主日礼拝

主イエスの復活

説教題「主イエスの復活」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第16編7-11節
新 約 マルコによる福音書第16章1-8節

聖書は主イエスの復活をどう語っているか
 本日はイースター、主イエス・キリストの復活を記念する日です。金曜日に十字架につけられて死んだ主イエスは、足掛け三日目のこの日曜日の朝に復活なさいました。それは聖書に語られている数々の奇跡の中で最大のものです。人間の常識では考えられない、あり得ないことです。そんなことが本当にあったとはとても思えない、だから信じられない、という人も多いでしょう。それを信じている者たちだって、それがあり得ると思うから信じているわけではありません。こんなことがあり得るか、あり得ないか、といくら考えていても、そこからは何も生まれません。そもそも聖書は、主イエスの復活が本当にあったのだ、と読む者を納得させるために書かれてはいないのです。だから、主イエスの復活はあったのかなかったのか、という問いへの答えを求めて聖書を読んでもそれは得られません。聖書が語ろうとしているのは、それとは別のことです。自分の関心や問いへの答えを聖書に求める前に、聖書が語ろうとしていることを正しく読み取ることが大事です。本日は、マルコによる福音書第16章において、聖書が主イエスの復活をどのように語っているのかを聞き取っていきたいと思います。その上で、それを信じるかどうかはそれぞれが決断すればよいのです。

週の初めの日の朝早く墓に行った女性たち
 主イエスは金曜日の午後3時過ぎに十字架の上で死なれた、とマルコ福音書は語っています。ユダヤの暦では日没から新しい日が始まりますから、主イエスが亡くなってから次の日である土曜日つまり安息日が始まるまで、あまり時間がありませんでした。それで主イエスの遺体は急いで墓に葬られたことが15章の終わりに語られていました。主イエスの死を遠くから見守っていた数名の女性たちが、その埋葬を見届けました。16章1節の「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」がその人たちです。彼女たちは、安息日が終わると、イエスに油を塗りに行くために香料を買った、とあります。金曜日の夕方に主イエスの遺体を埋葬した時には、安息日が迫っていたので香料を塗ることができなかった、だから改めて遺体に香料を塗り、埋葬を丁寧にやり直そう、ということです。主イエスを深く愛し慕っていた彼女たちはそう思ったのです。そのために、土曜日の日没に安息日が終わり、買い物に行くことができるようになるとすぐに、香料を買い求めました。しかし遺体に香料を塗ることは夜にはできないので、夜明けになるのを待ちかねて墓に行ったのです。「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」と2節にあるのはそういうことです。しかし彼女たちには心配なことがありました。主イエスの墓は大きな石で塞がれているのです。その石を自分たちだけで転がして墓の中に入ることはできそうもない、どうしよう、と話しながら墓に行ったのです。
 彼女たちは、主イエスが金曜日の夕方に亡くなって以来、深い喪失感を覚え、悲しみと絶望の中にいました。主イエスのために何かをしたい、そうしないと、その悲しみや絶望に飲み込まれてしまいそうだったのです。でももはや出来ることは、遺体に香料を塗って丁寧に埋葬をし直すことぐらいです。だから彼女たちは、安息日が終わって夜が明けるとすぐに墓に行ったのです。石を取り除ける当てもないのに出かけて行ったところに、じっとしていたら悲しみと絶望に押しつぶされてしまいそうな彼女たちの思いが表れていると思います。
あの方は復活なさって、ここにはおられない
 しかし夜明けと共に墓に行ってみると、入り口を塞いでいた非常に大きな石は既にわきへ転がしてありました。そして墓の中には、「白い長い衣を着た若者」が座っていました。それは天使でしょう。その若者、天使は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と言ったのです。つまり天使は彼女たちに、主イエスの墓が空っぽであることを見せて、主イエスは復活してもうここにはおられない、と告げたのです。福音書によって語り方はいろいろ違ってはいますが、聖書がイースターの日の朝の出来事として語っているのは基本的にこのことです。どの福音書も、日曜日の朝早く墓に行ってみたら、墓を塞いでいた石は取り除けられており、墓の中に主イエスはいなかったこと、そして天使が、主イエスの復活を告げたことを語っているのです。つまり聖書が語っている主イエスの復活は、主イエスの遺体が次第に息を吹き返してきてムクムクと起き上がった、という話ではありません。主イエスはもはや墓の中にはおられなかった、それがイースターの朝の出来事です。つまり聖書が語ろうとしているのは、主イエスの遺体がゾンビのように生き返ったということではなくて、主イエスの死を嘆き悲しんで墓に行った人々が、そこに主イエスがおられないことを見出した。そして天使がその人々に、主イエスは復活したと告げた、ということなのです。

