主日礼拝

霊の火を消さないために

「霊の火を消さないために 」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第84編1-13節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一第5章16-22節 
・ 讃美歌: 11、140、440

教会全体修養会
本日は、今年度第二回の教会全体修養会が行われます。この礼拝がその開会礼拝をも兼ねているのです。今回の修養会の主題は、 第一回と同じく、本年度の教会の年間主題である「主のみ心を 求めつつ伝道する教会」であり、そこに今回は副題として「祈 り」が掲げられています。この副題がついたのは、6月に行われた婦人会の一日修養会で「祈り」についてのお話をしたところ、 それが結構好評で、というのは私の講演はいつも難しいのにこ れは分かりやすかった、ということでしょうが、これを教会全体で 共有したい、ということのようです。主題の決め方としてはいさ さか安易な気もしますが、しかし主のみ心を求めつつ伝道していくことと、祈ることは不可分に結びついていることは確かです。そのことをベースにして、午後の修養会において自由に語り 合う時を持とうというのです。午後の修養会には参加すること が出来ない方々も、この礼拝を共に守ることによってその恵みの一端を分かち合うことができることを願ってこの説教を語りたいと思います。

憧れの聖句
修養会の主題講演をも兼ねる本日の説教の聖書箇所として、 テサロニケの信徒への手紙一の第5章16節以下を選びまし た。16-18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい」とあります。このみ言葉を好きな 聖句として覚えておられる方も多いでしょう。いつも喜んでい ること、絶えず祈ること、どんなことにも感謝して歩むこと、そ れは聖書に語られている信仰によって与えられる恵みの代表的 なものであり、このように生きることこそ、キリスト信者、クリス チャンの、最もそれらしい生き方です。私たちは、自分がいつも 喜んでおり、絶えず祈っており、どんなことにも感謝している、 とはなかなか言えないけれども、でもクリスチャンとしてこのよう に生きたいといつも願っている、このような歩みに憧れている、 と言えるでしょう。そういう憧れを込めて、このみ言葉を愛唱 していることが多いのだと思います。

祈りは神とのコミュニケーション
本日の修養会の主題との関係で言えば、17節の「絶えず祈 りなさい」が大事です。信仰をもって生きるとは、絶えず祈り つつ生きることです。祈らなくなってしまうことは、信仰がなくな ってしまうことであり、祈っていないとしたら、それはそもそも信 仰がないということです。何故なら、祈りとは神様と対話するこ と、コミュニケーションを取ることであって、信仰とはまさに神様 とのコミュニケーションに生きること、神様と共に生きることだ からです。つまり信仰には相手があるのであって、自分の心や頭 の中だけで完結する思想とは違うのです。このことを、婦人会の 修養会において第一にお話ししました。そこにおいて、コミュニ ケーションに関するある本からの一つの言葉を紹介しました。 それは「良いコミュニケーションとは、コミュニケーションがある こと。悪いコミュニケーションとは、コミュニケーションがまった くないこと。あるいは、コミュニケーションのようなものが交わさ れていること」という言葉です。この言葉は人間どうしのコミ ュニケーションについて大変深い洞察を語っています。そしてこ の言葉はそのまま、私たちの祈りに、信仰に当てはめることが出 来ます。つまり「良い祈りとは、祈っていること。悪い祈りと は、全く祈っていないこと。あるいは、祈りのようなものがなされ ていること」と言うことができるのです。ここに第一に示されて いるのは、コミュニケーションも祈りも、「ある」か「ない」か どちらかだということです。取っ組み合いの喧嘩をしていても、 そこにはコミュニケーションが「ある」のであって、そこからは何 かが生まれてくる可能性があります。しかし喧嘩もせずに「無視」 してしまうとしたら、そこには何も生まれて来ないのです。よく 「愛の反対は無関心」と言われるのもそれと同じことでしょう。 コミュニケーションは、どのようなものであってもそれがなされて いることこそが大事なのです。祈りもそれと同じです。どんなにつ たない、未熟な、不十分な、あるいは不適切なと思われる祈りで あっても、祈っていることが大事なのです。そこには、神とのつな がり、関係があります。祈っている人は神と共に生きているので あって、それが何よりも大事なのです。しかし祈っていなかった ら、そもそも神との関係がない、交わりがないのであって、そこ には何も生じないのです。

