主日礼拝

闇が力を振るっている

「闇が力を振るっている」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書第60章 第1-3節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章47-53節
・ 讃美歌:237、280、300

いつもの場所での祈り
 本日ご一緒に読むルカによる福音書第22章47節以下のところは、「イエスがまだ話しておられると」と始まっています。つまりここは先週読んだ39節以下のところと切れ目無くつながっているのです。先週申しましたように、主イエスは弟子たちといわゆる「最後の晩餐」をとられた後、オリーブ山に行き、そこで祈られました。他の福音書では「ゲツセマネ」と呼ばれているその場所をルカは「いつもの場所」と言っています。それは、21章37節に語られていたように、エルサレムに来られた主イエスが、日中は神殿の境内で人々に教え、夕方になると町を出てオリーブ山で毎晩夜を過ごされた、その「いつもの場所」です。主イエスはそこで、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたのです。主イエスは、ご自分がこの後逮捕され、有罪の判決を下され、十字架につけられて殺されることを知っておられました。「この杯」というのはその苦しみと死を指しています。その苦しみからできることなら逃れたい、と主イエスも願っておられるのです。しかしそこでも主は「御心なら」と言っておられます。自分の思い、願いを神様に押し付けるのではなく、「わたしの願いではなく御心のままに行ってください」と祈り求め、自らを神様の御心に従わせていく信仰の戦い、祈りの戦いを戦われたのです。主イエスは弟子たちにも、その祈りの戦いを共に戦うことをお求めになりました。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とお命じになったのはそのためです。しかし主イエスが祈りを終って立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは眠り込んでいました。主イエスはその弟子たちに「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」とおっしゃったのです。

主イエスを引き渡すユダ
 本日の箇所の冒頭に「イエスがまだ話しておられると」とあるのは、このお言葉がまだ終らないうちに、ということです。そこに群衆が現れたのです。彼らは、52節によれば、剣や棒を持って、つまり武装してやって来ました。またその中には、祭司長、神殿守衛長、長老たち、つまりユダヤ人の宗教的指導者たちがいました。その人々が、武装した群衆を引き連れて、主イエスを捕えに来たのです。彼らの先頭には「十二人の一人でユダという者」がいました。十二人の弟子の一人であるユダが彼らを導いて来たのです。ここが「いつもの場所」であることがそれと結びつきます。ユダは昨日の晩まで主イエスと共にこの場所で夜を過ごしていたのです。その「いつもの場所」へと、主イエスを捕えようとする人々を手引きして来たのです。
 このユダは、最後の晩餐の時にはそこに共にいました。21節に「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている」と語られていたことからそれが分かります。この晩餐の後、ユダはいつのまにかいなくなり、そして今、主イエスを逮捕しようとする人々を引き連れてこの「いつもの場所」に再び現れたのです。つい先ほどまで主イエスと食卓を共にしていた弟子の一人であるユダのこの裏切りによって主イエスは逮捕されたのです。「裏切る」という言葉は、今の21節にもあったし、48節の主イエスのお言葉にも、「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とあります。それは文字通りには「引き渡す」という意味の言葉です。ユダは主イエスを、逮捕し殺そうとしている人々の手に引き渡したのです。22章の4節でユダが祭司長たちや神殿守衛長たちと相談したのも、「どのようにしてイエスを引き渡そうか」ということでした。その見返りとして彼は金を受け取り、そしてその計画をこの夜実行に移し、主イエスを彼らに引き渡したのです。それが「ユダの裏切り」の具体的内容です。「裏切る」という日本語は、例えば「信頼を裏切る」などとも使われるわけで、少しマイルドな感じがしますが、「引き渡す」というのはまことにリアルで具体的な行為です。主イエスは十二人の弟子の一人であるユダによって、殺そうとしている人々の手に引き渡されたのです。
 主イエスのもとにやって来たユダは「イエスに接吻をしようと近づいた」とあります。「接吻」というのは何とも古風な日本語ですが、要するにキスしようとしたのです。この「接吻する、キスする」という言葉は「愛する」という言葉です。「愛する」という言葉が、その愛の表現としてキスすることをも意味しているのです。つまり接吻は愛の印です。その愛は男女の愛のみの話ではなくて、弟子が師を敬愛するという愛でもあります。弟子たちはいつも、主イエスに対する尊敬と愛を込めてキスしていたのです。ユダはいつもしていたように主イエスにキスしようとしました。しかしこのたびのキスは、主イエスを裏切り、引き渡そうとする意図をカモフラージュするためのものでした。主イエスはそれを知っておられましたから、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とおっしゃったのです。

