主日礼拝

恵みと平和が教会に

「恵みと平和が教会に」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第111篇 1節-10節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第5章 23節-28節

恵みと平和が教会に
 昨年の9月にこの教会の牧師として参りまして、この2月で丁度六か月、半年を過ぎようとしています。この間、主日礼拝において、テサロニケの信徒への手紙一を皆さんとご一緒に読んで参りました。本日はその最後、しめくくりとなります。9月の最初の主日礼拝において、「恵みと平和が教会に」という題で説教をしました。本日このしめくくりの礼拝においても、それと同じ説教題を掲げました。9月の時の題は、1章1節の「恵みと平和が、あなたがたにあるように」というパウロの祈りから取ったものです。本日の題は、23節の「平和の神」という言葉と、最後の28節の「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祝福の言葉から取ったものです。パウロはこの手紙を、テサロニケの教会のために「恵みと平和」とを祈ることをもって始め、そしてその最後しめくくりにおいて、平和と恵みを告げることをもって閉じているのです。教会に、神様の恵みが満ち、平和な歩みが与えられること、それはパウロのみならず、私たち全ての切なる願いです。私が、皆さんと共に礼拝において読む最初の個所としてテサロニケの信徒への手紙一を選んだのもそういう願いからです。今この手紙を読み終えるに際して、この手紙の全体を振り返りながら、神様が私たちに与えて下さる恵みと平和について、改めてみ言葉に聞きたいと思います。

互いに平和に過ごす
 まず、平和についてです。本日の23節に「平和の神」とあります。私たちの信じる神様は、平和の神であられるのです。私たちは、平和の神を信じ、平和の神に従って生きているのです。それゆえに私たちは、互いに平和に過ごすことができるはずだし、またそうであるべきなのです。5章13節に「互いに平和に過ごしなさい」と勧められていました。それは、平和の神を信じる者に相応しい生活をしなさい、ということなのです。互いに平和に過ごすとは具体的にどういうことなのか、どのように生きることによって互いに平和に過ごすことができるのか、それが5章14節以下に教えられていました。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさ い。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」。これが、「互いに平和に過ごす」ための勧めです。ここに語られていることの一つ一つの意味についてはここでは繰り返しません。しかし全体を通して言えることは、これらのことは、ただ争いやもめごとを避けてぶつからないようにすることで平和を守る、という消極的なことではないということです。教えられているのは、もっと積極的に兄弟を愛すること、人に対して忍耐強く接すること、自分に悪を働き、傷つけるような人とも、赦し合っていく、ということです。平和の神のもとで、互いに平和に生きるとは、そのような愛に生きることに他ならないのです。そのように生きる者となるとは、私たちが聖なる者となることです。23節は、「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」という祈りです。平和の神に向かって私たちが祈り求めるべきことは、私たちに、この世界に、平和を与えて下さい、ということではないのです。私たちを、本当に人を愛することのできる聖なる者として下さい、と祈り求めることこそ、平和の神を信じて生きる者のあり方なのです。このことは、私たちが、争い、戦い、テロの続発するこの世界において、平和を求めて祈る時によく考えなければならないことです。戦いが続き、多くの人が傷つき死んでいくこの世界に、平和を与えて下さいと私たちは祈ります。それは確かに私たちの切なる願いです。けれども、神様はそういう私たちの祈りをどう聞いておられるのでしょうか。「あなたがたは平和を与えて下さいと祈り求めているが、争い合い、対立し、殺し合いをしているのはあなたがた人間ではないか。私がそのようなことを命じたり、そうあなたがたを仕向けたことがあるか。この世界にある争いや傷つけ合いの全ては、あなたがたから出たことではないか。だからそれをやめるのもあなたがただ。平和は私が与えるものではない。あなたがたが作り出すべきものだ」。神様はそうおっしゃるのではないでしょうか。つまり平和は、私たちが何もしないでいて上から与えられるものではないのです。私たち一人一人が、争いをやめ、赦し合い、人を憎むのでなく愛する者へと変わっていくということがなければ、平和は来ないのです。ですから私たちが平和の神に祈り求めるべきことは、このパウロの祈りのように、私たちを、人を愛し、忍耐し、赦すことができる聖なる者として下さい、ということなのです。私たちが聖なる者となることなしに、互いに平和に過ごすことはあり得ないし、この世界に平和が訪れることもないのです。

