受難週祈祷会

主の晩餐

「主の晩餐」 牧師 藤掛順一

・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第11章17~34節

 
主から受けたもの

 受難週祈祷会の木曜日と金曜日、昨日と本日においては、共に聖餐にあずかります。聖餐が行われる時に毎回「聖餐制定のみ言葉」として朗読されるのが、コリントの信徒への手紙一の11章23節以下です。本日は、このみ言葉をご一緒に味わっていきたいと思います。これは聖餐が制定された時のことを語っているみ言葉ですが、これを伝えているのはこの手紙を書いた使徒パウロです。パウロはキリストの弟子だったわけではありません。主イエスが、いわゆる最後の晩餐において聖餐を定められた時にそこにいませんでした。従ってパウロがここで語っている聖餐制定のみ言葉は、主イエスの弟子であった人々から伝え聞いたものです。23節に「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」とあるのはそのことです。しかしお気づきのように、パウロはここで、「主から」受けたと言っています。実際には先輩の使徒たちから伝えられたものなのに、それを主から受けたと言っているのです。自分が先輩の使徒たちのおかげを被っていることを認めたくなくてこう書いているのではありません。主イエス・キリストが聖餐をお定めになったそのみ言葉が、教会において語り継がれ、受け継がれていくところに、主ご自身のお働きがあるとパウロは言っているのです。私たちも、聖餐においてこのみ言葉を聞く時、これを主イエス・キリストからのみ言葉として聞くのです。

引き渡される夜

 その主イエスからのみ言葉は先ず、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」と語ります。「引き渡される夜」とあることに注目したいと思います。聖餐が制定されたのは、主イエスが「引き渡される夜」に弟子たちと共にとった「最後の晩餐」においてでした。その後一行はオリーブ山の麓のゲッセマネの園へ行き、主イエスはそこで祈られました。その場面の最後に、マルコ福音書によれば、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」というお言葉があります。そこに、イスカリオテのユダに導かれた人々がやって来て主イエスを逮捕したのです。ですから「引き渡される」は、直接には主イエスの逮捕を指しています。しかしこの言葉は同時に、主イエスがご自分の受難を予告されたところにも出てきます。例えばマルコによる福音書第10章33節には、「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す」とあります。つまり「引き渡される」という言葉は、主イエスの受難全体を代表的に表わす言葉なのです。ですから、聖餐が「引き渡される夜」に定められたというのは、聖餐と、主イエスの十字架の死とが密接に結びついていることを示しているのです。

あなたがたのためのわたしの体

 さてその「引き渡される夜」、主イエスは「パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」とあります。これは主イエスが、弟子たちとの食事においていつもしておられたことでしょう。しかしこの食事においては、特別な言葉がつけ加えられました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である」という言葉です。このみ言葉によって、このパンは、私たちのための主イエス・キリストの体、という特別な意味を持つものとなったのです。私たちは、聖餐のパンをいただくことによって、私たちのためのキリストの体をいただくのです。それはキリストの恵みにあずかることを象徴的に表わしているのだと一応言えます。体の養い、栄養となるパンが、主イエス・キリストの恵みという、魂の養い、栄養を象徴しているのです。しかし私たちが聖餐においていただくものは、象徴的なパンではなくて、キリストの体です。主イエスはその肉体をもって今まさに引き渡され、逮捕され、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されようとしているのです。その中で、この聖餐をご自身の体として弟子たちにお与えになったのです。聖餐において私たちがいただくキリストの体は、私たちのために苦しみを受け、十字架にかけられた体です。つまり聖餐において与えられる恵みは、抽象的な恵みではなくて、主イエスが、その体をもって十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった、その恵みなのです。それゆえに26節には「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と語られているのです。聖餐にあずかることによって「主の死を告げ知らせる」。主イエス・キリストが、私たちのために、その体をもって十字架にかかって死んで下さったことを明かにし、告げ知らせていくのが聖餐なのです。「パンを裂く」という言葉が用いられていることも、このことと関係があります。多くの箇所で、聖餐を表わすのに「パンを裂くこと」という言い方がなされているのです。つまり聖餐において、パンが裂かれることが非常に重要な意味を持っていたのです。それは、十字架に釘づけられ、槍で突かれて引き裂かれた、そのキリストの体が、聖餐において私たちに与えられることを示すためです。主イエスの体が十字架の上で引き裂かれたことを、聖餐において私たちは繰り返し覚えていくのです。そういう意味では、私たちの行なっている聖餐においては、前もって切り分けられたパンが用意されていますが、本当は、聖餐の中でパンを裂いて配る方が、本来のあり方にふさわしいのです。

