「復活の主を見る」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 詩編 第27編1-14節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第24章13-35節
・ 讃美歌 ; 327、321、517
復活の出来事
主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースターの日を迎えました。主イエスの復活を聖書は私たちに証ししていますが、そこに語られているのは、主イエスの遺体が息を吹き返し、ムクムクと起き上がった、ということではありません。聖書は基本的に二つのことを語ることによって主イエスの復活を証ししています。第一は、この日の朝早く、何人かの女性たちが主イエスを埋葬した墓に行ったところ、墓は空で、主イエスの遺体がなかったこと、そこに天使が現れて、主イエスは復活された、と告げたことです。第二は、生きておられる主イエスが、彼女たちに、また弟子たちに、ご自身を現わし、出会って下さったことです。本日は、その第二のことを語るルカによる福音書の話をご一緒に読みたいと思います。
驚き
「ちょうどこの日」と13節にあるのは、主イエスが復活なさったその日のことです。二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。彼らはいわゆる十二弟子ではありませんが、主イエスに従って歩んでいた人々でした。そして彼らは、この朝、仲間の女性たちが体験した不思議な出来事、主イエスを埋葬した墓が空っぽになっており、天使が「イエスは生きておられる」と告げたことを伝え聞いていました。しかしそれを聞いても、彼らは主イエスの復活を信じることはできませんでした。何が起ったのか分からなかったのです。それはどの弟子たちも同じでした。11節には、女性たちの話を聞いた使徒たち、つまり十二弟子が、それをたわ言のように思い信じなかったとあります。また12節には、ペトロが自分でも確かめに墓に行ったことが語られていますが、彼は空の墓を確認して、「この出来事に驚きながら家に帰った」のです。墓が空であった事実は、驚きを生んだけれども、主イエスの復活を信じる信仰がそれによって生まれたわけではないのです。この二人の弟子も、その驚きを共有していました。彼らは歩きながら「この一切の出来事について話し合っていた」と14節にありますが、話し合っていたのはこの驚きのゆえでしょう。15節には、「話し合い論じ合っていると」とあります。彼らが盛んに、熱心に、この驚くべき出来事について論じ合っていた様子が伺えます。
分からなくなった
彼らがどのように論じ合っていたのかを想像してみることができると思います。彼らは、主イエスこそ、救い主、メシアであると信じて、その弟子となり、主イエスに従って歩んできたのです。しかしその主イエスは、つい数日前に、エルサレムで、逮捕され、死刑の判決を受け、十字架につけられて殺されてしまいました。主イエスこそイスラエルの救い主と期待していた彼らの思いは打ち砕かれてしまったのです。彼らが主イエスについて思っていたこと、期待していたことは、19~21節にこのように語られています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。ところが今朝になって、彼らを驚かし、戸惑わせる知らせが入ったのです。それが22~24節です。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。この婦人たちの知らせによって、彼らは驚かされました。驚かされたというのは、分からなくなった、ということです。彼らは、主イエスは行いにも言葉にも力ある預言者であり、この方こそイスラエルを解放して下さる救い主だと期待をかけていました。そのように主イエスのことを理解し、分かっていたつもりだったのです。その主イエスが、祭司長たちや議員たちに憎まれ、彼らの陰謀によって十字架につけられて殺されてしまった、それは返す返すも残念なことで、彼らの期待が裏切られた出来事でした。しかし、残念なことだけれども、それもまた祭司長たちや議員たちの妬みによって正しい預言者主イエスが殺されてしまったと説明のつくことです。ですから、そこまでだったら、彼らは、無念な思いや挫折感を抱きつつ、黙って、とぼとぼとエマオへの道を歩いていったことでしょう。話し合い論じ合うようなことはなかったでしょう。ところが、あの女性たちからの知らせによって、彼らは、分からなくなってしまったのです。主イエスはどのような方なのか、主イエスに何が起ったのかが、それまで分かっているつもりだったのが、分からなくなったのです。説明がつかなくなったのです。そのために彼らは盛んに語り合い論じ合っていたのです。いったいどう考えれば、この出来事を理解できるのだろうか、彼らはそれを、ああでもない、こうでもないと議論していたのだろうと思うのです。
「分かる」とは