聖なる者となる
 「聖なる者となる」ということについては、4章にも語られていました。4章3節に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」とありました。そしてその聖なる者のあり方がそれに続いて語られていました。セックスの問題にもふれられていました。そこで根本的に戒められているのは、6節にあるように「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません」ということです。見つめられているのは、兄弟姉妹の間の関係、交わりが健全に保たれることなのです。9節以下には互いに愛し合う兄弟愛が語られ、その関連で、自分で働いて生活の糧を得る落ち着いた生活が勧められていました。それも、教会の世話になるのではなくて、自分の働いて得たもので兄弟たちを助けることができるようになれ、ということです。金銭のみでなく、自分に与えられているいろいろな賜物を、自分の満足のために用いるのではなく、兄弟姉妹のために、教会の交わりの建設のためにこそ用いていく、それが聖なる者となることであり、即ち互いに平和に過ごすことなのです。

再臨を待ち望む
 「聖なる者となる」ことへの勧めは、当然のことながら、この手紙の後半、4、5章の、信仰における生活についての教えの部分に主に語られています。しかし3章までの前半部分にも、そのことは既に語られていたのです。それは3章の終わりの、前半をしめくくる祈りの部分です。3章12節以下を読んでみます。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」。この祈りは、本日の箇所の祈りと対応しています。特に13節は、5章23節後半の「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」という祈りと全く同じことを言っているのです。そして、この二つの祈りに共通していることは、私たちが聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのは、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」だということです。それは、十字架につけられて死に、三日目に復活し、天に昇られた主イエスが、いつかもう一度この世に来られる、しかも、全ての者を裁き、この世を終わらせ、神様のご支配の完成である新しい世、神の国をもたらす方として来られる、主イエスの再臨と呼ばれていることです。主イエスの再臨によってこの世が終わる、その終末の時に、既に死んでいる者も復活して新しい命と体を与えられ、再臨の主イエスと出会い、そしていつまでも主と共にいるようになる、それが私たちに与えられる救いの完成です。その時にこそ、私たちは本当に聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのです。この手紙は、この主イエスの再臨による救いの完成のことを繰り返し語っています。4章13節から5章11節にかけてにそれがまとまった仕方で語られていますが、その他のところにもあちこちに、御子主イエスが天から来られる、私たちはそれを待ち望みつつ生きるのだということが語られているのです。主イエスの再臨によるこの世の終末における救いの完成を待ち望みつつ生きること、それがこの手紙の教えている信仰の中心です。私たちが聖なる者とされることも、その救いの完成において与えられることなのです。

再臨の信仰によって
 主イエスの再臨によるこの世の終わりを信じるなどということは、私たちの日常の生活から余りにもかけ離れたことで、どうもよくわからない、イメージが湧かない、という思いを、現代を生きる私たちは誰もが持ちます。確かに、主イエスの再臨とはどんなことか、どんなふうに主イエスは来られるのか、この世が終わる時には何が起こるのか、ということを絵に描いたように思い描くことは私たちにはできません。けれどもそれではこの信仰は私たちの日常と関係ない夢の中のようなことかというと、決してそうではありません。むしろ、この信仰によってこそ、私たちの日々の信仰生活が、具体的、現実的になるのです。それはこういうことです。例えば先程からの、「互いに平和に過ごす」ということですが、それは、私たち一人一人が、人を愛することができる聖なる者となることによってこそ実現すると申しました。世界の平和も、ただ平和を与えて下さいと祈ることによってもたらされるのではなく、私たち一人一人が聖なる者へと、人を憎む者から愛する者へと変えられていくことによってこそ実現するのです。しかしそのことは私たちを絶望的な思いにさせます。この自分を筆頭に世の人々が、聖なる者、人を愛し、忍耐強く、自分を傷つける者をも赦すことができるような非のうちどころのない者となることなどあり得るだろうか、と思うのです。そんなことは無理だ、私たちは聖なる者にはとうていなれない、ということは互いに平和に過ごすことはできない、それが私たちの知っている現実なのです。そのような私たちに、聖書は、あなたがたが聖なる者となることは、世の終わりの、キリストの再臨の時に実現する、と語ります。そこには二つの意味があります。第一は、キリストの再臨までは、それは実現しない、完成しない、ということです。私たちが、人を真実に愛し、忍耐し、赦すことができる聖なる者となることは、この世の終わりまで完全には実現しないのです。私たちは、この世を、この人生を生きて行く限り、完全に聖なる者にはなり得ない、人を本当に愛することができず、赦すこともできない者として生きるのです。それが現実であり、敢えて言えばそれでよいのです。今のこの世において、完全に聖なる者となることは出来ないし、そうならなければならない、とヒステリックになる必要はないのです。私たちが今この世において完全に聖なる者となろうとする所に起こるのはむしろ、そのように努力している自分を誇り、そうでない人を裁くということです。そうなるとかえって、互いに平和に過ごすことは出来なくなります。私たちが聖なる者となることは主イエスの再臨による世の終わりまで実現しない、ということを知ることによって、私たちは自分の中にも、また他の人の中にもある、人間の弱さ、罪、不完全さを認め、受け入れ、その現実の中で生きることができるようになるのです。人を愛するとは、人の弱さ、罪、不完全さを認め、受け入れることができるということです。この世において完全であろうとする者は、人を愛することができないのです。再臨の信仰によって私たちの信仰生活が具体的、現実的になるとはそういうことです。

