです。本当に人間と一つになるために、神の子イエス・キリストは人間になられた。人間と完全に「連帯」をしようとなさった。ですから、私たちが生まれるように母親から生まれ、そして私たちが持っているこの肉体を持たれたのです。それで私たちがこの人生でいろいろ生活の苦労をするように、主イエス・キリストも苦労をなさった。  それだけではありません。私たちと一つになったために、私たちの持っているすべての罪の責任を主イエス・キリストは、自分のものとして背負われました。私たちは神様に対して罪を犯しています。その罪を神様はお裁きなります。そうしなければ、神様の義が通らないのです。どんな悪い事をしても、目をつぶって、裁きを行わないというのでは、神様の義が通らないのです。どうしても裁かなくてはならないのですが、その私たちに対する裁きを主イエス・キリストが御自分でお受けになった。これが十字架の贖いであります。罪のない主イエス・キリストがなぜ十字架におかかりになったのか、それは、私たちのすべての罪を連帯して負われたからなのです。これが聖書の中で贖いと言われていることであります。罪のない主イエス・キリストが私たちの罪を負って神様の裁きをお受けになったのです。 主イエス・キリストは私たちと一つになってくださることによって、もう一つの問題から私たちは救われることになりました。その問題とは肉体を持った私たちは死ぬということです。人間というものは、どんな人でも必ず死ぬことになります。神の子である主イエス・キリストが十字架の上で殺されて死んで、墓に葬られた。そのすべては主イエス・キリストが私たちと連帯をされ、一つになられ、同じ軛を負われたために起こったことであります。しかし、そのような言わば破滅に向かっての連帯だけでなくて、主イエス・キリストと連帯することによって、もう一つの事が起こりました。それは私たちの身に起こった事です。主イエス・キリストが死人の中から甦られたことによって、私たちが甦ることができたのです。軛でつながれているからこそ、主イエス・キリストとともに、主イエス・キリストに導かれて、復活できるのです。  あの「ラザロの復活」という有名な話しの中で、主イエス・キリストはラザロの姉のマルタにおっしゃいました。ヨハネによる福音書11章25節にあります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」これは決して空の約束ではありません。まさに主イエス・キリストは命であります。十字架につけられて死に、葬られた主イエス・キリストが、死人の中から復活をされた。私たちはこの主イエス・キリストの復活を信じております。しかし、その主イエス・キリストの復活が、実は私たちの復活であるということを、わたしたちは忘れがちになります。主イエス・キリストの復活を信じる。永遠の命を信じると言いながら、私たちは身近の者の死に出会った時に、何かもう永遠にその命がなくなってしまうのではないかというように考えてしまいます。あるいは、自分が死というものに直面した時に、絶望的な思いをするのではないでしょうか。しかし「わたしを信じる者は死んでも生きる」「およそ、生きてわたしを信じる者は永遠に死なない」と主イエス・キリストは約束をしてくださり、そうして甦られたのです。私たちは主イエス・キリストが、人間になってくださって、私たちと連帯してくださったゆえに、死に勝つことができるのです。  それだけではありません。主イエス・キリストは甦られた後に、天に上り、神の右に座し、栄光を受けられました。わたしたちは、この事をどう考えているでしょうか。主イエス・キリストは甦られて天に帰られた時に、もう人間であることは止めたと、そう思ってしまうことがあると思います。十字架にかかって死ぬまでは人間であったけれども、もう人間であることを止めて、元の神様に戻ったとそう考えてしまうことあるかもしれません。しかし、そうではありません。主イエス・キリストは甦って、天に上られる時も、人間になったということを捨ててしまわれなかったのです。神であるとともに人間として天に帰られた。このことによって私たちが人間であるということも含めて救われたのだということがわかるのです。そのような神様の意志どおりに、人間の罪を贖い、死を克服して、主イエス・キリストが人でありながら、天に帰られたということは、それにつながっている私たちもまた、人間性を捨てることなく、しかし罪を捨てた、新たなるものとして天にあげられるということなのです。それが主イエスキリストによって示されているのです。  パウロはローマの信徒への手紙の中でその事を語っています。