「聖なる者」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:レビ記 第19章2節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第4章1-12節
・ 讃美歌:51、521
キリスト者としての生活の勧め
テサロニケの信徒への手紙一第4章に入ります。この4章から手紙の後半部分に入りますが、そこではパウロがテサロニケ教会の人たちにキリスト者としてどのような生活をしたら良いのか勧めています。新しい年、主の2022年を歩み始めた私たちに、この主の日、キリスト者の生活についてのみ言葉が備えられています。そのみ言葉に聴き、また導かれて、先行きが見えない混沌とした世の中にあって、私たちは新しい一年を歩み始めたいのです。
とはいえ、キリスト者としての生活の勧めと聞くと、私たちはどこかで身構えてしまうところがあるかもしれません。キリスト者としてこのような生活を「しなければならない」とか、このような生活を「してはいけない」とか、そのようにパウロの勧めを受けとめることによって、とても息苦しく、窮屈に感じてしまうのです。それだけでなく、パウロの勧めを単なる規則として受けとめるとき、その規則を守れない自分を自分で裁いたり、あるいは隣人を裁いたりすることが起こります。こんなことをしているようでは、自分はキリスト者として失格だとか、あんなことをしているようでは、あの人はキリスト者としてふさわしくないとか、そのような目線で自分も隣人も見てしまうのです。しかしパウロの勧めは単なる規則などではありません。本日の箇所の冒頭には、「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます」とありますが、「勧める」という言葉は、「励ます」や「慰める」という意味をも持ちます。ですからその勧めは、テサロニケ教会の人たちと私たちの信仰生活への教えであるだけでなく、その信仰生活を励まし、慰めるものなのです。なによりもパウロの勧めは、「主イエスに結ばれた者として」の勧めです。主イエスと関わりのない道徳や倫理の教えとしてではなく、神に召されて主イエスに結ばれた者であるパウロの勧め、励まし、慰めとして、私たちはこの箇所を読み進めていきたいのです。
神の御心は「聖なる者」となること
1節に「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」とあるように、キリスト者として生きるとは、一言で言えば、「神に喜ばれるために生きる」ということです。そしてそれは、神の御心に従って生きることにほかなりません。3節前半では、その神の御心についてこのように言われています。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」また7節でも、「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と言われています。私たちが「聖なる者」となることが神の御心であり、「聖なる生活」をするために私たちは神から招かれたのです。「聖なる者」、「聖なる生活」と言われて私たちが思い浮かべるのは、「清く正しい人」とか「清く正しい生活」ではないでしょうか。私たちはどうしても自分が清く正しいかどうか、あるいは自分の生活が清く正しいかどうかに目が向いてしまうのです。しかし「聖なる者」とか「聖なる生活」というのは、私たちが自分自身やその生活を吟味することによって分かってくるのではありません。そうではなく神こそが「聖なる者」であることを見つめることによって、私たちが「聖なる者」とはどういうことかが示されていくのです。
「聖なる者」とされる
共に読まれた旧約聖書レビ記19章2節にはこのようにあります。「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」神は、イスラエルの人たちに「あなたたちは聖なる者となりなさい」と命じます。しかしそのように命じるのは、「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」からなのです。本来、神だけが「聖なる者」であり、人間は汚れた者、罪人です。その神と人間との隔たりは人間の力によって越えることはできません。言い換えるならば、人間は自分の力で「聖なる者」となることはできないのです。それにもかかわらず、なぜ神はイスラエルの人たちに「聖なる者」となるよう命じるのでしょうか。レビ記19章では、2節に続いて3節以下で、たくさんの戒めが記されています。長くなるので聖書箇所として選びませんでしたが、そこには十戒と重なる戒めもありますし、そうではない様々な細かい規定もあります。