コミュニケーションの「ようなもの」
この言葉が語っているもう一つのことは、「コミュニケーシ ョンのようなもの」と、本当のコミュニケーションとは違うという ことです。「コミュニケーションのようなもの」とは、本当はコミュニ ケーションではないのにコミュニケーションと錯覚されてしてしま うもの、それによって本当のコミュニケーションの成立を妨げて しまうもの、ということでしょう。それと同じように、「祈りのよ うなもの」、つまり本当は祈りではないのに祈りと錯覚され、本 当の祈りが成立することを妨げてしまうものがなされていること があるのです。
コミュニケーションのようなもの、とはどんなものでしょう。例え ばこういうことが言えると思います。このごろは、男女が結婚す ることなしに肉体的関係を持つことが普通の、当たり前のこと になっています。肉体関係は結婚してから、などと言うと、もの すごく頭の固い、旧い考え方として一蹴されてしまうのです。 しかしこのような社会の風潮には大きな落とし穴があると思い ます。それは、肉体関係を持つことによって、そこにコミュニケーシ ョンが成り立っていると錯覚してしまう、愛し合っているのだ と思い込んでしまうということです。それが、本当のコミュニケーシ ョンを、本当の愛の関係を築くことをかえって阻害してしまい、 ある時、つながっていたのは体だけで心は全くつながっていなか ったことが明らかになって破綻する、ということが起こるのです。 結婚して、あらゆる面で共に生き、共に責任を負うという関係 が成り立っている中でこそ、肉体的な関係はその愛の関係を 深めるものとなります。しかしそのような関係が成り立ってい ない中での肉体関係は、「コミュニケーションのように見えて、そ うでないもの、かえってそれを阻害するもの」なのです。最近流行 のソーシャル・ネットワーク・サービスにもそういう面があると思 います。生身の人間どうしの顔と顔とを合わせての現実のコミ ュニケーションが成り立っている者どうしなら、それは便利な コミュニケーション・ツールともなりますが、ただインターネット 上で、ヴァーチャルな中でのみやりとりをしているのでは、それは 「コミュニケーションのようなもの」であって、人とつながってい るという錯覚を与えるのみで、本当のコミュニケーションを妨げ るものとなるのです。

祈りの「ようなもの」
このことは祈りにおいても当てはまります。祈りとは神様との対話 であり、神様とコミュニケーションを取り、共に生きることです。祈 っていても、神との対話が、コミュニケーションが、共に生きること が成り立っていないとしたら、それは祈りではなくて「祈りのような もの」なのです。それで祈ったつもりになっているとしたら、それは かえって本当の祈りを妨げるものです。私たちの祈りはしばしば、こ の「祈りのようなもの」に留まってしまっているのではないでしょう か。具体的には、何となく敬虔な気分にひたる、ということで、祈 っている気になってしまう、ということがあります。それらしい荘厳 な雰囲気のある場所で、日常の喧噪を離れ、心を静めて無我の境地に なる、あるいはそこでいろいろなことを思い巡らす、そういうことで 祈っているのだと思ってしまうとしたら、それは錯覚です。そこで は、相手である神様との関係が、対話が、交わりが成り立っていない からです。祈る相手である神様を明確に意識して、その神様に向か って語りかける、ということなしには祈りは成り立ちません。語りか けることなしに自分の心の中であれこれ思い巡らしたり、あるいは無 我の境地になることは「祈りのようなもの」であって祈りではないの です。そこからさらに言えることは、ただこちらから一方的に語りか けるだけで、相手の言葉を聞こうとする姿勢がないとしたら、それも また対話になっておらず、祈りではないということです。祈りが成り 立つためには、私たちから神様に語りかけるだけでなく、神様からの 語りかけを聞くということが不可欠です。そこに初めてコミュニケ ーションが成り立つわけです。ですから、たとえ祈っている相手であ る神様を明確に意識しているとしても、自分の願いごとだけをただま くし立てているだけで、神様のみ言葉を聞こうという姿勢がなけれ ば、つまり神様のみ心を求める思いがないなら、それもまた「祈りの ようなもの」であって祈りではないのです。これらのことは、祈りと は神とのコミュニケーションである、ということを前提とすればすぐ に分かることです。人間どうしのコミュニケーションと重ね合わせて みればよいのです。人との関係において、相手に語りかけることをせ ずにただ自分の思いにひたっているだけだったら、そこにコミュニケ ーションは成り立ちません。また、語りかけてはいても、自分の思い や願いを一方的に語るだけで、相手の言葉を全く聞こうとしないので は、やはりコミュニケーションは成り立たないし、むしろ相手に嫌わ れてしまいます。神様との関係においても全く同じなのです。