恐ろしくて逃げ去った女性たち
 特にマルコ福音書は、そのことだけしか語っていません。この後この女性たちの前に、復活した主イエスが姿を現した、ということがこの福音書には語られていないのです。最後の8節は「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」となっています。主イエスの墓が空であることを見出し、天使に主イエスの復活を告げられた彼女たちは、それによって、主イエスは復活したことを喜んだのではなくて、むしろ恐ろしさに震え上がり、その場を逃げ去ったのです。それで終わってしまうのではちょっと、ということで、この後に記されている「結び一」「結び二」という二種類の「結び」が後からつけ加えられたようです。そこには、復活した主イエスが彼女たちや弟子たちに姿を現したこと、また主イエスが弟子たちを全世界へと派遣して、主イエスによる救いが宣べ伝えられていったことなどが語られています。他の福音書に語られていることがこれらの「結び」の素材となったのでしょう。しかしマルコ福音書は元々はこの8節で終わっていたのです。

復活は分からなかった
 このことにはとても大事な意味があると思います。イースターの日の朝、主イエスを心から愛し慕っていた女性たちが墓に行って、主イエスの墓が空であることを目撃して、そして天使から主イエスの復活を告げられました。しかしその人たちも、主イエスが復活したことが分からなかった、信じられなかったのです。主イエスの復活を喜ぶどころか、むしろ恐れて、その場から逃げ去ったのです。イースターの出来事はこのように、そう簡単に喜びとして受け取られるようなことではないのです。むしろそれは、人間の常識を打ち砕かれる、わけの分からない、とうてい考えられないことであって、それに触れた者は恐れてその場を逃げ出したくなるようなことなのです。ですから、「復活などとうてい信じられない」という思いは、聖書に照らしても正しいのです。神様は全能で何でもおできになるのだから、主イエスの復活だってあり得る、というのは一見信仰深い考え方のように見えますが、実はそれは聖書が語ろうとしていることとは違うのです。

主イエスが出会って下さることによって
 しかし勿論、恐れて逃げ去っただけで事が終わってしまったわけではありません。他の福音書が、そして使徒言行録が語っているように、復活した主イエスは、恐れて逃げ去った彼女たちや弟子たちに出会って下さり、ご自分が生きておられることを示して下さいました。そしてその人々に聖霊が降って教会が生まれ、教会を通して主イエスによる救いの知らせが全世界に広がっていったのです。だから私たちは今日(きょう)こうして、主イエスの復活を喜び祝っているのです。それは今日のイースターだけではありません。週の初めの日である日曜日は、主イエスの復活の日です。復活した主イエスと出会った人々はその日に集って、主イエスの復活を喜び感謝して神を礼拝していったのです。つまり私たちは毎週の日曜日の礼拝において、主イエスの復活を喜び祝っているのです。復活して生きておられる主イエスが、毎週の礼拝において私たちにも出会って下さり、私たちを、恐れて逃げ去る者ではなく、主イエスの復活を信じて、主イエスと共に生きる者として下さっているのです。つまり教会は、復活して生きておられる主イエスのみ業と聖霊のお働きによって存在しており、私たちの信仰も、生きておられる主イエスとの出会いと、聖霊の導きによって与えられているのです。この主イエスとの出会いと、聖霊の導きによってこそ私たちは、主イエスの復活を信じることができます。その出会いが与えられる前は、復活など信じられない、分からない、というのが当然なのです。主イエスを愛し慕っていた人たちですら、天使から主イエスの復活を告げられても、信じて喜ぶのではなくて恐れて逃げ出したのです。つまり主イエスの復活は、主イエスを心から愛している信仰深い人たちなら信じることができるけれども、信仰が足りない、疑い深い者たちはそれを信じることができない、というような事柄ではないのです。マルコ福音書はそのことをはっきりと示しているのです。
 ということは、私たちは、主イエスの復活を疑わずに信じる信仰深い人になることを求められているのではない、ということです。主イエスの復活は、私たちの信仰深さや敬虔さによって分かることではないのです。それは、復活して生きておられる主イエスが出会って下さることによってこそ分かること、信じることができることです。いやそれによってしか復活を信じることはできないのです。つまり私たちが追い求めていくべきなのは、復活を信じることができるような信仰深い者になることではなくて、生きておられる主イエスが自分に出会って下さることなのです。そのことがこの礼拝において、聖霊のお働きによって起こります。それを求めて礼拝に集う中で、私たちは主イエスの復活を信じる者とされるのです。