しかしここで注目したいのは、その中で繰り返し、「わたしはあなたたちの神、主である」、あるいは「わたしは主である」と語られていることです。どちらも、「こういうことをしてはならない」とか、「こういうことをしなさい」、と戒めが述べられた直後に告げられています。ですからイスラエルの人たちがこれらの戒めを守るのは、彼らが道徳的倫理的に立派な人になるためなどではなく、彼らの神であり主である方がこれらの戒めを命じられたからなのです。そして一連の戒めの終りにはこのように告げられています。「わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。」神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの人たちを救い出してくださいました。イスラエルの人たちは、神に救われることによって神のものとされ、「聖なる者」とされたのです。「聖なる者」となるために戒めを守るのではありません。そうではなく、出エジプトの神の救いに感謝し、その救いの恵みにお応えするために、神が与えてくださった戒めを守るのです。神がイスラエルの人たちに「聖なる者」となるよう命じるのは、彼らがすでに「聖なる者」とされていることに感謝し、神が与えてくださった戒めを守り、そのことによって救いの恵みの下に留まり歩みなさいということなのです。
イスラエルの人たちと同じように、私たちも罪人であり、本来「聖なる者」ではありません。罪の汚れに満ちた私たちは、聖なる神の御前に進み出ることさえできないのであり、決して自分の頑張りや努力によって罪の汚れを取り除いて「聖なる者」になることはできないのです。それにもかかわらず私たちは、ただ主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しによって、神のものとされ「聖なる者」とされています。キリストによる救いに与ることによって、私たちは神のものとして取り分けられたのです。このことが、私たちが「聖なる者」とされている、ということにほかなりません。私たちは使徒信条において「聖徒の交わり」を信じると告白していますが、それは、「清く正しい人の交わり」を信じるということではなく、「キリストの救いによって神のものとして取り分けられた人たちの交わり」を信じるということなのです。
「聖なる生活」へと導かれる
このようにすでに私たちはキリストによって「聖なる者」とされています。しかしだからといって私たちは、どのように生きても良い、どのような生活をしても良いということではありません。神がその独り子を十字架に架けて殺すほどの犠牲を払って、私たちを神のものとし、「聖なる者」としてくださったことを真剣に受けとめるならば、すでに「聖なる者」とされているのだからどのような生活をしても良い、とは思わないのではないでしょうか。キリストによる救いに与った私たちは、その救いの恵みにお応えして、「聖なる者」として生きることへ、「聖なる生活」へと導かれていくのです。それは、規則に縛られた息苦しい窮屈な生活ではなく、救いへの感謝と喜びに満ちた生活です。そこでは、こんな生活をしている自分はキリスト者失格だとか、あんな生活をしている人はキリスト者にふさわしくないという思いに心を支配されることはありません。そのような思いは、救いへの感謝と喜びに満ちた「聖なる生活」とは、まったくかけ離れたものだからです。確かに私たちはなお日々罪を犯し、弱さと欠けを抱えています。しかしそのことは、私たちが神のものとして、「聖なる者」として生きること、「聖なる生活」へと導かれていることを拒む理由には全然なりません。「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」、「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」というみ言葉を、私たちが真剣に受けとめない理由にはまったくならないのです。私たちは、これらのみ言葉を、神のものとされ、「聖なる者」とされたことへの感謝と喜びを持って受けとめます。救われた者の生活を導き、励まし、慰めるみ言葉として受けとめるのです。
秩序ある性生活