神の最大の賜物
ここに、聖書が語っている神の基本的な特徴があります。聖 書の神は、人間とコミュニケーションを取ろうとする神です。人 間と対話し、交わりを持ち、関係を築こうとしておられる神で す。そんなの神様らしくないのではないか、人間と対話し、交わ りを持とうとするなんて、なんだか神が人間を頼りにしている みたいで威厳に欠ける、と思う人がいるとしたら、それは全く 逆です。このことは、神が人間をそれだけご自分に近い者とし て、神に似た者として造って下さったということなのです。神は 私たち人間を、神と対話できる者として、交わりを持ち、関係 を築くことができる者として造って下さいました。つまり、祈る ことができる者として造って下さったのです。そこに神の大い なる愛があります。祈ることができること、祈って神とのコミュニ ケーションに生きることができることこそ、他の動物たちには与 えられていない、私たち人間にのみ与えられている最大の賜物 なのです。祈って神との交わりに生きることによって私たちは、 神が私たちに与えて下さった最大の賜物を発揮して、最も人 間らしく生きることができるのです。人間の尊厳とは、祈って神 との交わりに生きることができる、ということにあるのです。

預言を軽んじるな
祈って神とのコミュニケーションに生きる、それが私たちの 信仰です。そしてそのためには先ず、神のみ言葉に耳を傾ける 必要があります。本日の箇所の20節に、「預言を軽んじてはいけ ません」とあるのはそのことを語っているのです。「預言」というの は、これから起こることを言い当てる言葉ではありません。預言 の預は預金の預です。預かる、という意味です。聖書における 預言者とは、神様のみ言葉を預かり、それを人々に伝えた人で す。彼らに預けられた神の言葉が預言です。ですから預言は神 の言葉と言い換えることができます。神の言葉を軽んじてはい けません、と言われているのです。神の言葉を軽んじない、それ は、耳を傾けてよく聞くということです。無視したり、聞き流し てしまうのでなく、しっかり聞いてそれに応答することです。神の 言葉を聞くことが私たちの信仰の土台であり、その神の言葉 への応答として祈りが生まれるのです。神の言葉は聖書におい て私たちに与えられています。礼拝において、その聖書が読ま れ、その説き明かしとして説教が語られます。そこにおいて私 たちは神の言葉を聞くのです。礼拝において語られる神の言 葉を軽んじることなく、それをしっかりと聞いていくことこそ、神 の言葉を軽んじないということです。そしてこのことによって、日 々自分で聖書を読むことへの導きが与えられます。礼拝を中心 として日々聖書に親しみつつ歩む、それが「預言を軽んじない」 で生きることであり、それが「絶えず祈る」ことにつながってい るのです。