マルコ福音書が語る復活の恵み
 ですからマルコ福音書には、生きておられる主イエスとの出会いによって復活を信じる者とされる前のことまでが語られているのです。ですからこの福音書だけで主イエスの復活を信じることができるようにはならないでしょう。それには他の福音書をも、そして聖書全体を読むことが必要なのです。しかしこのマルコ福音書にも、主イエスの復活がどれほど大きな恵みなのかは語られています。そのことを見ていきたいと思います。
 繰り返し申しているように、あの女性たちは、主イエスを心から愛し、慕っていました。だから、主イエスが十字架につけられて殺されたことによって大きな悲しみ、喪失感、絶望を覚えていたのです。彼女たちは主イエスのために何かしたいと思って、香料を買い、それを主イエスの遺体に塗って丁寧に埋葬し直そうとしていました。それは主イエスのことを本当に愛し、感謝し、慕う思いによることですが、しかしその思いによって彼女たちがしようとしていたのは「葬り」です。葬りは、死んだ人の遺体を丁寧に墓に納め、その墓でその人のことを偲んでいくためになされます。それはその人への深い愛による行為ですが、しかし同時に、その人の死を受け入れるための行為でもあります。その人はもう死んで墓に納められ、過去の人、自分の思い出の中の人となった。葬りによって私たちはそのことを確認する。つまり愛する人の死を受け入れるのです。ですから葬りにおいて私たち支配しているのは死です。死の支配を受け入れて、今後はこの墓でその人のことを思い起こすしかない、その区切りをつけるためになされるのが葬りなのです。彼女たちがあの朝しようとしていたのもそういうことでした。主イエスは死んでしまった、もうお会いすることができない、その悲しみ、絶望の中で、埋葬を丁寧にし直すことによって、死の力が主イエスを支配したことを受け入れて歩み出そうとしているのです。それしかできないのが私たち人間です。死の支配を逃れることができる人は一人もいないのですから、それを受け入れて、それと折り合いをつけて生きていくしかないのです。

