主日礼拝

なぜ泣いているのか

「なぜ泣いているのか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章11-18節
・ 讃美歌:326、317(1~4)、317(5~7)

イースターから始まる2010年度
 四月の最初の主の日、2010年度最初の主の日を、イースター、主イエス・キリストの復活を喜び祝う日として迎えたことを心から感謝したいと思います。先週の受難週、毎日の早朝祈祷会や三日にわたる受難週祈祷会に多くの方々が集まり、共にみ言葉を味わい、祈りつつ過ごしました。特に早朝祈祷会に、例年より多くの方々が集って下さったことを喜んでいます。その祈りの歩みの中で旧年度を終え、新しい年度を迎えることができたことは今年私たちに与えられた大きな恵みです。4月は学校においては進学、進級の月であり、職場においても年度替わりの所が多いために、私たちの生活において新しい出発の月です。その新しい歩みをイースターから始めることができるのはすばらしいことだと思います。

墓に行ったマリア
 本日は、ヨハネによる福音書に語られている主イエスの復活の出来事をご一緒に読みたいと思います。その第20章11節以下には、復活された主イエスと最初に出会った人のことが語られています。それはマリアという女性です。主イエスの母であるマリアとは別の、マグダラのマリアと呼ばれる人です。この人は他の福音書によれば、主イエスによって七つの悪霊を追い出してもらった人でした。悪霊の仕業と考えられていた重い病気を癒していただいた、ということでしょう。彼女は主イエスによって与えられたこの大きな救いの恵みに感謝して、ガリラヤからはるばる主イエスに従い、その一行に仕えながらエルサレムまで旅をして来たのです。そして彼女は、主イエスが捕えられ十字架につけられた時にも、最後までその傍らにいました。そして主イエスが墓に葬られるのを見届けたのです。安息日である土曜日を経て、週の初めの日、日曜日の朝早くまだ暗いうちに、彼女は再び主イエスの墓に行きました。そのことが20章1節に語られています。彼女は何をしに墓へ行ったのでしょうか。他の福音書においてはそれは主イエスの遺体に香料を塗るためだったとされています。主イエスは金曜日の夕方、つまり日没から安息日が始まる直前に息を引き取られたので、その時は急いでとりあえず埋葬がなされ、安息日が明けてから香料を塗って本格的に埋葬し直そうとしたのです。しかしヨハネ福音書では、主イエスの埋葬は金曜日の内に、アリマタヤのヨセフによって正式になされています。改めて香料を塗る必要はもうないのです。ですからこの20章には香料についてのことは語られていません。それならマリアは何故墓に行ったのか。それは、彼女の、主イエスに対する、理屈を超えた深い愛によると言う他ないでしょう。墓に行って何かすることがあるわけではないのです。しかし彼女は、主イエスが葬られた墓に行きたかった。主イエスのなきがらの傍にいたかったのです。

主イエスの遺体がない!
 しかし彼女が墓に行ってみると、墓の入り口を塞いでいた石が取りのけてあり、主イエスの遺体がなくなっていました。彼女はただちにそのことを弟子のペトロに知らせます。そこでペトロともう一人の弟子が墓へと走って行き、主イエスの遺体がなくなっていることを確認しました。その二人はそれで帰ってしまいましたが、マリアはその後も墓の外に立って泣いていたのです。せめて遺体の傍らにでも行って主イエスと共におりたいと思っていたのに、その遺体すらもなくなってしまったことに、彼女は深い衝撃を受け、その場を立ち去ることができずに泣いていたのです。彼女が泣きながら改めて墓の中を見ると、そこに白い衣を来た二人の天使の姿がありました。天使は「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言いました。彼女は「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えます。彼女は相手が天使だとは気づいていないようです。主イエスの遺体までもが失われた悲しみによって、天使の姿も目に入らなかったのです。しかしその時、彼女の後ろに、復活なさった主イエスが立っておられました。彼女は人の気配に振り返り、主イエスのお姿を見ました。けれどもそれが主イエスであることに気づきません。主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけて下さっても、マリアは主イエスを園丁だとしか思わないのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と詰め寄るマリアの言葉に、その悲しみと嘆きの深さが感じられます。この15節までのところから、マリアの、主イエスに対する深い愛と、主イエスのお傍におりたいという強い願いが感じ取れます。その思いが強いだけに、主イエスの遺体がなくなったことへの悲しみ、嘆きもまた深いのです。

