主日礼拝

死は勝利にのみ込まれた

「死は勝利にのみ込まれた」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; ホセア書 第13章9-14節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章50-58節
・ 讃美歌; 333、474、580

 
復活の希望
 コリントの信徒への手紙一の15章を読んできまして、いよいよ最後のところに来ました。この15章でパウロが語ってきたのは、イエス・キリストを信じる信仰者たちが、この世の終わりの日、主イエスの再臨の時に、復活して、新しい体、霊の体を与えられるという、信仰における究極的な希望です。その希望の根拠、保証は、主イエス・キリストの復活でした。主イエス・キリストは、私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。死ぬべき罪人である私たちの身代わりとして死んで下さったのです。その主イエスを、父なる神様は復活させて下さいました。それは主イエスの死と同様に、私たちのための復活です。神様が終わりの日に私たちにも新しい命と体を与えて下さる、その初穂、先駆けとして、主イエスは復活されたのです。主イエスの復活によって、私たちも、この肉体の死を越えた彼方に、新しい命、神様の恵みによって活かされる新しい体を与えられるという希望に生きることができるようになったのです。
 この希望はどのように実現されていくのか、復活の体はどのように与えられるのか、ということについてパウロは、これまでの所で、今私たちに知ることが許されている範囲内で精一杯語ってきました。復活の体は、今の私たちのこの肉体とは違う、霊の体です。霊の体というのは、霊によって出来ている体ということではなくて、聖霊によって活かされる体ということです。今私たちが生きているこの体は、神様が与えて下さった自然の命によって生きています。その自然の命が取り去られれば私たちは死ぬのです。私たちに約束されている復活は、その自然の命の体がもう一度息を吹き返すことではありません。神様が、聖霊によって生きる新しい体、霊の体を与えて下さるのです。それがどんな体であるかということを、私たちは今のこの自然の命の体から類推することはできません。両者の間には、蒔かれる種とそこから生じる実りほどの大きな違いがあるのです。だから、復活の体とはこんな体だ、と見てきたように語ることはパウロといえどもできません。ただ一つ言えることは、それは最後のアダムである復活されたキリストの体と同じものだということです。私たちは終わりの日に、復活されたキリストと同じ体を与えられる、それだけははっきりと言うことができる、そしてそれで十分なのだとパウロは言っているのです。

朽ちるもの
 そのように私たちの復活について語ってきた15章の締めくくりが本日の所です。50節で彼はこう言っています。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。「肉と血」「朽ちるもの」それが私たちの今のこの体です。「神の国」とは、神様の恵みのご支配ということです。それが「朽ちないもの」と言い変えられています。それを「受け継ぐ」というのは、神様の恵みのご支配の下によって、朽ちることのない命を生きる者となる、即ち、救いの完成にあずかることです。肉と血、朽ちるものは、神の国、朽ちないものを受け継ぐことができない、つまり私たちは、今のこの体のままで、この人生において、救いの完成を得ることはできないのです。そこそこに幸せな人生を送っている者は、この事実を忘れてしまいがちです。自分の人生が平穏無事に過ぎていくことが神の救いであるかのように思ってしまうのです。しかし私たちの人生は、ひとたび何かが起こればたちまち平穏を失います。この人生における「幸せな生活」という救いは、いとも簡単に失われてしまうのです。また私たちは、世界の各地で地震や津波や台風などの災害が起こり、そのたびに何千人の人々が死んでいくことを見ています。私たちの国でも、何の関係もない人が突然切りつけられて殺されてしまうようなことが起っています。このようなことを見ると、「神様がおられるなら何故こんなことが起こるのか」「神様の救いなどあるのか」と思います。しかしこれらのことはまさに、肉と血をもって生きる私たちのこの人生、今のこの世界が、神の国を受け継ぐことのできるものではない、そこには救いの完成はないということの現れであると言わなければならないでしょう。自然の命の体をもって生きるこの人生の中には、救いの完成、神様の恵みのご支配の完成はもともとないのです。

