「隣人となられる主」 副牧師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: レビ記 第19章17-18節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第10章25-37節
・ 讃美歌 : 56、513
隣人愛
主イエス・キリストは私たちに愛をお語りになります。キリスト教と言えば、「隣人愛」という言葉を思い浮かべる人も多いと思います。実際、インドのスラム街で神の愛の宣教者会を立ち上げ、死に行く人々と共に歩んだマザーテレサや黒人奴隷の解放のために生きたマルティン・ルーサー・キング牧師、ナチスの収容所で、婦人の身代わりとなったコルベ神父等、キリスト者として隣人愛に生きた人々は、教会の中だけに留まらず、非常に良く知られています。このような人々は、確かに聖書が示す主イエス・キリストが教えている隣人愛に生きたのです。では、一体、聖書が語る隣人愛とはどのようなものなのでしょうか。本日朗読された箇所はまさに、主イエスが愛についてお語りになっている場面です。ここには、主イエスと律法の専門家の議論の中で、主イエスがいわゆる、「善いサマリア人のたとえ」をお語りになったことが記されています。このたとえから、聖書が教える愛に生きるとは、どのようなことなのかを共に聞いて行きたいと思います。
善いサマリア人のたとえ
「善いサマリア人のたとえ」は、とても良く知られているたとえ話です。ある人がエルサレムからエリコに向かっていく途中に追いはぎに襲われて道で倒れています。この人について聖書は何も記していませんが、ユダヤ人であったと言うことは出来るでしょう。そこに、先ず祭司が通りかかります。祭司と言うのはユダヤ人社会における宗教的な指導者です。エルサレム神殿で祭儀を司る、非常に地位の高い人でした。しかし、倒れている人を見ると、道の向こう側を通って行ったと言うのです。続いて、祭司を多く生み出す家計であるレビ人が通り掛かるのですが、同じように、道の向こう側を通って行くのです。三番目に、当時、ユダヤ人と敵対しユダヤ人から見下されていたサマリア人が通り掛かります。このサマリア人は、道端で倒れているユダヤ人に目を留めて、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、その代価をはらったというのです。更には、一度はその場を離れるものの、「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで約束したというのです。
このたとえを聞いて、私たちは、どのような感想を持つのでしょうか。このサマリア人のように生きることが出来たらどんなに素晴らしいだろうかと思うかもしれません。現代社会は、人々の関心が自分のことに集中し、他人のことにあまり関心をもたない社会になっていると言われます。他人の問題に遭遇しても、「我関せず」という態度を取ることが多いのです。下手に手助けをして、余計なお世話と思われるのも嫌だし、何より、悪いことに巻き込まれてしまったらたまらないと思います。少しでも面倒くさいことには関わりたくないというのが、私たちの思いなのかもしれません。そのような現実の中で歩んでいる私たちは、多かれ少なかれ、このたとえ話を耳が痛いと感じるのではないでしょうか。
しかし、もう一方で、不幸の中にある人を見て見ぬふりをして、助けない祭司やレビ人を、何と非常識でひどい人たちなのかと思うかもしれません。確かに、自分は、周囲の人々に自分を捧げ尽くして生きることは出来ない。でも、ここに出てくる、祭司やレビ人のようなことはない。おそらく、半殺しになっている人が道端に倒れていたら、自分に出来る最大限のことをしただろう。それくらいの判断力は備えていると思うのではないでしょうか。そして、祭司やレビ人のような人であれば、尚更、苦しんでいる人を助けるべきだとの思いをも抱きます。
道徳ではない
