主日礼拝

主を見て喜んだ

「主を見て喜んだ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第2章7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第20章19-23節
・ 讃美歌:325、329、521、67、458、78

受難週からイースターへ

 主イエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週の歩みを経て、復活を喜び祝うイースターの日を迎えました。本日は、ヨハネによる福音書が語るイースターの日の出来事を見つめたいと思います。ヨハネ福音書において、復活した主イエスと最初に出会ったのはマグダラのマリアでした。主イエスの墓で、生きておられる主イエスと出会った彼女は、そのことを弟子たちに告げたと18節に語られています。しかし本日の最初の19節には、この日の夕方、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。マリアから主イエスの復活を告げられても彼らは信じることができず、主イエスを捕えてピラトに引き渡して殺したユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもっていたのです。既にイースターの日が来ているのに、彼らはまだ受難週の中にいます。彼らにイースターの喜びが訪れたのは、復活して生きておられる主イエスが来て下さり、彼らの真ん中に立って下さったことによってでした。鍵をかけて閉じこもっている彼らのただ中に、主イエスは来て下さって、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて、十字架につけられて釘を打たれた手と、槍で突かれたわき腹を示し、十字架にかかって死んだ主イエスが本当に復活なさったことを示して下さったのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と20節にあります。復活した主イエスが来て下さり、ご自身を示して下さったことによって、弟子たちに初めてイースターの喜びが訪れたのです。

主の日の礼拝において

 受難週からイースターへの転換は、時の流れによって自然に起るものではありません。生きておられる主イエスが私たちのところに来て下さり、真ん中に立って語りかけ、ご自身を示して下さることによってこそ、私たちはイースターの喜びを体験することができるのです。恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちの姿は、その出会いを与えられる前の私たちの心の有様を示しています。主イエスとの出会いなしには、私たちは恐れの中にあり、心の戸を開くことができません。自分を脅かすものに対して戸を閉ざし、壁を築いて、自分を守ろうとしているのです。しかし復活して生きておられる主イエス・キリストは、固く閉ざしている私たちの心の中に入って来て下さり、私たちの真ん中に立って語りかけて下さるのです。そのことが、主の日の礼拝において起っています。今この礼拝においても、主イエス・キリストが、私たちの真ん中に立って語りかけて下さっているのです。その主イエスの語りかけを私たちは、共に礼拝に集っている群れ全体としても体験しますが、それと同時に一人ひとりにおいても体験します。礼拝においてこの群れの真ん中に立って下さっている主イエスが、私たち一人ひとりの、閉ざされた心の中にも入って来て下さって、私たちの心の真ん中に立って、この私に語りかけて下さるのです。礼拝においてそのように主イエスと出会う体験を与えられることによって、私たちも、主を見て喜ぶのです。イースターを体験するのです。私たち一人ひとりのイースターは、主の日の礼拝において起ります。それゆえに教会は、主イエスの復活の日である週の初めの日、日曜日に集って礼拝をささげているのです。

平和を失っている私たち

 私たちの真ん中に立って下さる主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さいます。イースターは、主イエスが私たちに平和を告げて下さる日です。心の戸を閉ざして鍵をかけている私たちには平和がありません。恐れと不安に支配されているのです。恐れや不安を覚えさせるものは、私たちの内にも外にもいくらでもあります。あの恐れ、この不安と一つひとつに対処してそれを取り除こうとしてもきりがありません。恐れと不安は次から次へといくらでも生じて来るのです。だから私たちが自分の力で恐れと不安を無くして平和を得ることはできません。平和は、主イエス・キリストによって与えられるのです。主イエスはどのようにしてそれを与えて下さるのでしょうか。それは神と私たちの間に良い関係を打ち立てることによってです。私たちは神によって与えられた命を生きていますが、自分を生かしてくれている神に感謝せず、み心に従わず、自分の命と人生は自分のものであり、自分の思い通りにするのだと思って生きています。それが生まれつきの私たちです。でも私たちには、命と人生を自分の思い通りにすることなど出来ません。こうしたい、こうなりたい、このように生きたいと思っても、その通りにならないことの方が多いのです。さらに人生には、自分が全く予期しておらず、願ってもいないことが突然起ります。今日はあの熊本、大分の地震における「本震」と呼ばれる二回目の震度7が起ってから丁度一年目の日ですが、例えばそのようなことが、私たちの人生には起るのです。そういうことを通して私たちは、自分の命や人生が自分のものではないこと、自分の思い通りにはならないことを思い知らされます。命も人生も、神が与え、導き、そして神が取り去られるものです。その神との関係が疎遠であり、信頼関係がないから、私たちは自分の人生が得体の知れない力によって支配され、翻弄されているという恐れと不安を感じるのです。

主イエスによる平和

 神はそのような私たちとの間に良い関係を築き、私たちに平和を与えて下さるために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。私たちが、命と人生を与えて下さった神をあがめずに、人生を自分のものにしようとしている、その罪を主イエスは全てご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。そこには、背き逆らっている私たちをなおも愛して救って下さる神の愛が示されています。主イエス・キリストは、神の私たちへの愛のゆえに十字架にかかって死なれたのです。その主イエスを神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それがイースターの出来事です。このことによって、神の恵みの力が、私たちの罪と、そのもたらす死の力に勝利していることが示されました。私たちに命を与え、人生を導いて下さっている神は、独り子イエス・キリストの十字架の死によって、背き逆らっている私たちの罪を赦してご自分との間に良い関係を築いて下さるだけでなく、私たちを常に脅かし、恐れを与えている死の力をも打ち破って、永遠の命を与えて下さるのです。主イエスの十字架の死と復活において示されたこの神の愛によって、私たちに平和が与えられます。平和は、あの不安、この恐れが取り除かれることによってではなくて、私たちの命と人生の全てが、主イエス・キリストによる神の愛の下に置かれていることが示されることによってこそ与えられるのです。復活して生きておられる主イエスは、礼拝において私たちの真ん中に立って、神の愛によるこの平和を与えて下さるのです。