究極の希望
 私たちの救いは、即ち私たちが聖なる者とされることは、世の終わりの、キリストの再臨において実現、完成する、この信仰の持つ第一の意味は、今申しましたように、世の終わりまでそれは実現しないという現実を認めることです。しかしその信仰の持つ第二の意味は、世の終わり、キリストの再臨の時には、それが実現、完成する、ということです。私たちは今のこの世、この人生において、完全に聖なる者となることはありません。しかしそれは永遠にないのではない。私たちが聖なる者となり、真実に愛し合い、互いに平和に過ごす時が必ず来るのです。それは私たちの努力や精進によって実現するのではなくて、神様が、その全能のみ力によって私たちを新しくして下さることによって実現するのです。そのことが、主イエスの再臨による世の終わりに起こるのです。主イエスの再臨による世の終わりを信じるとは、この救いの完成、言い換えれば神様の恵みの勝利と実現を信じ、そこに究極の希望を見出して生きることです。この希望は、私たちのこの世の現実や状態によって左右されません。この希望の根拠は、主イエスの再臨において神様が恵みを完成して下さることなのですから、私たちの今のこの人生における状態のいかんによってそれが失われることはないのです。つまり主イエスの再臨による世の終わりを見つめることによって、私たちの信仰は、揺るがない希望を与えられます。人間の弱さ、罪、不完全さを認め、受け入れ、その現実の中で生きるということだけでは、絶望しか生まれません。そこにあるのは、どんなに頑張っても完成は得られないという徒労感です。平和を作り出そうとどんなに熱心に努力しても、完全な平和はこの世には実現しないのです。一つの対立、争いが和解に至っても、また別の対立、争いが生じるのです。この世界が、争いや対立の全くない平和な世界になることは、私たち人間が基本的に罪人であり、人を愛するよりも憎む傾向にある以上、あり得ないのです。だから私たちの平和を作り出そうとする努力、聖なる者となろうとする努力は徒労に終わるように感じられます。頑張れば頑張るほど、虚しさに陥るようなこともあるのです。しかし、主イエスの再臨による世の終わりにおける救いの完成を信じる者は、そのような現実の中でも希望を失うことはないのです。人間の力で完成に至ることはないけれども、神様が、終わりの日に、主イエスの再臨によって私たちの救いを実現して下さるのです。私たちを聖なる者とし、完全な平和に生きる者として下さるのです。信仰者はそういう希望を与えられています。それゆえに、人間の弱さと罪にまみれた、自分自身とこの世界の現実の中で、なお絶望することなく、平和の神のもとで、平和を作り出すために、互いに平和に生きるために、人を愛し、忍耐し、赦し合って生きるために、精一杯の努力を続けていくことができるのです。主イエスの再臨と世の終わりを信じる信仰はこのように、私たちの信仰の生活を本当に具体的、現実的にし、この世界の現実をしっかりと見据えつつ、それに呑み込まれてしまうことなく、信仰による希望に支えられて努力し続けることを可能にするのです。