すべてのものを吟味せよ
そして続く21、22節の「すべてのものを吟味して、良いものを 大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」という教え も、この、神の言葉をしっかりと聞いていくこととつながっていると 言えるでしょう。私たちが出会い、見聞きし、体験する全てのものを 吟味し、良いものを大事にし、悪いものからは遠ざかる、その吟味の 規準となるのは、神の言葉である聖書です。私たちは、日本基督教団 信仰告白において、旧新約聖書こそ、「信仰と生活との誤りなき規範 なり」と告白しています。私たちの信仰と、それに基づく生活は、聖 書を規範として、聖書に語られている神の言葉、預言に従って生きる 信仰であり生活なのです。そしてこのことは、聖書の言葉を倫理道徳 の規範として、つまり掟のように捕えてそれを実行していく、という こととは違います。例えば本日の箇所で言えば、「いつも喜んでいな さい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というみ言 葉を、私たちの守り行うべき掟として、いつも喜んでいなければなら ない、絶えず祈らなければならない、どんなことにも感謝しなければ ならない、という義務を果たすことが信仰者として生きることだ、と いうことではないのです。そのように捉えてしまうなら、いつも喜ん でいることができずに悲しみに陥ってしまったり、「絶えず」祈って いることができなかったり、苦しみや悲しみや不幸に見舞われてもそ のことを感謝することが出来ない者は聖書の掟に従っていない、信仰 者として落第だ、ということになりますが、聖書が信仰と生活との誤 りなき規範であるというのはそういうことではありません。聖書を規 範とし、聖書に語られている神の言葉に従って生きるとは、聖書が語 っている神の根本的なみ心をしっかりと受け止めて、それに応答して 生きることです。その根本的なみ心とは、独り子主イエス・キリスト を人間として遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全て の罪を赦して下さり、その復活によって新しい命、永遠の命への道を 開き、私たちを神の子として、神の愛の下に歩み、神との良い交わ り、コミュニケーションを持って生きる者として下さる、その恵みの み心です。聖書を正しく読むとは、この恵みのみ心を読み取ることで あり、その救いの恵みが自分に与えられていることを信じることで す。その恵みのみ心が、礼拝における聖書の説き明かしによっていつ も語られています。その礼拝に支えられて私たちは日々聖書に親し み、この恵みのみ心を自分でも日々確認していくのです。それによ って私たちは、いつも喜んでいることができるようになります。人生 には様々な苦しみや悲しみがあり、罪があり、いつも喜んでなどいら れない目に見える現実がありますが、しかし主イエス・キリストの十 字架の苦しみと死とによって神が与えて下さった赦しの恵みのゆえ に、私たちは人生の根本における喜びを失わずに歩むことができるの です。また私たちの現実において起こる全てのことを感謝することな どとても出来ませんが、神が主イエスの十字架と復活によって成し遂 げて下さった救いのゆえに、私たちは父なる神様こそがこの世界を支 配していて下さり、そのご支配が世の終わりには必ず完成することを 信じて、感謝を失わずに生きることができるのです。そしてこの喜び と感謝は、私たちが主イエス・キリストのみ名によって絶えず祈り、 主イエスの父である神とのコミュニケーションを持ち、共に生きてい くことの中でこそ与えられるものです。ですから「いつも喜んでいな さい」も「絶えず祈りなさい」も「どんなことにも感謝しなさい」 も、それが出来なければ信仰者として落第、という掟ではなくて、神 が主イエス・キリストによって与えて下さっている恵みへの招きなの です。

