主日礼拝

すべては神様のもの

「すべては神様のもの」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 歴代誌上 第29章10-13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章7-13節
・ 讃美歌:6、470、507

神様に招かれた私たち
 今日は「花の日」です。たくさんのお花がこの礼拝堂に置かれています。この礼拝の後、教会学校のお友だちはこのお花を持って交番や病院、老人ホームなどにお届けします。大人の人たちも、ご病気やご高齢のためになかなか教会の礼拝に来ることのできない方々のところにこの花をお届けします。そのお花といっしょにお届けするカードもみんながいっしょうけんめい作ってくれました。お花は、私たち人間が作ったものではなくて、神様が美しく咲かせて下さったものです。神様が美しく咲かせて下さったお花と、みんなが心をこめて作ったカードをお届けすることで、神様のお恵みと、私たちの愛を、つらい思い悲しい思いをしている方々のところにお届けするのです。
 私たちの教会ではこの花の日の礼拝を毎年、教会学校のお友だちや保護者の皆さんと、教会の礼拝に集っている大人の人たちが一緒に、総員礼拝として守っています。教会学校の皆さんは、今日はいつもと違う時間の礼拝で、しかも沢山の大人の人たちに囲まれていて、緊張しているかもしれません。毎週日曜日の教会学校の後、こんなに沢山の人たちがここに集まって神様を礼拝しているんです。それは神様が招いて下さっているからです。ここにいる、小さな赤ちゃんからお年寄りまで、一人一人みんなを、神様が招いて下さっているんです。神様に招かれた私たちは、この礼拝で神様のみ言葉を聞いて、お祈りをして、神様と一緒に新しい一週間を歩んでいくのです。

主の祈りのしめくくり
 教会学校の礼拝ではこの4月から、「主の祈り」についてのお話を聞いてきています。イエス様が「こういう言葉で祈りなさい」と教えて下さったお祈りです。それを、教会学校の礼拝でも毎週祈っているし、この大人の礼拝でも、この後一緒に祈ります。主の祈りは、神様に招かれてイエス様のもとに集まった人たちが、大人も子供も一緒に祈る、私たちにとって一番大切なお祈りです。4月から主の祈りについてのお話を聞いてきて、いよいよその最後のところに来ています。主の祈りの最後に、ちょっと難しい、舌をかみそうな言葉があります。「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という言葉です。なんだか呪文のような、よくわからない不思議な言葉ですよね。特に「なんじのものなればなり」っていったい何なんでしょう。なんとなく調子はいいので覚えやすいですが、何を言ってるのかはよく分からないですね。私も子供の頃からそう思ってきました。実は私たちが唱えている主の祈りの言葉は、1880年、明治13年に日本語に訳されたものです。つまり131年前です。江戸時代から明治になってすぐの頃の日本語なのです。言葉というのは時と共にだんだん変わっていくものです。だから130年も経った今はもう説明してもらわないと意味が分からなくなってしまっているんです。教会学校の皆さんが持っている「こどもさんんびか」の後ろの方には、新しく訳された主の祈りがいくつか載っています。それを読んでみるとここのところはこうなっています。ある訳では「み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです」、また別の訳では「国も力も栄えも、限りなくあなたのものです」、もう一つの訳は「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです」となっています。「なんじのものなればなり」っていう呪文のような言葉は、「あなたのものだからです」っていう意味なんです。
 「あなた」って誰かというと、お祈りする相手である、天の父なる神様です。「神様のものだからです」という言葉で主の祈りはしめくくられているのです。何が「神様のもの」なんでしょう。「国とちからと栄えとは」です。では、「国とちからと栄え」っていったい何のことでしょう。週報にも載せた「続・明解カテキズム」の問45の答えには、「この世の権力も支配も栄光も」とあります。でもこれではあまり分かりやすくなっているとは言えませんね。「国とちからと栄えとは」というのを、思いっきり分かりやすく言ってしまうと、「すべてのものは」ということです。「すべてのものは、神さまあなたのものだからです」というのが、主の祈りのしめくくりの言葉なのです。