神の選び、招き、定め
 5章24節には「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」という確信が語られています。キリストの再臨におけるこの世の終わりに、救いの完成が与えられる、平和の神が、私たちを全く聖なる者として下さる、その約束が確かなものである、という信頼がここに語られているのです。この信頼は、神様が「あなたがたをお招きになった方」である、という確信に基づいています。教会に連なる信仰者たちは、神様に招かれた者たちなのです。私たちが神様を、主イエスを信じているのは、神様が私たちを招いて下さったから、つまり、信仰は、私たちが神様を信じることから始まったのではなく、神様が私たちを選び、招いて下さったことから始まっており、そこにこそ根拠があるのです。パウロはそのことを、この手紙において繰り返し語ってきました。1章4節に、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とありました。テサロニケの人々が、その前の3節にあるように、信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐しているのは、神様が彼らを愛し、選んで下さったからなのです。また、2章12節の後半にもこうあります。「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」。4章7節にも「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」とあります。あるいは5章9節には「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」とあります。神様が、私たちを愛によって選び、招き、救いへと定めて下さったという信仰がこの手紙を貫いているのです。そしてそれこそが、神様の恵みです。「恵みと平和が教会に」。その恵みとは、神様が、私たちを、私たちの側には何のとりえも功績もないのに、ただ愛によって選び、招き、救いへと定めて下さったということなのです。

伝道者と教会
 パウロは25節で「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」とテサロニケの教会の人々に願っています。「わたしたち」とは、パウロら伝道者たち、神様のみ言葉を宣べ伝え、教会を教え導いている奉仕者たちです。5章12、13節に、「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」と言われている人々をも、この「わたしたち」の中に含めてよいでしょう。これらの人々の働きによって、神様のみ言葉が告げ知らされ、教会の人々が信仰を与えられて歩むことができるのです。パウロはこの手紙で、そういう伝道者の働きについて繰り返し語っています。その中で一番大切なのは2章13節です。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。伝道者の語る言葉が、単なる人間の言葉としてではなく、神の言葉として聞かれる、そういう礼拝が捧げられることによって、その群れは単なる人間の集団ではなく、主イエス・キリストの体である教会となるのです。そしてそういう出来事が起こるために必要なのは、伝道者が、2章8節にあるように、自分の命さえ喜んで与えたいと願うほどに教会の人々を愛することであり、また教会の人々が、伝道者を重んじ、愛をもって心から尊敬し、そして伝道者のために祈ることです。そのように、伝道者と教会の人々との間に、相互の信頼と愛と祈りの交わりが築き上げられていくことによって、教会は神様の恵みのみ言葉によって生き生きと歩む群れとなり、そしてテサロニケの教会が、1章8節に「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」と言われているように、神様の恵みのみ言葉の発信地となっていくのです。私たちのこの教会も、そのような群れへと成長していきたいと切に願います。それが、この手紙を最初に皆さんと共に読もうと思った私の願いなのです。

祝福の宣言
最後の28節に、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祝福の言葉があります。ここは原文を直訳すると、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共に」となります。それは、「あなたがたと共にあるように」という祈り願いの言葉とも読めますが、むしろ「あなたがたと共にある」という宣言、祝福を告げる言葉として読んだ方がよいでしょう。パウロはこの手紙のしめくくりにおいて、テサロニケの教会の人々に、神様の祝福を、祈ると言うよりもむしろ宣言しているのです。礼拝の最後の「祝福派遣」もそれと同じです。以前はそれが「祝祷」と呼ばれていました。しかしそれは「祈り」であるよりもむしろ「祝福を告げる言葉」なのです。礼拝は、祝福を求める祈りによって終わるのではなくて、祝福の宣言によって終わります。私たちは、礼拝において、神様の祝福、恵みの宣言を受けて、主イエスの再臨によるこの世の終わりに与えられる救いの完成の希望に支えられて、平和を作り出す者としての新たな歩みへと派遣されていくのです。

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