新しい契約の杯

 さて次に主イエスは、ぶどう酒の杯を同じようにして、つまり感謝の祈りをささげて、弟子たちに与えられました。そこに「食事の後で」とあります。それは、食後のデザートとしての杯、という意味ではありません。この最後の晩餐は、イスラエルにおける最大の祭である過越の祭りにおいて行われる「過越の食事」であったと言われます。過越の食事は、出されるものも決められており、食べる順序も、杯を飲む順序も定められている、宗教的儀式としての食事でした。その順序の中に、「食事の後で飲まれる杯」があったのです。主イエスはその杯に特別なみ言葉を加えて、特別な意味を持つ杯とされたのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」というみ言葉です。この杯を飲む者は、新しい契約にあずかるのだ、と言われたのです。聖餐の杯が意味するのは「新しい契約」です。「新しい契約」と言うからには「旧い契約」があるわけです。その両者の対比は、旧約聖書エレミヤ書第31章31節以下に語られています。その31、32節にこうあります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」。この「かつててわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」、が「旧い契約」です。イスラエルの民がエジプトで奴隷とされ、苦しめられていたのを、主なる神様がモーセを遣わして解放し、導き出して下さったのです。そこにおける大きなみ業が過越の出来事であり、それを記念し祝うのが過越の祭です。そしてこのエジプトからの解放の御業を土台にして、神様はイスラエルの民と契約を結んで下さったのです。つまり過越の祭りは旧い契約と深く結び合っているのです。その旧い契約の内容は、主なる神様がイスラエルをご自分の民として下さり、イスラエルの神となって下さる、そういう特別の関係を結んで下さるということであり、イスラエルは、この主なる神の民として、主なる神にのみ仕えて生きることを約束する、ということでした。しかし32節の後半には、「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」とあります。イスラエルの民は、神様との契約を破り、主なる神様のみに従い仕えるのではなく、自分の願いをかなえてくれる偶像の神々を求めていったのです。エジプトの奴隷状態から解放して下さった神様を忘れ、他の神々に心を奪われていったのです。イスラエルの民のこの背きの罪によって、旧い契約は破られ、破棄されてしまいました。そのイスラエルに対して神様は、新しい契約を結ぶと言っておられます。それは今の31章の34節にあるように、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という、神様の赦しの恵みによる契約です。新しい契約は、罪の赦しを与えるものなのです。  エレミヤが預言した新しい契約は、主イエス・キリストによって実現しました。「わたしの血によって立てられる新しい契約」と主イエスは言っておられます。主イエスの血によって新しい契約が打ち立てられるのです。旧い契約の土台となったあの過越の出来事においては、過越の小羊が犠牲として殺され、その血が流されました。新しい契約においても、同じように犠牲の血が流されます。それが、主イエス・キリストの十字架の死における血です。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって血を流して死んで下さったことによって、私たちは赦されて、新しい契約にあずかり、神様の民とされるのです。それが「わたしの血によって立てられる新しい契約」です。聖餐の杯に注がれているぶどう酒は、そのキリストの血を表わしています。この杯にあずかることによって、私たちは、主イエスがご自分の血によって打ち立てて下さった新しい契約にあずかり、罪の赦しの恵みを受けるのです。
 聖餐にあずかることによって、私たち一人一人が個人的に主イエスによる罪の赦しの恵みをいただくだけではありません。私たちは主イエスによる新しい契約にあずかり、罪の赦しの恵みによって呼び集められた新しい神の民の一員とされるのです。聖餐において、新しい契約によって生きる新しい神の民が結集されるのです。聖餐のパンと杯に共にあずかるところに、私たちの、主にある兄弟姉妹としての交わりの絆があるのです。私たちを結びつけ、一つにしているのは、人間的な親しさや、お互いのことをよく知っているということではなくて、主イエス・キリストによる神様の新しい契約に、聖餐において共にあずかっている、ということなのです。教会は、聖餐に共にあずかる者たちの陪餐共同体なのです。