すべては神さまのもの
 ところで、イエス様が主の祈りを教えて下さった時のことが今日の新約聖書の箇所、マタイによる福音書第6章にあるわけですが、そこを読んでも、この最後のしめくくりの言葉「国とちからと栄えとは…」はありません。実はこの言葉は、イエス様が教えて下さったものではなくて、教会の人たちが後から、主の祈りのしめくくりとして付け加えたものなのです。でもそれは、イエス様の思いと違うことを勝手に付け加えてしまったのではありません。これはちゃんと聖書の言葉に基づいているのです。そのもとになっているのが、今日の旧約聖書の箇所、歴代誌上第29章10節からのところです。その11、12節をもう一度読んでみます。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる」。ここに、「国」も「力」も「栄え、つまり栄光」もみんな出てきています。それらが、あなた、つまり主なる神様のものです、と言われているのです。この言葉をもとにして、始めの頃の教会の人々が主の祈りのしめくくりの言葉を考えたのです。そして今読んだこの歴代誌の言葉の中に、「まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの」とあります。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」を思いっきり分かりやすく言うと「すべてのものはあなたのものだからです」となると言った理由はここにあるのです。
 ここはダビデ王が神殿を建設して神様におささげした時の祈りの言葉です。神殿というのは神様を礼拝するための場所です。ダビデは、礼拝するための場所の完成にあたって、「天と地にあるすべてのものはあなたのものです」と祈って、神様をほめたたえたのです。私たちがここで神様を礼拝することができるのは、私たちも含めたこの世のすべてのものが神様のものだからです、ということです。
 同じように、私たちが主の祈りを心からお祈りすることができるのも、この世界の全てのものが神様のものだからです。「み名があがめられますように、み国が来ますように、み心が行われますように」と祈るのは、神様がこの世の全てものを支配しておられ、導いておられるのだから、その神様のみ名が私たちみんなによってあがめられ、私たちがその神様のご支配のもとで、み心に従って歩むことができますように、ということです。そしてさらに、この世の全てを支配しておられる神様が、「日用の糧」を、つまり日ごとの食べ物を与えて下さるように、私たちの罪を赦して下さるように、試みや誘惑にあわせず、悪いことから救って下さるように、と祈るのです。天の父なる神様が全てのものを支配しておられるからこそ、心から信頼してそう祈ることができるのです。

必要なものをご存じである神
 先ほど、マタイによる福音書の6章7節からを読んでもらいました。その最初のところでイエス様は、「祈るときには、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」とおっしゃっています。本当の神様を知らない異邦人たちは「くどくどと」祈っています。「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」のです。それは、お祈りを神様に聞いてもらうためには、何度も何度もしつこくお願いしなければならない、という思いです。何度も繰り返し祈ったら、ようやく神様もそれに気付いて、お願いを聞いて下さるだろう、ということです。でもそれは、本当の神様を知らない人のすることです。独り子のイエス様を遣わして下さった天の父である神様を知らされた人は、そんなことをする必要はありません。なぜなら、8節にあるように、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」からです。神様は私たちの天の父として、私たちのことを本当に愛して下さっています。私たちに何が必要なのかをいつも考えて下さっています。そして、本当に必要なものを、本当に必要な時に、私たちがお願いしなくても、ちゃんと与えて下さるのです。私たちは、自分にとって本当に必要なものが何なのかが分かっていません。本当に必要ではないものばかりを求めてしまって、本当に必要なものには見向きもしなかったりすることがあるのです。でも神様は、天の父として、私たちに本当に必要なものを知っておられ、それを与えて下さいます。私たちは、それが自分の願いとは違っているので、神様はお祈りを聞いて下さらない、意地悪をしておられる、と感じてしまうこともあります。でも神様は、私たちの思いよりもずっと深い愛のみ心で、必要なものを必要な時に与えて下さっているのです。

イエス様による救い
 神様が私たちに与えて下さったものの中で、一番貴重な、大切なもの、それは独り子のイエス様です。神様は愛する御子であるイエス様をこの世に遣わして下さって、そのイエス様が私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さるようにして下さったのです。そのことは、私たちがお願いする前に、神様がご自分からして下さったことです。いつも神様に背いてばかりいる私たちの救いのために、独り子のイエス様が身代わりになって十字架にかかって死んで下さったのです。そうしなければ罪深い私たちの救いは実現しないと知っておられたからです。そして神様はそのイエス様を復活させて下さいました。それによって私たちも、神様の子供として新しく生きることができるようにして下さったのです。私たちがお願いする前に、いや考えることすらもできなかったこのような救いの恵みを、神様はイエス様によって与えて下さっているのです。そういうことがおできになるのは、この世の全ては神様のものだからです。全てのものを支配しておられる神様が、私たちの天の父として、独り子のイエス様による救いを与えて下さっているのです。そして私たち一人一人を、そのイエス様のもとへと招き、集めて下さっているのです。この神様に招かれた私たちは、この神様のみ名があがめられますように、み国が来ますように、み心が天においてと同じように地にもなりますようにと祈るのです。そして、日ごとの食物、日用の糧と、私たちの罪の赦しを、また誘惑からの守りを、この神様に祈り願うのです。祈ってもどうなるか分からないと疑いながらではなくて、すべてのものを支配し、導いておられる神様が必ず恵みを与え、良い導きを与えて下さると信じて祈るのです。「国も、力も、栄えも、すべては神様あなたのものだからです」というしめくくりの言葉は、私たちが本当に神様に信頼して主の祈りを祈るために欠かすことのできない大切な付け加えなのです。

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