サタンの支配
 弟子の一人が、尊敬や愛の印であるキスによって主イエスを裏切り、引き渡した、それは大変ショッキングな、あるいはスキャンダラスなことです。日本語で言えば、あるまじきこと、恥ずべきことです。ユダはなぜこのようなことをしたのでしょうか。ユダが主イエスを裏切った動機についてはいろいろな説明がなされています。主イエスを窮地に落とせば、ローマの支配に対抗して立ち上がってくれると思ったのだとか、あるいはユダは主イエスご自身の命令によって裏切ったのだ、という説もあったりするわけですが、ルカによる福音書はその理由をはっきり語っています。22章の3節に「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とありました。つまり、ユダが裏切ったのは、サタンに支配されたためだった、とルカははっきり語っているのです。しかしそれは、ユダをサタンつまり悪魔の化身であるかのように嫌悪し非難するためではありません。今読んだ3節にもユダが「十二人の一人」だったことが語られています。本日の47節にもそれが語られています。また先ほどの21節に「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている」とあったことも、ユダが主イエスの十二人の弟子の一人であることを語っています。イスカリオテのユダも、主イエスが6章12節以下で選んで使徒と名付けられた十二人の弟子の一人だったのです。そのユダが、サタンの力に捕えられて、主イエスを引き渡す者となってしまった、それは、主イエスの弟子として歩んでいたはずのユダが、サタンの激しい攻撃にさらされ、その試練の中で、主イエスにではなくサタンに従ってしまうことへの誘惑に負けてしまったということです。ルカは31節で、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」という主イエスのお言葉を伝えています。ユダもまた、サタンによってふるいにかけられ、その試練の中で主イエスを引き渡す者となってしまったのです。
 そうであるならば、愛の印であるキスによって主イエスを裏切り、殺そうとする者たちの手に引き渡してしまったこのユダの姿は、ユダだけの特別なことではありません。先週の所とのつながりで言えば、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられながら眠り込んでしまった弟子たちは、同じようにサタンによる試練の中で祈りを失い、信仰を失い、誘惑に陥ってしまったのです。さらにこの後主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまうペトロも、同じようにサタンのふるいの中で主イエスを裏切ってしまったのです。そしてそれは私たち一人一人の姿でもあります。主イエスに従っていくという信仰の歩みの中で、私たちも、サタンのふるいにかけられるような試練にあいます。その中で、祈りを失い、信仰を失い、主イエスを知らないと言ってしまう、そういう誘惑のとりこになってしまうのです。ユダの裏切りを、私たちは決して他人事として眺めていることはできないのです。

剣を振り回す弟子たち
 49節と50節には、「イエスの周りにいた人々」が「主よ、剣で切りつけましょうか」と言って、実際に大祭司の手下に打ちかかり、右の耳を切り落としたとあります。「イエスの周りにいた人々」は弟子たちでしかあり得ません。彼らは、主イエスを捕えようとする人々に対して、そういう抵抗を示したのです。ここで振るわれた剣は、最後の晩餐の場面の最後の38節で弟子たちが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言ったその剣です。その箇所における説教においてもお話ししましたが、この剣はサタンの厳しい試練の中で、人間が自分の力で戦おうとする、その力を象徴していると言えるでしょう。その力は、剣と棒を持って武装して押し寄せて来る群衆の前では何の役にも立ちません。いくら剣を振り回しても、主イエスを逮捕しようとする者たちを蹴散らすことはできないし、結局彼ら弟子たちは皆逃げ去ってしまうしかないのです。そのように、サタンによる試練の前での人間の力の無力さをこの剣は示しているのですが、しかしそれでも、その剣が振り回される時、大祭司の手下の右の耳が切り落とされるという事態は起ります。剣はやはり人を傷つけるのです。人間の力が振りかざされ、振り下ろされることによって、人が人を傷つけることが起るのです。私たちはそのことをも、ここから見つめておくべきです。なぜそのように、人間の力が人間を傷つけることが起るのか。それは、弟子たちが、恐れ、恐怖によってこの剣を振り回したからです。彼らは、主イエスが捕えられようとしている、そして自分たちもどうなってしまうか分からないというこの状況の中で、恐かったのです。だから身を守ろうとして剣を抜き、振り回したのです。武装した群衆に対してこちらは十二人、しかも二振りの剣しかない、という冷静な状況判断はもはやできず、ただ恐ろしさからやみくもに切りかかったのです。サタンによる試練、苦しみの中で、私たちもこのように恐怖に支配され、身を守るためにやみくもに力を振るおうとします。人間の力がそのような恐れによって発揮される時に、それは人を傷つけるまさに凶器となるのです。これもまた、サタンのふるいの中で私たちが陥る姿であると言わなければならないでしょう。
 主イエスはそこで、「やめなさい。もうそれでよい」とおっしゃり、大祭司の手下の耳に触れていやされました。「もうそれでよい」は「そこまで」という言葉です。私たちが、試練、苦しみの中で恐れにとりつかれ、自分を守ろうとして力をやみくもに振るって人を傷つけてしまう、その罪を主イエスはおし止めて下さるのです。そして、私たちの罪によって傷つけられた人を癒して下さるのです。

