夕礼拝

バベルの塔

「バベルの塔」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第11章 1節-32節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第17章 20節-26節
・ 讃美歌21; 351、389
 

創世記の区切り
 二年前の九月に私がこの教会の牧師として着任して以来、夕礼拝において私が説教を担当する日には、旧約聖書、創世記を連続して読んできました。1章の初めから順に読んできて、本日はついに11章に到達したのです。「ついに」と申しますのは、創世記はこの11章をもって大きな区切りを迎えるからです。次の12章からは、新しい部分に入ります。12章から始まるのは、アブラハムの物語です。アブラハムは、イスラエルの民の最初の先祖です。つまり12章からは、イスラエルの民の歴史が語られ始めるのです。詳しいことはそこに入ってから申しますけれども、イスラエルの民の歴史とは、神様の救いの歴史です。救いの歴史が12章から始まるのです。11章までのところには、その前のことが語られています。その前のことというのは、救いの歴史が始まるよりも時間的に前のこと、と言うよりも、救いの歴史が繰り広げられていく舞台、あるいは前提という意味です。神様が、アブラハムからイスラエルの民を興し、彼らをご自分の民とし、その歩みを通して救いを与えて下さる、ということが12章以下に語られていきます。救いと言うからには、そこには救われなければならないこの世界の状態があるわけです。救いを必要としている人間の姿があるわけです。その人間の、世界の、救いを必要としている姿、状態が、11章までのところに描かれているのです。言い換えれば、何故救いの歴史が必要だったのかを語っているのが11章までのところです。そういう意味では、11章までのところは歴史ではありません。創世記において歴史は12章から始まるのです。別の言い方をすれば、12章からのところは、およそ三千年前の大昔の出来事を語っていますが、11章までのところは、現在にも通用する、この世界と人間の現実を語っているのです。そういうわけで11章までが一つの大きな区切りです。その最後のところに、私たちはついに到達したわけです。

世界と人間の現実
 現在にも通用する、神様の救いを必要としているこの世界と人間の現実として、これまで読んできたところにどのようなことが語られてきたのか、簡単に振り返って見たいと思います。最初のところには天地創造の物語がありました。神様がこの世界の全てを造り、そして最後に人間を造って下さったのです。神様に造られたこの世界と人間は、「極めて良い」ものでした。そこには、救いを必要とするような状態や現実はなかったのです。エデンの園はまさに楽園だったのです。ところが、被造物を神様のみ心に従って管理すべき者として造られた人間は、神様に従うことをやめて逆らい、自分が主人になろうとします。それが人間の罪です。その罪の結果、人間は楽園を追い出され、苦労して働いて食物を得なければならなくなりました。また、人間どうしの関係にも破れが生じてきました。救われなければならない人間の姿がそこから生じてきたのです。またこの世界全体も、それを管理する人間が罪を犯したために、呪われたものとなってしまいました。救いを必要としている世界の状態が、やはり人間の罪から生じたのです。そして一旦犯された人間の罪はどんどん深まっていきます。最初の人間アダムとエバの次の世代、カインとアベルにおいて既に殺人が行われます。またカインの末裔たちにおいて、人間どうしの憎しみ、復讐の思いが、七倍から七十七倍へと膨れ上がっていくことが見つめられていました。人間の悪がそのように増し、世に満ちてしまったので、神様はお怒りになり、人間を造ったことを後悔するとまで言われて、大洪水によって全ての人々を滅ぼし尽くす、という審きを下されたのです。このように、これまで読んできた所には、神様によって良いものとして造られたはずの人間とこの世界が、人間の罪によって救いを必要とするものとなり、人間の悪がどんどん膨れ上がっていったことが語られてきたのです。しかしそれだけではありません。そのように罪を犯し、神様から背き去っていく人間に対して、神様はお怒りになり、審きを下されながらも、また同時に彼らを守り、支えて下さることが語られてきました。楽園を追放されるアダムとエバに皮の衣を着せて下さったり、弟を殺したカインにもある守りの印をつけて下さったり、全ての者を滅ぼし尽くすあの洪水においても、ノアとその家族を、箱船によって救って下さったのです。このように、罪に落ち、背き去っていく人間の姿と共に、そのような人間に対してお怒りになると共に、憐れみ、赦し、救って下さる神様のみ心が語られてきたのです。