彼らは、主イエスのことが分からなくなった。その「分かる」とはどういうことなのでしょうか。私たちが何かを「分かった」と思う時、それは多くの場合自分が納得できたということです。そして納得できるというのは、自分の知っている、考えている、感じている世界の枠組みの中にその事柄がうまく当てはまり、説明がつき、納まって落ち着く、ということです。私たちは、主イエス・キリストのことも、いつもそのようにして分かろうとしているのではないでしょうか。つまり主イエスを自分の心の枠組みの中にうまく当てはめることができ、説明をつけることができ、そのようにして自分の心の中に主イエスの場所が見つかれば「分かった」と思うし、その場所が見つからずに、主イエスを自分の心の中に納得して納めてしまうことができないと「分からない」と思うのです。あの二人の弟子が、これまで主イエスのことを分かったと思っていたのも、このような仕方でだったのだと思います。彼らは主イエスを、「行いにも言葉にも力のある預言者であり、イスラエルを解放する救い主である」と理解し、納得し、自分の心の中に納めていたのです。それで、主イエスのことが分かっている、と思っていたのです。その主イエスが十字架につけられて殺されてしまったことは大きな失望でしたけれども、祭司長たちや議員たちが権力を用いてそういうことをした、と理解し、心の中に納めることができたのです。だからそれも「分かる」ことなのです。ところがその主イエスの墓が空で、天使が「イエスは生きておられる」と告げたということは、もはや彼らの心の中にうまく納まりません。説明がつきません。それは彼らの理解や納得の枠組みを超えた出来事なのです。それゆえ「分からなくなった」のです。
復活の主イエスとの出会い
このことから私たちは、主イエスのことが本当に「分かる」とはどういうことなのかを考えさせられます。私たちは基本的に、主イエスのことを「分かりたい」と願っています。分かったら信仰が持てると思っています。しかしそれは実は違うのです。主イエスのことを「分かった」と思ってしまうことがむしろ問題なのです。別の言い方をすれば、主イエスと本当に出会う時に、私たちは、それまで分かっているつもりだった主イエスのことが分からなくなるのです。そのことが最もはっきりするのが、復活の場面です。主イエスの誕生やそのご生涯、そこでの教えやみ業、そして十字架の苦しみと死までのことは、私たちそれぞれが、それぞれなりにいろいろと考えて、その意味や、そこから得られる教え、教訓を理解することができます。自分の心の枠組みに当てはめて納得することができるのです。しかし主イエスの復活だけはそうはいきません。そこで私たちは、私たちの心の枠組みの中に納まってしまわない、説明のつかない主イエスと出会うのです。そしてそれこそが、復活して生きておられる主イエスとの出会いです。私たちが分かってしまえる、納得して心の中に納めてしまえる主イエスは、死んで過去の存在になった主イエスです。復活して今生きておられる主イエスは、私たちに今新たに語りかけてこられる方なのであり、私たちが自分の心の中にうまく納めて分かってしまえるような方ではないのです。主イエスの復活を信じるとは、この、今生きて語りかけてこられる主イエスと出会うことです。本日の箇所は、その出会いが、この二人の弟子に与えられたことを語っています。その出会いはどのようにして起ったのでしょうか。
目を遮るもの
話し合い論じ合っている彼らに、主イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められたと15節にあります。復活された主イエス御自身が、私たちの傍らに来て、共に歩んで下さるのです。主イエスとの出会いは、私たちが主イエスを捜しに行くことによってではなくて、主イエスの方から近づいて来て下さり、共に歩んで下さることによって起こります。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった、と16節にあります。復活して生きておられる主イエスが共に歩んでいて下さるのに、私たちはそのことが分からないのです。目が遮られていて見えないのです。私たちの目を遮っているものは何でしょうか。それは、自分の心の枠組みの中に主イエスを当てはめ、納めてしまおうとする、そのようにして主イエスのことを分かろうとする思いそのものです。そのように主イエスのことを分かろうとしているうちは、復活の主イエスが傍らにいて下さっても、私たちの目は遮られ、主イエスを見ることができないのです。
分かろうとする高慢
論じあっている彼らに、主イエスが語りかけて来られます。主イエスのことを、この朝の不思議な出来事をどのように理解し、納得したらよいのだろうかと論じている彼らの議論に、主イエスが「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と割り込んで来られるのです。その主イエスに対して彼らは、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と言います。この言葉には、「あなたはこんなことも知らないのですか」という響きがあるように思います。それは、「あなたも少しは世の中で起っていることに目を向けたらどうですか。あなたは人生とか、信仰とか、そういうことを考えたことがありますか」という高慢な思いの現れではないでしょうか。主イエスのことを、自分が納得して心に納めて分かろうとするところには、このような高慢が生じるのです。「あの人より自分の方が主イエスのことをよく分かっている」という高慢な思いです。しかし当の主イエスに対してこのようなことを言うのは滑稽なことでしかありません。ここには、自分が「分かっている」ことを誇ろうとする高慢な者の滑稽さが描かれていると言えるでしょう。
聖書の説き明かし
主イエスは25節以下で彼らにこのように語っていかれました。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。共に歩んで下さる主イエスはこのように私たちに語りかけて下さるのです。主イエスがしておられるのは、聖書の説き明かしです。メシア、即ち救い主は、苦しみを受け、それを経て栄光に入るはずだったのだ。「はずだった」とは、それが神様のご計画である、ということです。その神様の救いのご計画が、主イエスの十字架の死と復活において実現したのです。主イエスはそのことを、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたって説明して下さったのです。復活された主イエスが、私たちの傍らを共に歩みつつ与えて下さるのは、この聖書の説き明かしです。そのことを通して、私たちは復活された主イエスと出会うのです。これはとても大事なことです。私たちが復活された主イエスと本当に出会い、主イエスは生きておられることを知り、主イエスと共に生きることができるようになるのは、聖書の説き明かしを通してなのです。復活された主イエスは、幻の中や夢の中でではなくて、聖書の説き明かしの中でこそ私たちに出会って下さるのです。