さて、「聖なる者」として生きること、あるいは「聖なる生活」へと導かれていることについて、その根本を捉えた上で、この箇所でパウロが語っている極めて具体的なキリスト者としての生活について目を向けていきます。まず、言われているのは性生活についてです。3節の後半から5節にこのようにあります。「みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」みだらな性生活を避け、妻と生活することが、つまり結婚生活が勧められています。間違ってはいけないのは、性生活そのものが退けられたり、汚れたものと見なされたり、否定的にとらえられたりしているのではないということです。そうではなく、秩序のない性生活を送ること、自分の欲望のままに性的欲求を満たそうとすることを避けるよう言われているのです。性生活そのものが退けられているわけではありませんが、しかし性生活には多くの誘惑があり、それが罪の温床となることも確かです。だからこそ私たちは救われた者として、秩序ある性生活へと導かれているのです。「神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならない」とも言われています。当時、ローマ社会の性生活が乱れていたことは確かなようですが、だからといって、パウロは異邦人に対して上から目線で「彼らは情欲におぼれている」と言っているのではありません。ローマ社会にも性生活の秩序を保っていた人たちはいたし、逆にキリスト者であってもその秩序をないがしろにしていた人たちはいたに違いないからです。このことは、当時だけでなく今も同じです。キリスト者は情欲におぼれていなくて、そうでない人は情欲におぼれているなどと、私たちは決して言えるはずがありません。このパウロの言葉において私たちが注目すべきなのは、むしろ「神を知らない異邦人」と言われていることではないでしょうか。それは、神を知らないから性生活が乱れる、などという単純なことではありません。神を知ることは、自分が神から愛されていると知ることであり、また、自分が神から愛されているように、隣人も神から愛されていると知ることです。そのことによってキリスト者は、神から愛された者として、同じように神から愛されている隣人を愛するのです。そこに、本当の人格的な関係が生まれます。4節には「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように」とありました。ここでは男性に向けられた言葉ですが、女性に向けられた言葉として「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって夫と生活するように」と読んでもまったく問題ありません。「汚れのない心と尊敬の念をもって」パートナーと生活することができるのは、本当の人格的な関係においてだけです。神を知り、自分も相手も神さまに愛されていると知っているからこそ、「汚れのない心と尊敬の念をもって」パートナーと生活し、秩序ある性生活を送ることができるのです。道徳的倫理的な正しさが問題とされているのではありません。自分が神さまに愛されていると知り、また相手も神さまに愛されていると知るならば、自分の欲望のままに相手の意志を無視し、相手の人格を踏みにじることができるはずがないのです。神を知り、神から知られ愛されていることこそが決定的なのです。
互いに愛し合う生活
9-10節では、キリスト者が互いに愛し合う生活について語られています。パウロは9節でテサロニケ教会の人たちに「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」と言い、10節では「現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています」とも言っています。この手紙の1章8節では、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」と言われていました。テサロニケ教会の人たちの神に対する信仰が伝えられただけでなく、彼らは愛をもってマケドニア州全土に住むキリスト者に関わったのです。そのように教会を越えてキリスト者が互いに愛し合う生活が、テサロニケ教会において起こったのです。私たちは「互いに愛し合う生活」が絵空事に過ぎないと考え、あるいは実際そんな生活は起こりっこないと諦め、「互いに愛し合う」ことから距離を取ってしまうことがあります。しかしパウロは、テサロニケ教会において「互いに愛し合う生活」が実際に起こっている、と言います。ですから私たちは、テサロニケ教会がそうであったように、私たちの教会においても「互いに愛し合う生活」が起こっていくと信じて良いし、信じなくてはならないのです。
なおいっそう
さらに10節の後半では、「しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます」とも言われています。この「なおいっそう励む」ということが、「互いに愛し合う生活」において大切です。いえ、互いに愛し合うことに限られたことではありません。キリスト者としての生活全体において、つまり「聖なる生活」において、神に喜ばれる生活において、「なおいっそう励む」ことがとても大切なのです。1節の後半には、「そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください」とありましたが、この「今後も更に続けてください」が「なおいっそう励むように」と同じ言葉です。