私の記念として

 さて主イエスは、パンにおいても杯においても、「私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。聖餐は、主イエス・キリストの記念として行われます。まず第一に記念されるのは、主イエスの十字架の死です。パンと杯が、十字架の上で裂かれた主イエスの体と流された血を表しているということは、主イエスの十字架の死を記念しているということです。しかしそれだけだったら、二千年前の出来事を記念し、思い起こす、という後ろ向きのことにしかなりません。聖餐の意味はそれだけではないのです。主イエス・キリストは、十字架の上で死なれ、三日目に復活されました。そして四十日後に天に昇り、今は父なる神様の右の座に着いておられるのです。つまり主イエス・キリストの体は、復活して、今生きて天にあるのです。私たちはそのキリストの体に、聖餐においてあずかるのです。それは死んでしまった過去の体ではなくて、復活して今も生きておられる体です。ですから聖餐において私たちは、主イエスの十字架の死のみでなく、復活と昇天とを同時に記念し覚え、今生きて私たちに働きかけて下さる主イエスとの交わりに生きるのです。復活して天におられるキリストの体と、この地上を生きる私たちとの隔たりを埋め、主イエスとの交わりに生かして下さるのは聖霊なる神のお働きです。聖餐は、聖霊のお働きを祈り求めることの中でこそ真実に守ることができるのです。聖霊のお働きなしには、聖餐は、パンの一切れと一口のぶどう酒に過ぎないのです。

主が来られる時まで

 このように聖餐は、主イエスの十字架の死のみでなく、復活と昇天とも深く関わっています。26節の、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」というみ言葉はそのことと関わっています。「主が来られる時まで」、つまり、キリストの再臨が見つめられているのです。復活して天に昇り、今父なる神様の右の座に着いておられる主イエスは、世の終わりにそこからもう一度来られます。聖餐が祝われるのは、この終わりの日までの間です。終わりの日には、主イエス・キリストが誰の目にも明らかな仕方で来られ、そのご支配がはっきりと確立し、私たちの救いが完成するのです。それまでの間は、主イエスのご支配は隠されています。信仰の目にしか見えないのです。聖餐は、信仰によって、隠されている主イエスのご支配、救いの恵みを見つめつつこの世を歩んでいく私たちを支え、強めるために与えられているものです。主イエスとそのご支配をこの目で見ることのできない私たちが、聖餐において、聖霊の働きの中で、信仰によって、生ける主イエス・キリストとの交わりに生かされていくのです。そしてその聖餐にあずかりつつ、主の再臨を、主の恵みのご支配の完成を待ち望んで生きるのです。聖餐は、救いの完成を待ち望みながら、この世を忍耐と希望をもって生きていく私たちの歩みを支えてくれるものなのです。

