主日礼拝

なぜ怖がるのか

「なぜ怖がるのか」 伝道師 矢澤 美佐子

・ 旧約聖書; イザヤ書、第43章 1節-7節
・ 新約聖書; マタイによる福音書、第8章 23節-27節
・ 讃美歌21;  17、57、462、聖歌隊 148-4

 
船に乗った主イエスと弟子たちが出てまいります。聖書には、「イエスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。 一行が乗った船は、大きいものではありませんでした。主イエスと弟子たち、十名あまりが乗り込めば一杯になる小さな小船でした。乗り込んだ人たちは、主イエスをはじめ、弟子たちはガリラヤの出身です。中にはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ガリラヤ湖で漁師をしていた人たちもおりました。水の事は良く知っています。
 今、主イエスの一行が渡ろうとされているこのガリラヤ湖は、盆地の底にある湖です。周りには山があります。まるでビルの谷間のように、色々な風が集まって来ます。どこから、どの程度の風が吹くのか予測ができません。時には突風も吹きます。
 弟子たちの乗り込んだ船が湖へと漕ぎ出されて行きます。主イエスの乗った船が出て行きます。やがて激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになります。主イエスと弟子たちの乗った船です。この船は、さあ、これから一体どうなって行くのでしょうか、という場面です。

 「イエスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った。」ここでは、まず最初に、主イエスが船に乗り込まれます。そして、その後に弟子たちも従います。主イエスに従って行くという事は、どういう事なのか?それをここでは、「主イエスの後について、主イエスと同じ船に乗ること」だと言っています。信仰を持つということは、主イエスと同じ船に乗ることだと言っているのです。
 そして、このように、主イエスと共に弟子たちが乗り込む船のことを、これは「教会」のことであると、古くは2世紀後半から言われてきました。
 ですから、皆さんがこうしてこの教会堂に入って来られ、礼拝をするという事は、主イエスと共に船旅をしているということになるわけです。礼拝堂で、それぞれの席につき、礼拝を捧げる時、主イエスと同じ船に乗っていることになります。
今日の物語で、この主イエスと共に弟子たちが乗り込んだ船、これは主イエスと共にいる私たちです。主イエスと共に歩む私たちが、この世の歩みを進んで行く時、激しい嵐に合い、波にのまれそうになると伝えているのです。

 これは、いろいろな時代に教会が経験した迫害や様々な困難を想像させます。これまでにも、福音がのべ伝えられる所、いつも迫害がついて回りました。弟子たちは、迫害によって追い立てられるようにして、福音を携えて次の町々へと進んで行っています。このように主イエスに従って行くということが、迫害や様々な困難に遭遇するということであると伝えているのです。
 そうであるなら、この様なことは、私たちにとって、ある意味不思議な事に思えるのです。何故、主イエスに従っているのに、嵐に合わなければならないのか。「主イエスに従う」ということは、一体どういう事なのでしょうか。

 主イエスに従うことは、例えば様々な人生の困難に遭い、絶望の淵で救いを求めて教会の門を叩いたという経験を持つ人が少なからずおられると思います。ですから、教会は救いを求めて行くところ、そして救いを与えられる所のはずです。救いを求めて主イエスに従い始めた私たちは、救いが与えられるはずでした。しかし、その私たちが、激しい嵐に遭い、大変に困難な目に遭うというのでは、何のために教会に来たのか、何のために「主イエスに従って行こう」としているのか分からない、ということになるのです。主イエスに守られ、安全で安心して憩える所が主イエスに従う者の群れにあるはずが、どうしてそのような困難に遭わなければならないのでしょうか。

 そこで、「主イエスに従う」ということがどういう事なのか、主イエスは船に乗り込もうとされる直前に教えて下さっています。 と申しますのも、今日の聖書の物語は、この直前の物語から続いていまして、主イエスが「弟子の覚悟」をお聞きになる物語と、主イエスが嵐をお静めになる物語とが一息で語られているのです。18節以下の弟子の覚悟の物語と、23節以下の主イエスが嵐をお静めになる物語は繋がっています。
 つまり、嵐をお静めになる主イエスの物語の中に、弟子の覚悟の物語が入れ込まれているのです。そうする事によって、聖書はこの箇所から、私たちに「主イエスに従う」という事が、どのようなものであるのかを伝えているのです。