現に、今、神に喜ばれる生活をしているけれど、これからも「なおいっそう」神に喜ばれる生活を続けるよう言われているのです。もちろんなおいっそう励み、続けることができるのは、私たちの力によってではなく聖霊の働きによってです。ですから私たちはなおいっそう神に喜ばれる生活を続けられるよう聖霊の働きを願い求めます。そしてその聖霊の働きによって自分が変えられていくことを求め信じるのです。秩序ある性生活や互いに愛し合う生活は、大事かもしれないけれど、実際にはあり得ないと諦めてしまったり、なおいっそう神に喜ばれる生活を続けられるはずがないと決めつけてしまうならば、それは、8節にあるように「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになる」のです。私たちの信仰がしっかりしているからではなく、神が私たちに聖霊を与えてくださり、その聖霊の働きによって、私たちが「聖なる生活」に導かれ、なおいっそう神に喜ばれる生活を続けていくことができるのです。私たちはそのことを拒んだり阻んだりしてはいけません。自分の弱さや欠けや醜さにとらわれて、自分の内に確かに働いてくださる聖霊を、その聖霊を与えてくださる神を拒んではならないのです。神を信じるとは、聖霊の働きによって自分が変えられることを信じることでもあるからです。キリストの救いによって「聖なる者」とされたら、それで終りなのではなく、救われてからも「聖なる者」に変えられ続けていきます。リストアップされた規則を守っていれば「聖なる生活」をしていることになるのではなく、ますます神に喜ばれるために生きることこそ「聖なる生活」なのです。
神に喜ばれる「歩み」
ここまで、キリスト者としての生活、聖なる生活、秩序ある性生活、互いに愛し合う生活、と「生活」という言葉を繰り返してきました。しかし実は、本日の聖書箇所の原文には、「生活」という言葉はどこにも出てきません。むしろ繰り返し使われているのは、「歩む」という言葉です。1節の後半にこうありました。「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」パウロはしばしば、生きること、生活することを「歩む」と語ります。その歩みにおいて、いつも前に進めるとは限りません。後ろに戻ってしまうこともあるし、時には立ち止まってしまうこともあるでしょう。でもそれらを全部ひっくるめて「歩み」なのです。「神に喜ばれる生活」とは、神に喜ばれる歩みにほかなりません。進んだり戻ったりしつつ、時には立ち止まってしまったとしても、聖霊の働きによって、私たちの歩みがますます神に喜ばれる歩みとなっていくことを信じるのです。
落ち着いた歩み
その歩みは、落ち着いた歩みであり、教会の外にいる人たちにキリストを証しする歩みでもあります。11節では「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と勧められています。世の中が混沌として、騒然となり、不安と恐れが大きくなればなるほど、私たちは、心が騒ぎ、浮足立ち、落ち着いて歩むことができなくなります。いくら自分の精神力を高めても落ち着いて歩めるわけではありません。しかしキリストによる救いに与った者として、その救いを与えてくださった神に目を向け、この世界を支配し導いていてくださる神を信頼して歩むならば、その歩みは落ち着いた歩みになるに違いないのです。そのことによって、今、自分に与えられている働きに、務めに集中することができます。「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」というのは、自分の働きのことだけ考えていれば良いということではなく、神のご支配と導きを信じ、今、自分に与えられている働きに、今、自分ができることに誠実に向き合っていきなさいということなのです。
キリストを証しする歩み
12節で言われている「外部の人々に対して品位をもって」歩むとは、教会の外にいる人たちに対して、キリストの救いに与った者として、「聖なる者」として私たちが歩むことにほかなりません。キリストの十字架と復活によって救われ、「聖なる者」とされた私たちが、その信仰の生涯を通して、聖霊の働きによって「聖なる者」へと変えられ続け、なおいっそう神に喜ばれるために歩んでいくことにおいて、私たちは教会の外にいる人たちにキリストによる救いを証しするのです。混沌とし、不安と恐れに覆われた世の中にあって、私たちが神に信頼して落ち着いて歩むことにおいて、また日々それぞれに与えられている務めを担って歩むことにおいて、私たちはキリストによる救いを証ししていくのです。私たちが神に喜ばれるために歩むことを通して、新しいキリスト者が、新しい神に喜ばれる歩みが起こされていきます。そのために私たちは、主の2022年、なおいっそう神に喜ばれるために歩んでいきたいのです。