良いものと悪いものを見分ける
そして私たちは自分が体験し出会う全てのことを、主イエ ス・キリストによって与えられたこの恵みによって吟味していく のです。良いものとは、私たちが主イエス・キリストにおける神の 恵みのみ心に従って生きるために役立つもの、それを支え助 けてくれるもの、また私たちが祈って神とのコミュニケーション に生きることを励ますものです。悪いものとは、この恵みのみ心 を見えなくし、そこから私たちを引き離し、喜びや祈りや感謝 を失わせていくものです。この「良いもの」と「悪いもの」とを 見分け、良いものを大事にし、悪いものからは遠ざかって生きる ために、「預言を軽んじない」ことが、つまりみ言葉をしっかり聞 いていくことが必要なのです。

霊の火を消さないために
さて本日の説教の題を「霊の火を消さないために」としまし た。それは19節のみ言葉からです。「〝霊〟の火を消してはい けません」とあります。ここの原文には「火」という言葉はあり ません。直訳すれば「霊を消してはならない」です。以前の口語 訳聖書はここを「御霊を消してはいけない」と訳していました。 「御霊」とは神の霊、聖霊のことです。新共同訳も、括弧つきの 霊と訳すことで、これが私たちの霊とか魂のことではなくて、神 の霊、聖霊のことであることを示しています。神の霊を消してし まってはならない、と語られているのです。私たちは、神の霊を 消してしまうことがあるのです。それは、私たちの内におられる神 の霊の働きをかき消してしまう、私たちの内で神の霊が働け ないようにしてしまう、ということでしょう。そうならないように気 をつけなさいと言われているのです。このことが、「いつも喜んで いなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と いう教えに続いて語られていることが大事です。つまり、いつも 喜んでいることによって、絶えず祈ることによって、どんなことに も感謝することによってこそ、神の霊は私たちの内に働くのだ し、神の霊が私たちの内に働いて下さることによってこそ、い つも喜んでいることが、絶えず祈ることが、どんなことにも感謝 することが私たちの内に実現するのです。そのために、やはり最 も根本的なのは、「絶えず祈る」ことです。絶えず祈り、神と 対話し、コミュニケーションを取って生きるところにこそ、神の 霊、聖霊は私たちの内に豊かに働いて下さるのです。祈ること と聖霊の働きを受けることは切り離せません。私たちは祈る ことにおいてこそ、聖霊のお働きに身を委ねることができるので す。逆に言えば、祈っていないということは、聖霊の働きを受け ようとしていない、聖霊に身を委ねようとしていない、ということ です。ということはつまり、自分の力や知恵や才覚によって生き ている、自分でどうにかしようとして、どうにかなると考えて右往 左往しているということです。それはさらに言えば、自分の日々の 生活から、神様を、今私たちの内に宿り、働いて下さる神であ る聖霊を締め出して、自分一人で、あるいは人間の仲間のみと 共に生きようとしている、ということです。そういう私たちの思 いこそが、祈りを妨げているのです。「絶えず祈りなさい」とい うのは、あなたがたの日々の生活には聖霊なる神様が共におら れ、働いて下さっているのだから、その聖霊なる神様としっかり 交わりを持って歩みなさい、ということなのです。

祈ることによって
聖霊なる神様と交わりを持って、コミュニケーションを取 って歩むために、私たちはみ言葉を、預言を軽んじることなく、 それをしっかりと聞いていきます。そうすると、主イエス・キリス トによって与えられている神様の救いのみ心が、独り子の命 を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている神様の愛 がよりはっきりと分かってきます。それによって、いつも喜んでい ることができるようになり、どんなことにも感謝できるようになり ます。そしてこの恵みのみ心によって全てのことを吟味し、良い ものと悪いものとを見分け、良いものを大事にし、悪いものから 遠ざかることができるようになります。この喜びと感謝の内に、 良いものをさらに多くの人々と共有していくことができるように なります。それが私たちのなす伝道です。そしてこれらすべての ことの土台となるのが、祈ることによって神様との交わり、コミ ュニケーションに生きることなのです。聖霊なる神様は今私たち の内で働いて下さり、私たちを新たに、喜びと感謝に生きる者 としようとしておられます。祈ることによってその聖霊のお働き を豊かに受けていきたいのです。

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