朽ちないものへと変えられる
 そのことを語った上でパウロは51節で「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と言います。「神秘」というのは「隠されたこと、秘密」という意味の言葉です。私たちの眼に通常隠されており、信仰によってしか分からない秘密を告げるというのです。その秘密とは、「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」ということです。今とは異なる状態に変えられる、つまり、肉と血、朽ちるものであり、それゆえに神の国を受け継ぐことができない私たちが、霊の体へ、朽ちないものへと変えられるのです。そして神の国を受け継ぐ、つまり救いの完成にあずかるのです。そのことはいつ、どのようにして起こるのか。52節にこうあります。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。これが、終わりの日の死者の復活です。世の終わりにキリストがもう一度来られるその時に、私たちは復活し、朽ちないもの、神の国を受け継ぐ者へと変えられるのです。このことこそ、パウロが告げている、隠された、信仰によってしか分からない秘密です。そしてそこにこそ、神様による救いの完成があるのです。そうであるならば、復活こそ、私たちが神の国を受け継ぐために、つまり救いの完成にあずかるために、必要不可欠なものです。復活は、神様の救いの恵みの最後のつけ足しではありません。救いの恵みがもう十分に与えられた後、最後に、言わばおまけとして復活が与えられるのではないのです。私たちは、復活において新しくされ、霊の体、朽ちないものへと変えられることなしには、神の国を受け継ぐことができないのです。復活なしの救いは本物の救いではありません。復活の希望に生きることのない信仰は、この世の生活の中で、救いの影を、あるいはその兆しを得ただけで、結局朽ちるものである肉と血の中に埋没して、それを見失ってしまう、ということになるのです。

信仰によってしかわからない神秘
 このように、復活を見つめることは、私たちの信仰において欠かすことのできない大事なことです。しかしパウロがここで語っているのは、復活が大事なのだから復活できるように努力しなさい、ということではありません。復活は、努力目標ではなくて神秘です。隠された真理です。言い換えればそれは、既に約束されている神様のご意志なのです。私たちはこの神様のご意志を、信仰によってしか知ることができません。それゆえにこの復活という神秘を理解できない、信じられない、という人々も当然出てきます。それは当時も今も同じです。二千年前は科学も進歩していなかったから復活の教えも受け入れられたのだろう、今日この科学の発達した時代に復活などと言われてもそれを信じることは難しい、と思う人がいるとしたら、それは全く間違いです。二千年前も、復活はやはり「神秘、隠されたこと」であり、「信仰によってしか分からない秘密」だったのです。