復活された主イエスとの出会い
 しかしそれと同時に、ここには重大な事実が示されていると思います。それは、このように主イエスを深く愛し、慕い求め、お傍におりたいと思っているマリアが、復活された主イエスをそれと認めることができなかった、という事実です。復活した主イエスが目の前に立っておられるのを見たのに、彼女は気づかなかったのです。彼女が主イエスの復活に気づいたのは、16節で主イエスが「マリア」と、彼女の名前を呼んで下さったことによってでした。ここに、主イエスの復活を信じることがどのようにして起るのかについての大事な示しがあります。マリアは、主イエスを心から愛し、主のお傍におりたいと熱心に願い、朝早くまだ暗いうちから出かけて行きました。しかし彼女はそのような熱心さや主イエスを慕い求める気持ちの強さによって復活された主イエスを見出したのではなかったのです。主イエスの復活を信じる信仰は、そのように、私たちの熱心や求める思いの強さによって獲得することができるものではないのです。私たちが主イエスの復活を自分なりに理解し、納得し、信じようとしてあれこれ考え、求めていくところには必ず、「誰かが遺体を盗んで隠した」というような別の説明が浮かんできます。そしてそちらの説明の方が私たちには理解しやすいし、つまずきも少ないのです。主イエスのことをこの上もなく愛していたマリアですら、そういう人間の常識に捉えられて、目の前におられる主イエスをそれと認めることができなかったのです。主イエスの復活を自分で理解し、捉えようとしているうちは、私たちはこのマリアと同じように、目の前に復活された主イエスが立って語りかけて下さっていても、それに気づかないのです。復活された主イエスとの本当の出会いは、私たちが探し求めていくことによってではなくて、復活された主イエスご自身が、私たちの名前を呼んで下さることによって、つまり私たち一人一人の目の前に立って語りかけて下さり、主イエスの方から私たちに出会って下さることによって与えられるのです。

名前を呼んで下さる主
 この福音書の第10章には、主イエスが「良い羊飼い」であられることが語られています。その3節にはこのようにあります。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。羊飼いは、自分の群れの羊たち一匹一匹の名前を呼んで連れ出し、牧草や水のある所へと導いていくのです。それが「良い羊飼い」の姿です。「マリア」と名前を呼んで下さった主イエスのお姿は、この「良い羊飼い」としてのお姿です。マリアが復活された主イエスとの出会いによって主イエスの復活を信じたのは、良い羊飼いである主イエスに名前を呼ばれたからです。つまり、主イエスの復活を信じる信仰は、良い羊飼いである主イエスが私たちの名前を呼んで下さり、主イエスによって養われる羊の群れの一員とされることによってこそ与えられるのです。主イエスの牧場の羊の群れの一人となること、つまり教会に連なる者の一人となることなしに、復活はあったかなかったか、あり得るか否か、などとどんなに考え議論をしても、そこからは何も生まれて来ないのです。本日、この礼拝において、一人の兄弟が信仰を告白して洗礼を受け、主イエスの牧場の羊の群れの一人となろうとしておられます。キリストの体である教会に加えられようとしています。主イエスがこの兄弟の名前を呼んで下さり、出会って下さったのです。その深い恵みを心から感謝したいと思います。