ローマの信徒への手紙八章の二九節にこう書かれています。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」私たちは罪を贖われて義なる者とさせられ、罪を赦された。神様に受け入れられた。そういう事は信じていますけれども、それだけではなくて、実は主イエス・キリストを長子(一番上の子)とする神の子供たちになったと言われているのです。「神の子供」、これは比喩ではなくて、本当に神に似たもの、創世記のはじめに「我々に似せて、人を作ろう。神はご自分にかたどって人を創造された」書かれているように、その姿となる。そういうことであります。これが私たちの人生の最後の目的です。死んで腐ってなくなってしまう人生ではなくて、甦って神の子とさせられ、栄光を受け、そして神さまの栄光を表す、そういう者として神様は私たちを創造されたのです。その事を達成するためにこそ、主イエス・キリストはあえて人間になって来られ、罪を負い、死に脅かされる人間の仲間として、この人生を送られたのです。  その目的を達成するために、主イエス・キリストはあえて人間になってこられ、人間の罪を負い、人間の死を背負って十字架の上で死んでいかれたのです。そうして、そのことを通して、私たちに永遠の命と神の子の栄光とをお与えくださいました。しかし、現実の私たちはどうでしょうか。全くこの世は罪の中にあるのではないか、そして誰も彼も死んでいくではないかと思ってしまいます。しかし、使徒言行録一章6節で主イエス・キリストは「必ずその事実が明らかになる時が来る、決してこのままでは終わらない」と約束をなさいました。そして「それがいつか」という弟子たちの問いに対して「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束をして天に帰られました。いつこの救いが目に見える事実になるかということについては、神様の御心の中に深く秘められていることであって、私たちが推測したり、計算したりすることではありません。しかし、ただ、漠然と待っているのではないのです。ちゃんとそれを確かめる道を神様は備えてくださいました。それは聖霊の降臨であります。その御子の約束がペンテコステの日に成就しました。  「聖霊の降臨」とは何でしょうか。言葉を換えて言うならば、甦られた主イエス・キリストが私たちの内に住んでくださるということであります。ここでも、また、主イエス・キリストが「共に軛を負う」ということを実行してくださいました。聖霊の導きがなければ、私たちはこの主イエス・キリストの約束を、真実として受け取ることはできません。わたしたちが、イエスはキリストである、救い主である、神の子であると信じているのは、この聖霊がわたしたちの中に語りかけ、これは真実だということを証してくださったからなのです。まさに、現実である、この悩みに満ちた人生においても主イエス・キリストは共におられる。決してどっか遠く離れたところから、ただご覧になっているのではなくて、私たちの内に共にあって、共に軛を負ってくださっています。 今日与えられましたマタイ11章30節「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」主が共につながっていてくださる軛は、誰かから支配され苦しめられ、負わされる重い軛ではなく、主イエス・キリスト御自身が私たちと共に負って、学ばせてくださる下さる軛であるから負いやすいのです。そして主が軛を負ってくださったことで、わたしたちの荷は軽くなるのです。「さぁここに来なさい」と呼びかけられた時には、わたしたちは一人で荷を背負っていました。しかも重荷です。しかし主がその荷のことを「あなたの重荷」ではなく「わたしの荷」と主イエス・キリストはいっておられます。わたしたちと共に軛で結ばれている主イエス・キリストはわたしたちの重荷を、共に背負ってくださっているのです。その共に背負う荷は、もはや重荷ではなくなっているのです。であるので「主イエスの荷は軽い」のであります。私たちはもう一度この事を覚え、私たちの人生が、先の分からない暗い人生を一人で歩んでいるのではなく、本当に大きな輝きに満ちた約束を与えられている人生であり、その人生の歩みに、主が共に軛を負って歩んでいてくださっているということ、主イエスキリストと一軛となって歩んでいることを、もう一度しっかりと心に止めたいと思います。そうしてこのような道を備えてくださった主に感謝しを、御名を褒め称えたいと思います。

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