洗礼

 本日はこの礼拝において、三名の方々が洗礼を受けようとしています。洗礼を受けるとは、神の愛が自分に注がれており、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による罪と死への勝利が与えられていることを信じ、受け入れ、主イエスが与えて下さる平和に生き始めることです。恐れと不安の中で閉ざされていた自分の心の中に、主イエスが来て下さって、「あなたがたに平和があるように」と繰り返し語りかけて下さった、そういう礼拝の体験を重ねてきたこの方々は、心の戸を開いて主イエスをお迎えして、主イエスと共に歩もうという思いを与えられたのです。三名の方々が神の愛を受けて信仰を与えられ、主イエスが与えて下さる平和の内に歩み始めることを私たちは共に喜び、主をほめたたえたいと思います。

罪の赦しのために遣わされる

 「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さった主イエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とも言っておられます。洗礼を受け、主イエスの救いにあずかった信仰者は、主イエスの復活の命によって新しく生かされ、主イエスによって遣わされて、み業のために用いられていくのです。遣わされた者たちはどのような働きをしていくのか、それが23節に語られています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。私たちが人の罪を赦せば、その罪は神によって赦され、私たちが赦さなければ、神による赦しがその人に与えられない、そういうまことに重大な使命へと、洗礼を受けた信仰者は遣わされるのです。ここで受け止めるべきことは、キリストの救いにあずかった信仰者は、人の罪の赦しのために遣わされるのだ、ということです。それは、主イエス・キリストによって私たちに与えられた救いが罪の赦しだからです。罪の赦しという救いを与えられた私たちは、その罪の赦しが他の人々にも与えられていくために遣わされるのです。そのために仕えることが信仰者の使命です。ですからこのお言葉は、私たちが自分の好き勝手に、気に入った人を赦し、気に入らない人は赦さない、というようにして、神による赦しを与えるか与えないかを私たちが決めることができる、というようなことではありません。キリストを信じる信仰者は、そういう特権を与えられるのではなくて、キリストが十字架の死と復活によって私たちに与えて下さった罪の赦しの恵みを伝え、一人でも多くの人々が神による罪の赦しにあずかるために仕える使命を与えられるのです。

聖霊を受けよ

 その使命は、私たちの力や努力で行うことのできるものではありません。主イエスもそういうことを求めておられるのではありません。22節に「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。とあります。それに続いて先程の23節の使命が語られているのです。礼拝において私たちに出会って下さる、復活して生きておられる主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と告げて下さると共に、私たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言って下さっているのです。私たちはこの礼拝において、復活して生きておられる主イエスと出会い、主イエスによって息を吹きかけられ、聖霊を与えられて、それぞれの生活の場へと遣わされていくのです。息を吹きかけることによって聖霊が与えられる、それは先程共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第2章7節の「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と繋がっています。神が息即ち霊を吹き入れて下さることによって、土の塵に過ぎない人は生きた者となるのです。復活の主イエスとの出会いの場である礼拝において私たちに起るのもこれと同じことです。恐れと不安の中に閉じこもっている私たちのところに、主イエスが来て下さり、「あなたがたに平和があるように」と告げて下さり、そして息を吹きかけて聖霊を与えて下さるのです。それによって私たちは、神による罪の赦しと平和を与えられて、喜びの内に新しく生き始めるのです。聖霊によって与えられるこの新しい命を生きることの中でこそ、先程の重大な使命、罪の赦しの恵みを伝えていくという使命も果たされていきます。私たちを罪赦された者として新しく生かして下さるのも、そしてその罪の赦しの恵みにさらに新たな人々をあずからせて下さるのも、聖霊なる神です。聖霊なる神が私たちの内に宿り、働いて下さることによってこそ、私たちは主イエスから与えられた使命を果たしていくことができるのです。

礼拝において働いて下さる聖霊

 この礼拝において洗礼を受ける方々を新しく生まれ変わらせて下さるのも聖霊なる神です。復活して生きておられる主イエスが、このイースターの礼拝において、これらの方々に息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言って下さるのです。その聖霊の働きによってこそ、洗礼において頭に注がれる水は私たちの罪を洗い清める水となり、私たちを新しく生まれ変わらせ、キリストの救いにあずからせるのです。そして聖霊が私たちを、人々の罪の赦しのために、世へとお遣わしになるのです。
 また私たちはこの礼拝において、新たに洗礼を受ける方々と共に聖餐にあずかります。聖餐のパンと盃にあずかることによって私たちは、復活して天に昇り、父なる神の右に座しておられる主イエスと結び合わされ、その復活の命にあずかり、主イエスに既に与えられている永遠の命を私たちも受け継ぐその希望を確かにされるのです。そこに働いて下さるのも聖霊なる神です。聖霊の働きによってこそ、聖餐のパンの小さな一切れは主イエス・キリストの御体となり、小さな盃のぶどう液は、多くの人のために流されるキリストの血、新しい契約をもたらす血となるのです。
 私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さり、復活して生きておられる主イエス・キリストが、主の日の礼拝において私たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」、そのために「聖霊を受けなさい」と語りかけて下さっています。主イエスの復活を覚える小さなイースターである毎週の主の日の礼拝において私たちは、主を見て喜び、聖霊を注がれて新しくされ、主によってそれぞれの生活の場へと遣わされていくのです。

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