主イエスを探すべき場所は墓ではない
 イースターの朝に起ったのは、主イエスを葬ったはずの墓が空だったことです。そして天使が、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたのです。主イエスが復活したことがそれで分かったわけではありません。しかしそこで確かに示されたのは、死者を葬る場所である墓には主イエスはおられない、私たちが主イエスを探すべき場所は墓ではない、ということです。主イエスは、墓に葬られた過去の人、人間の思い出の中にのみ存在する人になってしまったのではない、つまり、死の支配の下にははいない、ということを、空になった墓は示しているのです。私たちが主イエスと出会うことができる場は、死が支配している墓ではない、ということを、マルコ福音書は語っているのです。
ガリラヤでお目にかかれる
 それでは主イエスと出会うことができるのはどこか、そのことを天使は語っています。それが7節です。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。主イエスと出会うことができる場はガリラヤだ、と天使は告げました。ガリラヤは弟子たちやあの女性たちが元々いたところです。彼、彼女らは、ガリラヤにおいて主イエスと出会い、主イエスに従って歩み出したのです。彼らの信仰の原点がそこにあると言ってもよいでしょう。ガリラヤからエルサレムまで、主イエスに従ってきた彼らは、今、主イエスの十字架の死によって深い悲しみの中で途方に暮れています。主イエスこそ救い主だと信じて、希望をもって従って来たのに、その歩みは全て虚しかった、失敗に終わった、主イエスの死によって彼らはそういう深い挫折の中にいるのです。そのように人生に挫折し、希望と目的を失った彼らは、ガリラヤに帰るしかありません。それは、いわゆる「功成り名遂げて」故郷に錦を飾るのとは正反対のことです。失敗し、挫折し、希望を失って、すごすごと人目を避けるように戻って行くしかないのです。しかしそのガリラヤに、主イエスが、あなたがたより先に行かれる、そこでお目にかかれる、と天使は告げました。挫折して、絶望して、すごすごと帰って行くその先に、主イエスが先に行って待っておられる、そこでもう一度出会って下さる、そしてもう一度新しく歩み出させて下さるのです。主イエスの復活とはそういうことなのだ、とマルコ福音書は語っているのです。

弟子たちとペトロに
 しかもそこでもう一つ、天使は女性たちに「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と言いました。弟子たちは、主イエスが捕えられた時に皆逃げ去ってしまいました。主イエスの十字架の死を遠くから見守っていたのも、その埋葬に立ち会ったのも、そして今、丁寧に埋葬をし直そうとして用意を整えて墓に来たのも、弟子たちではなくてこの女性たちです。しかし、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまった弟子たちにも、主イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれる、そこでお目にかかれる、と天使は告げているのです。そしてここには「弟子たちとペトロに」とあります。ペトロは弟子たちの一人であり、その筆頭です。「弟子たちに」の中にペトロが含まれているのは当然です。それなのに敢えて「ペトロに」と言われているのは、ペトロが、主イエスが捕えられた時にただ逃げ去ってしまっただけではなくて、大祭司の屋敷で主イエスが裁かれている時に、その中庭で様子を見ており、そこで、「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度、「そんな人は知らない」と、主イエスとの関係を否定したからでしょう。ペトロは、逃げ去ってしまっただけでなく、むしろ積極的に、主イエスとは関係ない、と三度にわたって断言したのです。逃げ去ってしまった弟子たちは勿論、主イエスを知らないと言ってしまったペトロはなおさら、ただ人生に挫折したのではなくて、取り返しのつかない大きな罪を犯したのです。その絶望の中で、ガリラヤに帰るしかないのです。しかし主イエスは、その彼らよりも先にガリラヤに行って、そこでもう一度出会って下さる。それは彼らの深い罪を赦して、新しく歩み出させて下さる、ということです。主イエスの復活とはそういうことなのだ、とマルコ福音書は語っているのです。

私たちのガリラヤ
 これらのことは、だから主イエスは確かに復活したのだ、と言えるようなことではありません。私たちが主イエスの復活を信じることができるようになるのは、復活して生きておられる主イエスが出会って下さることによってです。それが起こるのはガリラヤです。私たちが、人生の挫折や、苦しみ悲しみ、また自分の深い罪によって絶望して、もうどうにもならない、という思いですごすごと帰って行くガリラヤで、生きておられる主イエスが私たちと出会って下さるのです。主イエスはそのガリラヤに私たちよりも先に行って、待っていて下さるのです。私たちにとってのガリラヤ、それはこの主の日の礼拝です。礼拝こそ、私たちの信仰の原点であり、また私たちが苦しみや悲しみ、罪による絶望の中で帰ることができる唯一の場でもあります。私たちはいろいろな苦しみや悲しみ、挫折、そして罪をかかえて、ようやくの思いで礼拝にやってきます。その私たちを、復活して生きておられる主イエスが、待っていて下さり、出会って下さるのです。この礼拝において私たちは、主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかり、まことの慰めを与えられて、生きておられる主イエスと共に、新しく歩み出していくのです。

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