バベルの塔
 そのような一連の物語のしめくくりに置かれているのが、本日の11章のバベルの塔の物語です。ここにも、神様から背き去っていく人間の罪と、それによって生じた結果が語られています。先ずこの物語の内容を見てみたいと思います。1節に、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。これがこの話の前提です。世界中の人々が皆同じ言葉を語っていた、外国語などというものはなかったのです。そして人々は、「シンアルの地」に、「塔のある町」を建設しようとするのです。「シンアルの地」は既に10章10節に出てきました。地上で最初の勇士と呼ばれるニムロドの王国がこの地に築かれ、バベル、ウルク、アッカドといった町がそこにあったと語られています。それはいわゆるメソポタミア地方、今日のイラクのあたりです。そこに、アッシリア、バビロニアといった、世界最初の帝国が成立したのです。バベルとはバビロンのことです。人々はそこに、塔のある町を築こうとしたのです。4節に、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」という人々の言葉があります。「有名になろう」、という言葉は口語訳聖書では「名を上げる」と訳されていました。天にまで届く塔を建てて、全世界に名をとどろかせようというのです。ここには人間の名誉欲、名を上げたいという欲望が見つめられています。そしてそれは、ただ個人の名誉を求めることに止まるものではないのです。「全地に散らされることのないようにしよう」という言葉がそれを示しています。散らされてしまうとは、求心力を失ってばらばらになってしまう、ということです。そうならないために、一つの中心のもとに強固な秩序によって統合される国を築きたい、ということです。しかも見つめられているのは全世界の人々です。全世界の人々を一つに統合するような、中央集権的帝国を築きたいという思いがここにはあるのです。そのような大帝国の権威の象徴となるのが、天にまで届く高い塔です。古代の中近東世界で、ジックラトと呼ばれるそのような塔の建設があちこちでなされました。例えばバビロニア帝国の首都であったバビロンには、一辺が91メートルの正方形の基礎を持ち、高さも90メートルに及んだであろう塔が築かれたのです。それは当時の世界において人々の驚異の的であり、諸国の民を圧倒するバビロニア帝国の権力の象徴でした。そのような塔に象徴される強大な権力によって、人々をまとめ、統合する中央集権的大帝国を築こうという人間の思いがここに描かれているのです。

人間の傲慢
 主なる神様はその様子をご覧になって言われました。6節「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」。神様はここに、人間の傲慢を見られたのです。それは、人間の権威を天に届くまでに高め、つまり神様と並ぶ者となろうとする傲慢です。実際古代の大帝国において、その王は皆神あるいは神の子と称し、神としての尊敬や礼拝を民に求めたのです。自分が神となることによって国を治め、また周辺諸国をうち従えて支配下に置こうとすることが繰り返されたのです。そしてそのような人間の傲慢は、ほうっておいたらどこまでも膨れ上っていくことを神様は見つめておられます。「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」とはそういうことです。人間の傲慢はある意味、神様でさえ遮ることができないくらいに膨れ上っていくのです。しかし勿論神様はそれをなすすべもなく見ているだけの方ではありません。神様は人間の傲慢を打ち砕かれるのです。それはどのようにしてなされたか。それが7節です。「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。世界が皆一つの民で、一つの言葉を話しているために、人間の傲慢がどこまでも助長されていく、だからその言葉を混乱させ、お互いに何を言っているのか分からないようにしてしまおう、ということです。この神様のみ心によって、この世界に、様々な違う言語が生じたのです。外国語というものが生まれ、言葉が通じない、という事態が生じたのです。そのようにして、バベルの塔の建設は中止されたのです。つまりこの「バベルの塔」の物語は、この世界に多くの違う言語があるのは何故か、を語っています。それは人間の傲慢に対する神様の審きの結果なのです。このおかげで、私たちは外国語を勉強しなければならなくなったのです。全く迷惑な話です。しかしその原因となった人間の傲慢は、昔も今も変わらない現実です。高い塔を建てることで権力を主張することは今はもうありません。しかし、国をまとめ、さらには諸国をまとめて一つとするための権力の象徴は、別の形で存在しています。日本では、天皇がそのように用いられた時期がありました。今も、戦前とは全く違って非常にソフトな仕方ではありますが、皇室を中心に日本国民の一体感を維持しようとする動きがあります。また世界に目を向ければ、ブッシュ大統領のアメリカは、「自由、民主主義」の権威を振りかざして、世界の諸国を一体とし、自らが指導者となってテロとの戦いを繰り広げようとしています。バベルの塔は昔とは違った形で今も存在するし、「自由、民主主義」という言葉も、用いられ方によってはバベルの塔となってしまうのです。