交わりのあり方が問われる

 以上聖餐制定のみ言葉から、聖餐において私たちに与えられている恵みを見てきました。しかしそのみ言葉の前には、パウロが、コリントの教会の人々を叱っている言葉があります。17節に「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです」とあるのです。その「悪い結果」とは、20節によれば、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」ということです。この場合の「主の晩餐」は、私たちが行っている愛餐会、教会において共に食事をする会により近いものです。当時は、この愛餐と聖餐とは明確に区別されていませんでした。愛餐の中で聖餐も行われていたのです。後に聖餐は愛餐と区別されて礼拝の中心的な要素となっていったのです。ここに語られているのはそうなる前の教会における共同の食事のあり方です。それについて、パウロは教会を叱っているのです。何が起っていたのかというと、21節にあるように、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」ということです。これは、先に来た者が食事を始めてしまい、後から来た人の分があまり残っていない、というようなことが起っていたということです。そのことは、33節に、「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」と勧められていることからも分かります。そしてこのことは、豊かな者と貧しい者の間での問題だったのだということが、22節から分かるのです。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と言われています。先に来て食べてしまう人とは、時間的な余裕のある豊かな人です。後から来る人とは、生活のために働かなければならない、その仕事を終えてから遅れてやって来る人です。豊かな人が、豪華な食事を持ち寄って、先に楽しく食べてしまい、貧しい人が後から来た頃にはそのごちそうは残っていない、貧しい人は自分の持ってきた粗末なものを食べるしかない、そういうことが起っていたのでしょう。つまり問題は、豊かな者が、同じ教会に連なる貧しい者、弱い者のことを配慮せず、無視している、ということです。そのようなことは、神の教会を見くびる罪であり、そんな食事は主の晩餐とは言えない、主イエス・キリストを中心とする食卓ではない、とパウロは言っているのです。このようなことは、今日の私たちの聖餐においては起こりません。けれども、聖餐に共にあずかる私たちの交わりのあり方、という点では、私たちにも大いに関係のあることです。つまり、聖餐にあずかる時、私たちは、共にあずかっている兄弟姉妹との交わりのあり方を問われているのです。互いに主にある兄弟姉妹として覚え合い、特に、様々な弱さを負っている人々のことを配慮し、共に恵みの食卓にあずかろうとしているのか、ということです。そのような兄弟姉妹に対する思いなしに、ただ自分が主イエスの恵みにあずかり、慰めと平安を与えられるために聖餐にあずかっているのでは、豊かな者が先に自分の分を勝手に食べてしまっているのと同じことをしていることになってしまうのです。

ふさわしさ、とは

 27節以下には、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりしてはいけない、ということが語られています。「だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」とも言われています。聖餐のたびに、この言葉によって私たちは襟を正されます。自分はいったい聖餐にあずかるのにふさわしいのか、と確かめることを促されるのです。聖餐にあずかるふさわしさとは何でしょうか。パウロがここで語っているのは、今申しました、兄弟姉妹の間での配慮です。弱い者、貧しい人をちゃんと迎え入れ、共に主の食卓に着く、という思いを持っているか、ということです。それは言い換えるならば、兄弟姉妹のためのとりなしの祈りに生きているか、ということです。聖餐にあずかる時に、私たちは、このことを自らに問うていく必要があるのです。
 このことをも含めて、私たちは、主イエス・キリストの体と血にあずかるのに決してふさわしい者ではないと言わなければならないでしょう。ふさわしい者になったらあずかれる、というのなら、いつまでもあずかることはできないのです。主イエス・キリストは、まさにそのような私たちのために、十字架にかかって死んで下さいました。神様の祝福を受けるのにふさわしくない、罪と汚れに満ちた私たちを赦し、神の子とし、新しい命に生かすために、肉を裂き、血を流して死んで下さったのです。その恵みに私たちをあずからせるために定めて下さったのが聖餐です。ですから私たちは、主イエスのこの恵みに感謝して、ふさわしくないままで聖餐にあずかるのです。つまり、自分がふさわしくない者であり、その自分のために主イエスが十字架にかかって下さったのだ、ということをはっきりと意識していること、そして、その恵みを感謝して受け、主イエスによる新しい契約にあずかる神の民の一員として生きようとすることこそが、聖餐にあずかるふさわしさです。それは言い換えれば、洗礼を受けるということです。自分が神様の祝福にふさわしくない罪人であることを知り、その自分の罪の赦しのために主イエスが十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことを信じ、その主イエスの恵みに感謝して生きようと志す者は、信仰を告白して洗礼を受けるのです。そういう意味で、洗礼を受けている、ということこそが、聖餐にあずかるためのふさわしさの基本なのです。それ以外のことを持ってきて、自分はふさわしいとかふさわしくないと言うことは、人間の傲慢です。そういう意味では、ふさわしい人など一人もいないからです。
 この基本的なふさわしさをはっきりと確認した上で、パウロがここで言っているふさわしさをも私たちは大切にし、追い求めていきたいと思います。共に聖餐にあずかる兄弟姉妹のことを、特に弱さをかかえている人々のことを覚え、とりなしの祈りと業に生きることです。主イエス・キリストが私たちのために成し遂げて下さった救いのみ業を覚える時、それは改めて確認するまでもない当然のことだと言えるのです。

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