聖書の読み方
彼らも聖書を読んでいなかったわけではありません。しかしその読み方は、自分の心の中に主イエスを納得して納め、分かってしまおうという読み方でした。そのような読み方によって得た結論が、主イエスは「行いにも言葉にも力ある預言者」だということでした。しかし主イエスは、預言者以上の方でした。十字架と復活によって栄光に入るメシア、救い主だったのです。彼らの読んでいた旧約聖書はそのことを語っていたのに、彼らはそれを読み取ることができなかったのです。つまり聖書から、主イエスの本来の姿、その大きさを読み取ることができず、まことに小さな主イエスにしか触れることができなかったのです。聖書を自分の心の枠組みに当てはめ、理解し、納得しようという読み方をしている限り、私たちは自分の心の枠組みにあてはまる、まことにスケールの小さい、死んで過去の存在となった、つまり私たちを生かすことなどできないキリストしか知ることができないのです。
心が燃える
復活して生きておられる主イエスとの出会いは、このような私たちの聖書の読み方が打ち破られるところに与えられます。私たちの小さな心の枠を打ち破るようなみ言葉の説き明かしが、主イエスによって与えられるのです。復活の主イエスとの出会いは、聖書との新しい出会いの内にあります。聖書の説き明かしによって私たちの心は狭い枠を打ち破られ、広げられ、深められるのです。そこに、復活された主イエスとの出会いがあります。この出会いによって、私たちの心は燃えるのです。32節に「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださ ったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」とあります。信仰によって、私たちの心は燃えるのです。心の燃えない信仰など信仰ではありません。しかしそれは私たちの情熱の燃え上がりではありません。信仰において心が燃えるのは、み言葉の説き明かしによって、私たちの心が、その小さな枠を打ち破られるからです。み言葉によって新しくされ、変えられるからです。小さく小さく縮こまってしまおうとする私たちの心が、み言葉の説き明かしによって激しく揺さぶられ、壁を取り壊されて、大きく深く広くされていくのです。その時私たちは、心が燃え、体すら熱くなるような喜びを感じるのです。
説教と聖餐によって
二人の弟子たちは、この見知らぬ人の聖書の説き明かしによってそのように心が燃えることを感じました。それゆえに彼らは、夕暮れになり、目指す村に着いた時、なお先へ行こうとされるこの人を強いて引き止め、「一緒にお泊まりください」と願ったのです。それは、聖書の説き明かしをもっと聞きたい、ということでしょう。彼らの思いはすでに大きく変えられています。主イエスに起った出来事を理解し、納得して自分の心の中に納めようとしていた彼らが、今やそのための議論をやめて、み言葉の説き明かしに真剣に聞き入ろうとしているのです。彼らの求めに応えて、主イエスは共に宿に入り、食事の席に着かれました。その席で、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった、そのお姿を見るうちに、彼らの目が開け、主イエスだと分かったのです。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった、その主のお姿は、彼らが弟子として主イエスと共に歩んだ日々の食事において見慣れたお姿でした。またそれは主イエスが五つのパンで五千人の人々を養われた時のお姿でもあります。またそれは、あの最後の晩餐において、私たちが本日も共にあずかる聖餐をお定めになった時のお姿でもあるのです。彼らが主イエスと共についたこの食事の席に、私たちは今日、聖餐において共に着くのだと言うことができます。聖書のみ言葉の説き明かしである説教と聖餐の恵みによって、私たちも、彼らと共に復活の主イエスと出会うのです。いやもっと正確に言えば、復活した主イエスが、主イエスの方から近づいて来られ、共に歩んで下さっていることに気付かされるのです。
復活の主を見る
彼らがそれに気付いたとたんに、主イエスのお姿が見えなくなりました。目が開かれ、主イエスだと分かったとたんにお姿が見えなくなったというのは皮肉なことのようにも思いますけれども、これは決して、一瞬見えた主イエスのお姿がまたすぐ見失われたということではありません。彼らはもはや、主イエスを見失うことはなかったのです。み言葉の説き明かしと聖餐において、復活して生きておられる主イエス・キリストを見た者は、もはや肉の目で主イエスを見ている必要はないのです。それは私たちのことです。私たちは復活の主イエスをこの目で見てはいません。しかし、肉の目で見るよりももっと確かな仕方で、主イエスが共にいて下さるのです。それは、み言葉の説き明かし即ち説教と聖餐とにおいてです。この二つが、教会の礼拝の中心です。私たちは、教会の礼拝の中でこそ、復活された主イエス・キリストと出会い、主イエスと共に歩むことができるのです。本日、四名の方々が信仰を告白して洗礼を受けます。み言葉の説き明かしによって心燃やされ、聖餐によって復活の主イエス・キリストを見る、その群れに新たな仲間が加えられることを共に喜びたいのです。