 それなら、私たちは覚悟して主イエスに従うのでしょうか?主イエスは、私たちの覚悟がどれだけのものかをここで問うておられるのでしょうか?今日の箇所の1つ前の箇所、今日の箇所と繋がりのあるところですが、ここでは、主イエスに従う覚悟を言い表した律法学者が登場しています。この律法学者は、神の教えを良く知っており、人々からも評価されている人物です。
 この律法学者が主イエスに従って行きたいと願い出ました。主イエスに、このように申し上げます。 「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」

 信仰において、主イエスに従う決心はとても大切なものです。主イエスの仰せになる事を聞き、主イエスのなさった事を見て、自分も、この方に従いたいと願い決断をします。あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。そう覚悟を決めたのです。立派な信仰者だ、と言われるに値する人物なのかも知れません。ところが、主イエスは、それに対して「良く決心した。では、従ってきなさい。」とは仰せになりませんでした。それどころか、この律法学者の願い出を断っているかのような答えをされたのです。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない。」
 この律法学者に、主イエスは仰せになります。「人の子には枕する所もない」この地上では、安住できない。主イエスには、この地上に安住の地はないと仰せになりました。
 けれども、ここで主イエスは「あなたも、その覚悟があるか」と問うておられるのではありません。覚悟して、あなたもそのようになりなさいと仰せになっているのではありません。
 ここで、主イエスは従う者の覚悟を求めておられるのではなく、これから主イエスご自身が、どのように進んでいかれるのかを示しておられるのです。
「人の子には枕する所もない」
 これは、主イエスがついには人々の手によって十字架に付けられる事を言い表しておられるのです。この世の人々が、主イエスを十字架に付けて殺してしまう。しかし、それにもかかわらず、神は、主イエスを殺し、自分たちの思いを貫こうとするこの世の罪人たち、私たちを贖いとって下さる。あなたたちは、そこでしか救われない。そのような者たちなのだと仰せになっているのです。

 ここで、主イエスとペテロが最後の晩餐の時、このような会話をしたことを思い出します。ペテロは主イエスにこう言いました。
「たとえ、みんなの者があなたにつまづいても、私は、決してつまずきません」
 主イエスは仰せになります。「よくあなたに言っておく。今度鶏が鳴く前に、あなたは3度私を知らないと言うだろう」
 ペテロは言います。「たとえ、あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」
 ペテロは、主イエスを愛して従っているつもりでした。主のためなら命を捨ててもいいと思っていました。ペテロは、主が捕らえられた時、相手の下役たちに、刀で斬りかかりました。しかし、できた事はぜいぜい相手の一人の耳を切り落としただけでした。主イエスが連れて行かれてしまった後、「あなたもあの男の弟子だ」と見とがめられ、ついに3度「知らない」と言ってしまいます。主のためなら死んでもいいと思っていたペテロのために死んで下さったのは、主イエスの方でした。

 ですから、このような私たちが、どうして主に「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言えるでしょうか。
 弟子たちが主イエスに申し上げたように「主に従う」と言う時、私たちは考えます。主が喜んで下さるような生活をしよう。主に、あなたは立派だと言って頂けるために、自分の感情を押し殺してみたり、主に気に入ってもらうために、聖人君子になろうとしてしまう私たちです。そのように、神を愛する以上に自分の思いを愛していると言わざるを得ません。自分自身をあがめてしまう。神はこのことをご存知なのです。
 このような私たちのする事を、神に対して「これは、あなたの為にしていることです」と本当は、私たちには言えないのです。ただ神は、御子の死によって、罪人を贖い取って下さる方、だから、どうぞ、罪深い私を憐れんで、赦してください。そして、この罪に満ちたあなたを冒涜する、この私の存在も行いも、あなたの憐れみによってお救い下さい、と祈るばかりなのです。
そして、私たちは、この主イエス・キリストに「従おう」としているのです。