恐れに支配されて
 それから主イエスは、押し寄せてきた群衆たちに、その中心にいる祭司長、神殿守衛長、長老たちに語っていかれます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった」。このみ言葉によって、主イエスを捕えにやって来た人々の中にも「恐れ」があることが明らかにされています。毎日神殿の境内で教えておられる主イエスを、そこで捕えることを彼らがしなかったのは、2節に語られていたように、彼らが民衆を恐れていたからです。19章の48節にも語られていたように、民衆は皆夢中になって主イエスの話に聞き入っていたのです。だから人々の面前で主イエスを逮捕することができなかった、それで、こんな夜に、主イエスと弟子たちだけがいる所に来たのです。そのためにユダの手引きが必要だったわけです。人々を恐れ、その目を気にしている彼らの姿がそこに示されています。また剣や棒で武装して来たというのも、彼らの恐れの現れです。主イエスと弟子たちが武力で何かをしようとしているのでないことは見れば明らかです。その主イエスを捕えるのに、武装した群衆を率いて来たのは、彼らが主イエスを恐れていたからです。彼らは主イエスの中に、自分たちが依り頼んで生きている人間の権威や力とは違う、得体の知れない力を感じて、それを恐れていたのでしょう。それは剣や棒で防げるような力ではありませんが、彼らは他に身を守る術を知らないのです。このように彼らもまた、恐れに支配され、自分の身を守ろうとしています。ですから、主イエスを捕えに来た人々も、剣を抜いて切りかかった弟子たちも、どちらも恐れ、恐怖に捉えられているのです。お互いがお互いを恐れ、身を守ることに必死になっている、そういう中で人間の力は、お互いを愛し、生かし、支えるものとならず、むしろ憎み合い、傷つけ合い、殺し合い、関係を破壊するものとなってしまうのです。