ノアの息子たちの系図
 バベルの塔の物語はこのように読むことができるわけですが、しかしその前の第10章から続けて注意深く読んでみると、ここには矛盾があることに気づきます。それは、世界の諸民族がそれぞれ別の言葉を使っているということは、既に10章において語られていたことだ、ということです。第10章は、洪水の後、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトから、世界の諸民族が分かれていったことを語る系図です。その5節に「海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」とあります。また31節にも「これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である」とあります。これは明らかに、それぞれの民族がそれぞれの言語を持って歩んでいるということです。このような10章の系図の後で、11章に入ると、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と語られているのは矛盾なのです。それは、10章の系図と11章のバベルの塔の物語は、もともと全く別の起原を持つもので、それが並べられた結果このような矛盾が起った、創世記をまとめた人はそういう矛盾には無頓着だった、ということでしょうか。しかしこれは前回、9章と10章を読んだ時に申したことですが、創世記は、いろいろな伝説や系図をただ適当に並べただけのものでは決してありません。これをまとめた人は、私たちが思う以上に、いろいろなことを深く考えています。創世記は、かなり周到に考え抜かれた作品であると言うことができるのです。ですから、このような単純な矛盾を何も考えずに見過ごしにしたとは考えられません。むしろそこには、深い意図があると思われるのです。 世界に散らされていく人々  そのことは、10章の系図とバベルの塔の物語の持っている共通のテーマに気付く時にいっそうはっきりします。両者には共通のテーマがあるのです。それは、世界各地に様々な民族が散らされ、広がっていく、ということです。10章においてはそれが、ノアの三人の息子たちからの系図として、11章においては、バベルの塔建設という人間の傲慢に対する神様の審きとして語られているのです。ノアの息子たちというのは、あの大洪水を、神様の恵みによって箱船に入れられて生き延び、新しい世界を築いていく者として選ばれた者たちです。つまりそこには基本的に神様の祝福、恵みが前提とされています。その彼らから、世界の諸民族が、それぞれの言語、氏族、民族に従って増え広がっていく、そこには、神様の祝福があるのです。世界に様々な民族があり、言語があることは、神様の恵みのみ心によることだ、ということが、10章においては見つめられているのです。

帝国主義に抗して
 ところが11章においては、それは人間の罪に対する神様の審きによることだ、と語られています。その審きの原因は人間の傲慢であるわけですが、その傲慢は、10章において示されたみ心に反する思いとして語られているのです。それが、「全地に散らされることのないようにしよう」ということです。この思いは、世界の諸民族が、それぞれの言語、氏族、民族に従って世界に増え広がっていくことを恵みとして与えて下さろうとする神様のみ心に逆らって、世界の人々を一つの国に、一つの秩序の中に、一人の支配者の下にまとめようとする帝国主義的欲望なのです。そのような支配権の象徴として、天まで届く塔が建てられるのです。つまりここで見つめられている人間の傲慢とは、神様がこの世界に、様々に異なる言語、文化、伝統を持った諸民族が増え広がっていくことを祝福として与えようとしておられるのに、それに逆らって人間を一つの権威の下に統合し、多様性を認めず、画一的に支配しようとすることなのです。それは戦前の日本が、アジアの諸国において、その言語、文化、伝統を否定していわゆる「皇民教育」、天皇の民としての教育を行い、併合した地域では名前までも奪って日本人としての名前を強制していった、それと同じことです。そのような人間の傲慢に対して神様はお怒りになり、彼らの言葉を乱して、全地に散らされたのです。それは、10章の系図において語られていたことが結果的に実現したということです。人間はその傲慢な思いから神様のみ心に逆らい、み心を阻止して人間の帝国を築こうとするけれども、神様はその傲慢を打ち砕いて、ご自身のみ心を実現なさるのです。10章と11章を合わせて読んでいくときに、そのようなメッセージが浮かび上がって来るのです。  このバベルの塔の物語の背後には、いわゆるバビロン捕囚においてバビロニアに連れて行かれたイスラエルの人々の体験が反映している、とも言われます。バビロンに捕え移されたイスラエルの人々は、そこで、先ほど述べた一辺91メートル、高さ90メートルの驚異的な塔を見せつけられたのです。世界帝国バビロニアの権威、力の象徴です。しかしイスラエルの民は、そのような塔に現れている人間の傲慢を見つめ、それを打ち砕かれる主なる神様を仰ぎ、待ち望む信仰を与えられたのです。彼らが信じた通り、バビロニアは滅び、その塔は跡形もなく崩れ去りました。この世の権威、力がどのように強大なものであっても、それがバベルの塔であることを見抜くことができる信仰がここに教えられています。それは現代に生きる私たちにおいても絶対に必要なものなのです。