死に対する勝利
 しかしこの復活という神秘、信仰によってのみ分かる神様の恵みのご意志に眼を開かれるならば、私たちは大いなる希望に支えられて生きることができます。その希望は53節では、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言い表されています。私たちの今のこの体、この世の人生は、朽ちるべきもの、死ぬべきものです。何十年かの人生を、充実した幸せなものとして生きたとしても、あるいは全く不遇の内に、苦しみつつ生きたとしても、最後に待っているのは死です。しかしこの隠された神の恵みのご意志を知るならば、私たちは、この地上における何十年かの人生が私たちの歩みの全てではないこと、肉体の死を越えた彼方に、神様の恵みによって生かされる新しい、朽ちることのない、死ぬことのない命と体が与えられることを示されるのです。私たちの地上の人生は、この朽ちることのない、死ぬことのない新しい歩みに向けての備えの時となるのです。その時私たちは、この世の人生における喜び、誉れ、豊かさに捕われることがなくなるのです。この世の人生において喜び、誉れ、豊かさを得ることができるかどうかで、その人生が成功だったか失敗だったかを計ることから解放されるのです。喜びや誉れや豊かさによって、人生の成功と失敗が決まると考えてしまう時に、私たちは、人生における本当に大切なこと、つまり、隣人を愛し、隣人と共に、隣人のために生きることを見失ってしまうのです。またたとえ喜びや誉れや豊かさを得たとしても、今度はそれを失うことへの恐れに捕えられていきます。しかしどんなに守ろうとしても、死においてはそれらの全てが奪い去られてしまうのです。だからこの世の人生における成功を求めて生きる者は、いつも死を恐れており、死については極力考えないで生きようとするのです。しかし復活の希望に生きる者は、この世における喜びや誉れや豊かさが過ぎゆくもの、朽ちていくものであること、そしてそれらが全て失われてもなお、神の恵みが自分を捕えていることを信じて生きることができるのです。v  これを裏返して言うならば、復活の希望に生きる者は、この世の人生における苦しみ、不幸、不遇に捕われることもなくなるのです。この世の人生が全てだと考えている者には、苦しみ、不幸、不遇は人生の敗北、失敗を意味します。そこには絶望しか生まれないのです。しかし復活の希望を与えられているなら、この世の人生における苦しみや不幸が、人生の価値を決める決定的な事柄ではなくなるのです。地上の人生を、たとえ苦しみと不遇の内に終えることになるとしても、死の彼方に、新しい、朽ちることのない、神の国を受け継ぐ恵みが与えられることを信じ、希望を持ち続けることができるのです。
 これらのことを一言で言うならば、復活の希望に生きる者は、死に対する勝利を与えられるということです。この世の人生しか見つめることができない者にとっては、死は、その人生をめちゃめちゃに破壊する不気味な力です。そして誰も死から逃れることができないのですから、私たちは皆この不気味な力の支配下にあるということになります。人生は、死から与えられている一時の執行猶予期間でしかないことになるのです。しかし復活の希望に生きる者は、死の力もまた神様のご支配の下にあることを信じています。神様は主イエス・キリストを捕えた死の力を滅ぼして、復活させ、新しい命と体を与えて下さいました。つまり神様は死の力に既に勝利して、それをご自分の支配下に置いておられるのです。同じように私たちを支配する死の力にも勝利して、新しい命と体を与えて下さるのです。この信仰に生きるところでは、死はもはや私たちを支配する不気味な力ではありません。人生は死から与えられた執行猶予期間ではなくて、神様が命を与え、生かしてくださっている恵みの期間なのです。復活の希望に生きる者の人生は、死に対する神の恵みの勝利の下にあるのです。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか
 このことをパウロは、旧約聖書の言葉の実現として語っています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。この旧約聖書の言葉が、私たちの復活において現実となるのです。「死は勝利にのみ込まれた」というのは、多少文章は違っていますが、イザヤ書25章8節の言葉です。そして「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」というのは、これも少し違ってはいますが、本日共に読まれたホセア書13章14節の言葉なのです。旧約聖書に既にこのように、死の力に対する勝利が語られている、それが、世の終わりの私たちの復活の時に実現するのです。
 しかし、先程ホセア書13章9節以下の朗読を聞かれた方は、この引用はおかしい、と思うのではないでしょうか。もう一度そこを読んでみましょう。「イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ。どこにいるのか、お前の王は。どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは。『王や高官をわたしにください』とお前は言ったではないか。怒りをもって、わたしは王を与えた。憤りをもって、これを奪う。エフライムの咎はとどめておかれ、その罪は蓄えておかれる。産みの苦しみが襲う。彼は知恵のない子で、生まれるべき時なのに、胎から出て来ない。陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」。おわかりのように、これはイスラエルに対する神様の裁きの宣言であり、その裁きによってイスラエルが滅ぼされることを語っている言葉です。14節も「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか」となっています。「そんなことはしない」という意味がそこには込められています。そして「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」と続くのです。これは、「死の呪いや陰府の滅びはどこにもない」ということではなくて、「死よ、陰府よ、早くここに来ておまえたちの呪いと滅びの力を発揮せよ、何をぐずぐずしているのか」という意味なのです。だから14節の最後は「憐れみはわたしの目から消え去る」となっています。つまりこれは、死に対する神様の恵みの勝利を語った言葉などではありません。パウロは、ホセア書における文脈、意味を全く無視して、全然違う意味でこれを引用しているのです。そういう意味ではこの言葉を復活の恵みの根拠とすることなどできないのではないでしょうか。
 けれども、このホセア書の言葉をさらに深く読んでみる必要があります。ここでは神様が、死や陰府に命令して、「早く来い」と言っています。イスラエルが滅ぼされるのは、主なる神様の目から憐れみが消え去ることによってだと言われているのです。つまり、死がイスラエルに対して力を発揮することができるのは、主なる神様の命令ないしは許しの下でなのです。神様がイスラエルを死に引き渡されるがゆえに、死は力を奮うことができるのです。ですからこのホセア書においても前提となっているのは、神様の力は死の力よりも上位にあり、神様が死をも支配しておられる、ということなのです。それゆえにこの引用はやはり復活の希望の根拠を語っていると言うことができるのです。私たちに与えられている復活の希望とは、死をも支配する力を持っておられる神様が、その力によって死を打ち滅ぼして下さるという希望だからです。