 主に従うということは、船に乗る事だと申しました。しかも、嵐に遭う船に乗ることなのです。この世では、試練や困難、病の恐れ、死の恐怖、様々な大波におおい尽くされそうになります。しかし、主イエスのお姿を見れば一目瞭然のように、この嵐は決して慌てふためいたり、跳んで騒いだりする必要のないものなのです。この嵐は恐れる必要はありません。
 何故なら、私たちの恐れている嵐などで、御子イエス・キリストによって成し遂げられた救いの道筋がどうかなることはないからです。
 主イエスは眠っておられます。静かに安らかにです。

 確かに、主イエスはお疲れになって、船の上で寝てしまわれたのかも知れません。ひたすら、神の御言葉をのべ伝え、人々の心と身体を癒して来られた。主イエスが御言葉をのべれば、黒山の人だかりです。道を歩けば、病める人が袖を引くように救いを求めて来ました。そして、主は疲れて船の上で眠られたのです。眠り込んでしまわれたのです。
 しかし、聖書にはそれだけを語るのではありません。疲れていたから、だから、嵐に遭う船の中であっても、眠ってしまわれたのだ、と言うような事ではありません。主イエスは眠っておられます。静かに安らかに眠る事が出来たのです。
 この眠る主イエスのお姿、身を横たえる主イエスのお姿、これは主がこの世にお生まれになった時と同じです。生まれて間もない主イエスの姿。このお方は、布にくるまれて、飼い葉おけの中に寝かされていたのです。
 そして、もう一つ思い出すのは、誕生とは反対に、主イエスがこの地上で迎える最後の時の事です。十字架にかけられ、地上での救いの業を成し終えて、既に遺体となられた主イエスは、亜麻布に包まれ、身を横たえて墓の中に葬られます。
 この誕生の出来事と、臨終の出来事とでは、距離は遠いのですが、眠る主イエスが同じように描かれております。主イエスの生涯の最初と最後、共に眠っておられるのです。
 主イエスは、神のご計画によって、世にお生まれになりました。誕生したみどり子主イエスを、神の見えない手が抱いておられるのです。神が父であるからです。そして、この父が、十字架につき、救いの使命を全うして、墓の中に身を横たえておられる主イエスをも、抱いて下さっているのです。
 父なる神に抱かれて眠る主イエスの誕生と臨終には、静かな平安があります。確かに主イエスの生涯は全て十字架を負うものでした。戦いの連続です。しかし、その根本にあるものは平安です。人生の最初から最後に至るまで、主イエスは神と共にあったからです。神と共にある平安の中で、救い主としての使命を全うして行かれたのです。

 そして、今日のところでも主イエスは眠っておられます。単に疲れていただけではありません。伝道半ばのこの時も、主イエスは神と共にあったのです。神と共にある平安が、嵐の中であっても、船の上で眠る事をゆるすのです。この時も主イエスは、神の御手に抱かれ身を委ねるようにして、平安の中で眠っておられるのです。
 私たちの現実にも、嵐が吹きます。一人一人が生活の中で嵐に遭い、大揺れに揺れます。予測の出来ない仕方で、今までの暮らしが転覆する思いをします。このような時、私たちは恐らく、ほとんどの人が、慌てふためき、叫ぶ思いで訴えるでしょう。
 「主よ、助けてください。おぼれそうです。」神は、どこにいるのか。一体何をしておられるのか。  弟子たちも慌てふためいたのです。「主よ、助けてください。おぼれそうです」必死で救いを求め、主イエスを起こそうとします。眠っている場合ではありません。命に関わる事が起こっているのです。何とかしてほしいのです。
 けれども、弟子たちのこの態度は、信仰から出たものではありません。襲ってくる激しい嵐に遭い、転覆寸前の船の上で、ただただこの現実が恐ろしくて仕方がありません。
 もし、ここで、弟子たちが信仰に堅く立っていたなら、彼らはうろたえる事はなかったでしょう。たとえ、眠っていようとも、主イエスが共にいる事に心を強くして、忍耐をもってオールを漕ぎ続けたはずです。けれども、彼らは、それが出来なかった。目の前の現実が怖くて、狼狽し、思わず悲鳴をあげたのです。
 「主よ」弟子たちは「主よ」と言います。主イエスこそ、神の子、救い主です。そう告白しているのです。主イエスを救い主と信じて従ってきたのです。しかし、いよいよ大変となった今、彼らは、それが出来なかった。すぐそばにおられる方が、キリスト救い主である事を全く見失ってしまうのです。「助けて下さい。おぼれそうです。」神を見失った弟子たちの叫びです。神を見失うというのは、ただおぼれ死ぬというぐらいのものではなく、神なしの世界で、暗闇に捉えられ、死に捉えられ、虚無と絶望の中へ滅びてしまうことなのです。