わたしにすがりつくのはよしなさい
 さてマリアはこのようにして、主イエスからの語りかけによって復活された主と出会いました。それが彼女にとってどんなに大きな喜びだったかは、それまでの嘆きの深さから分かります。その喜びの中で彼女は、主イエスにすがりつこうとしたのです。そもそも彼女が墓にやって来たのは、できるならば主イエスの遺体にでもすがりつきたいという思いからでした。そこに、生きておられる主イエスが現れて下さったのです。すがりつこうとする彼女の気持ちはよく分かります。ところが主イエスはそれを押し止めて「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」とおっしゃったのです。これはどういうことなのでしょうか。復活した主イエスには人間は触ってはいけない、というのでしょうか。しかしこの20章の後半において主イエスは、復活を信じようとしないトマスに、「私の手の釘跡やわき腹の傷に触ってみなさい」と言っておられます。復活した主イエスのお体に人は触れてはならない、などということはないのです。この主イエスのお言葉のポイントは、「まだ父のもとへ上っていないのだから」というところにあります。主イエスはまだ父のもとに上っておられない。このことを語ることによって主イエスは、主イエスと人々との関係、交わりが今後どのようなものとなっていくのかを示そうとしておられます。主イエスは、父のもとへ上ろうとしておられるのです。それはいわゆる昇天、主イエスがこの地上を離れて天の父なる神様のみもとに行かれることです。それによって主イエスは、肉体を持った目に見えるお姿としてはこの地上におられなくなるのです。そうなればもう、マリアにしても私たちにしても、主イエスのお体にすがりつくことはできません。主イエスと私たちの関係、交わりは、復活から四十日目の昇天によって、もはや主イエスのお体にすがりつくという仕方では持つことができなくなるのです。「わたしにすがりつくのはよしなさい」というお言葉によって主イエスは、そのような主イエスとの新しい交わりへとマリアを、そして私たちを備えさせようとしておられるのです。マリアは、主イエスに名前を呼ばれ、復活された主イエスと出会った時、主イエスとの間にこれまでと同じ関係が回復されたと思いました。彼女が「ラボニ」と答えたことにその思いが現れていると言えます。「ラボニ」とは「先生」という意味であると16節にありますが、それはもっと正確に言うと、「先生」を意味する「ラビ」という言葉に、「私の」を意味する語尾が着いた形です。ですから正確に訳せば「私の先生」という意味です。マリアはそれまで主イエスを「私の先生」と呼び、自分が敬愛し、教えを乞う親しい先生として見つめて来ました。復活された主イエスにもそれと同じ関係を期待し、求めたのです。主イエスにすがりつこうとしたことはその気持ちの現れです。しかし、復活された主イエスと私たちの関係、交わりは、主イエスが地上を歩んでおられた時とは違うものとなります。主イエスは父のもとに、つまり天に上られ、この地上にはおられなくなるのですから、人間的な交わりはもはや成り立ち得ないのです。

聖霊による新しい交わり
 それでは、天に上られた主イエスと、地上を生きる私たちとの交わりは切れてしまい、もはやなくなってしまうのでしょうか。そうではありません。主イエスはこの福音書の16章7節でこう言われました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。主イエスが去って行くとは、父のみもとに上ることです。それは弟子たち、信仰者たちとの交わりの終わりではなくて、そのことによって「弁護者」が送られるのです。この「弁護者」とは、同じ章の13節に「真理の霊」と言い換えられているように、聖霊のことです。主イエスが天に上られることによって聖霊が遣わされ、その聖霊が私たちのための「弁護者」となり、主イエスとの交わりの絆となって下さるのです。主イエスが父のもとに上ることによって聖霊が与えられ、目で見、手で触れるという直接的な交わりではなくて、聖霊の絆による新しい交わりが与えられていく。主イエスはここでそのことへとマリアの、また私たちの目を向けさせようとしておられるのです。主イエスの復活を信じるとは、このように、主イエスとの、聖霊による新しい交わりを与えられることです。「わたしにすがりつくのはよしなさい」というお言葉は、その新しい交わりへの招きの言葉なのです。