死のとげ
 しかしこのホセア書の言葉は、そのままの意味においてはやはり、死は神様の怒りと裁きの現れだと言っています。そこに旧約聖書と新約聖書の違いがあります。旧約聖書においては、死は神様のご支配の下で、人間の罪に対する神様の怒りと裁きの力を奮っているけれども、新約聖書においては、神様はその恵みの力によって死を打ち滅ぼし、復活の命の約束を与えて下さっているのです。この違いをもたらしたのが、主イエス・キリストの死と復活です。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちに対して死が持っている意味と力は全く違ったものになったのです。パウロはそのことを、56、57節で語っています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。「死のとげは罪であり」という言葉に、生れつきの私たちにとっての死の意味が示されています。死は私たちに痛みを与え、苦しみを与えるとげなのです。そして死がとげであるのは、私たちの罪のゆえです。神様に背き、自分が主人となって生きようとする罪によって、私たちと神様との関係は損なわれ、疎遠になってしまっています。それゆえに、死は、私たちの罪に対する神様の怒りと裁きを示す、不気味な、恐しい力と感じられるのです。主イエス・キリストは、その私たちの罪を背負って、十字架にかかって死んで下さいました。神の独り子である方が、私たちと神様との関係を損ない、隔てている罪をご自分の身に引き受けて死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。私たちとよい関係を結び直して下さったのです。主イエスの十字架によるこの罪の赦しを信じる者にとっては、神様はもはや疎遠な、怒りと裁きの神ではなく、近い、親しい、愛に満ちた方です。主イエス・キリストの十字架によって、死の根本的なとげは、既に抜き去られているのです。勿論主イエスを信じる者にとっても、人生の終わりである死は、苦しみ、恐れ、不安をもたらすものです。死のとげはなお残っています。それが完全になくなるのが、終わりの日の復活の時です。復活は、主イエス・キリストによって既に実現している、死のとげの無力化、「死は勝利にのみ込まれた」という神様の恵みの勝利の完成なのです。57節に「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」とあるのは、この終わりの日の勝利を見つめて語られているのです。

無駄にならない苦労
 この復活の希望、神様の恵みによる死に対する勝利の希望に生きる時、私たちのこの世の生活は変わります。最後の58節はそのことを語っています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。肉と血をもって生きる今のこの人生において、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励」もう、つまり、それぞれが自分の置かれた場で、しっかりと神様に仕え、神様が喜びたもう働きを熱心にしていこうと勧められているのです。復活の希望に生きる所にはそのような人生が与えられます。そのように生きることによって救いを、復活の命を獲得しよう、ということではありません。肉と血における歩み、朽ちるものであるこの体における歩みは、どんなにすばらしいものであったとしても、神の国を受け継ぐことはできないのです。それでもなお私たちが主の業に常に励むのは何故か、それは、主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っているからです。無駄にならない、それは、滅んでしまわない、朽ちてしまわないということです。人間の業、この人生における働きは、滅んでいくもの、朽ちていくものです。肉と血をもって生きるこの人生における私たちの働きは、どこまでいっても、どんなに努力しても、不完全な、罪のある、欠けのあるものです。しかしこの人生において私たちがする苦労の中で、神の国へと、つまり朽ちることのない、死ぬことのない復活の命へとつながっていくことが一つだけあるのです。それは、「主に結ばれて」する苦労です。つまり洗礼を受けてキリストの体である教会の一員となり、主の業に励むことです。主イエス・キリストの父なる神様を信じ、礼拝し、主に仕えて生きることです。そこにも確かに苦労はあります。しかしそこにおける苦労は、決して無駄になってしまうことはないのです。

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