 主イエスは、仰せになります。「何故怖がるのか。」主イエスは、ここで、はっきりと言われます。「何故怖がるのか。」怖がる必要は全くない。怖がらなくても良いと言うのです。今、御子イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは罪の中から贖い出され、私たちは暗闇から光へ、死から永遠の命に捉えられているからです。もはや、決して死や暗闇の支配、罪と滅びの支配が、私たちを捉える事はないからです。そればかりか、この嵐は、この世が死の支配から、神による命の支配に捉え移される時に起こる最後の叫びのようなものであって、これを経て、神の御支配は世に届くのです。

 主イエスは仰せになります。「信仰の薄い者たちよ」「信仰の小さい者たちよ」信仰が小さいと神を小さくしてしまう。神の御力を小さくしてしまう。救いを小さくしてしまうと言うの事が起こるのです。その為に、神を、救いを、イエス・キリストを信頼しきれなくなるのです。その度毎に、そして、きっと、昔の弟子たちも教会も、日曜日ごとに、「主よおぼれそうです」と主に訴えて来たのです。そして、その度毎に、「信仰の薄い者たちよ」と主に叱られて来たのです。
 しかし、「あなた方は、信仰の小さい者だ」と主は言って下さるです。つまり、私たちはいつも、新しく主イエスによって呼びかけて頂かなくてはならず、主イエスに呼びかけて頂く時、私たちはいつも新しく主イエスのものとされるのです。
 「信仰の薄い者たちよ」と言って下さる主によって、私たちは、主のものとされ、いつも新しく御言葉に触れ、主の十字架の恵みに立ち返って行く者とされ続けるのです。
 主イエスが、私たちをご自分のものとして下さいます。私たちの信仰がたとえ小さなものであっても、それに勝って、はるかに大きな神の救いの御業が、この世で成し遂げられるのです。だから、私たちは救われるのです。

 主イエスは、嵐を叱りつけられます。すると、湖は静まります、聖書には、神の救いを理屈のようには伝えません。聖書は最後にこう伝えます。
 「人々は驚いて『いったいこの方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』」  弟子たちだけではなく、この世の全ての人が驚いて言うのです。「いったいこの方はどういう方なのだろう。」
 私たちは、神の御業の不思議を見て、驚き、畏れ、この方こそ「主でいます」という告白に招かれているのです。私たちに起こる日常の様々な嵐の中であっても、「この嵐は嵐ではない」「あなたたちは決しておぼれない」と言って、私たちの救いを確かに信じて神に抱かれ平安の中で眠っておられる主イエスに、私たちは出会うのです。
 神と共にあるという平安が、私たちの嵐を凪に変えて下さるのです。そして、私たちは、嵐の中でうろたえながらも「この方こそ主でいます」と告白する者へとされていくのです。
 必ず、主イエスによって平安が与えられます。主と共にいるという平安です。その時、私たちは悔い改めへと捉えられるでしょう。自らの不信仰を知らされるのです。そして、ここから、もう一度、信じる歩みが始まります。新しく主イエスに結ばれ、神と共に歩む平安の歩みが力強く始まって行くのです。

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