神の家族として
 主イエスとの、聖霊による新しい交わりとはどのようなものなのでしょうか。そのことが、本日の箇所の17節後半に示されています。このようにあります。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。マリアは、主イエスのお体にすがりつくことを禁じられ、その代わりに一つの使命を与えられたのです。それは、弟子たちに、主イエスの復活の事実を告げ、さらに、主イエスが父なる神様のもとへ上ろうとしておられることを告げるという使命です。主イエスの復活だけでなく、昇天のことを告げるようにと命じられていることに注目しなければなりません。主イエスの復活と昇天とはこのように不可分に結びついており、この二つで主イエスと私たちとの聖霊による新しい交わりの出発点となっているのです。そしてその昇天のことが、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」という、いささか回りくどい仕方で語られています。この回りくどい言葉の中に、聖霊によって与えられる主イエスとの新しい交わりの恵みが表現されているのです。主イエスは父なる神様のことを「わたしの父であり、あなたがたの父である方」と呼んでおられます。神様の独り子であられる主イエスが、「私の父である神はあなたがたの父でもある」、と宣言して下さったのです。そして同時に主イエスは弟子たち、信仰者たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んで下さっています。このように主イエスを信じる信仰者たちは、主イエスの兄弟とされ、神様が父であられ、主イエスが兄である神様の家族の一員とされるのです。それが、聖霊によって与えられる主イエスとの新しい関係です。この神様の家族に、私たちは洗礼を受けることによって加えられるのです。

わたしの神
 また主イエスはここで、「わたしの神であり、あなたがたの神である方」とも言っておられます。神様の独り子であり、神様を「わたしの父」と呼ぶことができる独り子主イエスは、同時に、神様を「わたしの神」と呼びつつこの世を歩まれたのです。神様を「わたしの神」と呼ぶことは、本当に信じ、敬い、従っている人でなければできません。主イエスは、神様を本当に「わたしの神」と呼ぶことのできるただ一人の方でもあられるのです。生まれつき神様に背き逆らっている私たちは、神様のことを「父」と呼ぶことは勿論のこと、「わたしの神」と呼ぶことすら出来ない者です。そのような私たちに主イエスは、「わたしの父はあなたがたの父でもあり、わたしの神はあなたがたの神でもある」と言って下さったのです。このみ言葉に励まされて私たちは、自分の罪と不従順にもかかわらず、主イエスの父なる神様を「わたしの父」と呼んで生きることができます。また同時に、このみ言葉に励まされて、まことに弱く罪深い者ですが、主イエスがご自分の父を「わたしの神」と呼んで信じ、敬い、従って生きられたように、私たちも、神様を本当に信じ、敬い、従って生きようとの志を与えられていくのです。そこに、聖霊によって与えられる主イエスとの新しい交わりの恵みがあるのです。

主の復活の証人として
 マリアは、復活の主イエスと出会い、主イエスとの新しい交わりへと招き入れられ、その新しい交わりへと人々を招く主イエスのメッセージを伝える使命へと遣わされました。目に見える主イエスのお姿にすがりつくような関係を続けることはできませんでしたが、彼女はこの新しい交わりの中で与えられた使命を果していくことによって、涙を拭われ、喜びに生きる者とされたのです。復活した主イエスに名前を呼ばれ、主の復活を信じる者とされることによって、私たちもこのマリアと同じように、主の復活の証人として立てられ、遣わされます。復活の証人と言っても私たちは、主イエスのお姿をも、その十字架の死と復活の出来事をも、この目で見たわけではありません。主イエスをこの目で見、そのお姿にすがりつくような交わりを求めているなら、私たちはマリア以上に悲しみと嘆きの中で泣いているしかないでしょう。しかし、主イエスは既に復活して父なる神様のもとに上り、私たちに聖霊を遣わして下さっています。聖霊のお働きによって主イエスは私たちに出会い、私たちの名前を呼び、「なぜ泣いているのか」と語りかけ、私たちとの間に新しい交わりを打ち立てて下さるのです。それは具体的には、主イエス・キリストの体である教会の一員として下さるということです。教会において私たちは、神様に「天の父よ」と呼びかける祈りを祈りつつ、兄弟姉妹と共に、主イエスを兄とする神様の家族として歩みます。また主イエスが父なる神様「わたしの神」と呼んで心から信じ、敬い、従って生きられたように、私たちも父なる神様を「私たちの神」として信じ、敬い、従って生きていくのです。主イエス・キリストとこのように結びつけられて歩むことによって、私たちも、主の復活の証人として立てられ、この世へと派遣されていくのです。

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