このたとえは、サマリア人をある理想として描かれているようにも見えます。確かに、サマリア人は、私たちに愛を示すために描かれています。しかし、ここで私たちは、このたとえを、単純に、祭司、レビ人のようにではなく、サマリア人のように人に親切にしなければならないという教えとして聞いてはいけません。そのように聞く時、聖書は道徳の教科書と変わらないということになります。このたとえは、倫理的に良い行いと悪い行いを比べて、あなたは良い方を行いなさいと命じているのではないのです。先ほど、このたとえを聞いた時の感想として、「サマリア人のように生きたい」という思いと、「祭司やレビ人はひどい」という思いの二つの思いがあると語りました。一方で、サマリア人の姿の中に、自らの在るべき理想の姿を見つめて、なかなかそのように生きることが出来ないことを残念に思う。もう一方で、祭司やレビ人の姿の中に、自分が陥ってはならない姿を見つめ、自分は、この人々のようにはならないと思う。これら二つの思いは、どちらも、このたとえを、道徳を教える教訓として、聞くときに起こります。しかし、このたとえは道徳や、努力目標を語るものではないのです。私たちは、確かに、サマリア人のように生きたいと思います。しかし、ここに記されているサマリア人の姿は、誰もが、自らの心がけによって真似出来るようなものではありません。私たちは、皆、それぞれに、自分の人生を必死に歩んでいます。そのような中で、サマリア人のように振る舞うのは簡単なことではないのです。もし、倒れている怪我人を自分のろばに乗せるとするなら、その時、ろばに乗せていたものは、自分で背負わなくてはなりません。目的地に到着するまでには何倍も時間がかかってしまうでしょう。通り掛かった人が、急がなくてはならない仕事をしていたのであれば、例えば、その人が商人で、エルサレムとエリコ間で何かを運んでいるのであれば、遅れてしまうことは、商売に大きなダメージになります。宿屋に連れて行って介抱し、宿泊費や、治療費を出したとありますが、それらは、決して安いものではなかったはずです。こんなことは、よほど時間と暇がある人でなければすることは出来ません。このたとえでは、祭司やレビ人が登場します。祭司やレビ人だって、それぞれに事情がありました。特に祭司であれば、神殿での祭儀を司らなくてはなりません。エリコからエルサレムを結ぶ道であったと言うのですから、エルサレム神殿で行われる祭儀に間に合うために道を急いでいたのかもしれません。更に、当時の社会の律法においては、祭司は、祭儀を行うに際に、血に触れることが赦されていませんでした。怪我をして倒れている人を下手に看病は出来ないのです。そのように考えると、この祭司について、常識はずれの悪人であると非難することも出来なくなります。
聖書が記す転換
このように考えて行くと、このサマリア人の姿は、私たちの現実とはかけ離れていると言って良いでしょう。私たちは、なかなか、このサマリア人のように生きることが出来ないと言う他はないのではないでしょうか。私たちは、サマリア人としてではなく、祭司やレビ人のように歩んでいるのです。このたとえ話は、私たちの行いの内の善いものと悪いものを比較して、善い業に励めと言うことを教えているのではありません。そうではなく、私たちの現実の姿を見つめつつ、それとは全く異なる姿を示しているのです。 祭司や、レビ人として生きる者の中に、それとは全く異なるサマリア人の歩みを示しているのです。サマリア人の姿は、私たちの現実に大きな問いを投げかけ、ある新しい歩みを示そうとしているのです。
律法の専門家との議論の中で
このたとえが語りかけて来る歩みについて、より詳しく知るために、このたとえ話がどのような中で語られたのかに目を向けてみたいと思います。ある律法の専門家が主イエスをためすために、「永遠の命を得るためには何をすればよいでしょうか」と聞くのです。心から、問いを発したのではありません。試そうとしていたのです。試すとはテストすると言うことです。本当に、この人は、救い主として信じるに足るような人なのか、自分の目で確かめ、判断しようと言う態度です。律法の専門家というのは、旧約聖書の律法に救いがあることを信じ、学んでいた人です。更に、律法の教師として民を指導していました。ですから自分は救いにいたる道を知っているという自負があったのです。主イエスは、逆に、「律法にはどのように書いてあるか、あなたはそれをどのように読んでいるか」と問い返します。それを受けて、律法の専門家は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と正しく答えるのです。