救いを必要とする人間
 さてこのように10章からのつながりの中で読むことによって、この世界に様々な言語があり、民族があり、それぞれが独自性をもって歩んでいることが、基本的には神様の祝福から出たものであることが示されました。しかし11章のバベルの塔の物語は、そのことが人間の罪に対する神様の審きの結果でもあることを告げています。つまりそこにも、人間とこの世界の、救いを必要としている現実があるのです。洪水の後、神様はノアとその家族に、もう二度と人間の罪のゆえに全ての者を滅ぼすことはしない、と約束して下さいました。それが彼らに与えられた祝福でした。その約束の下で、世界の諸民族が、それぞれの言語をもって地上に増え広がっていったのです。しかしそこに理想の世界が築かれていくわけではありません。むしろ人間の罪は洪水前と少しも変わらず大きいのです。ノアとその家族に与えられた祝福とは、この罪を神様が忍耐して下さる、ということなのです。諸民族が違った言語を持って生きているという現実は、その罪のもたらした結果でもあります。罪のために人間どうしの関係が破れ、コミュニケーションがうまくいかなくなってしまうのです。言葉が通じなくなってしまうのです。そして争い、憎しみが起ります。それが、救いを必要としているこの世界の、人間の状態なのです。

救いの歴史の開始
 そのような状態が示されたことを受けて、いよいよ12章からは、神様による救いの歴史が始まります。そのことは、次回以降にお話していくことになりますが、しかし本日の11章の後半には、その救いの歴史の開始への備えが語られています。10節以下の、ノアの息子セムの子孫の系図です。セムの子孫の系図は、10章の21節以下にもありましたが、11章の系図は、セムの息子の一人であるアルパクシャドの子孫に絞った系図です。その子孫として、後にアブラハムと名を改めるアブラムが生まれるのです。そのアブラムが主なる神様の呼びかけを受けて旅立つことから、イスラエルの民の歴史、即ち神様の救いの歴史が始まるのです。この11章のアブラムに至る系図と、10章の系図とを見比べてみることによって見えてくることがあります。10章の系図は、ノアの三人の息子たちから、この世界全体に様々な民族が増え広がっていったことを語っています。民族や言語の多様性が見つめられているのです。それに対して11章の系図は、多くの民族の中から、一つの系統を選び出してその歩みを語っています。そしてそれは最終的にアブラムという一人の人物へと集約していくのです。つまりここには、地上の様々な民族の中から、一人の人、そしてその人から始まる一つの民が神様によって選び出される、ということが見つめられているのです。その一人の人、一つの民の選びから、神様の救いの歴史が始まります。そしてその救いは、これも次回を先取りすることになりますが、決して一つの民族のみの救いではなくて、彼らを通して地上の全ての民が、全ての民族が神様の祝福に入れられていく、救いの恵みにあずかっていく、そういう救いなのです。一人の人、一つの民の選びによって、全ての民への救いが実現していく、そのような神様の救いの歴史のあり方が、この11章の系図において既に示され、予告されていると言うことができるのです。

一つとなるため
 地上の諸民族がそれぞれ違う言葉を語り、言葉が通じない、それゆえに共に生きることができない、一つとなることができない、それは私たち人間の、救いを必要としている状態です。一つとなって共に生きることこそ、神様が本来人間を造って下さったみ心なのです。そのような一体性を、人間の権力支配によって実現しようとすることは、傲慢の罪です。そのような試みは決して実現しません。バベルの塔によって人類を一つにすることはできないのです。むしろそれによって人々は散らされ、バラバラになっていくのです。神様は、それとは全く違う仕方で、散り散りになっている人間を一つにして下さいます。言葉が通じない状態から救い出し、人と人とが本当に共に生きることができるようにして下さるのです。そのために神様は、一人の人と、その人から生まれる一つの民を選んで下さいました。旧約聖書においてはそれはアブラハムでありイスラエルの民です。しかし彼らによって展開されていく救いの歴史は、まだ前段階、準備の段階でした。アブラハムもイスラエルの民も、来るべきまことの救い主イエス・キリストと、キリストのもとに集められる新しいイスラエルである教会を指し示していたのです。主イエス・キリストが、私たち全ての者の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様の救いが実現したのです。そしてその主イエスを信じ、その救いにあずかる者たちの群れである教会において、すべての人が一つとされていきます。そのことを語っているヨハネによる福音書第17章20節以下が先ほど共に朗読されました。主イエスは21節で、私たちのために祈っておられます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」。主イエスによる救いを信じる信仰において、様々な違い、多様性を持っている私たちが、父なる神様と独り子主イエスとの一体性にあずかって、一つとされるのです。人間の権力によっては決して一つとなることができない私たちを、神様は、主イエス・キリストの十字架の死によって一つとして下さるのです。主イエス・キリストこそ、救いを必要としているこの世界と私たち人間に、神様が、アブラハムの選びから始めて下さった救いの歴史の頂点なのです。

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