闇が力を振るっている
 このようにここには、愛の印であるはずの接吻によって主イエスを裏切り、引き渡したユダと、彼の手引きによって主イエスを捕えるために剣と棒を持ってやって来た人々と、彼らに抵抗して剣を抜いて切りつけた弟子たちとが登場していますが、その誰もが皆、サタンのふるいにかけられ、その試練、苦しみの中で、神様の御心に従うよりも自分の思いや願いに従って生きようとする誘惑に陥っており、その結果恐れに支配され、お互いを傷つける者となっている、そういう姿が描かれています。53節の終わりの主イエスのみ言葉は、そういう事態を見つめて語られていると言えるでしょう。「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。「今はあなたたちの時」の「あなたたち」は、ユダや主イエスを捕えに来た人々だけのことではありません。弟子たちも含めた人間全体がそこで見つめられているのです。今は人間の時、人間が支配している時、つまり人間が自分たちの力を振るい、神様の御心ではなくて自分の思いや願いを貫こうとして必死になっている、そういう時だ。そこで本当に力を振るい、支配しているのは、人間ではなくて闇なのだ、と主イエスは言っておられるのです。闇が力を振るっている、闇が支配している、それはサタンが力を振るい、支配している、と言い換えてもよいことです。サタンはまさに、ユダをも、弟子たちをも、そして主イエスを捕え殺そうとしている人々をも、捕え、支配し、苦しみによってふるいにかけ、全ての者たちを神様のもとから引き離し、自らの支配下に置こうとしているのです。そのためにサタンが用いているのが、恐れの思いです。人間は、恐れに支配され、その中で身を守ろうと必死になることによって、お互いを裏切り、引き渡し、傷つけ、そのようにして良い関係を破壊し、サタンの、闇の手の内に陥っていくのです。
 「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。それは主イエスが逮捕された時だけのことではありません。私たちが生きている「今この時」もまた同じではないでしょうか。ユダの姿にも、弟子たちの姿にも、そして群衆の姿にも、私たちは自分自身を見出します。人間が力を振るい、支配し、自分の思いや願いを貫こうと必死になって生きている、しかしその中で実は恐れの思いが深く人々を捕えている。それゆえに身を守ろうとして自分の力をやたらに振り回し、人を傷つけてしまう、そのようにして闇の力、サタンの力に支配されてしまっている、それが私たちの、そしてこの社会の現在の姿なのではないでしょうか。福島の原発事故の本質はまさにそこにあると思います。人間は原子力の上に力を振るい、それを支配し、コントロールして、そこからエネルギーを引き出そうとしてきました。それによって、豊かさを追求するという思いや願いを貫こうとしてきたのです。しかしそれを推進してきた人々の中には実は深い恐れがあり、それゆえに、批判から身を守ろうとして、情報を隠ぺいしたり、データを改竄したり、やらせメールのような小細工をしたり、あるいは金の力で反対を押え込むということが行われてきたのです。それらは全て恐れの現れです。その結果として、あの地震や津波を引き金に、原発はおびただしい人々を傷つけ、苦しめるものとなり、まさに今目に見えない放射能の闇がこの国を覆い、力を振るっているのです。

闇の中に輝く光
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第60章の2節には、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」とあります。主イエスがここで言っておられるのと同じことが語られているのです。しかしこの預言者はそれに続いて、「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と語っています。主なる神様による光が、その栄光が、闇が力を振るっているこの地に現れ、輝き出るのです。この預言が成就、実現したのがクリスマスの出来事です。主なる神様の独り子、イエス・キリストがお生まれになったことによって、闇が力を振るっているこの地に、主の光、栄光が輝き出た、私たちはそのことを喜び、感謝するクリスマスに向けて心を備えつつ、今週はアドベントの第二週を歩んでいくのです。しかし闇が力を振るっているこの世に、主イエスはどのようにして光をもたらして下さったのでしょうか。
 全ての者が恐れに支配され、闇の力、サタンの力の支配下に置かれてしまっている本日のこの場面において、主イエスは、剣を振り回す弟子たちをおし止め、彼らが傷を負わせた人を癒し、そして自ら、捕えようとする人々に身を委ねておられます。主イエスのお姿とその歩みだけは、闇に支配されていないのです。それは何故か。それは先週の箇所において、主イエスが、「この杯をわたしから取りのけてください」という願いを抱きつつ、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたことによってです。この祈りを祈り、自らを神様の御心に従わせていく信仰の戦い、祈りの戦いを、主イエスは戦い、戦い抜かれたのです。それはサタンとの戦い、闇の力との戦いでした。弟子たちはその戦いにおいて敗北し、眠り込み、祈りを失い、サタンの支配、闇の支配に陥ってしまいました。しかし主イエスは、主イエスのみは、その戦いを戦い抜き、勝利し、弟子たちの、そして私たちの全ての罪を背負って十字架の苦しみと死への道を歩み通して下さったのです。主イエスの十字架の死は、闇の力に対する主イエスの勝利であり、その勝利によって私たちに救いがもたらされたのです。その勝利と救いの完成として、父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。「御心のままに行ってください」という祈りの戦いにおける主イエスの勝利と、それによって実現した十字架の死による救いの恵み、そしてそこに与えられた復活において、闇の支配の下にいる私たちの上に、主の光が、その栄光が輝き出たのです。クリスマスは、主イエスの誕生のみならず、その十字架の死と復活によって輝いた救いの光を喜び、感謝する時です。十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、闇が力を振るい、暗黒に包まれているこの国に、その闇に打ち勝つまことの光を輝かせて下さるように祈り求めつつ、アドベント第二週を歩みたいと思います。

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