しかし、この人は、正しく答えることは出来ても、その教えを本当には生きていませんでした。聖書の愛を知識として知っているだけで、事実生きるということをしていないのです。主イエスはその偽善を見抜き、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃいます。それに対して、この専門家は、今度は自分を正当化しようとして、もう一つの問いを発するのです「では、私の隣人とは誰ですか」と。私が愛する隣人とは誰なのかと問うのです。このような問いに対して、主イエスは善いサマリア人のたとえをお語りになったのです。そして、祭司、レビ人、サマリア人の姿を示し、たとえ話を結びつつ、36節で、この専門家に次のように問いかけます。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法学者は、「その人を助けた人です」と答えます。それに対して、主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃるのです。
私の隣人とは誰か
この律法の専門家の問いと、それに対して主イエスがなさった問いの中に、隣人を愛すると言うことがどのようなことなのかが明確に示されています。律法の専門家は、主イエスに向かって「わたしの隣人とは誰ですか」と問いかけました。この問いの背後にあるのは、自分が隣人とするに相応しい人と相応しくない人の区別です。自分が関わるべき人とそうでない人、自分が愛すべき人とそうでない人、隣人とすべき人とすべきでいない人がいることを前提としているのです。そして、自分の隣人とすべき人は誰なのかと問うのです。この問いは私たち人間がしばしば問う問いです。そして、祭司やレビ人が道端に倒れている人を見かけた時に考えたことでもあります。祭司やレビ人は、この道端に倒れている人は自分が助けるべき人ではないと判断したのです。私たちは日々、自分で意識するかしないかに関わらずこの問いに支配されているのではないでしょうか。何も半殺しになっている人を助けるかどうかという場面だけで問題になるのではありません。自分の友人関係、人間関係を少しでも豊かにしようとする時、一緒にいて心地よい気の合う友人を探そうとする時、自分と近い考えを持つ人とグループを作ろうとする時、私たちはこの問いを発しているのです。しかし、主イエスは、祭司、レビ人、サマリア人の姿を示しつつ、「誰が隣人となったと思うか」と問いかけたのです。主イエスは、隣人を愛するというのは「自分にとっての隣人とは誰か」と自ら区別するのではなく、「自分が隣人となる」ものであるとおっしゃるのです。隣人とは、「誰か」と問うものではなく、自ら「なる」ものなのです。ここには、「隣人」ということについての主イエスと私たちの間の捉え方の違いがあります。主イエスは、ここで、私たち人間の隣人についての在り方を転換させようとしておられるのです。そして、この「隣人になる」ということこそが、聖書が語る、隣人愛につながるのです。たとえに示されているサマリア人とは、まさに、道で倒れている人の隣人となったのです。倒れている人を助けるに際して、果たして、この人は自分の隣人であるのかどうかと言うことは問いませんでした。もし、そのような問いに支配されていたら、サマリア人である自分を軽蔑しているユダヤ人のことを隣人だ等とは思わなかったでしょう。 そして、マザーテレサを始めとする、キリスト教の愛に生きた人々も又、人々の「隣人となる」という愛に生きたのです。マザーテレサがインドのスラム街に入って活動を始めた時、迫害に合うことがあったようです。インドの人々は、イスラム教徒です。イスラム教徒とキリスト教徒はしばしば対立をします。そのような中で、キリスト教の活動をするマザーテレサを排斥しようという人々も出てくるのです。しかし、マザーテレサにとって、宗教の違いは、インドのスラム街で苦しむ人々を助けることを止める理由にはなりませんでした。自分はキリスト教徒だから異教であるイスラム教徒は隣人ではないとは考えなかったのです。人間的には、決して私の隣人だとは言えないように見える状況にあっても、事実助けることを止めなかったのです。それは、愛するとは、誰が隣人なのかと問い、自分の気の合う隣人を捜すことによってではなく、自ら隣人となることによって生きられるからです。
主イエスの十字架
聖書は、自分の隣人は誰なのか問う、そのような意味で聖書が語る愛から遠く離れている私たちに、常に、愛とは何かを語りかけて来るのです。私たちが努力して達成するような道徳を教え込もうと言うのではありません。私たちの生き方とは全く異なるものを示しているのです。そして、この愛を事実生きて下さったのが、このたとえを話しておられる主イエスに他なりません。主イエス・キリストの歩みは、まさに「隣人となる」歩みでした。隣人となることをせず、「私の隣人とは誰か」と問い続ける愛に生きることが出来ない者、そのような意味で罪を抱えている者を救うために、主イエスは、事実、私たちと同じ人として世に来て下さったのです。その上で、十字架で私たちの罪を背負って死んでくださいました。聖書は、主イエスのことを人となった神の子であると語ります。神の独り子が人々を救うために、神でありながら人となられた。ここに「隣人となる」とはどういうことかが示されています。神から見た時、私たち人間はとうてい隣人とは言えないような歩みをしています。いつも神様ではなく自分を中心にして生き、神様から離れていってしまうような者です。しかし、主イエスは、神に反抗して、自分勝手に生きている人間の罪を贖い、罪と死のうちにあるものを救い出すために、人間と同じ肉を取り、自らその罪と死の中に分け入って下さったのです。先ず私たちの隣人となって下さったのはイエス・キリストなのです。「神が人となる」と言う所に、隣人になる愛の最も大きなものがあるのです。このサマリア人の姿は、道徳的に立派な、偉大な人間の姿を現しているのではありません。このサマリア人の姿が真っ先に示しているのは、何よりも、主イエス・キリストのお姿なのです。私たちは、このたとえ話を聞く時、自分は、果たして祭司やレビ人のような歩みをしているのか、それともサマリア人のように歩めているのかということを考えながら読むかもしれません。しかし、私たちは、このたとえにおいて、自分を祭司、レビ人、そしてサマリア人の立場に置くことを止めなくてはなりません。私たちは、このたとえにおいて、先ず、自分を追いはぎに襲われ道端に倒れている人の立場に置かなくてはならないのです。私たちは、罪の力に支配され、命を失ってしまっているような状態なのです。そのような者のために善いサマリア人として、私たちの隣人となって下さったのが主イエスなのです。主イエスは、私たちの姿を見て、憐れに思い、罪に苦しむ私たちの傷口にぶどう酒を注ぐようにして解放し宿屋に預け、その代金を支払ってくださるのです。そして、もっとかかったらもう一度来て払ってくださるとおっしゃってくださる方なのです。
あなたも同じように
そして、そのようにして、私たち人間を救い出してくださった方が、私たちに向かって語りかけておられるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」。私たちは、自らの生き方を顧みる時、愛から遠く離れていることを思わずにはいられません。自分が果たして同じように、周囲の人々の隣人となってきたのだろうかと思わされるのです。時には気の合う人とだけの交わりに専心し、自分と気が合わない人を避けて歩んでいます。そこで、隣人となることを拒み、道の向こう側を通って歩んでいる自らの姿を見出すことがあるのです。しかし、そのような私たちに、愛を示し、隣人となって下さった主イエスが語りかけてくださるのです。そこで、自分が、主イエスの愛故に生かされていることを示されて、御言葉に促されつつ、同じ道を歩もうとする時に、私たちも愛に生きる者とされるのです。私たちはこの世において、キリストを信じて愛に生きた多くの人々の姿を知らされています。そのような人々は、自分の力で愛を学び、努力してそれを生きたのではありません。聖書が説く愛は、人間の善行とは異なります。愛に生きた多くの人々は、私たちの隣人となって下さったイエスの愛を受け入れ、その言葉から歩み始めたのです。主イエスから行いを始める時に、私たちは偽善ではなく、真に愛を持って人々と交わる者とされるのです。その愛の業の大きさは問題ではありません。どんなに小さくても、それぞれの人生の歩みの中で、主イエスにならいつつ「隣人となる」歩みを始める時、主イエスの愛を証しする者とされているのです。